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1巻
1-3
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穏やかな雰囲気を持つ彼は、悍ましい晒し首を目の当たりにしても動揺一つしていないようだった。
「貴女のようなレディが見るようなものじゃなかったですね。……兄上もそこまでは想定していなかったのでしょうね」
「兄上とは……? それに、貴方は……?」
ここは、後宮だ。特別な理由がない限り、成年男性が入ってくることは出来ない。
「ああ、申し遅れました。私はエドアルド国王陛下の唯一の同母弟で前国王の第四王子・ラファエロですよ、クラリーチェ妃」
「王弟殿下……‼ これは失礼致しました」
クラリーチェは青年の正体に驚きを隠せない。
只者ではないと思ってはいたが、王弟だなどとは思いもしなかった。
「……少し、お話をさせて頂いても? ……ああ、でも晒し首の前は相応しくないですね。場所を移しましょう。……君達、後は任せます。浅ましい考えを起こせばこうなると、側妃方によく知らしめてやりなさい。何かあれば、すぐに報告するように」
ラファエロは穏やかな口調で後宮を守る女騎士達に命じるとクラリーチェの手を取った。
異性に手を取られたのは初めての経験で、クラリーチェは恥じらいと緊張で足が竦むのを感じた。
そんなクラリーチェを気遣うように優しくエスコートするラファエロに連れてこられたのは、王宮内の応接室だった。
晒し首を見た後の突然の展開に、クラリーチェは明らかに動揺していた。
「……気分の良いものではありませんでしたよね。大丈夫ですか?」
ラファエロはクラリーチェの青白い顔を見つめながら、侍女に用意させたお茶を勧める。
「ありがとう……ございます……」
何故自分がここに連れてこられたのか、初対面のはずの王弟が何故自分のことを知っているのかという疑問が湧き上がってくるが、それよりもあの側妃の血塗れの顔が脳裏に蘇り、意識が遠のきそうになる。
「兄上は、潔癖で厳しい方なのです。強欲で己の利益しか考えない側妃達を毛嫌いしておりましたが……あの即位宣言の後から、王宮に何とか残ろうとする側妃が兄上を懐柔しようと仕掛けてきたり、毒を盛ろうとしたりと活発に動いておりましてね……。その為の見せしめでしたが、まさか貴女がいらっしゃるとは……」
ラファエロは表情を動かさずにそう話す。
クラリーチェの知らない所で、そんなことが起きていたらしい。確かに側妃達ならそれくらいのことはやりかねないだろう。
でもいくら見せしめとはいえ、あれはやりすぎではないだろうか。
「でも、何故そのようなお話を私になさるのでしょう? それに、王弟殿下は私のことを何故ご存知なのですか……?」
名ばかりの側妃であった自分が、王室の集まりに出席したことはない。
クラリーチェがラファエロのことを知らなかったのと同様、彼がクラリーチェを知るはずがない。
「……ガラディス支援の話は、貴女が考えたものでしょう?」
クラリーチェははっとした。
「宰相は自分の手柄にしてしまいましたが、進言したラビア伯爵が貴女の……ジャクウィント侯爵のご令嬢の発案だと教えてくれましてね。……ですが、それ以前にある人が貴女のことを話してくれたので興味があったのですよ」
ラファエロは、意味深な表情を浮かべた。
「ある人……ですか?」
ガラディスの件は、自分の名を出さぬように口止めしていなかったので仕方がないだろう。それが原因でラファエロに名が知れたなら納得出来る。
しかしラファエロの言う『ある人』とはクラリーチェのことを知っている人物だということになる。いったい、誰のことだろう。
真っ先に頭に浮かんだのは、伯父であるトゥーリ伯爵だった。
権力に対して異常に執着する彼が、後宮にいる自分のことをラファエロに話したというならば不思議はなかった。
「伯父……トゥーリ伯爵から、私のことを?」
「トゥーリ伯爵? ああ、そういえば貴女の母上のご実家なのでしたね」
反応を見る限りは違うようだ。益々謎は深まり、クラリーチェは考えを巡らせる。
一瞬、あの青年のことが頭をよぎったが、彼はこの国の貴族ではないのだから、ラファエロと話をするなどありえないと、その可能性を排除する。
「実家といえば、貴女のご実家……ジャクウィント侯爵家ですが」
思い出したように、ラファエロが話しだした。
彼が『あの人』についてはぐらかす為に話題を変えたことに、クラリーチェは気が付かなかった。
「側妃方の身元の洗い出しをしていた中で発覚したのですが、ジャクウィント侯爵……貴女の父上であるロレンツォ殿が事故で亡くなった後……正式な手続きが終わっていなかった為に爵位は返上されていなかったようなのです。財産は、王家の預かりとなっておりますが、実質は貴女の後見であるトゥーリ伯爵夫妻が貴女の養育費名目で半分ほどを受け取っております。それが、正しく使われていたのかは分かりかねますがね」
ラファエロが滑舌良く説明した内容に、クラリーチェは驚きを隠せなかった。
両親が亡くなった時点で、ジャクウィント家は爵位を取り上げられていると思いこんでいたからだ。
伯父夫婦はそのことを知っていたのだろうか。
