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第八幕 七 「依頼の件ですが、続けても宜しいのですね?」
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七
階段を最上階まで上りきり、廊下を突き当りまで進んでいく。
「先生、どこ行くの?」
傍らでせかせかと足を進めるリンがヒョウの横顔を見つめている。
ヒョウは目的地を見つめたまま、悠然とした足取りで進んでいる。
「もうすぐ着きますよ。」
ヒョウの視線の先には、一つの扉しかない。屋敷の最上階は、それでなくても扉の数が少なく、全部で三つしかなかった。完全なプライベートスペースとして独立した最上階、現在この階にあるのは当主の私室だけ。息子である巧の部屋は、この下の階にあるので、敷地内に溢れる警察関係者の姿すら、この階には見当たらない。
下界とは隔絶された廊下を、ヒョウは堂々と歩いている。足を踏み入れる許可などは、持ち合わせていないというのに、あまりにも威風堂々と飄々としている。
扉の前で立ち止まり、澱みのない動作で扉をノックする。
コンコンコン
「失礼します。」
ノックの返事も聞かずに、ヒョウは扉に手をかける。躊躇や配慮などはなく、高圧的な支配者への恐怖なども感じていない。
ただ、自然に流れる動作で、扉は開かれる。
扉が開き始めると、室内に充満していた音楽が流れ始めた。
ベースの重低音に、サックスの哀切な泣き声、ピアノの激しいメロディーライン。それらに深みを与えるように重なっているのは、女性のハスキーボイスだ。
室内を圧倒するように流れるジャズミュージック。権威主義の当主・孝造のイメージとはかけ離れた選曲だ。
センスのよい曲調に感心しつつ、ヒョウは室内を軽やかな足取りで進んでいく。
ヒョウの入室を咎める者はいない。
室内の奥に鎮座するマホガニーの机。静かに音楽に聞き入っている孝造は、机の上に組んだ両手越しに、室内の訪問者に視線を向けた。
「何か用か?」
会話を侵害しない音楽。孝造の声音は、迫力に欠けていた。
ヒョウは何事もないかのように、机の一歩手前で立ち止まる。
「いえ、大した用ではありません。」
しれっとした調子で答えて、椅子に座っている孝造を見下ろす。
孝造は、ヒョウを見上げながら鼻を鳴らした。
「だったら帰ってくれんか。」
素っ気ない呟き。常に命令口調の支配者の雰囲気は、今の孝造には感じられない。威圧的だった視線も、効力をなくしたように弱々しく、丸められた背は哀愁に満ちている。音楽の充満する室内に一人で座っている孝造は、息子を亡くして悲嘆に暮れる普通の父親のようだ。
孝造の呟きを聞き流して、ヒョウは微笑を孝造の背後のレコードプレーヤーに向けた。
「よい曲ですね。貴方がジャズをお聞きになるとは思っていませんでしたよ。」
レコードプレーヤーの乗っている棚には、ぴっしりとレコードのコレクションが詰められている。
ヒョウから視線を逸らすと、孝造はため息をついた。
「ジャズは死んだ妻の趣味だ。儂は、殆どクラシックしか聞かん。」
「家族の思い出の曲というわけですか。」
淡々としたヒョウの言葉に、孝造は肯定も否定も返さなかった。
室内に響く曲が、そろそろクライマックスを迎える。それぞれの楽器が、それぞれの旋律で、それぞれの感情の盛り上がりを表現する。哀願するような旋律は、重みと深みを増して、どんどん大きくなる。
ヒョウは口を閉じた。
室内の沈黙すら巻き込んで、レコードは回る。
孝造もヒョウも視線を合わせない。リンは、ヒョウの傍らに立ったまま人形のように動かない。
やがて、レコードは役目を終えた。針が上がり、回転が止まる。
そこで、ようやくヒョウが口を開いた。
「孝造サン。依頼の件ですが、続けても宜しいのですね?」
あくまでも淡々と、確認事項のように尋ねるヒョウ。
孝造は、ヒョウを見上げて、迫力に欠けた視線で睨んだ。
「当たり前だ。誰が中止しろと言った。」
「そうですか、分かりました。」
微笑で納得し、頷くヒョウ。
