貧乏姫は婚活中!

羽鳥紘

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1巻

1-1

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 一 貧乏姫、家出する


 コーン。
 青い空に、澄んだ音が吸い込まれていく。
 耳を通り抜けるその音を聞くともなしに聞きながら、わたしはナタを振り上げる。
 コーン。
 またいい音を立てて、まきが二つに割れた。
 次の薪を置いて、またナタを振り上げて。この単純作業をかれこれ三十分は続けたろうか。長い髪が汗ばむ首にはりついて鬱陶うっとうしい。
 違う。これは何かが違う。
 ひたいの汗をぬぐう。いつもの疑問が頭をぎる。
 わたしの職業は、断じて薪割りをするようなものではないのだ。
 大体、薪を割るのは男の仕事ではないだろうか。
 つまり、何をどう考えても、わたしが薪を割らねばならない理由なんて、世界がひっくりかえっても、ひとっつもないわけだ。


「ねえ、そうよね、そう思わない!?」

 体を動かしたあとの水分は気持ちいい。並々と注がれた液体を全て飲み干し、ごん、と空になったジョッキを机に叩きつけてほろ酔い気分で叫ぶ。中身は決して酒ではなく、かといって果汁でもなく、なんのことはないただの水だが、こういうのは気分の問題なのだ。
 だがわたしがそう叫んでも、目の前にいる人物は全くのノーリアクションだった。
 食事を運んできてくれた二十代半ばほどのその青年は、さらっさらの茶髪に今日の空と同じ青い瞳の、こんな田舎にはまるでそぐわない美青年だが、身にまとっているのは給仕の白いエプロンだ。

「人に問いかけるときは、その内容を明確にするのが筋かと思いますが」

 彼が言うことは実に正論だが、この場合わたしにも言い分がある。というのも、これはわたしが毎日のようにしている質問だからだ。皆まで言わずともんでくれるのが家臣ではなかろうか。
 だがそれはぐっと呑み込んで、言い方を変える。

「ねえ、わたしの職業ってなんだと思う?」
「無職です」

 さらっと彼は即答してくる。思わずずっこけそうになって、手にしたフォークを落としてしまった。彼は何も言わずそのフォークを拾うと、エプロンから取り出した清潔そうなナプキンで綺麗に拭っている。

「な、なんで無職なのよ?」
「お言葉ですが姫。職業というのは、生計を立てるための仕事のことを指します。姫は、姫であることで生計を立てていますでしょうか」
「なによ。ちゃんと炊事すいじ洗濯からまき割りまでこなしているじゃないの!」
「では、家事手伝いですね」

 うやうやしく差しだされたフォークには、ゴミひとつついてないどころか、曇りひとつもない。でもこのフォークは高価なシルバーなどではない。
 そう。今しがた彼が口にしたとおり、わたしは姫――このリリニア国の王女、ルナリス・リリニアだ。でもこのありさまはどうだろう。毎日毎日わたしを待っているのは、洗濯物のシーツと焚き木の山。贅沢ぜいたくな暮らしとは十七年くらい縁がない。つまり、生まれてこのかた縁がないのだ。こんな生活をしている王女が世界のどの国にいるだろうか。
 王女様といえば、そう――豪華なドレスに、きらびやかな夜会。キラキラ光る宝石を身につけて、一流シェフが腕によりをかけて作った料理を、曇りひとつない銀のフォークで楚々そそと口に運ぶ。うん、それでこそ王女様だ。

「ほうよね、うん、絶対ふぇったひにほうだわ」
「口に物を入れたまま喋るのは行儀が悪いですよ」

 お小言は無視して、サラダをつつく。新鮮な野菜はそれだけでもおいしいが、ドレッシングが絶妙にその味を引き立てている。
 高級食材でないのは残念だけど、おいしい。だけどこの料理を作っているのは、決して一流シェフではない。