それに、クラリーチェの養育費名目で財産の半分を受け取っていたとは、どういうことだろうか。
混乱しながらも、何とか考えをまとめようと懸命に頭を働かせた。
「あの……それは、本当なのですか?」
「私が貴女を欺いて、何の得があるというのです?」
確かに、その通りだ。そして、ラファエロから聞いた話から導かれることは、一つしか有り得なかった。
「クラリーチェ妃……いえ、クラリーチェ・ジャクウィント侯爵令嬢。貴女には、王家の預かりとなっている侯爵位を継ぐ権利があります」
「………!」
告げられた事実に、クラリーチェは瞠目した。
伯母や従姉妹のデボラからはずっと、お前の家はもう爵位がないのだから『元貴族の娘』という肩書の平民を、親戚というだけで引き取って面倒を見てやっているのだと言われ、使用人同然の扱いを受けていた。
それは全て嘘だった、ということになる。
しかし、納得する部分もあった。伯父が、自分に教育を施してくれたのは、クラリーチェがいずれ女侯爵となることを見越していたからなのだろう。
その事実に気が付かなかった己の愚かさへの自嘲と、湧き上がってきた言い表しようのない虚無感に、クラリーチェは何故か泣き出したい気持ちになった。
「あの、申し訳ありません……少し、気持ちの整理がつかなくて……」
クラリーチェは、零れそうになる涙を、ぐっと堪えた。
「それは当然です。第八十六側妃の件もありましたし、加えて今お伝えしたこともあり、混乱されるのは当然ですよ」
ラファエロは、美しいエメラルド色の瞳をすっと細めた。彼の瞳はフィリッポ譲りだと思われるが、フィリッポのそれとは全く違って見えた。顔には、穏やかな笑みが浮かんでいる。
彼の顔を見ていると何故か心がざわつくのは、やはりあの青年に顔立ちが似ているからだろう。
金髪の青年を見るだけでこのように反応する自分が恥ずかしくて、クラリーチェは余計なことを考えまいと必死にラファエロの言葉に耳を傾けた。
「お父上の侯爵位を継がれるのであれば、貴女はジャクウィント女侯爵を名乗り、ジャクウィント侯爵家を再興することになりますが……貴女は、どうしたいですか?」
ラファエロの口調は、まるでクラリーチェを試しているようだった。
クラリーチェは目を伏せて考える。
ずっと、元貴族というだけの平民だと思って生きてきたクラリーチェは、貴族という身分に拘りはない。ただ、自分の先祖が大切に引き継いできたものを投げ出していいのかという気持ちがないわけではなかった。
しかし、爵位を継ぐということは容易なことではない。
領地の経営は勿論のこと、国の運営に関わる議会の議決権も持つことになる。
読書好きで、勤勉なクラリーチェは全く知識がないわけではなかったが、領主としての仕事も、議員としての仕事も、書物から得た知識だけで務まるようなものではないということは、重々承知している。
多くの責任が伴う立場を、安易な気持ちで引き受けるわけにはいかないと思った。
(……きっと、お父様もご先祖様方も、分かってくださるはずだわ)
クラリーチェは、決心したように顔を上げた。
「爵位の件は、謹んで辞退申し上げます」
ラファエロは、ジャクウィント家の爵位と財産は、王家の預かりとなっていると言った。
それであればクラリーチェが爵位を辞退すれば、領民の生活は今までと変わらないだろう。
不慣れな自分が、領地経営に手を出すことで領民の生活を脅かしてはならないとの判断だった。
「……貴女なら、そう仰ると思いました。でもそれは、私に言われても困ります。私は、決定権を持たないしがない王弟ですからね」
クラリーチェは眉を顰めた。
話を振ってきたのはラファエロの方なのに、どうしてそんなことを言ってくるのだろう。
「王弟殿下は、一体私に何をお望みなのですか?」
ラファエロが、何か思惑を隠しながら話をしているような気がして、クラリーチェは思わず尋ねた。
すると、ラファエロのエメラルド色の瞳が鋭く光った気がした。
「クラリーチェ・ジャクウィント侯爵令嬢。兄上が……国王陛下が、貴女との面会を望まれてます」
告げられたその言葉に、クラリーチェはこれ以上ないくらいその瞳を見開いた。
「実は明日の午後、たまたま兄上の予定が空いているのですが、ご都合は如何です? ……ああ、謁見という形ではありますが、あくまでも私的な面会を求めてらっしゃいますので、そのつもりでいてくださいね」
都合を訊いてはくるが、クラリーチェには選択権など与えられてはいない。
おそらくラファエロは、エドアルドの命令を受けてクラリーチェに面会のことを伝えに来たのだろう。
きっかけとなった中庭の惨劇は偶然だったにしても、ジャクウィント家の爵位の件は話を持っていくための餌のようなものだったのかもしれない。
「明日の午後一時に、迎えを寄越しますのでご準備くださいね」
ラファエロは、整った顔に笑顔を浮かべると立ち上がった。
「では、また明日。お待ちしていますよ」
ひらひらと手を振ると、ラファエロは部屋を出ていったのだった。
「ちょっと、あなた」
クラリーチェが王宮から自室に戻ろうとすると、後宮の廊下で誰かに呼び止められた。
そこには、朝中庭で凄惨なあの現場を見て震えていた側妃の中の一人が立っていた。
「何の、御用でしょうか?」
