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1巻

1-3

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 そう言ってアッシュの後ろから現れたのは、まだ小学生くらいの男の子だ。背丈も私の胸ほどまでしかない。装いはアザリアと同じだったが、タイはリボンではなく、ヴィリジアンのボウタイだった。
 彼は私を見ると、胸に手を当てうやうやしく頭を下げる。黄色っぽい金髪がさらりと揺れた。

「初めまして女神様。ボクはレネット。アザリアと同じ宮廷術師で、アッシュと同じ女神様の護衛役でーす」

 宮廷術師って、こんなに小さな子もいるんだ。どう見ても小学生なのにもうお仕事してるなんてえらいなぁ。
 興味を引かれてアザリアの後ろから顔を出すと、レネットはパッと顔を輝かせて近付き、私の両手を握った。

「わあっ! サイアスやアザリアから聞いてた以上に可愛らしい女神様だね。服を作ったのはアザリア? 相変わらず繊細だねぇ。もうシエンなんか目じゃないんじゃない?」

 ブンブンと手を上下に振りながらレネットが歓声を上げる。その笑顔たるや、まさに天使。それにフランクに接してくれるから、今まで会った人の中では一番話しやすいかも。
 だけどレネットがしゃべり出すと、アザリアとアッシュはとがめるような目でレネットを見た。

「何? いいじゃない、女神様もあんまり堅苦しいと息が詰まるでしょ? 女神様に楽しんでもらうのがボクらの仕事なのに委縮いしゅくさせちゃだめじゃない。ねえ、女神様」
「あ、うん……。その、ええと……女神様って呼ばれるのも恥ずかしいかなって……」
「ふぅん? じゃあ名前教えて」

 ずいっとレネットが背伸びして身を乗り出してくる。私が答える前にコツンと額が当たって、黄緑色の光が目の前で弾けた。

「ナツキ、ね。よろしく」
「レネット!」

 さっきより険しい顔で、アザリアが声を上げる。私は教える前に名前を呼ばれて面食らっていたけど、レネットはどこ吹く風でにこにこと笑っている。

「ちょっと頭の中から名前を拾っただけだよ?」

 突然さらっと恐ろしいことを言われて血の気が引いた。
 つまり、私の頭の中を覗いたってこと? 私、一体何考えてたんだろ。額を押さえながら、真っ青になって一瞬前の思考を必死に引っ張り出していると、レネットがからからと笑った。

「そんなに思い詰めた顔しないでよ。考えてることがなんでもわかるわけじゃないってば。そんなに強い力があったら、ボクとっくに最高位術師になってるよ?」

 全く悪びれないレネットを、私は思わずジト目で見てしまった。人懐っこくて喋りやすいと思っていたけど、勝手に頭の中を覗くなんて。可愛い顔して油断ならない。

「怒らないでよナツキ。さ、歓迎会の準備ができているから行こう?」

 私の怒りなど気にも留めず、レネットはにこにこと微笑みながら私の手を引く。……悔しいけど憎めないタイプだなぁ。

「女神様、大変な無礼をどうかお許し下さい」

 私はすっかり毒気を抜かれてしまったのだけど、アザリアはまだ必死に謝っている。私は彼女の肩に片手を置いて、首を横に振った。

「もういいよ。良かったらアザリアも、ナツキって呼んで?」

 同い歳くらいの女の子だし、もっと仲良くなりたい。
 そう思って言うと、彼女は少しためらいながらも頷いた。

「……わかりました、ナツキ様。では、参りましょう」


 アザリア達に案内された大広間には立派なシャンデリアが煌々こうこうと輝き、中央には白いクロスの掛かった大きなテーブルがあった。そしてそのテーブルには、所狭しとごちそうが並んでいる。
 お肉に、サラダに、何種類ものドレッシング、そして見た目にも華やかなスイーツの数々は、眺めているだけでよだれが垂れそうだ。この部屋の外にも既に美味しそうな香りが漂っていたけれど、目の前にするといよいよたまらなくなってくる。