「じゃあ、あなたの職業は?」
「騎士です」

 また彼は即答した。それを聞いて、わたしは彼にフォークを向けて、してやったりと笑う。

「それは違うわ。どこの世界に料理したり給仕したりする騎士がいるものですか」
「人にフォークを向けてはいけません。私は騎士で、この国、ひいては陛下や姫に忠誠を誓った身。その姫に尽くすことこそ騎士の本分であり、これも仕事の一環です」

 薄い笑みを浮かべてそんなことを言われ、わたしはぐっと言葉に詰まってフォークを引っ込めた。
 彼の名前はソル。この国の騎士隊長だ。だけど隊長とは名ばかりで、そもそもこの国に騎士団など存在しない。辺境にあるこの国は、戦争などとは縁のない穏やかな国だ。それはもう、あきれるほど退屈で、あくびが出てしまう。
 有志が結成した自警団があるけれど、彼らの仕事はもっぱらぎっくり腰のおばあちゃんをおんぶして家に連れていったり、迷子の子どもを保護したり。今までで一番危険だったのは、暴れ牛を捕まえたときだったかしら。

「ああ、やだやだ」
「姫、口だけでなく手も動かしていただきませんと、いつまでたっても食器が下げられません」

 嘆きを口にすれば、淡々としたソルの声が返ってくる。わたしはうんざりしながらウインナーを頬張った。

「いい天気ですね。食事が終わる頃には、きっと洗濯物が乾いています」

 ソルは微笑ほほえむが、天気とはうらはらに、わたしはどんよりと気が重くなった。


 このリリニア王国というところは、地図にすら名前が載っていないほどの辺境の小国だ。人口は……国民全員が顔見知りといっても過言ではない程度。
 そして、リリニアはとても貧乏だ。貨幣なんて見たことないって人も多いのではないかと思う。それはリリニアの王族であるわたしも同じことで、メイドさんに囲まれて世話をしてもらうなんて夢のまた夢。せいぜい、父様が作った大根をおすそ分けする代わりに、晩ご飯に煮物をわけてもらうとかそんなレベル。それでも、夕飯のおかずが一品浮いてラッキー、とか喜んじゃうのがこの国の王女様……このわたし。
 きっと、他の国との関わりがあれば、また違ったんだろうと思う。そうすれば皆嗜好品しこうひんにも興味を持って、それを買うお金を得るため、出稼ぎに行ったりするに違いない。だけどこの国は、右を向けば海、左を向けば山。おまけに父様はかたくなに諸外国との接触を拒む。他の国と関わると、リエキとかを考えた付き合いをしなきゃならないし、一歩間違えるとセンソウとかが起こったりするから嫌なのだそうだ。わたしにはよくわからない。そんな父様のせいでリリニアは、とても狭い世界になってしまっている。だから、いくらわたしが贅沢ぜいたくな暮らしに憧れようとも、リリニアにいる限りはまきを割って食事を作って、朝から晩まで働かないといけない。それがリリニア王家に生まれた定めなのである――と、せめてかっこよく言ってみる。
 そんな王家の定めにのっとって、一日の家事をやっとこさ終えてくたくたになったわたしは、部屋に入ると真っ先に体を伸ばした。腰がみしみしとうなる。ああ、情けない。世のお姫様どころか、平民の女の子だって、きっと腰痛に苦しんだりしないだろう。
 痛む腰を叩きながら、持っていたランプを机に置いて、部屋のランプに火を移す。ふと窓から空を見上げると、黒い空には、まんまるの白い月がぽっかりと浮かんでいた。そっか、今夜は満月か。それを思い出して、わたしは持ってきたランプを消しかけた手を止め、それを持って部屋を出た。
 台所で水がめから水をすくっておけに入れ、部屋に戻るとランプの火を二つとも消す。
 部屋の中が闇に沈むと、わたしは月明かりだけを頼りに、水面に月が映り込むよう桶の位置を調節した。満月を桶の中にしっかり捕まえたのを確認して、小さな声で呪文をつむぐ。


