幽霊屋敷の掃除婦

羽鳥紘

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番外編(三人称)

密かな決意

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「次にやったら本当に暇を出すぞ」

 ミハイルの声は静かな怒気を帯びている。これは本当に怒っている――と察しながらも、リエーフは変わらぬ笑みを湛えていた。

「申し訳ありませんでした。しかしまぁ、本当に驚きましたよ」

 包帯を仕舞い、返してもらった燕尾服をっきっちりと着直して、リエーフが穏やかな声を上げる。

「何がだ」
「いえ。しかしミオさん、呪印には何の反応も示しませんでしたねぇ」
「……掃除のことしか頭にないんだろう」

 クス、とリエーフが笑い声をあげる。

「何がおかしい」

 替えのシャツに袖を通しながら、ギロリとミハイルがリエーフを睨む。

「いえいえ。しかし何年になりますかね。あの方が屋敷を去られてから」
「忘れた」
「何故お止めにならなかったのです」
「止めてどうなる」
「その呪印。先代にも先々代にも……代々のご当主様にあったものです。気にされない奥様の方が珍しいくらいでした」
「……何が言いたい」

 タイを結びながら、ミハイルが短く問う。

「失礼ながら、ミハイル様は関係を繋ぐ努力を怠りすぎる。引き留められなかったあの方もまた哀れでございましょう」
「引き留めた方が哀れだと思うがな」
「それはご主人様次第でございましょう? 代々のご婦人が哀れと、わたくしは感じたことはありませんが。貴方がそうだから、ライサもあんなに荒れるのです」

 いつものことと聞き流していたミハイルが、ライサの名が出た瞬間リエーフの顔をまじまじと見る。

「ライサに何の関係がある」
「苛立っているのですよ」
「何故」
「ミオさんが去られるときも、お止めにならないのですか?」

 話をはぐらかされて、ミハイルは舌打ちした。そして、迷うことなく答えてみせる。

「止めないさ」
「はぁ……、坊ちゃんの馬鹿」
「なんだと!?」

 ミハイルが声を荒げたその瞬間に、ノックの音が響き。扉越しに戸惑いの色が伝わってきて、リエーフは腰を上げた。
 入室時にノックをする者は、この屋敷ではごく限られている。

「どうぞ、ミオさん」
「俺の部屋なんだが」

 勝手に返事をするリエーフに、ミハイルが不満を漏らす。だが取り合うことなく、リエーフは扉を開けた。

「わたくしは部屋にもどりますので、どうぞごゆっくり」

 刺すような鋭い視線を感じながら、すれ違うように退室していくリエーフを、ミオが驚いたように見上げる。

「リエーフさん、帰ってきてたんですか」
「ああ、さっきな」

 立ち上がらないまま、視線だけ投げてミハイルが端的に答える。
 それ以上続くような会話もなく、ミハイルが動かないので、ミオはおずおずと部屋に入った。

「あの、これ」

 繕ったシャツを差し出すが、ミハイルは受け取らなかった。
 ミオが所在に悩んでいると、「座れ」と声を掛けられる。ミオは少し悩んだが、彼が腰かけているソファの端にシャツを置き、彼の横に腰を下ろした。

「俺は馬鹿か」
「え? なんですか?」
「ライサは苛立っているそうだ。何故かわかるか」

 んー、とミオが口に手をあて、天井を仰ぐ。

「ミハイルさんがそんなだからじゃないですか?」
「どういう意味だ」
「……ミハイルさん、あまり何にも関心がないじゃないですか。寂しいんじゃないですか?」
「まさか。あいつに限って」

 鼻で笑うと、ミオは溜息をついた。
 まるでリエーフと話しているような錯覚を覚えかけて、不満を口にする。

「……どうしてわかる」
「わかりはしませんよ。なんとなくそう思うだけで。強いて言うなら、女心、でしょうか」

 それならばわかるわけもない。再びミハイルは床に視線を投げた。

 お止めにならないのですか?

 そう問いかけるリエーフの声が耳をついて離れない。

「お前は……いつかここを去るんだろう」

 問うと、ミオは「はい」と答えた。

「私の目的は、元の世界に帰ることですから」
「そうか」

 それを止めて、どうなると言うのだ。
 そう思う反面で、考えてしまった。
 もしも止めたら、ミオはなんと言うのだろうかと。

 薄々気づいてはいる。
 自分が無関心なのは。去り行く者を止めないのは。

 去り行く者のためではなく、ただ自分を守るためだということは。

「……帰れるといいな」
「……優しいですね、ミハイルさんは」

 嫌味を言われているのかと勘繰ったが。顔を上げて隣を見れば、ミオが浮かべるのは少し不器用な笑顔だった。不器用な分、愛想笑いではないのがわかって、ミハイルは目を伏せた。

 自分を守るための、あまりにも矮小な術を。
 優しさだと言ってくれる、その存在に、依存してしまえば去るとき辛くなるのはわかっていても。

 きっと止めないだろう。
 彼女がいつか帰るときが来たら、今向けられたような笑顔で送り出してやるのだと決意する。

 そして、その決意だけは、自分を守るためなどではないと言える。
 だからいつか彼女が去っても、傷つくことはないだろう。

 ふと寝息が聞こえてきて、ミハイルは隣を二度見した。

「無防備な……」

 仕方なく、その体を抱き上げる。起きないことを確認してから、少しだけ――抱き寄せる。

「止めないさ。だが、もしかすると迎えに行くかもな」

 口の中だけで呟くと、若き当主はあまり見せない笑みをその顔に乗せた。
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