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第六幕 三 「リンは美しいですよ」

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     三

「まさか探偵さんと、こんなに温室の話が出来るとは思っていませんでした。探偵さんって、事件にしか興味なくて、花を愛でることなんてない人たちなんだと思ってましたから。」
 やっと、話が一段落して、巧がこぼすように呟く。
「そうですね。そういう方もいらっしゃると思いますよ。事件に必要な知識だから花を知っているだけで、愛でることを知らない方も。」
 大きくため息をついて賛同するヒョウ。もしかしたら霧崎のことを言っているのかもしれない。
 ヒョウの言葉に巧は笑いを漏らした。
「どんなに花の名前を知っていても特徴を覚えていても、花を愛でることが出来なければ、何の意味もありませんよね。」
「ええ。美しいモノを愛でることを知らない方は人生において損をしているとは思わないのですかね。」
 美を愛する者達の雅な人生論。二人の意見は合致していた。
 午後のひと時。外界に容赦なく照りつける太陽も、ガラスの温室の中には柔らかな光として降り注ぐ。空調設備に整えられた温度も湿度も快適で、真夏日が何日も続く酷暑の季節だということは感じさせない。四季を通じて変化のない花々と気候というのは、楽園の姿そのままだろう。
 ガラスの宝石箱。箱庭の楽園。
 その場所にあるのは、人類の希望の地そのものだった。
 だが、この場所には同時に酷く不自然なものも感じさせる何かがある。
温かなものに包まれているような、柔らかなものに包れているような、それは病的なまでに徹底された環境でもあった。
バラの棘は全て取り去られ、葉や花弁を食う虫の姿はなく、淡い色だけで統一された空間。管理者の理想を具現化したような空間。自然とはかけ離れたかのような、徹底した支配の証。
「そういえば、あの助手の子は、今日はいないんですね?」
 今日は空席になっているヒョウの隣に視線を向けながら巧は尋ねる。
「彼女には用事を頼みました。直に戻ってくると思います。」
「そうなんですか。」
 納得したような返事を返しながらも、巧は何かを言いにくそうにしていた。ためらうように何度もヒョウに視線を向け、言い出すタイミングを計っている。
 ヒョウは巧の様子に気付きながらも、催促することはなく、ただ微笑を浮かべて気長に待っていた。
「あの、彼女って、すごくキレイですよね?白痴美って言うんですか?人形みたいで。」
 言いにくい話題を避けながらも、徐々に話題に上らせようと努力しているような巧。言おうか言うまいかと心の中では葛藤しているのだろう。
 ヒョウはただ頷いた。
「リンは美しいですよ。」
「でも、何だか幼く見えますよね。彼女、助手をしててすごいと思うんですけど。何歳くらいなんですか?」
 巧は言いにくいことを避け、しばらくは日常会話に徹するつもりになったようで、別に興味もないようなことを尋ねた。
「さあ?血統書も付いていませんし、詳しいことは分かりません。」
 ヒョウの口調は淡々としていて、微笑は変わらなかった。
 だが、ヒョウの言葉の意味が分からずに、巧は首を傾げた。
「あ、あの、凍神さん?」
「リンを譲ることは出来ませんよ。いくら積まれましても、彼女は私のものですからね。」
 涼しげな響きは、涼しげな微笑と共に巧に向けられる。
 数秒の時間を要して、やっと巧はヒョウの言い分を理解した。
「そんな!違いますよ!何を言ってるんですか!」
 慌てたように怒ったように、巧の声は平和な温室に響き渡る。巧にとっては、全く計算外の言葉をヒョウから引き出してしまったようだ。
 ヒョウは冷然としたまま、肩を竦めて見せた。
「それは失礼しました。邪推だったようですね。しかし、たまにいるのですよ。大金を積んで、リンを自分のものにしようとなさる方が。正直困っていまして、そうまでしてしまう彼女の美しさも分かりますが、無粋だとは思いませんか?美しいモノに下らぬ値段をつけるなどという行為は。」
「無粋とか、そういう以前に、酷すぎますよ!人間をお金で買うなんて!」
 何か巧の心の爆弾に触れてしまったらしい。温厚な彼らしからぬ取り乱しようだ。
「しかし、金銭で世界の全てが片付くと思ってらっしゃる方も、金銭さえあれば手に入らぬものはないと思ってらっしゃる方も居られますよ。」
 巧の怒りなどものともしない涼しげな微笑。
 涼しげな声音の言い分は、巧の痛いところを突いたようで、目を大きく見開いた後、巧は脱力するように椅子に腰を下ろした。
「すみません。それは父さんのことですね?確かに、父さんには、そういうところがあります。」
 肩を落とし、神妙な面持ちで巧は頷くが、すぐさま弁解するように顔を上げた。
「でも、信じてください!僕はそんなことはしません。この世界には、もっと大切なこともあります!お金じゃ手に入らないものだって、たくさんあるんです。」
「例えば、愛、ですか?」
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