「ルスルス・クラロデルナ。ベルベル・レホス」


 呪文に呼応して、桶の中の月が溶ける。ほのかに光る桶をのぞきこめばもうそこに月はなく、異国の街並みが浮かんでいた。
 これは、母様に教えてもらったひみつの魔法。
 満月の夜にだけ使える、遠くを見ることができる魔法。本当はおいそれと使ってはいけないものだけれど、わたしは最近満月のたびに、こっそりこの魔法を使っている。
 望んだ場所を見られるほどには使いこなせないけど、この国から出たことのないわたしは、外の世界が見られればそれで充分だった。けれど今夜映った風景は、今までに見たことがないほど大きな街で、わたしは胸が高鳴った。
 夜だというのに、家や通りからこぼれる灯りで、街はまるで昼のように明るい。ひときわ高い建物は教会だろうか、鐘がだいだいの灯りに照らし出されている。綺麗な街並みに、ほう、とため息が零れた。
 ゆっくりと水の中の景色は動いていき、わたしはおけに顔を突っ込むようにして見入った。やがて松明たいまつに縁取られた橋が見え、大きなお城が映し出されると、どきんと心臓がひときわ高く跳び上がる。


 中が見たい。
 それまではずっと映し出されるがままに任せていたけど、このとき無意識にそう強く念じていた。願いが届いたかのように、水の中の映像は豪華なお城の門に迫り、閉じた大きな扉をすり抜けてお城の中に入っていく。わたしが生まれてからこのかた踏んだこともないような、上質そうな絨毯じゅうたんが敷かれた城内を、ゆっくりゆっくりと進んでいく。進むたびに、わたしの心臓はどきどきと音を立てる。やがてまた大きな扉に行きあたり、その扉もすり抜ける。真っ赤な絨毯が真っ直ぐに玉座へと延び、その玉座に座るのは――


 きらきらと輝く金色の髪をなびかせた、綺麗な綺麗な――


「姫」
「うわーーーーっ!?」


 唐突に声がかかって、思わずはしたない叫び声をあげながら、わたしは桶を突き倒していた。がしゃんと音を立てて桶が倒れ、中の水が飛び出して部屋を濡らす。

「こんな夜更けに灯りもつけず掃除ですか?」
「え、ええ。近頃部屋の片づけまで手が回らなかったから」
「良い心がけですが、灯りくらいつけないと、まるで怪しいまじないでもしているみたいですよ」

 あきれた声はおちょくるような響きを含んでいたが、それにむっとするよりハラハラしていた。そんなわたしの心のうちなど知るよしもなく、部屋に入ってきたソルが机の上のランプに灯りを入れる。
 いったいいつからいたのだろう。もしかして全部見ていたのだろうか。
 母様はわたしが小さな頃に死んでしまった。もうおぼろげにしか思い出せなくて、呪文も聞き間違いか記憶違いのためだろう、辛うじて覚えていても発動しないものばかりだ。でも「魔法は誰にも見られては駄目よ」、そう繰り返した穏やかな声は不思議なくらいはっきり耳に残っている。

「掃除もいいですが早くお休みにならないと。明日のお弁当の当番は姫ですよ」

 母様の笑顔を思い出して少しだけ心がなごんだけれども、そんなことを言われて、一気に憂鬱ゆううつな気分に戻ってしまった。
 父様は朝早くから畑に出る。わたしとソルは毎朝交代で、そんな父様のためにお弁当を作っているのだ。魔法を使っているのを見られたかもという不安を、魔法を使う前のうんざりした気分が食いつぶしていく。その気持ちがわたしの口を動かしていた。

「ねえ、ソル」
「はい、何でしょう、姫」
「わたし、この国を出たい」
「ご冗談を」

 間髪をいれずに、ソルがにこりともせずそう返してくる。けれどわたしにしてみたら冗談ではない。
 むっと眉根を寄せるが、頭の中にさっき見た街並みと、綺麗な男の人が浮かんできて、気が付いたら口元が緩んでいた。
 さっき見たあの人は、玉座に座ったあの人は、きっとそう――あの国の王様だ。いや、若かったから王子様かもしれない。いやそんなのはどっちでもいい。とにかくわたしの王子様なのだ。

