4 / 14
4
しおりを挟む
突然腕を掴まれ警察かと驚いて振り返った真希は相手が隣の青年、裕司であることに気付いてただでさえ大きな目が落ちてしまうんじゃないかと言うほどに見開き相手を見上げた。
「な、んで……」
今まさに男と共にホテルの入り口を潜ろうとしていた所だ。言い訳も誤魔化しも通用しない。何よりも本音を言えば、身寄りのない自分達に同情するわけでもなく、変によそよそしいわけでも関わりを避けるわけでもなく、ただ普通に優しくしてくれる裕司は真希の中で憧れと好意の狭間にいる存在で。だからそんな裕司に嘘はつきたくなくて、でもこのバイトを知られる事はもっと嫌で良心が痛むのを知らんフリして土木のバイトと嘘をついたのに、何故今ここで彼に会うのか。
今まで見たことのない怒気を孕んだ表情に体が凍りつく。しかし同時にどこかで安堵もした。これで、バレたらどうしよう、嫌われるかも知れない、軽蔑されるかも知れない、そんな不安からは解消される。
だってもう、
(軽蔑された、よな)
明らかに合意の上でホテルに向かおうとしていたし今日は“バイト”だと告げて出てきたのだから。これが真希の“バイト”なのだとわかった筈だ。
これから夜は誰に真央を預かってもらおう、そんなことをぼんやり考えたその腕を引っ張られてよろける。何を、ともう一度見上げると裕司の視線は相手の男に注がれている。
「悪いがこの子は連れて帰るよ」
掴まれた腕が痛い。何よりもその聞いたことのない冷たい声が怖い。男は裕司が警察でないとわかると強気になり文句を並べ立てた。
「こっちは金も払ってるんだ!」
(ああ、もう……)
お願いだからやめて、と。この人の前でオレの汚い所を暴かないで、と喚きそうになるのをグッ、と耐え俯く。その裕司に声と同じく冷たい瞳で見下ろされてどうするんだ、と訊かれた。
どうするもなにも、この手を振りほどいたらきっともう二度と裕司には会えない、そんな気がする。気がする、ではない。恐らくそうなるだろう。こんな事になっていてもそれは嫌だと思ってしまう自分がいる。
どうしよう、それだけは嫌だ。会えなくなるなんて、そんなのは絶対に嫌だ。しかし知られてしまったからには今までと同じように接する事は無理だろう。
けれど、ショウタ君、と偽名で呼びかけてくる男に渡された金を、震える手でポケットから出して差し出した。
「ごめん、なさい……おじさん……。返すね……」
青冷め震える真希に男も気が付いたのだろう。腕を掴むその綺麗な男にこれがバレてはまずかったのだと察する程に真希の表情には絶望感が溢れている。
元より真希と相手の間には決して他言無用という絶対条件があった。相手は大抵妻子持ち、もしくは会社の重役。そして真希は学生だ。互いの利害が一致していたからこそうまくやれていた。
今日は本当にたまたま外を歩いてみただけなのだ。それがこんなことになるとは互いに予想外で、返された金を受け取った男は縋るような真希の視線を無視してそそくさとその場を去った。
父が死んだ日、真希は3年ぶりに母へ連絡を取った。父親には裕司を頼れと言われたが流石にそれは迷惑だろう、と考え、頼れる大人はもはや母しかいなかった。
『へぇ、死んだの。あの人』
案外早かったのね、でももう私に関係ないから連絡してこないで、そう言って電話は切れて二度と繋がらなかった。学校へ行けば腫れ物扱いで誰もがよそよそしくて、裕司以外のアパートの住人は無関心。何が起こっているかわかっていない真央は毎日とーちゃんは?と首を傾げていて、真希自身悲しみと混乱の渦中にあったけれど、この幼い弟を守らなければ、と思った。
本来ならばまだ大人に守られていなければならない真希を守ってくれる大人はいなかった。
太一が亡くなったと知ったあの日、裕司はその遺児を引き取ろうと思っていた。何かあれば、と約束していたし何よりも裕司自身二人の事がとても気になっていたから。
しかし昔馴染みの担当編集者は言った。
『人の人生を背負う意味がわかっているの?相手は人間よ。犬猫を拾うのとではワケが違うわ。同情だとか口約束をしたから、なんて半端な覚悟で言っているなら必ず後悔するわよ』
