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第三話 逃げる桶
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「ミオさん、何かお困りのことは……」
昼過ぎ、バスケットを抱えたリエーフさんが姿を現し、私を見て言いかけた言葉を引っ込めた。
正確には、私そのものを見て、ではない。
ロープで柱にくくりつけられた桶と、犬のリードのようなロープ付きのデッキブラシで玄関を磨く私を見て、だろう。
「えっと……個性的なお召し物ですね?」
あっ、やっぱり私を見てかもしれない。
慌てて私は手を止めると、サンバイザー(会社の備品)を外して頭を下げた。
「すみません、貸して頂いた服よりもこちらの方が動きやすかったもので。駄目でしたか?」
「いえいえ、一向に構いませんが、生地もデザインもなかなか目にしたことのないものなので、興味深くて。この文字も初めて見ました」
会社のユニフォームなので、背中には『いつでもお任せ! スマイルお掃除代行サービス』というロゴがデカデカと入っている。
「……ずいぶん長い時を過ごして参りましたが……これは、興味深い……」
「その、リエーフさんって私より少し年上くらいかと思ってたんですけど。お幾つなんですか?」
それは、何気ない問いだったんだけど。
リエーフさんは顔を上げて、ニコーッと笑いながらバスケットを差し出してきた。
「お腹空いてませんか、ミオさん? お昼をお持ちしました」
「わぁ、ありがとうございます!」
なんとなくはぐらかされた気はしたけど、それよりおなかが空いていたので、私は素直にお礼を言った。
多分、見かけよりも歳なのね。だからあまり触れられなくないのね。パートのおばさま達とおんなじだ。
「それでは、わたくしはこれで」
「あっ、ちょっと待って下さい!」
屋内に戻っていこうとするリエーフさんの背に呼び掛ける。すると彼はピタッと動きを止め、ギィィ……っと音がしそうな感じにゆっくりと振り向いた。
「……なんでしょうか?」
「えぇっと……梯子ってありますか? 午後からは天井の蜘蛛の巣を払おうと思ってて」
「あ、あぁ……、なんだ、そんなことですか。私はてっきり辞めるって言われるのかと」
安堵を隠しきれない声でリエーフさんはそう言うと、踵を返して走って行った。
「すぐにご用意致しますね!」
その背を見送りながら。
私はなんとなく、なぜこの屋敷にメイドが居つかないのか、わかり始めていた。
「う~っ、つかれた!!」
夜。部屋に戻った私は、作業着を脱ぎ散らかして、下着姿でベッドに転がっていた。
結局あれからも不思議現象は後を絶たず……縛り付けたロープを逃れて道具たちはどこかに行ってしまうし、汲んだ水はすぐにひっくり返ろうとするし。
これくらいならまだ可愛いもんだけど、窓ガラス拭いてた時にとつぜん手形がベタベタつき始めたときは、さすがに悲鳴が出た。
「何ここ……ほんと幽霊屋敷じゃないの……」
人がバタバタ辞めていくって言うのは、魔法が使えないっていうのも大きいんだろうけど、確実に一番の理由はこれだな。
けど、それさえ目を瞑れば、部屋付豪華三食賄い付き仕事はマイペースでオッケーの超ホワイト優良企業。
そうそう簡単に手放したりするものか!
※
「ということで、二日目! 張り切って行くぞ!」
今日も良いお天気。言葉通り張り切って外へ出た私は、用具置き場へ行って絶句した。
「ふーん、そう、そう来るわけ……」
桶も、デッキブラシも、箒も、雑巾も、なーんにもない用具置き場からくるーりと踵を返す。
いいわ、時間は幾らでもあるのよ。午前は用具集めからね、上等よ見てらっしゃい!
「見つからない……っ!!」
屋敷中探し回って、ようやくデッキブラシとほうきを捕獲したものの、桶がまだ見つからない。あと探してない場所は、リエーフさんの部屋とミハイルさんの部屋の二つだけ、なんだけど。
リエーフさんの部屋はノックしたけど返事がない。屋敷の中でも見かけなかったし、どこかに出掛けているのかな?
仕方なく、私はミハイルさんの部屋をノックした。無愛想な声で返事があり、おずおずと扉を開ける。
「あの、すみません。お聞きしたいことがあるのですが」
「なんだ、お前。まだ居たのか」
私を見るなり、彼はぶっきらぼうにそう言った。いや、まだ居たのかって……、住み込みで働き始めてまだ二日目なんですけど?