何となく嫌な予感はしたが、無視して通り過ぎるわけにもいかず、立ち止まる。
真っ赤なドレスを着た、黒髪の妖艶な美女だった。
「大人しそうな顔をして、どうやってあの腹黒王弟殿下を誑し込んだのかしら?」
クラリーチェは、黙ったまま答えなかった。静かに、相手の出方を待つ。
「フィリッポ陛下に相手にされなかったからって、王子に手を付けるだなんて。いやらしいわね」
真っ赤な唇が、意地悪く歪んだ。
「……ねえ、誰か他の王子でもいいわ。私に紹介しなさいよ」
「……生憎、私も王弟殿下とは初対面だったのです。それに、殿下と私は貴女が考えているような関係ではございません」
クラリーチェは、怯みそうになる心を叱咤し、自分を奮い立たせるように黒髪の側妃を真っ直ぐに見据えた。自分が貶められることには慣れているから何を言われようと構わないが、自分のせいでラファエロに迷惑が掛かることは絶対に避けなければならない。
「嘘をおっしゃい。自分だけいい思いをしようだなんて、許さないわよ」
どうしてそんな思考になるのか、クラリーチェには理解ができなかった。
嘘をついていると、何故確信が持てるのだろう。
そもそもお互い名前すらも知らないのに、思考回路が読めるほど親密になった覚えはなかった。
「……何か思い違いを、されているのではありませんか?」
クラリーチェが静かに告げると、黒髪の側妃は怒りを露わにした。
「下手に出てやっていればつけあがって、いい度胸ね? 大人しく言うことを聞きなさい!」
パシン、と鋭い音が響いた。
「……っつぅ……」
クラリーチェは右頬に熱さと痛みを感じ、思わず頬に手を当てると、ぬるりとした感触があった。
「あ……」
叩いたはずの黒髪の側妃が狼狽える。
平手打ちでクラリーチェの頬を叩いた拍子に、長く伸ばした彼女の爪がたまたまクラリーチェの頬を傷付け、出血したのだ。
「……とにかく、考えておきなさい! 今日のことは正妃様に報告しますからね」
黒髪の側妃は謝罪の言葉すらも述べずにドレスを翻すと、足早に立ち去っていった。
彼女を怒らせた自分が悪いのだろうか。小さくなる後姿を呆然と見つめながらそんなことを考える。
クラリーチェは頬を手で押さえたまま、ゆっくりと部屋に戻ったのだった。
頬の怪我は、出血こそあったものの大したことはなく、クラリーチェは安堵した。
「ありがとう。余計な仕事を増やしてしまってごめんなさいね」
「とんでもないです! クラリーチェ様は何も悪くないじゃないですか。本当に他の側妃様方はどうしてあのように意地の悪い方ばかりなんでしょう」
「庇ってくれてありがとう。……皆様、気が立っていらっしゃるのでしょう」
傷の手当をしてくれたアンナをやんわりと窘めながらクラリーチェは溜息をついた。
今日は色々なことが起こりすぎて、クラリーチェは疲れ果てていた。
朝の一件で食欲もなく、一刻も早く休みたい。
クラリーチェが窓の外に視線を移すと、すでに日が沈みかけていた。
「アンナ、今日は何だか疲れてしまったわ。夕飯はいりません。先に休みますね」
「……クラリーチェ様……」
「大丈夫よ、明日になればきっと、元気になるわ」
クラリーチェはそう言って、心配そうなアンナを安心させるように微笑んでみせたのだった。
◆◆◆
翌日。
「クラリーチェ様。こちらのドレスはいかがですか? クラリーチェ様の美しい銀色の髪によく映えると思うのですが……」
「そうね。派手ではないし、いいかもしれないわ」
クラリーチェはアンナと二人でエドアルドとの謁見の準備をしていた。
アンナがバリエーションの少ないドレスの中から選んだのは、深い青色の落ち着いたドレスだった。全体的にクラシカルな印象で、控えめで嫋やかな雰囲気のクラリーチェの好みのデザインだ。
湯浴みを済ませると、アンナに着替えを手伝ってもらう。
それから化粧を施してもらうが、やはり昨日の傷はきれいには隠しきれなかった。
「怪我が目立たないように、御髪はそのまま下ろしておいた方が良さそうですね。その方がクラリーチェ様の美しさが際立ちますし」
その途端、クラリーチェの脳裏に昨日の黒髪の側妃に言われた言葉が蘇る。
クラリーチェが着飾れば、厳しいと噂の国王は自分に色目を使っていると思うかもしれない。
「……アンナ。私は陛下に爵位継承の辞退を申し出に行くのですよ? 失礼のない装いにしなければなりませんが、美しく見せる必要はありません」
宝飾品を用意しようとするアンナにきっぱりと告げる。
「でも……」
「正式に爵位継承を辞退すれば、私は正真正銘の『元貴族の平民』になるのですから、豪奢な飾りなど不要でしょう」
渋々頷いたアンナを下がらせ、クラリーチェは鏡に映った自分を見た。
クラリーチェの銀色の髪と淡い紫色の瞳は父親譲りなのだと、亡くなった乳母が話していたのを思い出す。ジャクウィント侯爵家は先祖に北方の国の血が入っているために、時折このような色素の薄い子供が生まれるらしい。
貴族でも、平民でも、自分は自分だ。
ジャクウィント侯爵家はこれで長い歴史に幕を下ろすけれど、その選択は間違いではないと、クラリーチェは自分自身に言い聞かせるのだった。
約束の時間通りに迎えにきた女官に付いて、クラリーチェは後宮の廊下を抜けて王宮へと向かう。
途中、幾人もの側妃から敵意を含んだ視線を向けられたが、敢えて気が付かないふりをして通り過ぎたが、不安はあった。