今売れていても将来もそうであるとは限らない、人を養うということがどれ程のものかきちんと理解しなさい、まして相手がそう言っているの?あなたのエゴを押し付けるのも大概になさい、そう言われて2年。ちゃんと考えてきたし、子供を養うのにどれ程のお金がかかるのか、真希と真央、二人共大学に行かせようと思ったら、そんなことも考えて、調べた。
真希を守れる、真希が頼ってくれる、そんな大人になりたかった。
本当なら真央が一人で留守番しているアパートへ帰らせてやりたかったが真央の前でこの話は出来ない。そして感情を抑えられる自信がないから道端でも出来ない。
裕司は真希の腕をきつく掴んだまま彼らが潜ろうとしていたホテルの入り口を潜った。部屋の鍵をもらって無言のままエレベーターに乗って、その間掴んだままの腕からは震えが伝わってきたけれど労ってやれる余裕がない。
自分は今怒っているのか、悲しんでいるのか、それさえわからない。
部屋について鍵を閉めてようやく腕を離してやると、真希は掴まれていたのと反対の手で自分を抱くように腕を回した。
裕司は俯いたままの真希を見下ろす。
「……真希」
自分でも驚くほど固くて冷たい声音に真希の肩がびくりと跳ねた。
「いつからだ」
カタカタと震える体を見下ろして訊く。いつからこんなことをしていた、と。真希は無言のまま震えるばかりで答えない。裕司が一歩踏み出せば怯えたように一歩下がる。壁まで追い詰めて、バンッと激しい音をさせ手の平を体の両脇について逃げ場を塞いで、もう一度。
「いつからだ」
その瞬間真希の体の震えがおさまった事を不思議に思っていたら、今の今まで怯えていたくせに彼は笑顔で顔を上げた。裕司も良く知る人懐っこいいつもの笑顔だ。
その笑顔のまま真希は言う。
「始めたのは父さんが死んですぐ、くらいかなぁ?割りのいいバイト探してたら友達が紹介してくれたんだ。最初は話し相手位だったんだけどね、何か月か前くらいからかな。こっちの方が儲かるからって」
いつも敬語で話しかけてくる彼の砕けた物言いに違和感を感じずにはいられない。ああ、これが彼の仮面なのだ、と気付く。
「太一さんがお金を遺してくれただろう?」
「うん、でもそれだけじゃあ真央を大学まで行かせてやれないからさ」
今のままでは真希が余程給料のいいところへ就職しない限り真央を大学へは行かせてやれない。しかし高卒ではそんなにいい給料を貰えない事はわかっている。だからこうしてお金を稼いでいるのだと、真希は穏やかに笑う。
「こんなやり方で稼いでたんだって将来真央が知ったらどうするんだ」
「んー、どうしよう?」
「真希!!」
おどけて首を傾げる真希の顔の横を今度は拳で叩いて声を荒げる。それでも真希の笑顔の仮面は外れない。それは太一がいなくなって2年の間に真希が身につけてしまった処世術。裏表のなさそうな、人畜無害な無垢な笑みに騙される。汚れなど知らない真っ白な笑顔で世の裏側に片足を突っ込む黒。
彼の仮面を剥がしたかった。その仮面の下の顔が見たかった。本音を言ってほしかった。気が付いたらその頬を、思いっきりひっぱたいていた。
肌を打つ音と共に頬がジン、と熱くなり裕司に叩かれたのだと気付く。見上げた裕司は自分の方が泣きそうな顔をしながらこちらを見下ろしている。
(ホントに)
優しい人、と嘘ではない笑みが溢れた。いつからだ、と二度目に言われたあの瞬間に覚悟を決めた。きっともう裕司は普通には接してくれない。だったら徹底的に嫌われてしまった方が自分の中で諦めもつく。
そう、思っているのに心の奥の奥で
――嫌わないで。
――見捨てないで。
――お願い、助けて。
と叫んでいる自分がいる。
(ダメだよ、変な期待したら)
母に電話をかけたあの時、ほんの少しだけ期待をしてしまった。また一緒に暮らしましょう、そう言ってくれるのではないかと思ってしまった。期待を裏切られたあの瞬間から信じられるものはなくなった。
だから裕司は違う、なんて思いながらもきっと彼も同じだと思ってしまう。この願いは、この望みは決して言ってはいけない。言っても裏切られるだけだ。だったらはなから望まなければ傷つく事もない。
「君は自分が何をしているのかわかってるか?」
「わかってるよ。援交だよね」
でもね、と続ける。
「綺麗事だけじゃ生きていけないの」
こんな世の中に子供だけで放り出されてどうやって綺麗なまま生きていけって言うの、と言えば裕司の方が傷付いた顔をする。
