46 / 52
番外編(三人称)
密かな決意
しおりを挟む
「次にやったら本当に暇を出すぞ」
ミハイルの声は静かな怒気を帯びている。これは本当に怒っている――と察しながらも、リエーフは変わらぬ笑みを湛えていた。
「申し訳ありませんでした。しかしまぁ、本当に驚きましたよ」
包帯を仕舞い、返してもらった燕尾服をっきっちりと着直して、リエーフが穏やかな声を上げる。
「何がだ」
「いえ。しかしミオさん、呪印には何の反応も示しませんでしたねぇ」
「……掃除のことしか頭にないんだろう」
クス、とリエーフが笑い声をあげる。
「何がおかしい」
替えのシャツに袖を通しながら、ギロリとミハイルがリエーフを睨む。
「いえいえ。しかし何年になりますかね。あの方が屋敷を去られてから」
「忘れた」
「何故お止めにならなかったのです」
「止めてどうなる」
「その呪印。先代にも先々代にも……代々のご当主様にあったものです。気にされない奥様の方が珍しいくらいでした」
「……何が言いたい」
タイを結びながら、ミハイルが短く問う。
「失礼ながら、ミハイル様は関係を繋ぐ努力を怠りすぎる。引き留められなかったあの方もまた哀れでございましょう」
「引き留めた方が哀れだと思うがな」
「それはご主人様次第でございましょう? 代々のご婦人が哀れと、わたくしは感じたことはありませんが。貴方がそうだから、ライサもあんなに荒れるのです」
いつものことと聞き流していたミハイルが、ライサの名が出た瞬間リエーフの顔をまじまじと見る。
「ライサに何の関係がある」
「苛立っているのですよ」
「何故」
「ミオさんが去られるときも、お止めにならないのですか?」
話をはぐらかされて、ミハイルは舌打ちした。そして、迷うことなく答えてみせる。
「止めないさ」
「はぁ……、坊ちゃんの馬鹿」
「なんだと!?」
ミハイルが声を荒げたその瞬間に、ノックの音が響き。扉越しに戸惑いの色が伝わってきて、リエーフは腰を上げた。
入室時にノックをする者は、この屋敷ではごく限られている。
「どうぞ、ミオさん」
「俺の部屋なんだが」
勝手に返事をするリエーフに、ミハイルが不満を漏らす。だが取り合うことなく、リエーフは扉を開けた。
「わたくしは部屋にもどりますので、どうぞごゆっくり」
刺すような鋭い視線を感じながら、すれ違うように退室していくリエーフを、ミオが驚いたように見上げる。
「リエーフさん、帰ってきてたんですか」
「ああ、さっきな」
立ち上がらないまま、視線だけ投げてミハイルが端的に答える。
それ以上続くような会話もなく、ミハイルが動かないので、ミオはおずおずと部屋に入った。
「あの、これ」
繕ったシャツを差し出すが、ミハイルは受け取らなかった。
ミオが所在に悩んでいると、「座れ」と声を掛けられる。ミオは少し悩んだが、彼が腰かけているソファの端にシャツを置き、彼の横に腰を下ろした。
「俺は馬鹿か」
「え? なんですか?」
「ライサは苛立っているそうだ。何故かわかるか」
んー、とミオが口に手をあて、天井を仰ぐ。
「ミハイルさんがそんなだからじゃないですか?」
「どういう意味だ」
「……ミハイルさん、あまり何にも関心がないじゃないですか。寂しいんじゃないですか?」
「まさか。あいつに限って」
鼻で笑うと、ミオは溜息をついた。
まるでリエーフと話しているような錯覚を覚えかけて、不満を口にする。
「……どうしてわかる」
「わかりはしませんよ。なんとなくそう思うだけで。強いて言うなら、女心、でしょうか」
それならばわかるわけもない。再びミハイルは床に視線を投げた。
お止めにならないのですか?