孝造は視線を落とした。
「儂にはもう失うものなどない。今更、中止してどうする?」
精一杯強がってはいるが、語尾が震えた。
ヒョウは孝造を見下ろしたまま、微笑を消した。
「巧サンは、そう思ってらっしゃらなかったようですが、貴方と巧サンは似ていますね。」
何気ない口調でヒョウは呟く。
孝造は、はっとして顔を上げた。
「からかっているのか?」
自嘲しているような表情を浮かべる孝造。
ヒョウは首を振った。
「いえ、個人的な感想ですので、お気になさらずに。」
涼しげな顔で話を結ぶと、ヒョウは踵を返した。
「では、そろそろ失礼します。」
軽く横顔で一礼して、退室の挨拶を一方的にするヒョウ。
「リン、行きますよ。」
リンの鈴も音楽の消失した室内に肯定を響かせる。
孝造は二人の背中に制止の声を掛けることはなく、もう一度音楽に浸るために椅子に深く背を預けた。
扉の前で、ふとヒョウが立ち止まる。
「そういえば、頭痛の方はよろしいのですか?」
振り返ったヒョウの顔には微笑が浮かんでいる。
孝造は、顔だけを扉の前のヒョウに向けた。
「遺体と対面なさった時に、頭痛に苦しんでいらしたようですが。」
「たいしたことはない。」
鼻を鳴らして吐き捨てる孝造。
ヒョウは仰々しく一礼した。
「失礼しました。しかし、念のために医者を呼んだ方が宜しいかと思います。」
微笑を残して、ヒョウは扉へと手を掛ける。
室内では、ヒョウの忠告を聞き流して、孝造がレコードに針を落とした。
ジャズミュージックが、再び室内を支配する。
物悲しい旋律の奔流に、孝造は溺れていた。ただ深く、ただ重く。
事件を契機付けるように、息子が自殺を図る。
全ては繋がっていく。一点に向かい収斂していく。
殺人鬼は影を潜め、代わりに台頭するのは誰か?
水面に投げ入れられた小石のような息子の自殺。
事件は波紋のように広がりを見せる。
秘密が闇から引き摺り出されようとしている。
ライトの中で、影が形作られる。
収束へ、終結へ、
誰も知らない、
知りえないラストへ向かい、
舞台は盛り上がりを見せる。
悲劇。
それだけが、
全てを物語る鍵となる。
階段を最上階まで上りきり、廊下を突き当りまで進んでいく。
「先生、どこ行くの?」
傍らでせかせかと足を進めるリンがヒョウの横顔を見つめている。
ヒョウは目的地を見つめたまま、悠然とした足取りで進んでいる。
「もうすぐ着きますよ。」
ヒョウの視線の先には、一つの扉しかない。屋敷の最上階は、それでなくても扉の数が少なく、全部で三つしかなかった。完全なプライベートスペースとして独立した最上階、現在この階にあるのは当主の私室だけ。息子である巧の部屋は、この下の階にあるので、敷地内に溢れる警察関係者の姿すら、この階には見当たらない。
下界とは隔絶された廊下を、ヒョウは堂々と歩いている。足を踏み入れる許可などは、持ち合わせていないというのに、あまりにも威風堂々と飄々としている。
扉の前で立ち止まり、澱みのない動作で扉をノックする。
コンコンコン
「失礼します。」
ノックの返事も聞かずに、ヒョウは扉に手をかける。躊躇や配慮などはなく、高圧的な支配者への恐怖なども感じていない。
ただ、自然に流れる動作で、扉は開かれる。
扉が開き始めると、室内に充満していた音楽が流れ始めた。
ベースの重低音に、サックスの哀切な泣き声、ピアノの激しいメロディーライン。それらに深みを与えるように重なっているのは、女性のハスキーボイスだ。
室内を圧倒するように流れるジャズミュージック。権威主義の当主・孝造のイメージとはかけ離れた選曲だ。
センスのよい曲調に感心しつつ、ヒョウは室内を軽やかな足取りで進んでいく。
ヒョウの入室を咎める者はいない。
室内の奥に鎮座するマホガニーの机。静かに音楽に聞き入っている孝造は、机の上に組んだ両手越しに、室内の訪問者に視線を向けた。
「何か用か?」
会話を侵害しない音楽。孝造の声音は、迫力に欠けていた。
ヒョウは何事もないかのように、机の一歩手前で立ち止まる。
「いえ、大した用ではありません。」