「それに嫌だったらとうに辞めてるよ。お金が儲かるし気持ちいいし一石二鳥なんだ」
こんなの本音じゃない。気持ちよかった事なんか今まで一度もない。後ろで感じなくても前を擦れば勝手に体は反応するし、気持ちいい、と言って感じたフリで派手に喘げば相手は多少の違和感を感じようと気にせず喜んで続ける。
「それが君の本音か」
「うん、だから気にしないで?」
気にしないで、と完璧な笑みで告げる真希を見て、今度は明確にここまで気付いてやれなかった自分への怒りと悔しさと悲しみで胃の辺りがムカムカする。
「太一さんは君にこんなことをさせる為に育てたんじゃない!!」
瞬間真希の顔が僅かに強ばった。それは真希が最も触れられたくない場所で、一番触れてはいけない部分。
裕司は知らなかったが普段遺影に挨拶をしている真希は“バイト”の時だけは決して挨拶をしなかった。それは父に顔向けが出来ないとわかっていたからだ。
「……父さんは関係ないよ。だってもう、いないから」
仮面を崩せるのはここだ、と綻びを見つけて徹底的に攻め立てる。真希を引き戻すには恐らく今、この瞬間しかない。
そうやって太一を引き合いに出しながら、何を考えているんだと怒鳴った。裕司自身こんなに大きな声が出せるのかというくらいの大声で、密室だからというのも手伝って恥も外聞もなく怒鳴り散らし、何度も頬をひっぱたいた。
最初は受け入れていた真希が
「だってしょうがないだろ!!!」
ついにそう叫んだ時には裕司の方が泣いていた。
「じゃあどうすればよかったんだよ!母さんには捨てられた!父さんは死んじゃった!真央はまだ小さいしせめて高校は出てないとマトモな就職先だって見つけらんない!!言ったでしょ!綺麗なままじゃ生きていけないんだよ!!」
父親の残したお金では真央の将来までは守ってやれない、と叫ぶ真希もボロボロと涙を溢す。
「ホントはやりたくなかったよ!痛かった、怖かった、気持ち悪かった!!だけどやんなきゃ真央を守ってやれなかった!!真央がオレの生きる意味なのに、守ってやれないなら生きてる意味なんてない!!」
そう叫んで自分を抱き締め泣き崩れる真希は今まで見た中で一番頼りなく小さく見えた。
「助けてくれないなら、もうほっといてよ……」
(ほら、ね……)
裕司は涙を拭って思う。今本音がチラリと洩れた。本当は誰かに助けてほしいのだと、そう願っている。
「真希」
「……っ、るさ、い、うるさい、ばかぁ……っ、あっちいけ……っ」
子供の癇癪のように泣きながら手近にあったクッションを振り回して、あっちいけ、あっちいけ、と繰り返すその手からクッションを奪い取って抱き締めた。
「やさしくすんな……っ、どうせ助けてくれないくせに……っ、離せ、ばか、きらい……っ」
「真希」
ぐいぐいと胸を押してくる手の平に負けじと抱き締める腕に力を込める。
「きらい……っ、やだ、離してよ、ばか……っ」
「ごめん、離せない」
「なんでだよ、ほっといてよ……っ」
「嫌だ」
「なんで……っ」
「本音を言って、真希」
それでも離して、離して、と言い続けて裕司の胸を押していたその手は、本音を言えと囁き続けた裕司に根負けしたかのように力を失いシャツに縋って皺を刻む。
やがて小さな小さな声で押し出されたのは。
「……裕司さん……、……たす、けて……」
彼が隠し続けた本音。
「良くできました」
そう言って頭を優しく撫でた瞬間、真希は仮面の最後の欠片を剥ぎ取って
「ぅあぁぁぁ……っ、ひ、あぁぁぁーー……っ、」
小さな子供みたいに声をあげて泣き出した。
「落ち着いた?」
大号泣から啜り泣き、そしてしゃくりあげるだけになった頃ようやく真希を抱き締めていた腕を緩めてやると真っ赤に泣き腫らした目の真希がうん、と小さく頷く。
「ほっぺたも目も腫れちゃったな。……ごめん」
今度はううん、と首を振る。
まだ、ひっ、ひっ、とひきつるような声を洩らしている真希の頭を撫で続けていると。
「あの、……っ、怒って、……っ」
懸命に何かを紡ごうとしているけれど言葉にならないようだ。まだ怒っているか、ということだろうかと思って
「もう怒ってない」
そう告げるとブンブンと首を振る。どうやら違うらしい。なんだろう、と真希の言葉を待った。何度も何度もつっかえながら、ようやく彼は偽りじゃない笑顔を浮かべ言う。
「怒ってくれて、ありがとう」
と。