「何を百面相しているのですか。気持ち悪いですよ」

 妄想にふけってにやにやしていたことは否めないが、なんて失礼なことを言うのだこの騎士は。いくらなんでも仕える姫に対して失礼ではないか。そもそも、お姫様の騎士といえば強く優しく、姫のためなら命も惜しまず、常にそばで体を張って守ってくれるものではないのだろうか。絵本で見た騎士様というのはどれもそんな風に描かれていた。そこへいくと、この騎士はどうだろうか。
 昔から、わたしが朝寝坊すれば叩き起こし、失敗すれば薄ら笑い、食事当番を代わってといえば代わりにあれをしろこれをしろ。これじゃ騎士じゃなくて意地悪な継母ままははだ。
 何も命を張って守ってくれとは言ってない。今日のまき割り当番を代わってと言っているだけなのに、今まで一度たりとも首を縦に振ってくれたことがない。
 とそんな文句を言ったところで、得意の正論攻撃にやりこめられるだけなのもこれまでの経験でわかっている。だからぐっと耐えるけど。

「とにかく冗談じゃないの。ひがな一日畑仕事してる王様とか、エプロンつけて給仕してる騎士とか、もううんざりなの。わたしは綺麗なドレスを着て侍女にチヤホヤされたいのよ」
「はあ。しかし姫はこの国にいてこそ姫という身分なのであって、お一人でよその国に行ったところでチヤホヤしてもらえるとは思えませんが」
「そんなこと分かってるわよ。馬鹿にしてるの?」
「はい」
「今のは聞かなかったことにしてあげる。わたしが一人でよその国に行ってもチヤホヤしてもらえる方法はあるわ」

 冷めた目でこちらを見るソルとは対照的に、わたしは目ん玉に炎を燃やす勢いで、ぐっと顔の前で手を握り締め、高らかに宣言した。


「王子様のお妃様になる!!」


 意気込んで叫んだあとは、しーんとした静寂が残る。

「……はあ」

 たっぷり三十秒は経過したあとに、ため息だか返事だかわからない声が返ってきた。

「……それだけ?」
「いえ。昼間狩りのついでにハーブを摘んで参りましたので、明日のお弁当に使って下さい」
「……」

 こ・の・騎・士・は!

「とにかくわたしは出ていくから!」

 今ので逆に火がついたわ。わめいていたのは魔法のことを誤魔化ごまかしたり、日頃の憂さ晴らしをしたりしたいから、というのも少しはあった。お妃様になれる保証なんてどこにもないし、大丈夫なのかなって思う気持ちもある。けどそんな気持ちはすべてふっとび、何が何でも出ていくという気持ちが今一気に膨れ上がった。
 着の身着のまま、大股でずかずかと部屋を出ていこうとするが、わたしの動きは強制的に止められる。前に進めないことに疑問を感じ視線を下ろすと、ソルが片手でわたしを抱くようにして止めていた。

「ソ……」
「待って下さい姫。出ていくなどと言わないで下さい。それでは私が困ります」

 この無表情失礼騎士からは天地がひっくり返っても出ないと思っていた言葉が、聞いたこともない甘い声でつむがれる。思わず言葉を失ったわたしに、彼はその甘い声のままに続けた。


「今姫が出ていったら、誰が明日のお弁当を作るというのですか」

 ――絶ッッッッッ対に出ていってやる!!


