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第四幕 七 「では、これで失礼致します」

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     七

「あっ、すいません。あの、凍神さん。」
 追いつこうとするように、引き止めるように、巧は前を行くヒョウの肩に手を置こうとした。
 だが、届くはずの手は、すり抜けてしまい、虚しく虚空を掴んだ。
「何か?」
 先程まで肩があった場所の一歩分隣の場所から、微笑が涼しげに尋ねる。
 目的地を失った手とヒョウの微笑を交互に見遣りながら、巧は次の言葉に困っていた。当然届くものと思っていた手が届かなかったという事実の認識に時間を要したのだろう。手品を見せられた後のような呆けた顔で、手を何度も握っている。
「あっ、あの、」
「どうしました?巧サン。」
 何事もなかったかのような微笑に、巧は手を戻した。誤魔化すように照れたように、愛想笑いを浮かべる。
「いえ、あの、さっき、夕食をあまり召し上がってないようだったので、心配しました。あの、料理がお口に合いませんでしたか?」
「いえ、食が細い方でして。」
「そうなんですか。」
 皿に一口も手をつけなかった男の返答としては、納得できる理由とは言い難かったが、巧はそれ以上の質問を諦めた。ヒョウの微笑は、踏み込ませることを許すはずのない隙のなさで、相手に向けられている。
「凍神様。ココにいらしたんですか?」
 食堂とは反対の方角から、機械的な呼びかけが掛かる。足音を極力抑えているような歩き方は、鍛練で身につけたのだろう。足音にすら主張はなく、機械的な呼びかけにも事実の確認という仕事以上の感慨などはなかった。
「これは、水島サン。何か?」
 微笑を浮かべてはいるものの、愛想のなさは水島とヒョウはいい勝負だった。二人とも、視線は鋭く、他人を寄せ付けようとする雰囲気などはない。気味の悪いほど声音に温度はなく、顔に感情はなかった。
 二人が同じ場所に向かい合っているだけで、誰も口を挟めそうもない。二人が同じ空間にいるだけで、どこか無機質な空気が漂い、室温が下がっていくようだった。
「客室にご案内します。」
 角度すらプログラムされたように巧とヒョウのそれぞれに頭を下げた後、水島は歩き始めた。無駄な言葉や他愛ない会話などは一切なく、相手が付いてくることは決定事項で揺らぐことはないのだろう。付いて来ているか振り返って確かめもせずに、廊下を進んでいく。
 ヒョウもそんな水島の背中を見失わないように、早々に巧に別れを告げた。
「では、これで失礼致します。」
 微笑を残して去っていくヒョウ。
 追いかけるタイミングをなくした巧は、去っていく背中をただ見つめていた。
 廊下の角を曲がりそうになるヒョウの背中に、思い出したように巧は声を掛ける。
「貴方に貰った青いバラ。部屋に飾っているんですよ。」
 だが、背中からは何も返ってこなかった。黒いスーツに包まれた背中は、角を曲がって巧の視界から寂しいくらいにあっさりと消えた。
 母親の肖像画の前に残されたのは、どこか気落ちした様子の巧だけだった。
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