「今まで何度も使用人を募集したが、いずれも二晩は持たなかったからな。夜何もなかったのか?」
いや、夜どころか昼から桶にも箒にも逃げられっぱなしですが。夜……、夜か。
「そう言えば、何か騒がしいなとは思ってましたが……いつも疲れてすぐ眠ってしまうので、忘れていました」
「それは随分とめでたい性格だ」
ミハイルさんは既にこちらを向いてもおらず、書物に目を落としながら、その口調は淡々としていて抑揚もない。およそ人と話している態度ではない。
「すみません。ただの掃除ならここまで疲れないのですが、桶もほうきも目を離すとすぐ逃げ出すもので……」
雇われている身で文句を言うのは気が引けるけど、契約時明確にされてなかった事項については多少の皮肉を言うくらい許されて欲しい。
そんな思いから飛び出た言葉に、突然、ミハイルさんはガタリと椅子を鳴らして立ち上がった。
しまった、やっぱり言うべきじゃなかった?
気分を害してしまっただろうか? クビにされたらどうしよう?
と焦る私をよそに、ミハイルさんは屈むと足下にある何かを手にして、私の元に歩み寄って来た。
「成る程。それで朝からこんなところに桶があるわけだ」
彼が手にしていたのは、私が探していた桶だった。差し出されたそれを受け取って、私は軽く頭を下げる。
「あ……ありがとうございます」
「不気味だろう、この家は。辞めたくなったのではないか?」
「それは……」
言葉のまま受け取るなら、私を気遣ってくれているような気もするけど。見下ろしてくる冷たい視線は、暗に「どうせ辞めるんだろう」と嘲っている。
そんな目で見られたら、逆に辞められない。行く当てのない私、簡単に辞める気なんて元々ないけれど。これが他の仕事だったら少し揺らいだのかもしれない。けれど私は掃除のプロだ。
まだ今の会社に入って三年、社会人としてはまだまだひよっこだけど、でも三年間掃除をし続けてきた。お客さんから「これは無理ですよね?」なんて言われるような案件も少なくなかった。
そんな眉を顰めるような汚れ方でも「お任せください!」とスマイル一発、期待以上にピカピカにするというのが我が社のポリシー、即ち私のポリシーなのである。
逃げられないようにデッキブラシと箒と桶を抱え込みながら、私は真っ直ぐにミハイルさんを見上げた。
「私、辞めませんから。一度お引き受けした以上は何があっても、このお屋敷を綺麗にしてみせます」
「言うことだけは上等だ」
私の決意を鼻で笑って、再び椅子に腰を下ろした時には、もうこちらを見もしない。この人は、私に掃除ができるとも思っていないし、そのうち辞めると決めて掛かっている。
けどそんなこと、圧迫面接何十件と越えてきた私には何でもないこと。もう採用は決まっているんだから問題ない。クビと言われない限りはこちらのものだ。
いずれこの屋敷をものすごく綺麗にすれば、ミハイルさんだって嫌が応にもその無表情な顔に驚きを見せて、屋敷中を見回るに違いないのだ、きっと。
いや、そうさせて見せる!