そう問いかけるリエーフの声が耳をついて離れない。
「お前は……いつかここを去るんだろう」
問うと、ミオは「はい」と答えた。
「私の目的は、元の世界に帰ることですから」
「そうか」
それを止めて、どうなると言うのだ。
そう思う反面で、考えてしまった。
もしも止めたら、ミオはなんと言うのだろうかと。
薄々気づいてはいる。
自分が無関心なのは。去り行く者を止めないのは。
去り行く者のためではなく、ただ自分を守るためだということは。
「……帰れるといいな」
「……優しいですね、ミハイルさんは」
嫌味を言われているのかと勘繰ったが。顔を上げて隣を見れば、ミオが浮かべるのは少し不器用な笑顔だった。不器用な分、愛想笑いではないのがわかって、ミハイルは目を伏せた。
自分を守るための、あまりにも矮小な術を。
優しさだと言ってくれる、その存在に、依存してしまえば去るとき辛くなるのはわかっていても。
きっと止めないだろう。
彼女がいつか帰るときが来たら、今向けられたような笑顔で送り出してやるのだと決意する。
そして、その決意だけは、自分を守るためなどではないと言える。
だからいつか彼女が去っても、傷つくことはないだろう。
ふと寝息が聞こえてきて、ミハイルは隣を二度見した。
「無防備な……」
仕方なく、その体を抱き上げる。起きないことを確認してから、少しだけ――抱き寄せる。
「止めないさ。だが、もしかすると迎えに行くかもな」
口の中だけで呟くと、若き当主はあまり見せない笑みをその顔に乗せた。
ミハイルの声は静かな怒気を帯びている。これは本当に怒っている――と察しながらも、リエーフは変わらぬ笑みを湛えていた。
「申し訳ありませんでした。しかしまぁ、本当に驚きましたよ」
包帯を仕舞い、返してもらった燕尾服をっきっちりと着直して、リエーフが穏やかな声を上げる。
「何がだ」
「いえ。しかしミオさん、呪印には何の反応も示しませんでしたねぇ」
「……掃除のことしか頭にないんだろう」
クス、とリエーフが笑い声をあげる。
「何がおかしい」
替えのシャツに袖を通しながら、ギロリとミハイルがリエーフを睨む。
「いえいえ。しかし何年になりますかね。あの方が屋敷を去られてから」
「忘れた」
「何故お止めにならなかったのです」
「止めてどうなる」
「その呪印。先代にも先々代にも……代々のご当主様にあったものです。気にされない奥様の方が珍しいくらいでした」
「……何が言いたい」
タイを結びながら、ミハイルが短く問う。
「失礼ながら、ミハイル様は関係を繋ぐ努力を怠りすぎる。引き留められなかったあの方もまた哀れでございましょう」
「引き留めた方が哀れだと思うがな」
「それはご主人様次第でございましょう? 代々のご婦人が哀れと、わたくしは感じたことはありませんが。貴方がそうだから、ライサもあんなに荒れるのです」
いつものことと聞き流していたミハイルが、ライサの名が出た瞬間リエーフの顔をまじまじと見る。
「ライサに何の関係がある」
「苛立っているのですよ」
「何故」
「ミオさんが去られるときも、お止めにならないのですか?」
話をはぐらかされて、ミハイルは舌打ちした。そして、迷うことなく答えてみせる。
「止めないさ」
「はぁ……、坊ちゃんの馬鹿」
「なんだと!?」
ミハイルが声を荒げたその瞬間に、ノックの音が響き。扉越しに戸惑いの色が伝わってきて、リエーフは腰を上げた。
入室時にノックをする者は、この屋敷ではごく限られている。
「どうぞ、ミオさん」
「俺の部屋なんだが」
勝手に返事をするリエーフに、ミハイルが不満を漏らす。だが取り合うことなく、リエーフは扉を開けた。
「わたくしは部屋にもどりますので、どうぞごゆっくり」
刺すような鋭い視線を感じながら、すれ違うように退室していくリエーフを、ミオが驚いたように見上げる。
「リエーフさん、帰ってきてたんですか」
「ああ、さっきな」
立ち上がらないまま、視線だけ投げてミハイルが端的に答える。
それ以上続くような会話もなく、ミハイルが動かないので、ミオはおずおずと部屋に入った。
「あの、これ」
繕ったシャツを差し出すが、ミハイルは受け取らなかった。
ミオが所在に悩んでいると、「座れ」と声を掛けられる。ミオは少し悩んだが、彼が腰かけているソファの端にシャツを置き、彼の横に腰を下ろした。
「俺は馬鹿か」
「え? なんですか?」
「ライサは苛立っているそうだ。何故かわかるか」
んー、とミオが口に手をあて、天井を仰ぐ。
「ミハイルさんがそんなだからじゃないですか?」
「どういう意味だ」
「……ミハイルさん、あまり何にも関心がないじゃないですか。寂しいんじゃないですか?」
「まさか。あいつに限って」
鼻で笑うと、ミオは溜息をついた。
まるでリエーフと話しているような錯覚を覚えかけて、不満を口にする。
「……どうしてわかる」
「わかりはしませんよ。なんとなくそう思うだけで。強いて言うなら、女心、でしょうか」
それならばわかるわけもない。再びミハイルは床に視線を投げた。
お止めにならないのですか?