「な、んで……」
今まさに男と共にホテルの入り口を潜ろうとしていた所だ。言い訳も誤魔化しも通用しない。何よりも本音を言えば、身寄りのない自分達に同情するわけでもなく、変によそよそしいわけでも関わりを避けるわけでもなく、ただ普通に優しくしてくれる裕司は真希の中で憧れと好意の狭間にいる存在で。だからそんな裕司に嘘はつきたくなくて、でもこのバイトを知られる事はもっと嫌で良心が痛むのを知らんフリして土木のバイトと嘘をついたのに、何故今ここで彼に会うのか。
今まで見たことのない怒気を孕んだ表情に体が凍りつく。しかし同時にどこかで安堵もした。これで、バレたらどうしよう、嫌われるかも知れない、軽蔑されるかも知れない、そんな不安からは解消される。
だってもう、
(軽蔑された、よな)
明らかに合意の上でホテルに向かおうとしていたし今日は“バイト”だと告げて出てきたのだから。これが真希の“バイト”なのだとわかった筈だ。
これから夜は誰に真央を預かってもらおう、そんなことをぼんやり考えたその腕を引っ張られてよろける。何を、ともう一度見上げると裕司の視線は相手の男に注がれている。
「悪いがこの子は連れて帰るよ」
掴まれた腕が痛い。何よりもその聞いたことのない冷たい声が怖い。男は裕司が警察でないとわかると強気になり文句を並べ立てた。
「こっちは金も払ってるんだ!」
(ああ、もう……)
お願いだからやめて、と。この人の前でオレの汚い所を暴かないで、と喚きそうになるのをグッ、と耐え俯く。その裕司に声と同じく冷たい瞳で見下ろされてどうするんだ、と訊かれた。
どうするもなにも、この手を振りほどいたらきっともう二度と裕司には会えない、そんな気がする。気がする、ではない。恐らくそうなるだろう。こんな事になっていてもそれは嫌だと思ってしまう自分がいる。
どうしよう、それだけは嫌だ。会えなくなるなんて、そんなのは絶対に嫌だ。しかし知られてしまったからには今までと同じように接する事は無理だろう。
けれど、ショウタ君、と偽名で呼びかけてくる男に渡された金を、震える手でポケットから出して差し出した。
「ごめん、なさい……おじさん……。返すね……」
青冷め震える真希に男も気が付いたのだろう。腕を掴むその綺麗な男にこれがバレてはまずかったのだと察する程に真希の表情には絶望感が溢れている。
元より真希と相手の間には決して他言無用という絶対条件があった。相手は大抵妻子持ち、もしくは会社の重役。そして真希は学生だ。互いの利害が一致していたからこそうまくやれていた。
今日は本当にたまたま外を歩いてみただけなのだ。それがこんなことになるとは互いに予想外で、返された金を受け取った男は縋るような真希の視線を無視してそそくさとその場を去った。
父が死んだ日、真希は3年ぶりに母へ連絡を取った。父親には裕司を頼れと言われたが流石にそれは迷惑だろう、と考え、頼れる大人はもはや母しかいなかった。
『へぇ、死んだの。あの人』
案外早かったのね、でももう私に関係ないから連絡してこないで、そう言って電話は切れて二度と繋がらなかった。学校へ行けば腫れ物扱いで誰もがよそよそしくて、裕司以外のアパートの住人は無関心。何が起こっているかわかっていない真央は毎日とーちゃんは?と首を傾げていて、真希自身悲しみと混乱の渦中にあったけれど、この幼い弟を守らなければ、と思った。
本来ならばまだ大人に守られていなければならない真希を守ってくれる大人はいなかった。
太一が亡くなったと知ったあの日、裕司はその遺児を引き取ろうと思っていた。何かあれば、と約束していたし何よりも裕司自身二人の事がとても気になっていたから。
しかし昔馴染みの担当編集者は言った。
『人の人生を背負う意味がわかっているの?相手は人間よ。犬猫を拾うのとではワケが違うわ。同情だとか口約束をしたから、なんて半端な覚悟で言っているなら必ず後悔するわよ』
今売れていても将来もそうであるとは限らない、人を養うということがどれ程のものかきちんと理解しなさい、まして相手がそう言っているの?あなたのエゴを押し付けるのも大概になさい、そう言われて2年。ちゃんと考えてきたし、子供を養うのにどれ程のお金がかかるのか、真希と真央、二人共大学に行かせようと思ったら、そんなことも考えて、調べた。