「では失礼します」
そうと決まれば、早いところ結果を出さねば。
さっさと退室していく私の背に、だが意外にも、「待て」と声が掛かる。また何か嫌味でも言われるのかと振り向く私の前で、相変わらず顔は上げないままだったけど。
「……眠れているならいいが、無理するなよ。倒れられても面倒だ」
一瞬、ぽかんとしてしまった。空耳かとも思ったけれど。一応「ありがとうございます」とお礼を言って、扉を閉める。
「ね、坊ちゃんは本当は優しい人なんですよ!」
心臓が三センチは跳ね上がった気がする。
どっからか生えてきたのかというくらい唐突に現れたリエーフさんに、私はびっくりして桶を取り落としそうになった。
「ぼ、坊ちゃん?」
思わず引きつった声を上げた私に、リエーフさんは「しまった」という顔をして口元に手を当てる。
「ああ、失言を……わたくしはずっとこの屋敷のご当主に仕えておりますので、ミハイル様のことは幼少の頃からよく存じているのです」
なるほど、そういうわけか。
「先代が事故で早世され、一人残された坊ちゃんがご当主となられて十年。突然家族を奪われ、使用人は次々と去り、新しく雇った者も三日と経たずに去っていく。坊ちゃんがなかなか人に心を開けないのも無理からぬことで」
「聞こえているぞリエーフ!」
バン! と扉が開き、眉を吊り上げたミハイルさんが部屋から顔を覗かせる。
「聞こえるように申し上げました」
「使用人に余計なことを言うんじゃない」
「余計とは心外な。ミオさんはお優しそうな方ですし、情に訴えれば辞めずにいて下さるかと思いまして」
「それが余計だと言っている。いいか、お前」
「ミオです」
私の存在なんか眼中にもないのでは、と思っていたけど、やっぱり名前も覚えてなさそう。すかさず名乗ってみるが、彼が私の名を呼ぶことはなく。
「去る者の名を覚える気はない。お前も本当は出て行きたいのだろう? この俺がそうだからな。こんな屋敷など、できることなら今すぐにでもおさらばしたい」
そう言い残して、また荒々しく扉が閉まる。ふう、とリエーフさんが溜息をついた。
「本当に、坊ちゃんは……人にも――――にも心を開けないのでは、孤独でしょうに」
「え?」
リエーフさんの独白は、一部がよく聞き取れなかった。いや、故意に一部分、声を潜めたと思う。
「ミオさん……」
けど聞き返そうとしたら、リエーフさんにうるうると見上げられてしまった。その様は、ペットショップにいる仔犬を思わせる。
「私は辞めませんよ。事情は存じませんが、私としてもこのお屋敷を綺麗にしたいのです」
「それはとても助かります。なにせこの見てくれでは幽霊屋敷のようで、ますます人が寄り付かなくなってしまうので」
クス、とリエーフさんが笑う。いや、幽霊屋敷はシャレになってないと思うな。見てくれだけの問題ではなく……いや、何も言うまい。
ギリギリと桶を力強く抱える私を見てリエーフさんは少し困ったように眉尻を下げると、長い指を桶に――いや、桶よりすこしずれた何もない箇所につきつけた。
「ほどほどになさいませね?」
「? え、はい」
無理はするなってことかな。
返事をすると、用件も済んだので、私は水を汲むために庭へと向かった。
昼過ぎ、バスケットを抱えたリエーフさんが姿を現し、私を見て言いかけた言葉を引っ込めた。
正確には、私そのものを見て、ではない。
ロープで柱にくくりつけられた桶と、犬のリードのようなロープ付きのデッキブラシで玄関を磨く私を見て、だろう。
「えっと……個性的なお召し物ですね?」
あっ、やっぱり私を見てかもしれない。
慌てて私は手を止めると、サンバイザー(会社の備品)を外して頭を下げた。
「すみません、貸して頂いた服よりもこちらの方が動きやすかったもので。駄目でしたか?」
「いえいえ、一向に構いませんが、生地もデザインもなかなか目にしたことのないものなので、興味深くて。この文字も初めて見ました」
会社のユニフォームなので、背中には『いつでもお任せ! スマイルお掃除代行サービス』というロゴがデカデカと入っている。
「……ずいぶん長い時を過ごして参りましたが……これは、興味深い……」
「その、リエーフさんって私より少し年上くらいかと思ってたんですけど。お幾つなんですか?」
それは、何気ない問いだったんだけど。
リエーフさんは顔を上げて、ニコーッと笑いながらバスケットを差し出してきた。
「お腹空いてませんか、ミオさん? お昼をお持ちしました」
「わぁ、ありがとうございます!」
なんとなくはぐらかされた気はしたけど、それよりおなかが空いていたので、私は素直にお礼を言った。
多分、見かけよりも歳なのね。だからあまり触れられなくないのね。パートのおばさま達とおんなじだ。
「それでは、わたくしはこれで」
「あっ、ちょっと待って下さい!」
屋内に戻っていこうとするリエーフさんの背に呼び掛ける。すると彼はピタッと動きを止め、ギィィ……っと音がしそうな感じにゆっくりと振り向いた。
「……なんでしょうか?」
「えぇっと……梯子ってありますか? 午後からは天井の蜘蛛の巣を払おうと思ってて」
「あ、あぁ……、なんだ、そんなことですか。私はてっきり辞めるって言われるのかと」
安堵を隠しきれない声でリエーフさんはそう言うと、踵を返して走って行った。
「すぐにご用意致しますね!」
その背を見送りながら。
私はなんとなく、なぜこの屋敷にメイドが居つかないのか、わかり始めていた。
「う~っ、つかれた!!」
夜。部屋に戻った私は、作業着を脱ぎ散らかして、下着姿でベッドに転がっていた。
結局あれからも不思議現象は後を絶たず……縛り付けたロープを逃れて道具たちはどこかに行ってしまうし、汲んだ水はすぐにひっくり返ろうとするし。
これくらいならまだ可愛いもんだけど、窓ガラス拭いてた時にとつぜん手形がベタベタつき始めたときは、さすがに悲鳴が出た。
「何ここ……ほんと幽霊屋敷じゃないの……」
人がバタバタ辞めていくって言うのは、魔法が使えないっていうのも大きいんだろうけど、確実に一番の理由はこれだな。
けど、それさえ目を瞑れば、部屋付豪華三食賄い付き仕事はマイペースでオッケーの超ホワイト優良企業。
そうそう簡単に手放したりするものか!
