幽霊屋敷の掃除婦

羽鳥紘

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番外編(三人称)

いつか去るもの

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「あら、めずらしい」

 背後で聞こえた声に、ミハイルの食材を探す手が一瞬止まる。誰か、などとは声でわかる。
 声を返すことも視線を向けることもせず、ミハイルはいくつかの野菜を手に、調理場に立った。

「どういう風の吹き回しよ。腹黒執事はどうしたの」

 いれば、こんなことはしていない――などということは、言わずともわかることだろう。
 やはりミハイルは相手にすることなく、淡々と作業にのみ集中する。

「あの女がいなくなって以来じゃないの」

 ダン、と鈍い音がキッチンに響く。
 力任せに叩きつけられた包丁を見て、声の主は――、ライサは「フン」と鼻を鳴らした。

「まだ気にしてたの」
「……どうしてそういうことは覚えている」

 ようやく口を開いたミハイルを、ライサは宙に浮きながら満足げに見下ろした。

「だって気に入らなかったんだもの。あたしの嫌がらせにもニコニコして。ミオだってもうちょっと嫌がってくれたわ」
「安心しろ。一人はお前の嫌がらせで心を病んだ」
「それは良かったわ」

 口元に手を当てて、ライサがころころと笑う。

「……もう構わないでくれ。謝っただろ。俺はこの屋敷を継ぐ気も誰かを娶る気もない」
「……」

 ライサの笑い声が止まる。シン、と耳が痛くなるほどの静寂。氷のような碧眼と、交わることのない闇色の瞳。
 空腹かどうかなど、もうわからなくなった。それでも、のろのろとミハイルが手を動かす。それを見て、ライサは舌打ちをした。

「!」

 ガタガタと窓が鳴る。机の上のグラスが落ちて派手な音を立て、鍋が、カップが宙を舞う。

「ほら、止めてみなさいよ。アンタならできるんでしょ、当主」
「いい加減に……ッ」

 砕けたグラスの破片が腕をかすめる。シャツが裂け、血が流れる。
 ほら。
 ライサが囁く。
 

「何してるの、ライサ!」


 二人の間を割る声に、破片が、鍋が、カップが、床に落ちる。けたたましい音がして、ミオは思わず耳と目を塞いだ。そして、彼女が再び目を開けたときには、ライサの姿は消えている。

「ミハイルさん、腕」
「休んでいろと言っただろう」

 切れた腕を後ろに庇い、逆の手で猫でも追い払うようにミオを遠ざける。
 そんなミハイルの態度にむっとしながらも、ミオは食い下がった。

「今、怪我しましたよね」
「してない」
「しました。してないって言うなら見せて下さい」

 突っぱねても、怯みもしない。
 思わず舌打ちしてしまったが、歯牙にもかけず、ミオが逆の腕を取る。そして押し黙った。

「これ……って、傷、ですか?」

 戸惑ったような声に問われ、だが、戸惑ったのはミハイルも同じであった。

「いや……この屋敷の直系に表れるという呪印だ」

 シャツの切れ目から見える素肌には、血のような赤で、入れ墨のような印がある。
 なかなかにおどろおどろしいそれを見て、「なんだ」とミオは息を吐き出した。

「傷かと思って驚きました。でも、さっきの傷がどこかわからない……」
「もう血は止まっているから本当にいい。お前こそ休んでいなくていいのか」
「はい、ただの空腹ですから。私にやらせて下さい。主人を動かして使用人が寝ているなんて居心地悪いです。掃除以外にも何かやらないとっていつも思っていましたし」

 そう言うミオの顔色は、あまりいいとは思えなかったのだが。

(使用人……か)

 腕を押さえながら、ダイニングの椅子にミハイルは腰を下ろした。
 それを見て納得したものと解釈し、ミオは調理場に向かう。

「どうして、ライサはあんなにミハイルさんを目の敵にするんでしょう」
「別に、ライサだけじゃない。ここの幽霊どもは大体俺を目の敵にしている」
「そんなことはないと思いますけど」

 話しながらミオの視線が破片に向いているのに気が付いて、ミハイルは思わず口を開いた。

「片付けは後にしてくれ。今始めると夜になる。もう限界だ。腹が減った」
「う……そうですね。先に作ります……」

 そう言いながら、ちらちらとライサが荒らしたキッチンを見回すミオの顔には、気になって仕方ないと書いてある。笑いがこみ上げそうになって、ミハイルは口を押えた。

 空腹など忘れたと思っていたのに。気が付けば食事をねだり、口元が緩んでいる。

 気が緩んだのだろうか。それはライサがいなくなったからか、ミオが来たからか。

(どこから聞いていたんだか……)

 手際よく調理をするミオをぼんやりと眺めながら、ミハイルは胸の中だけで呟いた。
 しれっと何も聞いていないような顔はしているが、仲裁のタイミングが絶妙すぎる。
 気を許すつもりはない。だが、ミオは掃除婦――ただの使用人だ。

 一人目の気が触れたのも。
 二人目がライサの嫌がらせに耐えかねたのも。
 三人目が――去ったのも。

 一生伴侶としてこの屋敷に縛られると考えれば無理からぬことだと、ミハイルは思う。
 ミオは違う。彼女はいつかここを去ると、始めからわかっている。

「ミハイルさん。食事ができたら、ここで一緒に食べてもいいですか」
「……ああ」
「よかった。リエーフさんは食事を運んでくるだけだから。一人で食べるの、少し寂しかったんです」

 言われて、誰かと一緒の食事など何年ぶりかということに気が付いた。

「俺もだ」

 ミオが驚いたように顔を上げる。ミハイルはミオの方を見ていなかったが、ミオは小さく笑って、食事作りを再開した。
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