しれっとした調子で答えて、椅子に座っている孝造を見下ろす。
孝造は、ヒョウを見上げながら鼻を鳴らした。
「だったら帰ってくれんか。」
素っ気ない呟き。常に命令口調の支配者の雰囲気は、今の孝造には感じられない。威圧的だった視線も、効力をなくしたように弱々しく、丸められた背は哀愁に満ちている。音楽の充満する室内に一人で座っている孝造は、息子を亡くして悲嘆に暮れる普通の父親のようだ。
孝造の呟きを聞き流して、ヒョウは微笑を孝造の背後のレコードプレーヤーに向けた。
「よい曲ですね。貴方がジャズをお聞きになるとは思っていませんでしたよ。」
レコードプレーヤーの乗っている棚には、ぴっしりとレコードのコレクションが詰められている。
ヒョウから視線を逸らすと、孝造はため息をついた。
「ジャズは死んだ妻の趣味だ。儂は、殆どクラシックしか聞かん。」
「家族の思い出の曲というわけですか。」
淡々としたヒョウの言葉に、孝造は肯定も否定も返さなかった。
室内に響く曲が、そろそろクライマックスを迎える。それぞれの楽器が、それぞれの旋律で、それぞれの感情の盛り上がりを表現する。哀願するような旋律は、重みと深みを増して、どんどん大きくなる。
ヒョウは口を閉じた。
室内の沈黙すら巻き込んで、レコードは回る。
孝造もヒョウも視線を合わせない。リンは、ヒョウの傍らに立ったまま人形のように動かない。
やがて、レコードは役目を終えた。針が上がり、回転が止まる。
そこで、ようやくヒョウが口を開いた。
「孝造サン。依頼の件ですが、続けても宜しいのですね?」
あくまでも淡々と、確認事項のように尋ねるヒョウ。
孝造は、ヒョウを見上げて、迫力に欠けた視線で睨んだ。
「当たり前だ。誰が中止しろと言った。」
「そうですか、分かりました。」
微笑で納得し、頷くヒョウ。
孝造は視線を落とした。
「儂にはもう失うものなどない。今更、中止してどうする?」
精一杯強がってはいるが、語尾が震えた。
ヒョウは孝造を見下ろしたまま、微笑を消した。
「巧サンは、そう思ってらっしゃらなかったようですが、貴方と巧サンは似ていますね。」
何気ない口調でヒョウは呟く。
孝造は、はっとして顔を上げた。
「からかっているのか?」
自嘲しているような表情を浮かべる孝造。
ヒョウは首を振った。
「いえ、個人的な感想ですので、お気になさらずに。」
涼しげな顔で話を結ぶと、ヒョウは踵を返した。
「では、そろそろ失礼します。」
軽く横顔で一礼して、退室の挨拶を一方的にするヒョウ。
「リン、行きますよ。」
リンの鈴も音楽の消失した室内に肯定を響かせる。
孝造は二人の背中に制止の声を掛けることはなく、もう一度音楽に浸るために椅子に深く背を預けた。
扉の前で、ふとヒョウが立ち止まる。
「そういえば、頭痛の方はよろしいのですか?」
振り返ったヒョウの顔には微笑が浮かんでいる。
孝造は、顔だけを扉の前のヒョウに向けた。
「遺体と対面なさった時に、頭痛に苦しんでいらしたようですが。」
「たいしたことはない。」
鼻を鳴らして吐き捨てる孝造。
ヒョウは仰々しく一礼した。
「失礼しました。しかし、念のために医者を呼んだ方が宜しいかと思います。」
微笑を残して、ヒョウは扉へと手を掛ける。
室内では、ヒョウの忠告を聞き流して、孝造がレコードに針を落とした。
ジャズミュージックが、再び室内を支配する。
物悲しい旋律の奔流に、孝造は溺れていた。ただ深く、ただ重く。
事件を契機付けるように、息子が自殺を図る。
全ては繋がっていく。一点に向かい収斂していく。
殺人鬼は影を潜め、代わりに台頭するのは誰か?
水面に投げ入れられた小石のような息子の自殺。
事件は波紋のように広がりを見せる。
秘密が闇から引き摺り出されようとしている。
ライトの中で、影が形作られる。
収束へ、終結へ、
誰も知らない、
知りえないラストへ向かい、
舞台は盛り上がりを見せる。
悲劇。
それだけが、
全てを物語る鍵となる。
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