※
「ということで、二日目! 張り切って行くぞ!」
今日も良いお天気。言葉通り張り切って外へ出た私は、用具置き場へ行って絶句した。
「ふーん、そう、そう来るわけ……」
桶も、デッキブラシも、箒も、雑巾も、なーんにもない用具置き場からくるーりと踵を返す。
いいわ、時間は幾らでもあるのよ。午前は用具集めからね、上等よ見てらっしゃい!
「見つからない……っ!!」
屋敷中探し回って、ようやくデッキブラシとほうきを捕獲したものの、桶がまだ見つからない。あと探してない場所は、リエーフさんの部屋とミハイルさんの部屋の二つだけ、なんだけど。
リエーフさんの部屋はノックしたけど返事がない。屋敷の中でも見かけなかったし、どこかに出掛けているのかな?
仕方なく、私はミハイルさんの部屋をノックした。無愛想な声で返事があり、おずおずと扉を開ける。
「あの、すみません。お聞きしたいことがあるのですが」
「なんだ、お前。まだ居たのか」
私を見るなり、彼はぶっきらぼうにそう言った。いや、まだ居たのかって……、住み込みで働き始めてまだ二日目なんですけど?
「今まで何度も使用人を募集したが、いずれも二晩は持たなかったからな。夜何もなかったのか?」
いや、夜どころか昼から桶にも箒にも逃げられっぱなしですが。夜……、夜か。
「そう言えば、何か騒がしいなとは思ってましたが……いつも疲れてすぐ眠ってしまうので、忘れていました」
「それは随分とめでたい性格だ」
ミハイルさんは既にこちらを向いてもおらず、書物に目を落としながら、その口調は淡々としていて抑揚もない。およそ人と話している態度ではない。
「すみません。ただの掃除ならここまで疲れないのですが、桶もほうきも目を離すとすぐ逃げ出すもので……」
雇われている身で文句を言うのは気が引けるけど、契約時明確にされてなかった事項については多少の皮肉を言うくらい許されて欲しい。
そんな思いから飛び出た言葉に、突然、ミハイルさんはガタリと椅子を鳴らして立ち上がった。
しまった、やっぱり言うべきじゃなかった?
気分を害してしまっただろうか? クビにされたらどうしよう?
と焦る私をよそに、ミハイルさんは屈むと足下にある何かを手にして、私の元に歩み寄って来た。
「成る程。それで朝からこんなところに桶があるわけだ」
彼が手にしていたのは、私が探していた桶だった。差し出されたそれを受け取って、私は軽く頭を下げる。
「あ……ありがとうございます」
「不気味だろう、この家は。辞めたくなったのではないか?」
「それは……」
言葉のまま受け取るなら、私を気遣ってくれているような気もするけど。見下ろしてくる冷たい視線は、暗に「どうせ辞めるんだろう」と嘲っている。
そんな目で見られたら、逆に辞められない。行く当てのない私、簡単に辞める気なんて元々ないけれど。これが他の仕事だったら少し揺らいだのかもしれない。けれど私は掃除のプロだ。
まだ今の会社に入って三年、社会人としてはまだまだひよっこだけど、でも三年間掃除をし続けてきた。お客さんから「これは無理ですよね?」なんて言われるような案件も少なくなかった。
そんな眉を顰めるような汚れ方でも「お任せください!」とスマイル一発、期待以上にピカピカにするというのが我が社のポリシー、即ち私のポリシーなのである。
逃げられないようにデッキブラシと箒と桶を抱え込みながら、私は真っ直ぐにミハイルさんを見上げた。
「私、辞めませんから。一度お引き受けした以上は何があっても、このお屋敷を綺麗にしてみせます」
「言うことだけは上等だ」
私の決意を鼻で笑って、再び椅子に腰を下ろした時には、もうこちらを見もしない。この人は、私に掃除ができるとも思っていないし、そのうち辞めると決めて掛かっている。
けどそんなこと、圧迫面接何十件と越えてきた私には何でもないこと。もう採用は決まっているんだから問題ない。クビと言われない限りはこちらのものだ。
いずれこの屋敷をものすごく綺麗にすれば、ミハイルさんだって嫌が応にもその無表情な顔に驚きを見せて、屋敷中を見回るに違いないのだ、きっと。
いや、そうさせて見せる!