もしかしたら、昨日の件がディアマンテに知れたのかもしれない。ディアマンテの顔を思い浮かべるだけで、クラリーチェは胃が軋むような痛みを感じた。
(爵位継承の辞退と一緒に、修道院行きを願い出れば認めてくださるかしら……)
あと少し、この環境に耐えればいいと思えば何とかやり過ごせるだろうと考えながら歩いていくと、立派な扉の前に辿り着いた。
「失礼致します。ジャクウィント侯爵令嬢を、お連れしました」
女官が声をかけると、中から扉が開いた。
いよいよ、国王との対面。緊張で震えそうになる体に、自然と力がこもった。
「お待ちしておりました。どうぞ、中へお入りください」
穏やかな物腰でクラリーチェを中に招き入れたのは、ラファエロだった。
「は、はい……」
クラリーチェがラファエロに促されるままに進み出ると、国王・エドアルドがソファから立ち上がるのが見えた。
クラリーチェはその姿を見て、驚きを隠せずに息を呑んだ。
「ジャクウィント侯爵令嬢、急に呼び立ててすまなかった」
そこにいたのは、輝かんばかりの金髪と水色の瞳をした美貌の持ち主……あの夜の青年に違いなかったからだ。
(……嘘。まさかあのお方が、国王陛下だったなんて……そんなはずは……)
理解が追いつかずに混乱する。衝撃が大きすぎて、呼吸すらも忘れてしまいそうだった。
「ようやく会えたな、月の妖精」
エドアルドはそう囁いて、笑った。
国王が、あの時の青年。
その事実に、動揺したクラリーチェは、何と答えたらいいのか分からず、立ち尽くす。
あんなにも再会を願ってやまなかった相手が目の前にいる。そのこと自体が信じられなかった。
もしかしたら夢を見ているのだろうかと、何度も目を瞬いた。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。兄上は確かに厳しいところもある人ですが、貴女には絶対に危害は加えませんから」
固まったまま微動だにしないクラリーチェにラファエロが声を掛け、ソファに座らせる。その正面にはエドアルドが腰を下ろし、その横にラファエロが座った。
「……あの夜、城に戻ってすぐにジャクウィント侯爵家のことを調べさせた」
徐に、エドアルドが口を開いた。
「トゥーリ伯爵は、そなたが成人したら侯爵位を継承させる目的でわざと正式に爵位を返上せずに、王家預かりのままにしていたようだな。気が付かなかった王家にも責任はあるが……。トゥーリ伯爵は小物の癖に小賢しい真似ばかりする。そなたを父の側妃として王宮に上げたのも、あの男の仕業だな? ……社交界ではそなたが自ら望んだという話になっているが、そなたはそのような女ではない。違うか?」
水色の美しい瞳がクラリーチェを射抜く。
クラリーチェはそれだけで、息が苦しくなるほどに胸が高鳴るのを感じ、恥ずかしくて目を伏せた。
「その噂は……伯母が流したのだと思います……」
「その伯母に、虐待されて食事を抜かれていたのだろう? トゥーリ伯爵は? それを見て見ぬふりをしていたのか?」
「……伯父は、私のことには無関心でしたので……」
そこまで話して、クラリーチェははっとする。
あの夜は、相手が王太子だなどと思いもしなかった為に素直に全てを打ち明けてしまったが、本来一貴族の、それも家庭内の醜聞など聞かせるような相手ではない。
「あ、あの陛下……」
クラリーチェが話を切り替え、本題に入ろうとすると、エドアルドの眉がピクリと動いた。
「陛下などと呼ぶな。私のことはエドアルド、と呼べ」
強い口調での命令に、クラリーチェは狼狽える。これ以上逆らえば、あの側妃のように処刑されてしまうのだろうか。
「……ですが……」
「そなたは私の妻となるのだ。名前以外で呼ぶことは、許さぬ」
突如として告げられた言葉に、クラリーチェは言葉を失った。
沈黙が、空間を支配する。
エドアルドは押し黙ったままで、ラファエロは静かに微笑んでいる。
そしてクラリーチェは、真っ白になった頭の中で必死に考えを巡らせていた。
昨日からの疲れで、幻聴が聞こえるようになったのだろうか。それとも、食事を取らなかったことで、体に異変が起きたのだろうか。
考えれば考えるほどに、混乱は大きくなる。
「兄上。そのような言い方はご令嬢に対して失礼ですよ。いくら長年、女性を嫌って令嬢との関わりを避けてきたとはいえ、それでは一国の王として未熟だと言われても致し方ありません」
張り詰めた沈黙を破ったのは、ラファエロだった。
「……お前は、黙っていろ」
エドアルドはラファエロを軽く睨むと、部屋を出るように手で合図を送った。
「まだ婚約も交わしていない男女を、二人きりに出来るとでもお思いですか?」
呆れたようにラファエロが溜息をついた。
ラファエロの口ぶりから、やはり先程の言葉が聞き間違いでないことをクラリーチェは悟る。
どう反応するのが、正解だろうか。
「あの……仰られた意味が分からないのですが……」
ラファエロも言っていたが、そもそもエドアルドは他国の姫君を追い返し、国を戦争の危機に直面させるほどの女性嫌いで有名な人物のはずだ。
それが何故いきなりクラリーチェを妻にするなどと言い出したのか、まったくもって見当がつかない。
「私は、そなたを妃にすると言ったのだ」