     * * *


 その夜、わたしは魔法で見たあの国に行く夢を見た。
 上質なドレスを着て、おしゃれな街並みを歩いていく。エスコートしてくれているのはもちろん王子様だ。映像で見たときは夜だったけど、今は太陽の光がさんさんと降り注いでいて、白い石畳を照らしていた。その脇には色とりどりの花が咲き誇っている。
 その花々のそばにしゃがんで、わたしが「きれい」とうっとりすると、王子様も隣に膝をつき、「君の方が綺麗だよ」と囁いた。その笑顔がとろけるように甘くて、そして太陽よりまぶしくて、花を見てるときの百倍もうっとりしながら王子様の笑顔を見上げる。
 そのまま見つめ合うわたし達を祝福するように、カーン、カーン、と教会の鐘の音が響いた。


 カーン。カーン。カーン。カーン。


 鐘の音は絶え間なく響く。
 ……最初はムーディに感じていたけど、これだけ鳴り続けるとちょっとうるさい。耳触りになってきて顔をあげると、急に音が少し変化した。
 コーン。
 どことなく聞き覚えのあるその音に嫌な予感がする。
 王子様の手前、愛想笑いは貼りつけたまま、つま先に何かが当たったので視線を落とした。そこには、二つに割られたまき。こ、これは……


 コーン。コーン。コーン。コーン。


 振り返ると、髪を縛って作業着を着たもう一人のわたしが、タオルを首に巻いてナタを振り上げ、薪を割っている。

「ま、待って、王子様。見ないで。違うの、これは――」

 ばっと王子様の前で両手を広げて立ちはだかるも、時既に遅し。王子様は驚いた顔でわたしと薪を割るわたしを見比べている。
 そんな中、唐突に音が消えて、もう一度振り返ると薪を割っていたわたしは消えていた。ああ、良かった。ほっとしながら、あわてて弁解のために息を吸う。けどほっとするには早かったのだ。

「違うんです、王子様。あれはわたしじゃ……」

 声が、途中で消えた。いや、消えてしまった。声が出ない。それどころか体も動かない。混乱するわたしを嘲笑あざわらうかのように体は勝手に動き出し、あろうことか置いてあったナタを手に取った。
 気が付くと着ていたドレスは消え去っていて、作業着になっていて。
 そしてわたしは王子様が見ている前でナタを振り上げる。

「待って! やめて! これは違うのー!」

 泣きながらナタを振り下ろすと、コーンと澄んだ音がして、薪が綺麗に二つに割れた。
 コーン。コーン。コーン。コン。コンコン。コンコンコンコン……


「いやーーーー!!」


 自分の声で飛び起きた。見慣れた自分の部屋が視界に映る。
 悪夢だ。悪夢を見た。
 ふう、と息をついてひたいの汗をぬぐうが、コンコンと響く絶え間ないノックの音に、安堵あんどより先に苛立いらだちが来た。

「姫、起きて下さい。そろそろ起きませんと陛下がお出かけになってしまいます」

 ソルの声がイライラに拍車をかける。わたしはシーツをはね飛ばして起き上がると、靴も履かずに乱暴に扉を開けた。

「おはようございます、姫」
「あ、あなたねぇ! あなたのせいで……!」
「私が何かしましたでしょうか」

 鬼気迫るわたしの表情にもひるまず、いつもの調子で淡々と喋るソルに、言葉に詰まったのはこちらの方だった。ソルは寝坊しそうなわたしを起こしに来てくれただけで何も悪いことはしていない。
 これではただの八つ当たりだ。

「う、ううん。ごめん、今用意する」
「はい、よろしくお願いします」

 部屋の扉が閉まって、わたしは大きなため息をついた。それから手櫛てぐしで髪をととのえ、寝巻きを着替えて靴に足を突っ込み、しぶしぶと台所に向かう。
 調理場の扉を開けた途端、ふわりとハーブのいい匂いがした。そういえば昨日ソルがハーブを採ってきたって言ってたっけ。見ればテーブルの上に、ハーブと、絞めた鶏が二羽置いてあった。
 エプロンを着け、さっそく鶏を処理して火をこし、香草焼きにする。焼くと一層上品でいい香りだ。うう、おいしそう。
 つまみ食いしたいのを我慢してレモンを添え、木のお弁当箱に油が染みないよう、バナナの葉に包んで詰める。あとは野菜とパンを入れてお弁当が完成したところで、勝手口の戸がトントンと鳴った。