「では失礼します」
そうと決まれば、早いところ結果を出さねば。
さっさと退室していく私の背に、だが意外にも、「待て」と声が掛かる。また何か嫌味でも言われるのかと振り向く私の前で、相変わらず顔は上げないままだったけど。
「……眠れているならいいが、無理するなよ。倒れられても面倒だ」
一瞬、ぽかんとしてしまった。空耳かとも思ったけれど。一応「ありがとうございます」とお礼を言って、扉を閉める。
「ね、坊ちゃんは本当は優しい人なんですよ!」
心臓が三センチは跳ね上がった気がする。
どっからか生えてきたのかというくらい唐突に現れたリエーフさんに、私はびっくりして桶を取り落としそうになった。
「ぼ、坊ちゃん?」
思わず引きつった声を上げた私に、リエーフさんは「しまった」という顔をして口元に手を当てる。
「ああ、失言を……わたくしはずっとこの屋敷のご当主に仕えておりますので、ミハイル様のことは幼少の頃からよく存じているのです」
なるほど、そういうわけか。
「先代が事故で早世され、一人残された坊ちゃんがご当主となられて十年。突然家族を奪われ、使用人は次々と去り、新しく雇った者も三日と経たずに去っていく。坊ちゃんがなかなか人に心を開けないのも無理からぬことで」
「聞こえているぞリエーフ!」
バン! と扉が開き、眉を吊り上げたミハイルさんが部屋から顔を覗かせる。
「聞こえるように申し上げました」
「使用人に余計なことを言うんじゃない」
「余計とは心外な。ミオさんはお優しそうな方ですし、情に訴えれば辞めずにいて下さるかと思いまして」
「それが余計だと言っている。いいか、お前」
「ミオです」
私の存在なんか眼中にもないのでは、と思っていたけど、やっぱり名前も覚えてなさそう。すかさず名乗ってみるが、彼が私の名を呼ぶことはなく。
「去る者の名を覚える気はない。お前も本当は出て行きたいのだろう? この俺がそうだからな。こんな屋敷など、できることなら今すぐにでもおさらばしたい」
そう言い残して、また荒々しく扉が閉まる。ふう、とリエーフさんが溜息をついた。
「本当に、坊ちゃんは……人にも――――にも心を開けないのでは、孤独でしょうに」
「え?」
リエーフさんの独白は、一部がよく聞き取れなかった。いや、故意に一部分、声を潜めたと思う。
「ミオさん……」
けど聞き返そうとしたら、リエーフさんにうるうると見上げられてしまった。その様は、ペットショップにいる仔犬を思わせる。
「私は辞めませんよ。事情は存じませんが、私としてもこのお屋敷を綺麗にしたいのです」
「それはとても助かります。なにせこの見てくれでは幽霊屋敷のようで、ますます人が寄り付かなくなってしまうので」
クス、とリエーフさんが笑う。いや、幽霊屋敷はシャレになってないと思うな。見てくれだけの問題ではなく……いや、何も言うまい。
ギリギリと桶を力強く抱える私を見てリエーフさんは少し困ったように眉尻を下げると、長い指を桶に――いや、桶よりすこしずれた何もない箇所につきつけた。
「ほどほどになさいませね?」
「? え、はい」
無理はするなってことかな。
返事をすると、用件も済んだので、私は水を汲むために庭へと向かった。
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