「どうぞこちらへ」

 一番奥のお誕生日席のようなところにサイアスが座っていて、アザリアがその隣の椅子を引いて私をうながす。

「ささやかだが、君のためのうたげだ。存分に楽しんでくれ」

 サイアスはそう言うけれど、全然ささやかなんて規模ではない。給仕の女性が何十人も辺りを行き交い、次々と新しい料理を持ってくる。私が席に座ると、たちまち目の前には色んな料理を取り分けた皿が並んだ。
 私に続いてアッシュとレネットも席に着いたけれど、アザリアは私の後ろに控えたままで、席に座ろうとはしない。

「アザリアも一緒に食べようよ」
「いえ、わたしは……」

 声をかけてみたけど、なんだか恐縮させただけみたいだ。どうしたものかと困ってサイアスを見ると、彼が助け舟を出してくれる。

「アザリア、女神がこう言っているんだ。席に着くといい」
「は、はい。では」

 サイアスの後押しに、ようやくアザリアが席に着く。

「優しいのだな、ナツキは」
「えっ!? いえ、優しいだなんて」

 突然サイアスに誉められて、今度は私が恐縮してしまった。私はただ、一緒に食べた方が楽しいと思っただけなんだけれど。

「おなかすいたー! 早く食べよーよー!」

 なんとなくぎこちなくなった場の空気を、レネットの声が和らげる。彼の天真爛漫てんしんらんまんさはなんだかほっとするなぁ。
 その声に応え、サイアスは自らのグラスを取り、立ち上がった。

「では、我らが女神を歓迎して」

 その乾杯の音頭に、他の面々も立ち上がって自分のグラスを掲げる。
 それが終わると、「いっただきまーす!」と明るい声を上げ、レネットが料理を食べ始めた。その様子を見て、私も意気揚々とフォークを取る。
 クリスマスに食べるターキーみたいな肉料理、サラダ、湯気が立ち上るスープ、それにパン……みたいなもの。どれもとっても美味しい。異世界の食事ってことで、最初はほんのちょっとだけ心配していたけれど、一口食べたらそんなことは忘れてしまった。
 お肉は鶏肉っぽい淡泊な味わいで、絡んでいるタレが濃厚で実によく合う。サラダに使われている野菜も見たことないものだけど、癖がなくて食べやすかった。スープはコクがあって好みの味だ。
 夢中になって食べていると、レネットが「これも美味しいよ」とあれこれ持ってきてくれる。そしていつの間にか私の隣に陣取って、アザリアとアッシュに睨まれていた。

「食事は口に合うだろうか?」
「はい、とっても美味しいです! こんな豪勢な歓迎会を開いて下さって嬉しいです!」

 私は満面の笑みでそう答える。勧められるままに食べて、もうお腹がパンパンだ。でもあんまり美味しいから、もう一口、あと一口とやめられない。
 そんな私の様子を見て、サイアスはほっとしたような顔をした。

「良かった。……急にこちらの世界に呼び出されて、気分を害したのではないかと心配していた」
「そんな。そりゃ、最初はびっくりしましたけど」

 まさか自分が異世界トリップするなんて思っていなかったもの。でも、元々トリップ小説は大好きだし、実体験できるなんて願ってもないことだ。

「部屋も服も可愛いし、食事は美味しいし、みんな優しいし、こんなに歓迎してもらえて気分を害するわけないです!」

 レネットの持ってきてくれたスイーツを頬張りながら答える。これがまた絶品でやめられないのだ。一口サイズのケーキが何種類もあるのだけど、スポンジはしっとりしているし、クリームはしつこくなくて軽い口当たりだし、果物はさっぱりした甘さで、何個食べても飽きが来ない。焼き菓子は口の中でほろっと崩れて香ばしく、ひんやり冷たいアイスのようなものまであった。酸味の利いた味で料理の締めにピッタリだ。
 自分でも驚きの量をペロリと平らげ、幸せ気分な私を優しい眼差しで見ながら、サイアスは心底嬉しそうに私の手を取った。