「おはようございます、姫様。しぼりたてのミルクをお持ちしましたよ」
「わあ、ありがとうステラおばさん!」

 歓声を上げて、わたしはずっしりと重いミルク缶を受け取った。ステラおばさんは城のすぐ裏手に住んでいて、牛の世話をしてくれている。いつもこうしてミルクを搾って持ってきてくれるのでとても助かる。さもなくば、わたしの日課にはミルクしぼりも追加されていたことだろう。
 おばさんにお礼を言って調理場に戻り、残りの鶏肉がいたむ前にさっそく野菜と一緒に鍋に入れて、ミルクで煮込むことにした。これでランチの下ごしらえも完璧である。うまくいけば夕食にも使えるかも。
 さて、休んでいる暇はない。お次は朝食、早くしないと父様が出かけてしまう。手早く卵を割りほぐしてオムレツを作り、すかさずベーコンをあぶる。まぁ今日は昼食の準備も並行してやったんだから朝食はこんなものでいいだろう。いや待て、これだけだとさすがにソルに手抜きだのバランスが悪いだの言われる。仕方なく葉物をちぎって簡単なサラダを追加することにする……

「って、こんなことやってる場合じゃないんだってばー!」

 その途中で、わたしは豪快に独り言を叫び、持っていたレタスを放り投げそうになって、辛うじて思いとどまった。食べ物を粗末にするのはよくない。
 しかし、嫌味を言うソルの顔を思い出した瞬間、先ほどの悪夢がよみがえり、そして昨夜の決心を思い出した。
 わたしはこんな召使いみたいな生活から脱却するのだと決めたんじゃないか。それでもブチブチとレタスを千切り、パンかごを出す。そこまでやったところでエプロンをはずすと勝手口に向かった。
 そうだ、今すぐここからトンズラを決めてやる。そう意気込んで扉を開けようと手をかけた途端、押す前に勝手に扉が開いて盛大にバランスを崩した。

「どちらに行かれるんですか姫。朝食はできましたか?」
「どどどっ、どこにも! 朝食ならできてるわよっ」

 どうにか持ちなおそうと手をバタバタさせながら、投げやりに叫ぶ。ソルはわたしの答えを聞いて調理場に視線を伸ばし、ふう、と嘆息した。

「手抜きされましたね」
「どーもすみませんね! 昼食の仕込みもしてたものですからね!」
「そうでしたか、それはすみません。さきほどスミスさんからフルーツをいただきましたのでこれも付けましょう」

 わたしが嫌みたっぷりに答えると、ソルは素直に詫びて調理場に入ってきた。そして手際てぎわ良くシチューの火を弱め、ローリエの葉を二枚ばかり取って投げ込む。それからまばたきする間にフルーツを切ってわたしが作った朝食に添えた。

「さあ、私がお運びしますので姫は食堂へどうぞ」
「あ、ええと、わたしはちょっと用事が……」

 ソルのペースに巻き込まれちゃいかん。わたしは爪先をまた勝手口に向けたのだが。
 ぐきゅるー。
 そんな情けない音が、わたしの歩みをさえぎる。

「なんの用事か存じませんが、腹が減ってはいくさはできませんよ、姫」
「……」

 くやしいが全く何も言い返せないまま、わたしは黙って食堂に向かった。


「主よ、我らはあなたの与えたもうた力に溺れず、おごらず、人としての分を忘るることなく、地に足をつけ、労働に汗し、互いに助け合い、天の恵みに感謝してこの食事をいただきます」

 父様がおごそかに食前の祈りをみ上げる。わたしはその間、手を組み合わせてじっとしながら、頭の中ではここを出ていくことばかりを考えていた。そしてお祈りが終わると開口一番、考えていたことを口にした。

「父様、わたし、リリニアを出たいです」


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