今度ははっきりと、告げられた。意識が遠のきそうになるのを何とか堪えようと、ぐっと体に力を入れた。
「貴女のようなレディが見るようなものじゃなかったですね。……兄上もそこまでは想定していなかったのでしょうね」
「兄上とは……? それに、貴方は……?」
ここは、後宮だ。特別な理由がない限り、成年男性が入ってくることは出来ない。
「ああ、申し遅れました。私はエドアルド国王陛下の唯一の同母弟で前国王の第四王子・ラファエロですよ、クラリーチェ妃」
「王弟殿下……‼ これは失礼致しました」
クラリーチェは青年の正体に驚きを隠せない。
只者ではないと思ってはいたが、王弟だなどとは思いもしなかった。
「……少し、お話をさせて頂いても? ……ああ、でも晒し首の前は相応しくないですね。場所を移しましょう。……君達、後は任せます。浅ましい考えを起こせばこうなると、側妃方によく知らしめてやりなさい。何かあれば、すぐに報告するように」
ラファエロは穏やかな口調で後宮を守る女騎士達に命じるとクラリーチェの手を取った。
異性に手を取られたのは初めての経験で、クラリーチェは恥じらいと緊張で足が竦むのを感じた。
そんなクラリーチェを気遣うように優しくエスコートするラファエロに連れてこられたのは、王宮内の応接室だった。
晒し首を見た後の突然の展開に、クラリーチェは明らかに動揺していた。
「……気分の良いものではありませんでしたよね。大丈夫ですか?」
ラファエロはクラリーチェの青白い顔を見つめながら、侍女に用意させたお茶を勧める。
「ありがとう……ございます……」
何故自分がここに連れてこられたのか、初対面のはずの王弟が何故自分のことを知っているのかという疑問が湧き上がってくるが、それよりもあの側妃の血塗れの顔が脳裏に蘇り、意識が遠のきそうになる。
「兄上は、潔癖で厳しい方なのです。強欲で己の利益しか考えない側妃達を毛嫌いしておりましたが……あの即位宣言の後から、王宮に何とか残ろうとする側妃が兄上を懐柔しようと仕掛けてきたり、毒を盛ろうとしたりと活発に動いておりましてね……。その為の見せしめでしたが、まさか貴女がいらっしゃるとは……」
ラファエロは表情を動かさずにそう話す。
クラリーチェの知らない所で、そんなことが起きていたらしい。確かに側妃達ならそれくらいのことはやりかねないだろう。
でもいくら見せしめとはいえ、あれはやりすぎではないだろうか。
「でも、何故そのようなお話を私になさるのでしょう? それに、王弟殿下は私のことを何故ご存知なのですか……?」
名ばかりの側妃であった自分が、王室の集まりに出席したことはない。
クラリーチェがラファエロのことを知らなかったのと同様、彼がクラリーチェを知るはずがない。
「……ガラディス支援の話は、貴女が考えたものでしょう?」
クラリーチェははっとした。
「宰相は自分の手柄にしてしまいましたが、進言したラビア伯爵が貴女の……ジャクウィント侯爵のご令嬢の発案だと教えてくれましてね。……ですが、それ以前にある人が貴女のことを話してくれたので興味があったのですよ」
ラファエロは、意味深な表情を浮かべた。
「ある人……ですか?」
ガラディスの件は、自分の名を出さぬように口止めしていなかったので仕方がないだろう。それが原因でラファエロに名が知れたなら納得出来る。
しかしラファエロの言う『ある人』とはクラリーチェのことを知っている人物だということになる。いったい、誰のことだろう。
真っ先に頭に浮かんだのは、伯父であるトゥーリ伯爵だった。
権力に対して異常に執着する彼が、後宮にいる自分のことをラファエロに話したというならば不思議はなかった。
「伯父……トゥーリ伯爵から、私のことを?」
「トゥーリ伯爵? ああ、そういえば貴女の母上のご実家なのでしたね」
反応を見る限りは違うようだ。益々謎は深まり、クラリーチェは考えを巡らせる。
一瞬、あの青年のことが頭をよぎったが、彼はこの国の貴族ではないのだから、ラファエロと話をするなどありえないと、その可能性を排除する。
「実家といえば、貴女のご実家……ジャクウィント侯爵家ですが」
思い出したように、ラファエロが話しだした。
彼が『あの人』についてはぐらかす為に話題を変えたことに、クラリーチェは気が付かなかった。
「側妃方の身元の洗い出しをしていた中で発覚したのですが、ジャクウィント侯爵……貴女の父上であるロレンツォ殿が事故で亡くなった後……正式な手続きが終わっていなかった為に爵位は返上されていなかったようなのです。財産は、王家の預かりとなっておりますが、実質は貴女の後見であるトゥーリ伯爵夫妻が貴女の養育費名目で半分ほどを受け取っております。それが、正しく使われていたのかは分かりかねますがね」
ラファエロが滑舌良く説明した内容に、クラリーチェは驚きを隠せなかった。
両親が亡くなった時点で、ジャクウィント家は爵位を取り上げられていると思いこんでいたからだ。
伯父夫婦はそのことを知っていたのだろうか。
それに、クラリーチェの養育費名目で財産の半分を受け取っていたとは、どういうことだろうか。
混乱しながらも、何とか考えをまとめようと懸命に頭を働かせた。
「あの……それは、本当なのですか?」
「私が貴女を欺いて、何の得があるというのです?」
確かに、その通りだ。そして、ラファエロから聞いた話から導かれることは、一つしか有り得なかった。
「クラリーチェ妃……いえ、クラリーチェ・ジャクウィント侯爵令嬢。貴女には、王家の預かりとなっている侯爵位を継ぐ権利があります」
「………!」
告げられた事実に、クラリーチェは瞠目した。
伯母や従姉妹のデボラからはずっと、お前の家はもう爵位がないのだから『元貴族の娘』という肩書の平民を、親戚というだけで引き取って面倒を見てやっているのだと言われ、使用人同然の扱いを受けていた。
それは全て嘘だった、ということになる。
しかし、納得する部分もあった。伯父が、自分に教育を施してくれたのは、クラリーチェがいずれ女侯爵となることを見越していたからなのだろう。
その事実に気が付かなかった己の愚かさへの自嘲と、湧き上がってきた言い表しようのない虚無感に、クラリーチェは何故か泣き出したい気持ちになった。
「あの、申し訳ありません……少し、気持ちの整理がつかなくて……」
クラリーチェは、零れそうになる涙を、ぐっと堪えた。
「それは当然です。第八十六側妃の件もありましたし、加えて今お伝えしたこともあり、混乱されるのは当然ですよ」
ラファエロは、美しいエメラルド色の瞳をすっと細めた。彼の瞳はフィリッポ譲りだと思われるが、フィリッポのそれとは全く違って見えた。顔には、穏やかな笑みが浮かんでいる。
彼の顔を見ていると何故か心がざわつくのは、やはりあの青年に顔立ちが似ているからだろう。
金髪の青年を見るだけでこのように反応する自分が恥ずかしくて、クラリーチェは余計なことを考えまいと必死にラファエロの言葉に耳を傾けた。
「お父上の侯爵位を継がれるのであれば、貴女はジャクウィント女侯爵を名乗り、ジャクウィント侯爵家を再興することになりますが……貴女は、どうしたいですか?」
ラファエロの口調は、まるでクラリーチェを試しているようだった。
クラリーチェは目を伏せて考える。
ずっと、元貴族というだけの平民だと思って生きてきたクラリーチェは、貴族という身分に拘りはない。ただ、自分の先祖が大切に引き継いできたものを投げ出していいのかという気持ちがないわけではなかった。
しかし、爵位を継ぐということは容易なことではない。
領地の経営は勿論のこと、国の運営に関わる議会の議決権も持つことになる。
読書好きで、勤勉なクラリーチェは全く知識がないわけではなかったが、領主としての仕事も、議員としての仕事も、書物から得た知識だけで務まるようなものではないということは、重々承知している。
多くの責任が伴う立場を、安易な気持ちで引き受けるわけにはいかないと思った。
(……きっと、お父様もご先祖様方も、分かってくださるはずだわ)
クラリーチェは、決心したように顔を上げた。
「爵位の件は、謹んで辞退申し上げます」
ラファエロは、ジャクウィント家の爵位と財産は、王家の預かりとなっていると言った。
それであればクラリーチェが爵位を辞退すれば、領民の生活は今までと変わらないだろう。
不慣れな自分が、領地経営に手を出すことで領民の生活を脅かしてはならないとの判断だった。
「……貴女なら、そう仰ると思いました。でもそれは、私に言われても困ります。私は、決定権を持たないしがない王弟ですからね」
クラリーチェは眉を顰めた。
話を振ってきたのはラファエロの方なのに、どうしてそんなことを言ってくるのだろう。
「王弟殿下は、一体私に何をお望みなのですか?」
ラファエロが、何か思惑を隠しながら話をしているような気がして、クラリーチェは思わず尋ねた。
すると、ラファエロのエメラルド色の瞳が鋭く光った気がした。
「クラリーチェ・ジャクウィント侯爵令嬢。兄上が……国王陛下が、貴女との面会を望まれてます」
告げられたその言葉に、クラリーチェはこれ以上ないくらいその瞳を見開いた。
「実は明日の午後、たまたま兄上の予定が空いているのですが、ご都合は如何です? ……ああ、謁見という形ではありますが、あくまでも私的な面会を求めてらっしゃいますので、そのつもりでいてくださいね」
都合を訊いてはくるが、クラリーチェには選択権など与えられてはいない。
おそらくラファエロは、エドアルドの命令を受けてクラリーチェに面会のことを伝えに来たのだろう。
きっかけとなった中庭の惨劇は偶然だったにしても、ジャクウィント家の爵位の件は話を持っていくための餌のようなものだったのかもしれない。
「明日の午後一時に、迎えを寄越しますのでご準備くださいね」
ラファエロは、整った顔に笑顔を浮かべると立ち上がった。
「では、また明日。お待ちしていますよ」
ひらひらと手を振ると、ラファエロは部屋を出ていったのだった。
「ちょっと、あなた」
クラリーチェが王宮から自室に戻ろうとすると、後宮の廊下で誰かに呼び止められた。
そこには、朝中庭で凄惨なあの現場を見て震えていた側妃の中の一人が立っていた。
「何の、御用でしょうか?」
何となく嫌な予感はしたが、無視して通り過ぎるわけにもいかず、立ち止まる。
真っ赤なドレスを着た、黒髪の妖艶な美女だった。
「大人しそうな顔をして、どうやってあの腹黒王弟殿下を誑し込んだのかしら?」
クラリーチェは、黙ったまま答えなかった。静かに、相手の出方を待つ。
「フィリッポ陛下に相手にされなかったからって、王子に手を付けるだなんて。いやらしいわね」
真っ赤な唇が、意地悪く歪んだ。
「……ねえ、誰か他の王子でもいいわ。私に紹介しなさいよ」
「……生憎、私も王弟殿下とは初対面だったのです。それに、殿下と私は貴女が考えているような関係ではございません」
クラリーチェは、怯みそうになる心を叱咤し、自分を奮い立たせるように黒髪の側妃を真っ直ぐに見据えた。自分が貶められることには慣れているから何を言われようと構わないが、自分のせいでラファエロに迷惑が掛かることは絶対に避けなければならない。
「嘘をおっしゃい。自分だけいい思いをしようだなんて、許さないわよ」
どうしてそんな思考になるのか、クラリーチェには理解ができなかった。
嘘をついていると、何故確信が持てるのだろう。
そもそもお互い名前すらも知らないのに、思考回路が読めるほど親密になった覚えはなかった。
「……何か思い違いを、されているのではありませんか?」
クラリーチェが静かに告げると、黒髪の側妃は怒りを露わにした。
「下手に出てやっていればつけあがって、いい度胸ね? 大人しく言うことを聞きなさい!」
パシン、と鋭い音が響いた。
「……っつぅ……」
クラリーチェは右頬に熱さと痛みを感じ、思わず頬に手を当てると、ぬるりとした感触があった。
「あ……」
叩いたはずの黒髪の側妃が狼狽える。
平手打ちでクラリーチェの頬を叩いた拍子に、長く伸ばした彼女の爪がたまたまクラリーチェの頬を傷付け、出血したのだ。
「……とにかく、考えておきなさい! 今日のことは正妃様に報告しますからね」
黒髪の側妃は謝罪の言葉すらも述べずにドレスを翻すと、足早に立ち去っていった。
彼女を怒らせた自分が悪いのだろうか。小さくなる後姿を呆然と見つめながらそんなことを考える。
クラリーチェは頬を手で押さえたまま、ゆっくりと部屋に戻ったのだった。
頬の怪我は、出血こそあったものの大したことはなく、クラリーチェは安堵した。
「ありがとう。余計な仕事を増やしてしまってごめんなさいね」
「とんでもないです! クラリーチェ様は何も悪くないじゃないですか。本当に他の側妃様方はどうしてあのように意地の悪い方ばかりなんでしょう」
「庇ってくれてありがとう。……皆様、気が立っていらっしゃるのでしょう」
傷の手当をしてくれたアンナをやんわりと窘めながらクラリーチェは溜息をついた。
今日は色々なことが起こりすぎて、クラリーチェは疲れ果てていた。
朝の一件で食欲もなく、一刻も早く休みたい。
クラリーチェが窓の外に視線を移すと、すでに日が沈みかけていた。
「アンナ、今日は何だか疲れてしまったわ。夕飯はいりません。先に休みますね」
「……クラリーチェ様……」
「大丈夫よ、明日になればきっと、元気になるわ」
クラリーチェはそう言って、心配そうなアンナを安心させるように微笑んでみせたのだった。
◆◆◆
翌日。
「クラリーチェ様。こちらのドレスはいかがですか? クラリーチェ様の美しい銀色の髪によく映えると思うのですが……」
「そうね。派手ではないし、いいかもしれないわ」
クラリーチェはアンナと二人でエドアルドとの謁見の準備をしていた。
アンナがバリエーションの少ないドレスの中から選んだのは、深い青色の落ち着いたドレスだった。全体的にクラシカルな印象で、控えめで嫋やかな雰囲気のクラリーチェの好みのデザインだ。
湯浴みを済ませると、アンナに着替えを手伝ってもらう。
それから化粧を施してもらうが、やはり昨日の傷はきれいには隠しきれなかった。
「怪我が目立たないように、御髪はそのまま下ろしておいた方が良さそうですね。その方がクラリーチェ様の美しさが際立ちますし」
その途端、クラリーチェの脳裏に昨日の黒髪の側妃に言われた言葉が蘇る。
クラリーチェが着飾れば、厳しいと噂の国王は自分に色目を使っていると思うかもしれない。
「……アンナ。私は陛下に爵位継承の辞退を申し出に行くのですよ? 失礼のない装いにしなければなりませんが、美しく見せる必要はありません」
宝飾品を用意しようとするアンナにきっぱりと告げる。
「でも……」
「正式に爵位継承を辞退すれば、私は正真正銘の『元貴族の平民』になるのですから、豪奢な飾りなど不要でしょう」
渋々頷いたアンナを下がらせ、クラリーチェは鏡に映った自分を見た。
クラリーチェの銀色の髪と淡い紫色の瞳は父親譲りなのだと、亡くなった乳母が話していたのを思い出す。ジャクウィント侯爵家は先祖に北方の国の血が入っているために、時折このような色素の薄い子供が生まれるらしい。
貴族でも、平民でも、自分は自分だ。
ジャクウィント侯爵家はこれで長い歴史に幕を下ろすけれど、その選択は間違いではないと、クラリーチェは自分自身に言い聞かせるのだった。
約束の時間通りに迎えにきた女官に付いて、クラリーチェは後宮の廊下を抜けて王宮へと向かう。
途中、幾人もの側妃から敵意を含んだ視線を向けられたが、敢えて気が付かないふりをして通り過ぎたが、不安はあった。
もしかしたら、昨日の件がディアマンテに知れたのかもしれない。ディアマンテの顔を思い浮かべるだけで、クラリーチェは胃が軋むような痛みを感じた。
(爵位継承の辞退と一緒に、修道院行きを願い出れば認めてくださるかしら……)
あと少し、この環境に耐えればいいと思えば何とかやり過ごせるだろうと考えながら歩いていくと、立派な扉の前に辿り着いた。
「失礼致します。ジャクウィント侯爵令嬢を、お連れしました」
女官が声をかけると、中から扉が開いた。
いよいよ、国王との対面。緊張で震えそうになる体に、自然と力がこもった。
「お待ちしておりました。どうぞ、中へお入りください」
穏やかな物腰でクラリーチェを中に招き入れたのは、ラファエロだった。
「は、はい……」
クラリーチェがラファエロに促されるままに進み出ると、国王・エドアルドがソファから立ち上がるのが見えた。
クラリーチェはその姿を見て、驚きを隠せずに息を呑んだ。
「ジャクウィント侯爵令嬢、急に呼び立ててすまなかった」
そこにいたのは、輝かんばかりの金髪と水色の瞳をした美貌の持ち主……あの夜の青年に違いなかったからだ。
(……嘘。まさかあのお方が、国王陛下だったなんて……そんなはずは……)
理解が追いつかずに混乱する。衝撃が大きすぎて、呼吸すらも忘れてしまいそうだった。
「ようやく会えたな、月の妖精」
エドアルドはそう囁いて、笑った。
国王が、あの時の青年。
その事実に、動揺したクラリーチェは、何と答えたらいいのか分からず、立ち尽くす。
あんなにも再会を願ってやまなかった相手が目の前にいる。そのこと自体が信じられなかった。
もしかしたら夢を見ているのだろうかと、何度も目を瞬いた。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。兄上は確かに厳しいところもある人ですが、貴女には絶対に危害は加えませんから」
固まったまま微動だにしないクラリーチェにラファエロが声を掛け、ソファに座らせる。その正面にはエドアルドが腰を下ろし、その横にラファエロが座った。
「……あの夜、城に戻ってすぐにジャクウィント侯爵家のことを調べさせた」
徐に、エドアルドが口を開いた。
「トゥーリ伯爵は、そなたが成人したら侯爵位を継承させる目的でわざと正式に爵位を返上せずに、王家預かりのままにしていたようだな。気が付かなかった王家にも責任はあるが……。トゥーリ伯爵は小物の癖に小賢しい真似ばかりする。そなたを父の側妃として王宮に上げたのも、あの男の仕業だな? ……社交界ではそなたが自ら望んだという話になっているが、そなたはそのような女ではない。違うか?」
水色の美しい瞳がクラリーチェを射抜く。
クラリーチェはそれだけで、息が苦しくなるほどに胸が高鳴るのを感じ、恥ずかしくて目を伏せた。
「その噂は……伯母が流したのだと思います……」
「その伯母に、虐待されて食事を抜かれていたのだろう? トゥーリ伯爵は? それを見て見ぬふりをしていたのか?」
「……伯父は、私のことには無関心でしたので……」
そこまで話して、クラリーチェははっとする。
あの夜は、相手が王太子だなどと思いもしなかった為に素直に全てを打ち明けてしまったが、本来一貴族の、それも家庭内の醜聞など聞かせるような相手ではない。
「あ、あの陛下……」
クラリーチェが話を切り替え、本題に入ろうとすると、エドアルドの眉がピクリと動いた。
「陛下などと呼ぶな。私のことはエドアルド、と呼べ」
強い口調での命令に、クラリーチェは狼狽える。これ以上逆らえば、あの側妃のように処刑されてしまうのだろうか。
「……ですが……」
「そなたは私の妻となるのだ。名前以外で呼ぶことは、許さぬ」
突如として告げられた言葉に、クラリーチェは言葉を失った。
沈黙が、空間を支配する。
エドアルドは押し黙ったままで、ラファエロは静かに微笑んでいる。
そしてクラリーチェは、真っ白になった頭の中で必死に考えを巡らせていた。
昨日からの疲れで、幻聴が聞こえるようになったのだろうか。それとも、食事を取らなかったことで、体に異変が起きたのだろうか。
考えれば考えるほどに、混乱は大きくなる。
「兄上。そのような言い方はご令嬢に対して失礼ですよ。いくら長年、女性を嫌って令嬢との関わりを避けてきたとはいえ、それでは一国の王として未熟だと言われても致し方ありません」
張り詰めた沈黙を破ったのは、ラファエロだった。
「……お前は、黙っていろ」
エドアルドはラファエロを軽く睨むと、部屋を出るように手で合図を送った。
「まだ婚約も交わしていない男女を、二人きりに出来るとでもお思いですか?」
呆れたようにラファエロが溜息をついた。
ラファエロの口ぶりから、やはり先程の言葉が聞き間違いでないことをクラリーチェは悟る。
どう反応するのが、正解だろうか。
「あの……仰られた意味が分からないのですが……」
ラファエロも言っていたが、そもそもエドアルドは他国の姫君を追い返し、国を戦争の危機に直面させるほどの女性嫌いで有名な人物のはずだ。
それが何故いきなりクラリーチェを妻にするなどと言い出したのか、まったくもって見当がつかない。
「私は、そなたを妃にすると言ったのだ」
今度ははっきりと、告げられた。意識が遠のきそうになるのを何とか堪えようと、ぐっと体に力を入れた。
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