「良かった。私には君が必要だ。きらわれていたらと思うと気が気ではなかったんだ」

 真剣な顔で真っ直ぐに見つめられながらそう言われ、危うく口の中のものを噴き出すところだった。
 い、いやいやこれは、女神として必要ってことだよね。うん。……でも、だめだ。いくら落ちつこうとしても、これはときめく!
 でも今までこういったことに縁がなさすぎたから、どう返していいのかわからないよ~!
 助けを求めてアザリアの方を見るが、彼女は複雑そうな顔で、こちらから目を背けていた。その思い詰めたような顔がふと気になったけど、今はそれどころじゃない。

「あああああの! ……そういえば、あの、シエンという人はいないんですね」

 結局恥ずかしさに耐え切れず、なんとか自力で話題を変える。
 するとサイアスは、ああ、と少し困った顔をした。

「彼は優秀な術師なんだが、少々我儘わがままなのが玉にきずでね」

 そう言ってサイアスは肩をすくめたけれど、あまりいやそうな感じではなかった。どこか諦めているという風にも見える。
 それに対して、アザリアは一瞬顔を強張らせたように見えた。

「ねえナツキ、シエンのことよりさ。食べ終わったならボクと遊ぼうよ」

 なんとなくアザリアがぴりぴりしているようなので、彼女の方を気にしていると、急にずいっとレネットが割って入ってきた。

「え? でも私、お腹いっぱいで動けないよ」
「いい加減にしろ、レネット。女神殿、お休みでしたら部屋までお連れします」

 ずっと黙っていたアッシュが、そこで初めて口を開いた。彼はレネットを押しのけて、私の前にひざまずく。
 初対面の衝撃もあってアッシュは少し苦手だけど、お腹いっぱいで眠くなっていたので、その申し出はありがたかった。

「じゃあ、お願いします」

 部屋までの道を覚えている自信がなかったので、素直にお願いする。するとアッシュは勢い込んで立ち上がった。そして身を乗り出して熱く叫ぶ。

「ありがたき幸せ! かくなる上は、お休みの間もこのアッシュが、付きっきりでお守りしますゆえ、どうぞご安心を!」
「……やっぱりアザリアにお願いする……」

 やる気満々なところ申し訳ないとは思うけど、やっぱりアッシュは少し苦手だ。


 ――その夜、私は夢を見た。
 夢だから、景色も感覚もぼやぼやして、はっきりしない。どこだかわからない場所を、私はただ歩いていた。
 どこかに向かうわけでもなく、何かを考えていたというわけでもなかった。
 ふと、黒いローブが見えて、私は足を止めた。
 ぼやける視界の中で、それだけがやたらとはっきり見える。
 シエン。その名前が頭の中をぐるぐる回る。私をこの世界に召喚したひと。

「――シエン!」

 呼びかけると、彼はこちらを向いた。フードは被っておらず、顔があらわになっている。今朝ほど睨みつけるように私を見ていた紫の瞳に、あの威圧的な色はなく。――綺麗な顔。

「すまない」

 彼が口にしたのは、謝罪の言葉だった。

「どうして……謝るの?」

 問いかけると、ふいっと彼は目を逸らした。その横顔がとても悲しそうに見えて、もう一度呼びかけようとしたけど、声にならない。
 必死に声を振り絞ろうとする間に、彼は私に背を向けて歩いて行ってしまう。
 私は慌てて遠ざかる彼の背中を追った。だけどどんなに足を動かしても、距離は全く縮まらない。やがて彼の姿は完全に闇の中に消えてしまう。

「待って!」

 ようやく出た私の声は、ドンッ! という耳をつんざく破壊音に掻き消された。そして、その音で私は目を覚ます。

「なに……? 今の」

 夜明けはまだのようで、辺りは暗い。だというのに、一体何の音だったんだろう……なんだか、胸騒ぎがする。
 じきに暗闇に目が慣れてきて、ベッドの天蓋が見えた。さっきほど大きくはないが、音はまだ続いている。外から聞こえてくるみたいだ。
 私はベッドを降りると、そっとカーテンをめくった。でも、外は真っ暗で何も見えない。まるで黒いペンキで塗りつぶしたような窓。音ももう聞こえない。
 ほっと息を吐き出して、カーテンを離そうとしたその時だった。
 再び大きな音がして、闇の向こうに、黄色い光がまるで花火のようにぱっと散る。それは、シエンやアザリアが使う魔法陣とよく似ていた。
 ……誰かが、術を使っている?

「深夜工事、かしら」

 光も音もどんどん遠ざかっていく。
 気にはなったけれど、静寂が訪れると、睡魔も一緒にやってきた。
 考えたって答えはわからない。夜が明けたらアザリアに聞いてみよう。そう決めて、私は再びベッドに戻った。

「それにしても、変な夢だったなぁ……」

 音のせいで忘れかけたけれど、目を閉じたらさっきの夢のことを思い出した。
 すまないと言ったシエン。その悲しそうな顔までありありと思い出せる。景色や状況などは曖昧あいまいなのに、その表情だけはひどく現実味があった。
 夢の中で起こったことを考えても仕方ないんだけど……どうしてシエンが私に謝るんだろう。やっぱり、彼とだけは話をしてないから、それが引っかかっているのかな。だから、こんな夢を見たんだろうか。彼が召喚したからって別に謝ってほしいとは思っていないんだけど。
 眠たいのに、眠れない。シエンの顔や、さっきの大きな音が、頭にこびりついてぐるぐると回る。そうして何度か寝返りを打ったあと、私はむくりと起き上がった。

「……この部屋って、トイレないよねぇ……」

 私の困り果てた独り言は、誰もいない部屋にむなしく響く。
 トイレの場所くらい覚えておけば良かった。アザリアに貰った石で彼女を呼べばいいんだろうけど、こんな真夜中にトイレごときで呼びつけるのは気が引ける。でも我慢すればするほど、いよいよ眠れなくなっちゃう気がする。
 とりあえず自力で探してみよう。そう決めて、私は再びベッドを降りると、部屋の扉に手を掛ける。

「女神殿、こんな時間にどちらへ行かれるのでしょうか」
「うわぁ!」

 突然ぬっと現れた大きな影に、思わず大きな声を上げてしまった。
 アッシュだ。こんな時間という自覚がありながら、どうして私の部屋の前に……?

「あの……アッシュさんは、その……ずっと部屋の外に?」
「オレの仕事は女神を守ることですから。それより、どうかしましたか?」

 再び問いかけられて、うっと言葉に詰まる。男性にトイレだとは言い辛い。というか、この人にトイレに行きたいと言ったらトイレの中までついてこられそうで怖い。

「な、なんでもないんですぅ」

 引きつった声で答え、私は部屋の中へ引き返した。申し訳ないけど、やっぱりアザリアを呼ぼう。
 しかし、閉めようとした扉をアッシュがガッシリと掴んで止める。

「女神殿、やはり部屋の外では有事の際に不安です。少しでも近くにいた方が」

 言うなり強引に部屋に入りこみ、ベッドの脇まで歩いていって床の上にどっかりと座り込む。
 その姿を見て、私は黙ってアザリアがくれた石を取り出した。


 その後、アザリアはすぐに駆けつけてアッシュを追い出してくれた。
 でも二人の口論はしばらく続き、それが終わるまで私はトイレを我慢する羽目になった……。しかもトイレから戻ってきた後も、またアッシュが押し掛けてくるんじゃないかって思って、結局よく眠れなかった。
 そんな長い夜が明けて、朝。
 カーテンの隙間から差し込む光が顔に当たり、その眩しさに目を覚ます。夜中にひと悶着もんちゃくあったとはいえ、昨日お昼寝したこともあって、割とすっきりした目覚めだった。
 私はベッドから降りると、とりあえずネグリジェを脱ぎ捨て下着をつけて――これらもアザリアが用意してくれた――かけておいた白いゴスロリ衣装に手を伸ばす。この衣装、恥ずかしいけど、デザインはすごく好みなのよねえ……
 次は髪留めをつけてコンパクトを開き、お化粧する。この衣装ならいつもよりバッチリメイクでもいいかも。でも、あまり無駄遣いしない方がいいかな。ノーメイクでは生きていけない……
 うなりながらコンパクトを睨んでいると、ノックの音がする。

「おはようございます、ナツキ様。アザリアにございます」

 扉を開けると、申し訳なさそうな顔をしたアザリアと、無表情のアッシュが立っていた。
 アザリアが部屋に入るとアッシュもそれに続こうとする。だけどアザリアはそんな彼を片手で押しとどめて扉を閉めた。今ちらりと、レネットの姿も見えたような。

「お支度はお済みでしたか。お手伝いいたしましたのに」
「うん、大丈夫……って言いたいけど。後ろ、うまく結べてる?」
「恐れながら、やり直させていただきますね」

 あ、やっぱり変だったか。アザリアが背後に回ってきたので、私は邪魔にならないよう背中にかかる髪をまとめて持ち上げた。

「こんなことなら、もう少し髪を明るい色にすればよかったかなぁ」

 仕事柄、そんなに髪の色にはうるさく言われないけど、新人なので一応控え目な色にしてある。
 この格好ならもっと明るい色の方が合いそう。でも、それだとプリンになった時余計に悲惨になるだろう。
 どっちみち言っても仕方のない私のつぶやきに対し、思いがけずアザリアから反応があった。

「ご自分で色を変えることはできないのですか?」
「え? いや自分でもできるけど、道具がないと……」

 この世界にヘアカラー剤があるとは思えないんだけど。とか思っていると、アザリアが納得した、という風に頷いた。

「ナツキ様の世界では、道具を媒介にして術をお使いになるのですね。では、この世界に来て不自由な思いをされていることでしょう。しかしご心配には及びません。これからはわたしがナツキ様の手足となりましょう。いえ、わたしだけでなく、アッシュ様やレネット、そして――サイアス様も。全てはナツキ様のお心のままに」

 な、なんか誤解されているような。そして、なんだか大げさな話になってしまった。
 けど、それよりも……今アザリアが挙げた名前に、シエンはなかったような。
 シエンは? と聞いてみようとしたけれど、その前にアザリアが私の髪に両手をかざしていた。
 目の前に赤い光がこぼれ落ちる。それからアザリアは、昨日のように鏡を作った。

「このようなお色はいかがでしょうか?」
「う、うわあ……」

 目の前に映った自分は、ピンクの髪をしていた。いや、でも、日本人顔の私にこの色は激しく違和感がある。

「あ、ありがとう。でも、さっきくらい落ち着いた色がいいな」
「そうですか? では……」

 片手でアザリアが指を鳴らすと、また赤い光が弾ける。すると私の髪と目は、ピンクベージュくらいの落ち着いた色になった。
 うん、これくらいなら不自然じゃない。しかし、魔法って本当に便利だなぁ。これならプリンになる心配もないよ。

「ではナツキ様、朝食の準備ができておりますので、参りましょう」

 うん、と返事をしてから、ふと昨夜の大きな音のことを思い出す。それから、黄色い魔法陣のことも。
 アザリアに聞いてみようと口を開くが、アザリアが言葉を継ぐ方が早かった。

「朝食がお済みになりましたら、ぜひウィスタリアの美しい自然をじかにご覧下さい。ウィスタリアの素晴らしさをナツキ様に知っていただきたいのです。きっとこの国を好きになっていただけると思います」

 そう言ってアザリアがカーテンを引く。
 昨日はただ真っ暗なだけだったけど、夜が明けて外の様相は一変していた。
 空は雲一つない抜けるような青。そして、その青を写し取ったような湖には大きな滝が流れ落ち、虹を作り出している。湖のほとりには緑なす草原、その向こうには青々と茂る森。森の終わりには花畑があり、その上を白い鳥が群れを成して飛んでいく。
 どこまで見渡しても終わりのない雄大な自然は、日本ではまずお目にかかれない絶景だった。


 美しい光景に圧倒されて、結局昨夜のことは聞けないままだった。でもあれだけ大きな音なら、誰でも心当たりがあるだろう。朝食を食べながら誰かに聞こうと思い直したものの、目の前に広がる朝食を見た途端、また一旦忘れざるを得なかった。
 こんがりと焼かれたパン、その隣には蒸しパンのようなふわふわのスポンジ。その隣には干した果物の練りこまれたパン。野菜の入ったキッシュみたいなパイもある。
 サラダの上には生ハムがふんだんに盛られ、数種類のドレッシングの瓶が並んでいる。クリーミーそうなスープからは湯気が立ち上り、外側だけこんがり焼かれた肉のかたまりが給仕の女の子によって薄く切り分けられている。
 と、とてもじゃないけど、朝からこんなに食べられるほど私の胃はたくましくないよぅ……
 しまったなぁ、朝は控えめにしてくれるよう、あらかじめお願いしておくんだった。
 困っているのが表情でわかったのだろう、アザリアが慌てたように私に駆け寄ってきた。

「どうかいたしましたか、ナツキ様」

 不安そうなアザリアを見て、喉元まで出かかった「食べられない」の台詞せりふを辛うじて呑み込む。
 気が付けば、同じ食卓にいたサイアスもアッシュもレネットも、私の一挙一動を見守るようにじっとこちらを見ている。……また、シエンはいないなぁ。

「お気に召さなければすぐに作り直します。なんなりとご要望を」
「う、ううん! なんでもないの。気になったのは違うことで……」
「違うこと……?」

 私のために用意してくれた料理を無下にするのは気が引けるし、食材だって勿体ない。話を逸らすため、私は昨夜の件について聞いてみることにした。

「昨夜、なんだか大きな音が聞こえたんだけど。何かあったの?」

 その途端、アザリアの顔色が変わった。

「アザリア?」
「あーそれはね、宮廷術師の訓練だよ」

 答えたのは、アザリアではなくレネットだった。それに対し、私は素朴な疑問を投げかける。

「あんな深夜に?」
「術師は女神と王をお守りするため、日夜研鑽けんさんを積んでいるんだ。ボクだって昨夜は訓練だったんだよ」
「ふーん……。シエンも?」

 ふと気になって、何気なく聞いてみた。
 すると、レネットはきょとんとし、アザリアが眉間にしわを寄せる。

「あ、違うの? それでいつもいないのかなって思って」
「ナツキ様は、彼に何かご用でも?」

 アザリアが口を挟む。心なしか声にとげがある気がする。その態度はいつもの彼女とはかけ離れていて、私は少し驚きながらも首を横に振った。

「ううん、そういうわけじゃないけど。私を召喚した人なんでしょう? ちょっと話してみたいって思っただけ」

 そういえば、昨日のうたげでシエンの名前を出した時も、アザリアはなんだか固い顔をしていたっけ。あれは気のせいじゃなかったみたい。アザリアってシエンのことがきらいなのかな? 普段はおっとりしていて、あんまり人を嫌うようには見えないけれど。

「ごめんね、ナツキ。シエンってちょっと変わり者でさ。偏屈ってゆーか、普段ボクらともあんまり話さないんだよ」

 口が重くなったアザリアの代わりに、レネットが申し訳なさそうに口を挟む。それで何となく納得した私も、続くアッシュの、

「しかし、いくら最高位術師とはいえ、女神殿との食事の席にも着かないというのは無礼が過ぎるだろう」

 との台詞せりふには、風呂場に乱入してくる方がよっぽど無礼だと突っ込みたくなったけれど。

「昼食の席には着くように、私から言っておこう」
「あ、いえ、別に無理にっていうわけじゃないんです」

 サイアスにそう言われ、私は慌てて手を振った。
 もしシエンが私を嫌って出てこないのなら、無理に誘えば余計に嫌われてしまいそうだ。まぁ、レネットの話じゃ偏屈っぽいから、そういうわけじゃないのかもしれないけれど。

「それよりもお食事にしましょう、ナツキ様。料理が冷めてしまいます」

 アザリアがいつもの笑顔に戻って私をうながす。
 うん。シエンはともかく、アザリアから笑顔が消えると不安になる。これからはあんまり話題に出さないようにしよう。
 それから量に四苦八苦しながら食事をする間中、アザリアはウィスタリアがいかに美しいか、どんな場所があるのかを、料理を口にすることなく熱心に説明してくれた。途中何度も、説明は後でいいから食べるようにと勧めたけれど、首を縦には振らなかった。


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