そう問いかけるリエーフの声が耳をついて離れない。
「お前は……いつかここを去るんだろう」
問うと、ミオは「はい」と答えた。
「私の目的は、元の世界に帰ることですから」
「そうか」
それを止めて、どうなると言うのだ。
そう思う反面で、考えてしまった。
もしも止めたら、ミオはなんと言うのだろうかと。
薄々気づいてはいる。
自分が無関心なのは。去り行く者を止めないのは。
去り行く者のためではなく、ただ自分を守るためだということは。
「……帰れるといいな」
「……優しいですね、ミハイルさんは」
嫌味を言われているのかと勘繰ったが。顔を上げて隣を見れば、ミオが浮かべるのは少し不器用な笑顔だった。不器用な分、愛想笑いではないのがわかって、ミハイルは目を伏せた。
自分を守るための、あまりにも矮小な術を。
優しさだと言ってくれる、その存在に、依存してしまえば去るとき辛くなるのはわかっていても。
きっと止めないだろう。
彼女がいつか帰るときが来たら、今向けられたような笑顔で送り出してやるのだと決意する。
そして、その決意だけは、自分を守るためなどではないと言える。
だからいつか彼女が去っても、傷つくことはないだろう。
ふと寝息が聞こえてきて、ミハイルは隣を二度見した。
「無防備な……」
仕方なく、その体を抱き上げる。起きないことを確認してから、少しだけ――抱き寄せる。
「止めないさ。だが、もしかすると迎えに行くかもな」
口の中だけで呟くと、若き当主はあまり見せない笑みをその顔に乗せた。
0
お気に入りに追加
110
あなたにおすすめの小説
熱い風の果てへ
朝陽ゆりね
ライト文芸
沙良は母が遺した絵を求めてエジプトにやってきた。
カルナック神殿で一服中に池に落ちてしまう。
必死で泳いで這い上がるが、なんだか周囲の様子がおかしい。
そこで出会った青年は自らの名をラムセスと名乗る。
まさか――
そのまさかは的中する。
ここは第18王朝末期の古代エジプトだった。
※本作はすでに販売終了した作品を改稿したものです。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。

花鬘<ハナカズラ>
ひのと
恋愛
突然やってきてしまった異世界。
3食昼寝付き、やさしいメイドさん付きの超VIP待遇で、ただいま軟禁中――なのも、今日までのことらしい。
豪華絢爛な純白のドレスに着替えさせられ、どこかへ連行されていく。
いったい私はこれからどうなってしまうんだろう?
****
まさか異世界で結婚したとは気づいていないリツの、異世界言語習得記イン異世界。
破天荒すぎる異世界人を妻に迎えてしまった王子の新妻躾奮闘記ともいう。
※自サイトより転載(引っ越し中)

もう死んでしまった私へ
ツカノ
恋愛
私には前世の記憶がある。
幼い頃に母と死別すれば最愛の妻が短命になった原因だとして父から厭われ、婚約者には初対面から冷遇された挙げ句に彼の最愛の聖女を虐げたと断罪されて塵のように捨てられてしまった彼女の悲しい記憶。それなのに、今世の世界で聖女も元婚約者も存在が煙のように消えているのは、何故なのでしょうか?
今世で幸せに暮らしているのに、聖女のそっくりさんや謎の婚約者候補が現れて大変です!!
ゆるゆる設定です。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
死霊使いの花嫁
羽鳥紘
ファンタジー
死霊が住まうという屋敷で目覚めたミオは、自分が死霊使いである当主の花嫁であると聞かされる。覚えのないことに戸惑いながらも、当面の衣食住のため、ミオは当主ミハイルと契約を結ぶことにするが――◆小匙一杯ずつのラブとシリアスとコメディとバトルとミステリーとホラーが入ったファンタジー。番外編4コマ⇒https://www.alphapolis.co.jp/manga/452083416/619372892web◆拍手⇒http://unfinished-koh.net/patipati/ufpati.cgi

魅了が解けた貴男から私へ
砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。
彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。
そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。
しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。
男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。
元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。
しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。
三話完結です。

のほほん異世界暮らし
みなと劉
ファンタジー
異世界に転生するなんて、夢の中の話だと思っていた。
それが、目を覚ましたら見知らぬ森の中、しかも手元にはなぜかしっかりとした地図と、ちょっとした冒険に必要な道具が揃っていたのだ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる