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1巻
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自室に戻ったクラリーチェは、手にした本をパラパラと捲るが、先程図書館で聞いた王太子の話が気になって集中できず、溜息をついて本を閉じた。
キエザ王国王太子エドアルド・レアーレ・キエザ。
フィリッポ国王と、隣国の王女であったリオネッラ前正妃との間に生まれた長子で、学問・剣術共に右に出る者はいないといわれる優秀な王子。
自室と図書館を行き来するだけで公の場に顔を出さないクラリーチェは王太子を見かけたことはなかったが、女官達が噂しているのを耳にしたことは何度もあった。
何でも、絶世の美女と名高かった亡き母親によく似た顔立ちで、一度見たら忘れられないような美貌の持ち主なのだそうだ。
その反面、非常に冷厳かつ潔癖な性格で、媚を売るような人間は寄せ付けないらしい。ついでに言えば、極度の女嫌いで、舞踏会に出席してもダンスは全て断るのだそうだ。
(あの国王陛下のご子息なのに、そんなにも違うものなのかしら……)
フィリッポ国王は肥満で年老いているせいもあるが、お世辞にも「素敵」などとは言えなかった。
それほど噂になる王太子とはどのような人物だろうとクラリーチェは興味があった。
そういえば、月夜に出会った青年も、一度見たら忘れられないような美青年だったことを思い出す。
「クラリーチェ様? 何か面白いことでもありましたか?」
いつの間にか笑みを浮かべていたらしいクラリーチェに、お茶を差し出しながらアンナが声を掛ける。
「王太子殿下が、婚約者候補として訪れたガラディスの王女殿下を追い出したという話を図書館で聞いたものだから、色々考えていただけなの」
「それ、私も聞きました。場合によっては戦争になるかもって話ですよね?」
侍女達の間でも既に話題になっていることに、クラリーチェは些か驚いた。女は噂が好きだというが、これほどまでだとは思いもしなかった。
改めて、自分が世間知らずであることを思い知り、クラリーチェは何だか恥ずかしくなった。
「ええ。少し心配だけれど、きっと宰相様方が何とかしてくださるわ」
「だといいんですけど。近頃は国王陛下の体調も思わしくないらしいって、他の侍女が話しているのを聞いたことがあります」
王宮に初めて上がったあの日以来、顔すら合わせていない夫。後宮内で他の妃達とも交流のないクラリーチェは、国王の体調が悪いということ自体が初耳だった。
「教えてくれて、ありがとう。私に仕えているせいで、貴女も肩身が狭いわよね。……ごめんなさい」
フィリッポ国王の側妃は、今や百二十人に膨れ上がっていた。
それだけの側妃がいれば、興味を持たれなかったクラリーチェなどいないも同然だ。国王はおろか他の側妃達も気にもとめない。
いてもいなくても同じ、お飾りにすらならない名ばかり側妃のクラリーチェは、王室の集まりや舞踏会などにも呼ばれることはなく、ただひっそりとこの王宮の片隅で生きているだけだった。
クラリーチェは全てを諦めていたが、そんな自分に仕えるアンナが、仲間達から爪弾きにされていることだけが気がかりだった。
「私は大丈夫です! むしろクラリーチェ様にお仕え出来て良かったですよ? ほかの側妃様達は気位が高くて、すぐに怒って、ワガママで大変みたいですし……。クラリーチェ様は穏やかで、お優しいですもの」
そう言ってアンナは笑った。アンナの明るいその笑顔だけで、クラリーチェは救われる気がする。
クラリーチェは、嬉しくてふわりとほほ笑んだ。
「でも、陛下の身に万が一のことが起きたとしたら……私達はどうなってしまうのでしょうか?」
「……アンナ。滅多なことは口に出すものではないわ」
そう言ってアンナを窘めるが、それはクラリーチェ自身も不安に感じていた。
正妃や他の側妃に莫迦にされ、冷遇される今の状況が恵まれているとは言えないが、それでもトゥーリ伯爵家に戻るという選択肢はクラリーチェには残されていなかった。
他に行くあてなどないのだから、もし後宮を追い出されるとしたら、修道院に身を寄せるしかないだろう。
幸か不幸か、クラリーチェは清い身のままで、神に仕えるには好都合だ。
ただ願うのは、不幸なような、幸福なような、どっちつかずの日々が穏やかに続くことと、あの日に出会った青年に、もう一度だけ会いたいということだけだ。
クラリーチェは、漠然とした未来から目を背けるように、また手元の本に意識を戻すのだった。
◆◆◆
それからしばらくして、クラリーチェはキエザがガラディスの旱魃被害に対して援助することが決まったという話を、レッジ子爵から聞いた。
「ガラディス国王が愛娘を差し出そうとしたのも、援助を受けることが目的だったようです。婚約の話を辞退する代わりに、無償での援助を申し出たところ、王女の件については何も咎められなかったそうです。これも全てクラリーチェ様のお陰ですな」
「私はただ知っていたことを伝えただけで、何もしていないですわ」
クラリーチェは困ったように微笑んだ。
別に手柄を立てたかったのではなく、戦を回避したかっただけだった。
王女一人の婚約で戦になるとは考えにくいが、ガラディスは温暖で天候も安定したキエザとは異なり、気温が高く度々旱魃に見舞われている。ふとしたきっかけで戦を仕掛けてくるおそれは充分にあり得た。
戦は国を疲弊させ、悲しみと憎しみしか生まないことを、クラリーチェは史実から学んでいた。
だからこそ、平和的解決の方法を提案しただけだ。それで救われる人がいれば、満足だった。
「……クラリーチェ様は本当に謙虚でいらっしゃる。それだけの知識があれば、側妃などにならず、もっとご活躍できたでしょうに……」
レッジ子爵と一緒にいたラビア伯爵がぼそっと呟いたが、言葉が過ぎたことに気づき、口を噤んだ。
「失礼致しました。……御無礼を、お許し下さい」
「無礼だなんて、そんな……気にしていないわ」
気まずそうにそそくさと立ち去っていくラビア伯爵を少し寂しそうに見送ると、クラリーチェは本棚に目を移した。
その時、偶然『貴族名鑑』の文字が飛び込んできた。国中の貴族の系譜が、肖像画付きで載った名簿のようなものだ。
貴族といえば、あの日の夜に出会った青年は、どこの家の子息だったのだろうという興味が湧き上がってくるのを強く感じた。
あの日から既に一年ほどの月日が経っていたが、今でもクラリーチェはあの夜のことを夢に見る。
もしかしたら、天国にいる両親が見せてくれた幻だったかもしれないと思うくらい、非現実的なあのひとときを思い出すと、胸がざわついた。
クラリーチェはゆっくりと、貴族名鑑に手を伸ばすと、祈るような気持ちでページを捲っていく。
「身なりやあの言動を考えれば、高位貴族の子息に間違いないと思うのだけれど……」
しかしどんなに探しても、あの青年は見つからなかった。
月光のせいで、髪か瞳の色を見間違えたのだろうか。見落としたかもしれないと、何度もページを捲り直すが、どう探しても見当たらず、クラリーチェは肩を落とした。
彼の言動から貴族と判断したが、もしかしたら他国の人間か、もしくは裕福な商人だったのかもしれない。
そうだとしたら、彼の手掛かりを掴むことはほぼ不可能だろう。
少しでも彼の手掛かりが掴めれば、近づけるような気がしたが、その淡い期待が無残にも打ち砕かれたかのような気持ちになる。
彼は、あの草原で待っていると言った。出来ることならば、今すぐにでも行きたかった。
しかし、名ばかりとはいえ側妃になってしまったクラリーチェが王宮を抜け出すことは出来ない。
なぜなら外出の際には、国王と正妃、そして女官長と護衛長の許可を得る必要があるからだ。
自分のことを覚えていないであろう国王と、会ったこともない護衛長はともかくとして、正妃はあのお茶会の日以来、クラリーチェの一挙一動全てを否定するし、女官長もそれに追随しているため、許可が下りるとは考えられない。
万が一、許可が下りたとしても、護衛を連れていかなければならない。
夜に王都の外れの草原に、しかも身内でもない男性に会いに行くなど知られたら、どんな目に遭うのか分からない。
結局、あの青年とはあの一度きりの縁だったということだと思うほかはなかった。
そう自分で納得しようとするのに、こんなにも胸が締め付けられるのは何故なのだろう。クラリーチェは切なげに溜息を零した。
(思い出だけで、充分幸せよ)
クラリーチェはもう一度彼に会いたいという気持ちを振り切るように、本を閉じたのだった。
◆◆◆
フィリッポ国王の崩御の知らせを受けたクラリーチェは大急ぎで支度を整えると、謁見の間へと向かった。
既に大半の側妃達が集まっているようで、クラリーチェはその最後尾に隠れるようにして立つ。
肉付きの良い、むっちりとした胸を強調した、露出の高いデザインの派手な色のドレスを身に着けた側妃達がひしめき合う中、喪に服す者が纏う薄い紫色の、シンプルで飾り気のないクラシカルなドレスに身を包んだクラリーチェは、明らかに浮いて見えた。身の置き場がないようで、クラリーチェは居心地が悪かった。
「あら、みすぼらしい小娘がいると思えば、第九十四側妃ではありませんこと?」
隣に居合わせた、クラリーチェよりも十歳ほど年上に見える側妃が莫迦にしたようにせせら笑った。
「……御機嫌よう」
クラリーチェは目を伏せると、彼女の機嫌を損ねないようにと静かに挨拶をした。その態度が気に入らなかったのか、側妃はあからさまにそっぽを向いた。
クラリーチェは彼女に気づかれないように溜息をつく。
明確な悪意には慣れているはずなのに気が沈むのは、少なからず動揺しているのかもしれない。
だがそれ以上に、謁見の間は数多の妃達のむせ返るような化粧や香水の匂いが充満していて、気分が悪くなりそうだった。
「エドアルド殿下が入場されます。皆様方、ご静粛に」
小太りの宰相が高らかに宣言すると、広い謁見の間も水を打ったように静まり返る。
クラリーチェはほかの側妃に倣い頭を垂れた。
玉座と、クラリーチェが立つ場所はかなり距離があるため、靴音や気配は感じられないが、しばらくしてよく響く、低くて艷やかな声が耳に届いた。
「側妃方、お集まり頂き感謝する。既に知らせた通り、我が父フィリッポ・レアーレ・キエザが薨去した」
エドアルドは今年で二十六歳になるはずだが、声にはその年齢以上の気迫があった。
でもその一方で、自分の父親が亡くなったというのに、どこか冷めたような、他人行儀な言い方だと、クラリーチェは思った。
彼にとって、父親とはどのような存在だったのだろう。
肉親の情というものはクラリーチェにはあまり分からなかったが、彼もまた、父親に対してそのような気持ちは抱いていなかったのかもしれない。
エドアルドの声を聞いているとそんな風に思えた。
「よって、これより私エドアルド・レアーレ・キエザが王位に就く。それに伴い、伝えることがあってお集まり頂いた。父の葬儀は三日後、サントクルーチェ大聖堂にて執り行う。……以降、父の作った後宮は解体することとする。近日中に、子のない妃から順次王宮を出て頂く」
途端にざわり、とどよめきが上がり、クラリーチェも目を見開いた。
後宮の、解体。予想はしていたが、実際、しかも唐突にそれが決まると、言い知れない不安が襲ってきた。
「既に成人し、王宮を出た王子・王女の生母である側妃もそれに準ずる。未成年の子がある側妃は、屋敷を用意するゆえ、準備が整い次第そちらへ移って頂く」
つまりエドアルドは、自分以外の王族を王宮から追い出すと言っているようなものだった。
腹違いとはいえ、兄弟姉妹とその生母を切り捨てるような決定に、どの側妃も強い困惑と不満の入り混じった表情を浮かべている。
それでも、冷厳とされるエドアルドに正面から異を唱える者はさすがにいなかった。
「詳細については後日追って知らせる。それまで各々身の振り方をお考え頂きたい」
有無を言わせない強い口調でそう告げた後、エドアルドは立ち去ったようだった。
「そんなの、聞いていないわ!」
誰かが金切り声でそう叫んだ。それに呼応するように、あちこちで妃達が騒ぎ始め、謁見の間はたちまち混乱に陥った。
怒り出す者、暴れる者、泣き出す者……。その様は集団ヒステリーそのものだった。
彼女らは夫であるフィリッポが亡くなったというのに、その死を悼むものは誰一人としてなく、王宮での贅沢な暮らしが絶たれることに絶望しているのだった。
彼女達を哀れに思いながらも、あまりの光景に恐れを感じたクラリーチェは、逃げるようにして謁見の間を抜け出した。
◆◆◆
王宮の横に聳え立つ、荘厳なサントクルーチェ大聖堂。
崩御から三日後、よく晴れた日の午後に前キエザ国王フィリッポ・レアーレ・キエザの葬儀は恙なく行われた。
フィリッポ前国王は、第四十一側妃との情事の最中に倒れたという。いわゆる腹上死だった。
少し前に体調が思わしくないと聞いていたが、まさかこんなに早く亡くなるとは誰も想像していなかったに違いないとクラリーチェは思った。
黒いヴェール越しに棺の方に目を向けると、新国王エドアルドが司祭から祈りの言葉を受けているのが見えた。
跪いているが、それでもかなりの長身であることが窺える。
ステンドグラスから差し込む光が彼の豊かな金髪を照らしているのを眺めながら、クラリーチェはこれから始まるであろう修道院での生活に思いを馳せていた。
希望を聞いてもらえるのならば、王都から遠く離れた僻地の修道院に入りたいと考えていた。
そうすればあの月夜の青年に再び会えるかもしれないという淡い期待をこれ以上抱かなくて済むかもしれない。それでも、一目だけでも会いたい。相反する気持ちが犇めき合い、クラリーチェは胸が苦しくなるのを感じた。
(こんな邪な気持ちを抱えて神に仕えたら、きっと天罰が下るわね)
クラリーチェは自嘲すると、祈りを捧げるふりをして、目を伏せた。
ちょうどその瞬間、エドアルドがクラリーチェの方を見たことに、彼女は気が付かなかった。
葬儀の後、エドアルドの他、正妃や位の高い側妃が棺に付き添い、王家の墓地へと向かった。
他の側妃達は、無駄話をしながら王宮へと戻っていった。
「お聞きになりました? 国王陛下の即位式は行わないのですって。しかも喪に服している間は、王室主催の行事は一切なしと陛下がお決めになったそうよ。信じられないですわ」
「ではドレスや宝飾品を新調する理由がなくなってしまうじゃないの」
「あんなに見目麗しく素敵な方なのに、血も涙もないのね。私達の楽しみを奪うだなんて失望しましたわ」
己の夫の葬儀の日だというのにそのようなことを平然と口に出来るだなんて、この妃達は何を考えて生きているのだろう。クラリーチェはそんな会話を聞きながらそう思った。
フィリッポ前国王の側妃となった背景や事情は人それぞれだろう。
神の御前で夫婦の誓いを立てたわけではないが、実質夫婦として身を重ねたのだから、少なくとも今はフィリッポの死を悼むべきではないのだろうか。
しかし、クラリーチェが見る限り、そのような側妃は一人もいなかった。
そう思うと、フィリッポも悲しい男だったのかもしれない。
いくら好色で、決して良い夫と言えるような人物でなかったとはいえ、百二十人もの側妃がいるにも関わらず、誰一人として彼の死を嘆くものはいなかったのだから。
「人生なんて、分からないものね……」
齢十六の少女のものとは思えないような言葉が、クラリーチェの口から零れ落ちた。
数多の女性に囲まれながら、愛を得られなかった好色王。
誰にも必要とされず、愛を知らずに育った名ばかり側妃。
会話を交わしたことすらもない、夫婦とはいえない関係だったが、もしかしたら同じような孤独を抱えていたのかもしれないと思うと、クラリーチェは胸が痛んだ。
憐れみとも、同情ともつかない悲しみに似た何かが、心に広がっていく。
(フィリッポ前国王の魂が、どうか無事、神の御元に導かれますように……)
クラリーチェは静かにそう祈るのだった。
第二章
キエザ王国の後宮は、王家が子宝に恵まれない家系故に作られた制度だった。
だが歴史を経ていくうちに王家に連なる者は徐々に増え、近頃はその存在意義もなく、ここ数代の国王は正妃のみしか娶らなかったのだそうだ。
その時代錯誤な制度を復活させたのは、好色王フィリッポだった。自分好みの女の園を作りたいという身勝手な欲望を、国王という地位を利用して満たしたのだ。
しかし側妃、と一口に言っても、百二十人もいれば出自も年齢も様々だ。
身分は公爵令嬢だった者から平民の娼婦まで、年齢は五十歳過ぎの老女から、十六歳の少女まで、国内外から集められた女がただ一人の王に仕えていた。
しかし、その維持管理費は莫大な金額に膨れ上がり、国庫を圧迫しているに違いないとクラリーチェは考えていた。
(後宮解体の一番の目的は、その支出の削減、よね)
ドレスに宝飾品、調度品に愛玩動物……。正妃は勿論のこと、他の側妃達も贅の限りを尽くした生活を送っていたのは知っている。
しかしその金は、元はといえば国民が、必死に働いて納めた税であるということを彼女達は考えているのだろうかとクラリーチェは思った。
かつてはそれを納める側だった者もいるはずなのに、甘美な世界を知ってしまうと、そんなことは忘れてしまうのだろうか。
そう思うと何だか悲しくなってきて、クラリーチェは後宮の一番隅にある小さな自室の天井を見上げた。
するとその時、遠くで、悲鳴が聞こえた。
「……今のは、何かしら?」
クラリーチェは怪訝そうに眉を顰めた。
「女性の悲鳴のように聞こえましたが……」
アンナも心当たりはないようで、不安そうな表情を浮かべている。
「そうね。明日になれば何があったのか、分かるでしょう。もう遅いわ。休みましょう」
クラリーチェが窓から外を見ると、既に夜は更け、赤味を帯びた満月が不気味に浮かび上がっていた。
翌朝になり、外が騒がしいことに気が付いたクラリーチェは不思議に思い、そっとテラスから中庭へと出た。
中庭は妃達の社交場だ。そのため、あのお茶会以降クラリーチェは中庭には出ないようにしていた。他の側妃達はクラリーチェを嫌っている。わざわざ不快な思いをさせる必要はないだろうと思っていたからだ。
彼女達の目に入らぬようにひっそりと、緊張しながらもゆっくり歩みを進めると、中庭の中心に数人の側妃と女官や侍女が集まっていた。皆一様に青い顔をしているのが見える。
「………っ!」
その場に近づいた途端、クラリーチェは息を呑んだ。
辺りには、咲き乱れる花の匂いよりも強く、鉄の臭いが漂っていた。
そして、ガーデンテーブルには見覚えのある側妃の首が、血まみれのまま晒されていたのだ。
あまりの衝撃的な光景に、クラリーチェは血の気が引いていくのを感じた。
恐怖と嫌悪感が大きな波となり、クラリーチェを呑み込んでいく。
朝から見るような代物ではなかった。
胃の中身は空っぽのはずなのに、吐気がこみ上げてきたが無理やりそれを抑え込むと顔を背けた。
「誰が、こんなことを……?」
昨日の悲鳴は、彼女のものだったのだろうか。
もう言葉を紡がなくなった唇の代わりに、切り口から滴る血が、ぽたりぽたりと音を立て、クラリーチェは思わず耳を塞ぎたくなった。どうしたらこんなにも惨いことが出来るのだろう。
「この第八十六側妃は、こともあろうにエドアルド陛下の寝所に忍び込み、寵愛を受けようとしたのですよ。陛下は大層お怒りになり、見せしめに首を刎ね、こちらに晒されたのです」
クラリーチェの独り言のような問いかけに答えてきた人物がいた。クラリーチェは驚いて声の主を見る。
声の主は、この場にはそぐわないような、美しい顔立ちと金髪とエメラルド色の瞳が印象的な青年だった。
どこか、あの日の青年を髣髴とさせる彼の容姿に、クラリーチェは胸が強く脈打つのを感じる。
こんな時に不謹慎だと思いながらも、それを止めることは出来なかった。
キエザ王国王太子エドアルド・レアーレ・キエザ。
フィリッポ国王と、隣国の王女であったリオネッラ前正妃との間に生まれた長子で、学問・剣術共に右に出る者はいないといわれる優秀な王子。
自室と図書館を行き来するだけで公の場に顔を出さないクラリーチェは王太子を見かけたことはなかったが、女官達が噂しているのを耳にしたことは何度もあった。
何でも、絶世の美女と名高かった亡き母親によく似た顔立ちで、一度見たら忘れられないような美貌の持ち主なのだそうだ。
その反面、非常に冷厳かつ潔癖な性格で、媚を売るような人間は寄せ付けないらしい。ついでに言えば、極度の女嫌いで、舞踏会に出席してもダンスは全て断るのだそうだ。
(あの国王陛下のご子息なのに、そんなにも違うものなのかしら……)
フィリッポ国王は肥満で年老いているせいもあるが、お世辞にも「素敵」などとは言えなかった。
それほど噂になる王太子とはどのような人物だろうとクラリーチェは興味があった。
そういえば、月夜に出会った青年も、一度見たら忘れられないような美青年だったことを思い出す。
「クラリーチェ様? 何か面白いことでもありましたか?」
いつの間にか笑みを浮かべていたらしいクラリーチェに、お茶を差し出しながらアンナが声を掛ける。
「王太子殿下が、婚約者候補として訪れたガラディスの王女殿下を追い出したという話を図書館で聞いたものだから、色々考えていただけなの」
「それ、私も聞きました。場合によっては戦争になるかもって話ですよね?」
侍女達の間でも既に話題になっていることに、クラリーチェは些か驚いた。女は噂が好きだというが、これほどまでだとは思いもしなかった。
改めて、自分が世間知らずであることを思い知り、クラリーチェは何だか恥ずかしくなった。
「ええ。少し心配だけれど、きっと宰相様方が何とかしてくださるわ」
「だといいんですけど。近頃は国王陛下の体調も思わしくないらしいって、他の侍女が話しているのを聞いたことがあります」
王宮に初めて上がったあの日以来、顔すら合わせていない夫。後宮内で他の妃達とも交流のないクラリーチェは、国王の体調が悪いということ自体が初耳だった。
「教えてくれて、ありがとう。私に仕えているせいで、貴女も肩身が狭いわよね。……ごめんなさい」
フィリッポ国王の側妃は、今や百二十人に膨れ上がっていた。
それだけの側妃がいれば、興味を持たれなかったクラリーチェなどいないも同然だ。国王はおろか他の側妃達も気にもとめない。
いてもいなくても同じ、お飾りにすらならない名ばかり側妃のクラリーチェは、王室の集まりや舞踏会などにも呼ばれることはなく、ただひっそりとこの王宮の片隅で生きているだけだった。
クラリーチェは全てを諦めていたが、そんな自分に仕えるアンナが、仲間達から爪弾きにされていることだけが気がかりだった。
「私は大丈夫です! むしろクラリーチェ様にお仕え出来て良かったですよ? ほかの側妃様達は気位が高くて、すぐに怒って、ワガママで大変みたいですし……。クラリーチェ様は穏やかで、お優しいですもの」
そう言ってアンナは笑った。アンナの明るいその笑顔だけで、クラリーチェは救われる気がする。
クラリーチェは、嬉しくてふわりとほほ笑んだ。
「でも、陛下の身に万が一のことが起きたとしたら……私達はどうなってしまうのでしょうか?」
「……アンナ。滅多なことは口に出すものではないわ」
そう言ってアンナを窘めるが、それはクラリーチェ自身も不安に感じていた。
正妃や他の側妃に莫迦にされ、冷遇される今の状況が恵まれているとは言えないが、それでもトゥーリ伯爵家に戻るという選択肢はクラリーチェには残されていなかった。
他に行くあてなどないのだから、もし後宮を追い出されるとしたら、修道院に身を寄せるしかないだろう。
幸か不幸か、クラリーチェは清い身のままで、神に仕えるには好都合だ。
ただ願うのは、不幸なような、幸福なような、どっちつかずの日々が穏やかに続くことと、あの日に出会った青年に、もう一度だけ会いたいということだけだ。
クラリーチェは、漠然とした未来から目を背けるように、また手元の本に意識を戻すのだった。
◆◆◆
それからしばらくして、クラリーチェはキエザがガラディスの旱魃被害に対して援助することが決まったという話を、レッジ子爵から聞いた。
「ガラディス国王が愛娘を差し出そうとしたのも、援助を受けることが目的だったようです。婚約の話を辞退する代わりに、無償での援助を申し出たところ、王女の件については何も咎められなかったそうです。これも全てクラリーチェ様のお陰ですな」
「私はただ知っていたことを伝えただけで、何もしていないですわ」
クラリーチェは困ったように微笑んだ。
別に手柄を立てたかったのではなく、戦を回避したかっただけだった。
王女一人の婚約で戦になるとは考えにくいが、ガラディスは温暖で天候も安定したキエザとは異なり、気温が高く度々旱魃に見舞われている。ふとしたきっかけで戦を仕掛けてくるおそれは充分にあり得た。
戦は国を疲弊させ、悲しみと憎しみしか生まないことを、クラリーチェは史実から学んでいた。
だからこそ、平和的解決の方法を提案しただけだ。それで救われる人がいれば、満足だった。
「……クラリーチェ様は本当に謙虚でいらっしゃる。それだけの知識があれば、側妃などにならず、もっとご活躍できたでしょうに……」
レッジ子爵と一緒にいたラビア伯爵がぼそっと呟いたが、言葉が過ぎたことに気づき、口を噤んだ。
「失礼致しました。……御無礼を、お許し下さい」
「無礼だなんて、そんな……気にしていないわ」
気まずそうにそそくさと立ち去っていくラビア伯爵を少し寂しそうに見送ると、クラリーチェは本棚に目を移した。
その時、偶然『貴族名鑑』の文字が飛び込んできた。国中の貴族の系譜が、肖像画付きで載った名簿のようなものだ。
貴族といえば、あの日の夜に出会った青年は、どこの家の子息だったのだろうという興味が湧き上がってくるのを強く感じた。
あの日から既に一年ほどの月日が経っていたが、今でもクラリーチェはあの夜のことを夢に見る。
もしかしたら、天国にいる両親が見せてくれた幻だったかもしれないと思うくらい、非現実的なあのひとときを思い出すと、胸がざわついた。
クラリーチェはゆっくりと、貴族名鑑に手を伸ばすと、祈るような気持ちでページを捲っていく。
「身なりやあの言動を考えれば、高位貴族の子息に間違いないと思うのだけれど……」
しかしどんなに探しても、あの青年は見つからなかった。
月光のせいで、髪か瞳の色を見間違えたのだろうか。見落としたかもしれないと、何度もページを捲り直すが、どう探しても見当たらず、クラリーチェは肩を落とした。
彼の言動から貴族と判断したが、もしかしたら他国の人間か、もしくは裕福な商人だったのかもしれない。
そうだとしたら、彼の手掛かりを掴むことはほぼ不可能だろう。
少しでも彼の手掛かりが掴めれば、近づけるような気がしたが、その淡い期待が無残にも打ち砕かれたかのような気持ちになる。
彼は、あの草原で待っていると言った。出来ることならば、今すぐにでも行きたかった。
しかし、名ばかりとはいえ側妃になってしまったクラリーチェが王宮を抜け出すことは出来ない。
なぜなら外出の際には、国王と正妃、そして女官長と護衛長の許可を得る必要があるからだ。
自分のことを覚えていないであろう国王と、会ったこともない護衛長はともかくとして、正妃はあのお茶会の日以来、クラリーチェの一挙一動全てを否定するし、女官長もそれに追随しているため、許可が下りるとは考えられない。
万が一、許可が下りたとしても、護衛を連れていかなければならない。
夜に王都の外れの草原に、しかも身内でもない男性に会いに行くなど知られたら、どんな目に遭うのか分からない。
結局、あの青年とはあの一度きりの縁だったということだと思うほかはなかった。
そう自分で納得しようとするのに、こんなにも胸が締め付けられるのは何故なのだろう。クラリーチェは切なげに溜息を零した。
(思い出だけで、充分幸せよ)
クラリーチェはもう一度彼に会いたいという気持ちを振り切るように、本を閉じたのだった。
◆◆◆
フィリッポ国王の崩御の知らせを受けたクラリーチェは大急ぎで支度を整えると、謁見の間へと向かった。
既に大半の側妃達が集まっているようで、クラリーチェはその最後尾に隠れるようにして立つ。
肉付きの良い、むっちりとした胸を強調した、露出の高いデザインの派手な色のドレスを身に着けた側妃達がひしめき合う中、喪に服す者が纏う薄い紫色の、シンプルで飾り気のないクラシカルなドレスに身を包んだクラリーチェは、明らかに浮いて見えた。身の置き場がないようで、クラリーチェは居心地が悪かった。
「あら、みすぼらしい小娘がいると思えば、第九十四側妃ではありませんこと?」
隣に居合わせた、クラリーチェよりも十歳ほど年上に見える側妃が莫迦にしたようにせせら笑った。
「……御機嫌よう」
クラリーチェは目を伏せると、彼女の機嫌を損ねないようにと静かに挨拶をした。その態度が気に入らなかったのか、側妃はあからさまにそっぽを向いた。
クラリーチェは彼女に気づかれないように溜息をつく。
明確な悪意には慣れているはずなのに気が沈むのは、少なからず動揺しているのかもしれない。
だがそれ以上に、謁見の間は数多の妃達のむせ返るような化粧や香水の匂いが充満していて、気分が悪くなりそうだった。
「エドアルド殿下が入場されます。皆様方、ご静粛に」
小太りの宰相が高らかに宣言すると、広い謁見の間も水を打ったように静まり返る。
クラリーチェはほかの側妃に倣い頭を垂れた。
玉座と、クラリーチェが立つ場所はかなり距離があるため、靴音や気配は感じられないが、しばらくしてよく響く、低くて艷やかな声が耳に届いた。
「側妃方、お集まり頂き感謝する。既に知らせた通り、我が父フィリッポ・レアーレ・キエザが薨去した」
エドアルドは今年で二十六歳になるはずだが、声にはその年齢以上の気迫があった。
でもその一方で、自分の父親が亡くなったというのに、どこか冷めたような、他人行儀な言い方だと、クラリーチェは思った。
彼にとって、父親とはどのような存在だったのだろう。
肉親の情というものはクラリーチェにはあまり分からなかったが、彼もまた、父親に対してそのような気持ちは抱いていなかったのかもしれない。
エドアルドの声を聞いているとそんな風に思えた。
「よって、これより私エドアルド・レアーレ・キエザが王位に就く。それに伴い、伝えることがあってお集まり頂いた。父の葬儀は三日後、サントクルーチェ大聖堂にて執り行う。……以降、父の作った後宮は解体することとする。近日中に、子のない妃から順次王宮を出て頂く」
途端にざわり、とどよめきが上がり、クラリーチェも目を見開いた。
後宮の、解体。予想はしていたが、実際、しかも唐突にそれが決まると、言い知れない不安が襲ってきた。
「既に成人し、王宮を出た王子・王女の生母である側妃もそれに準ずる。未成年の子がある側妃は、屋敷を用意するゆえ、準備が整い次第そちらへ移って頂く」
つまりエドアルドは、自分以外の王族を王宮から追い出すと言っているようなものだった。
腹違いとはいえ、兄弟姉妹とその生母を切り捨てるような決定に、どの側妃も強い困惑と不満の入り混じった表情を浮かべている。
それでも、冷厳とされるエドアルドに正面から異を唱える者はさすがにいなかった。
「詳細については後日追って知らせる。それまで各々身の振り方をお考え頂きたい」
有無を言わせない強い口調でそう告げた後、エドアルドは立ち去ったようだった。
「そんなの、聞いていないわ!」
誰かが金切り声でそう叫んだ。それに呼応するように、あちこちで妃達が騒ぎ始め、謁見の間はたちまち混乱に陥った。
怒り出す者、暴れる者、泣き出す者……。その様は集団ヒステリーそのものだった。
彼女らは夫であるフィリッポが亡くなったというのに、その死を悼むものは誰一人としてなく、王宮での贅沢な暮らしが絶たれることに絶望しているのだった。
彼女達を哀れに思いながらも、あまりの光景に恐れを感じたクラリーチェは、逃げるようにして謁見の間を抜け出した。
◆◆◆
王宮の横に聳え立つ、荘厳なサントクルーチェ大聖堂。
崩御から三日後、よく晴れた日の午後に前キエザ国王フィリッポ・レアーレ・キエザの葬儀は恙なく行われた。
フィリッポ前国王は、第四十一側妃との情事の最中に倒れたという。いわゆる腹上死だった。
少し前に体調が思わしくないと聞いていたが、まさかこんなに早く亡くなるとは誰も想像していなかったに違いないとクラリーチェは思った。
黒いヴェール越しに棺の方に目を向けると、新国王エドアルドが司祭から祈りの言葉を受けているのが見えた。
跪いているが、それでもかなりの長身であることが窺える。
ステンドグラスから差し込む光が彼の豊かな金髪を照らしているのを眺めながら、クラリーチェはこれから始まるであろう修道院での生活に思いを馳せていた。
希望を聞いてもらえるのならば、王都から遠く離れた僻地の修道院に入りたいと考えていた。
そうすればあの月夜の青年に再び会えるかもしれないという淡い期待をこれ以上抱かなくて済むかもしれない。それでも、一目だけでも会いたい。相反する気持ちが犇めき合い、クラリーチェは胸が苦しくなるのを感じた。
(こんな邪な気持ちを抱えて神に仕えたら、きっと天罰が下るわね)
クラリーチェは自嘲すると、祈りを捧げるふりをして、目を伏せた。
ちょうどその瞬間、エドアルドがクラリーチェの方を見たことに、彼女は気が付かなかった。
葬儀の後、エドアルドの他、正妃や位の高い側妃が棺に付き添い、王家の墓地へと向かった。
他の側妃達は、無駄話をしながら王宮へと戻っていった。
「お聞きになりました? 国王陛下の即位式は行わないのですって。しかも喪に服している間は、王室主催の行事は一切なしと陛下がお決めになったそうよ。信じられないですわ」
「ではドレスや宝飾品を新調する理由がなくなってしまうじゃないの」
「あんなに見目麗しく素敵な方なのに、血も涙もないのね。私達の楽しみを奪うだなんて失望しましたわ」
己の夫の葬儀の日だというのにそのようなことを平然と口に出来るだなんて、この妃達は何を考えて生きているのだろう。クラリーチェはそんな会話を聞きながらそう思った。
フィリッポ前国王の側妃となった背景や事情は人それぞれだろう。
神の御前で夫婦の誓いを立てたわけではないが、実質夫婦として身を重ねたのだから、少なくとも今はフィリッポの死を悼むべきではないのだろうか。
しかし、クラリーチェが見る限り、そのような側妃は一人もいなかった。
そう思うと、フィリッポも悲しい男だったのかもしれない。
いくら好色で、決して良い夫と言えるような人物でなかったとはいえ、百二十人もの側妃がいるにも関わらず、誰一人として彼の死を嘆くものはいなかったのだから。
「人生なんて、分からないものね……」
齢十六の少女のものとは思えないような言葉が、クラリーチェの口から零れ落ちた。
数多の女性に囲まれながら、愛を得られなかった好色王。
誰にも必要とされず、愛を知らずに育った名ばかり側妃。
会話を交わしたことすらもない、夫婦とはいえない関係だったが、もしかしたら同じような孤独を抱えていたのかもしれないと思うと、クラリーチェは胸が痛んだ。
憐れみとも、同情ともつかない悲しみに似た何かが、心に広がっていく。
(フィリッポ前国王の魂が、どうか無事、神の御元に導かれますように……)
クラリーチェは静かにそう祈るのだった。
第二章
キエザ王国の後宮は、王家が子宝に恵まれない家系故に作られた制度だった。
だが歴史を経ていくうちに王家に連なる者は徐々に増え、近頃はその存在意義もなく、ここ数代の国王は正妃のみしか娶らなかったのだそうだ。
その時代錯誤な制度を復活させたのは、好色王フィリッポだった。自分好みの女の園を作りたいという身勝手な欲望を、国王という地位を利用して満たしたのだ。
しかし側妃、と一口に言っても、百二十人もいれば出自も年齢も様々だ。
身分は公爵令嬢だった者から平民の娼婦まで、年齢は五十歳過ぎの老女から、十六歳の少女まで、国内外から集められた女がただ一人の王に仕えていた。
しかし、その維持管理費は莫大な金額に膨れ上がり、国庫を圧迫しているに違いないとクラリーチェは考えていた。
(後宮解体の一番の目的は、その支出の削減、よね)
ドレスに宝飾品、調度品に愛玩動物……。正妃は勿論のこと、他の側妃達も贅の限りを尽くした生活を送っていたのは知っている。
しかしその金は、元はといえば国民が、必死に働いて納めた税であるということを彼女達は考えているのだろうかとクラリーチェは思った。
かつてはそれを納める側だった者もいるはずなのに、甘美な世界を知ってしまうと、そんなことは忘れてしまうのだろうか。
そう思うと何だか悲しくなってきて、クラリーチェは後宮の一番隅にある小さな自室の天井を見上げた。
するとその時、遠くで、悲鳴が聞こえた。
「……今のは、何かしら?」
クラリーチェは怪訝そうに眉を顰めた。
「女性の悲鳴のように聞こえましたが……」
アンナも心当たりはないようで、不安そうな表情を浮かべている。
「そうね。明日になれば何があったのか、分かるでしょう。もう遅いわ。休みましょう」
クラリーチェが窓から外を見ると、既に夜は更け、赤味を帯びた満月が不気味に浮かび上がっていた。
翌朝になり、外が騒がしいことに気が付いたクラリーチェは不思議に思い、そっとテラスから中庭へと出た。
中庭は妃達の社交場だ。そのため、あのお茶会以降クラリーチェは中庭には出ないようにしていた。他の側妃達はクラリーチェを嫌っている。わざわざ不快な思いをさせる必要はないだろうと思っていたからだ。
彼女達の目に入らぬようにひっそりと、緊張しながらもゆっくり歩みを進めると、中庭の中心に数人の側妃と女官や侍女が集まっていた。皆一様に青い顔をしているのが見える。
「………っ!」
その場に近づいた途端、クラリーチェは息を呑んだ。
辺りには、咲き乱れる花の匂いよりも強く、鉄の臭いが漂っていた。
そして、ガーデンテーブルには見覚えのある側妃の首が、血まみれのまま晒されていたのだ。
あまりの衝撃的な光景に、クラリーチェは血の気が引いていくのを感じた。
恐怖と嫌悪感が大きな波となり、クラリーチェを呑み込んでいく。
朝から見るような代物ではなかった。
胃の中身は空っぽのはずなのに、吐気がこみ上げてきたが無理やりそれを抑え込むと顔を背けた。
「誰が、こんなことを……?」
昨日の悲鳴は、彼女のものだったのだろうか。
もう言葉を紡がなくなった唇の代わりに、切り口から滴る血が、ぽたりぽたりと音を立て、クラリーチェは思わず耳を塞ぎたくなった。どうしたらこんなにも惨いことが出来るのだろう。
「この第八十六側妃は、こともあろうにエドアルド陛下の寝所に忍び込み、寵愛を受けようとしたのですよ。陛下は大層お怒りになり、見せしめに首を刎ね、こちらに晒されたのです」
クラリーチェの独り言のような問いかけに答えてきた人物がいた。クラリーチェは驚いて声の主を見る。
声の主は、この場にはそぐわないような、美しい顔立ちと金髪とエメラルド色の瞳が印象的な青年だった。
どこか、あの日の青年を髣髴とさせる彼の容姿に、クラリーチェは胸が強く脈打つのを感じる。
こんな時に不謹慎だと思いながらも、それを止めることは出来なかった。
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