真希を守れる、真希が頼ってくれる、そんな大人になりたかった。
本当なら真央が一人で留守番しているアパートへ帰らせてやりたかったが真央の前でこの話は出来ない。そして感情を抑えられる自信がないから道端でも出来ない。
裕司は真希の腕をきつく掴んだまま彼らが潜ろうとしていたホテルの入り口を潜った。部屋の鍵をもらって無言のままエレベーターに乗って、その間掴んだままの腕からは震えが伝わってきたけれど労ってやれる余裕がない。
自分は今怒っているのか、悲しんでいるのか、それさえわからない。
部屋について鍵を閉めてようやく腕を離してやると、真希は掴まれていたのと反対の手で自分を抱くように腕を回した。
裕司は俯いたままの真希を見下ろす。
「……真希」
自分でも驚くほど固くて冷たい声音に真希の肩がびくりと跳ねた。
「いつからだ」
カタカタと震える体を見下ろして訊く。いつからこんなことをしていた、と。真希は無言のまま震えるばかりで答えない。裕司が一歩踏み出せば怯えたように一歩下がる。壁まで追い詰めて、バンッと激しい音をさせ手の平を体の両脇について逃げ場を塞いで、もう一度。
「いつからだ」
その瞬間真希の体の震えがおさまった事を不思議に思っていたら、今の今まで怯えていたくせに彼は笑顔で顔を上げた。裕司も良く知る人懐っこいいつもの笑顔だ。
その笑顔のまま真希は言う。
「始めたのは父さんが死んですぐ、くらいかなぁ?割りのいいバイト探してたら友達が紹介してくれたんだ。最初は話し相手位だったんだけどね、何か月か前くらいからかな。こっちの方が儲かるからって」
いつも敬語で話しかけてくる彼の砕けた物言いに違和感を感じずにはいられない。ああ、これが彼の仮面なのだ、と気付く。
「太一さんがお金を遺してくれただろう?」
「うん、でもそれだけじゃあ真央を大学まで行かせてやれないからさ」
今のままでは真希が余程給料のいいところへ就職しない限り真央を大学へは行かせてやれない。しかし高卒ではそんなにいい給料を貰えない事はわかっている。だからこうしてお金を稼いでいるのだと、真希は穏やかに笑う。
「こんなやり方で稼いでたんだって将来真央が知ったらどうするんだ」
「んー、どうしよう?」
「真希!!」
おどけて首を傾げる真希の顔の横を今度は拳で叩いて声を荒げる。それでも真希の笑顔の仮面は外れない。それは太一がいなくなって2年の間に真希が身につけてしまった処世術。裏表のなさそうな、人畜無害な無垢な笑みに騙される。汚れなど知らない真っ白な笑顔で世の裏側に片足を突っ込む黒。
彼の仮面を剥がしたかった。その仮面の下の顔が見たかった。本音を言ってほしかった。気が付いたらその頬を、思いっきりひっぱたいていた。
肌を打つ音と共に頬がジン、と熱くなり裕司に叩かれたのだと気付く。見上げた裕司は自分の方が泣きそうな顔をしながらこちらを見下ろしている。
(ホントに)
優しい人、と嘘ではない笑みが溢れた。いつからだ、と二度目に言われたあの瞬間に覚悟を決めた。きっともう裕司は普通には接してくれない。だったら徹底的に嫌われてしまった方が自分の中で諦めもつく。
そう、思っているのに心の奥の奥で
――嫌わないで。
――見捨てないで。
――お願い、助けて。
と叫んでいる自分がいる。
(ダメだよ、変な期待したら)
母に電話をかけたあの時、ほんの少しだけ期待をしてしまった。また一緒に暮らしましょう、そう言ってくれるのではないかと思ってしまった。期待を裏切られたあの瞬間から信じられるものはなくなった。
だから裕司は違う、なんて思いながらもきっと彼も同じだと思ってしまう。この願いは、この望みは決して言ってはいけない。言っても裏切られるだけだ。だったらはなから望まなければ傷つく事もない。
「君は自分が何をしているのかわかってるか?」
「わかってるよ。援交だよね」
でもね、と続ける。
「綺麗事だけじゃ生きていけないの」
こんな世の中に子供だけで放り出されてどうやって綺麗なまま生きていけって言うの、と言えば裕司の方が傷付いた顔をする。
「それに嫌だったらとうに辞めてるよ。お金が儲かるし気持ちいいし一石二鳥なんだ」
こんなの本音じゃない。気持ちよかった事なんか今まで一度もない。後ろで感じなくても前を擦れば勝手に体は反応するし、気持ちいい、と言って感じたフリで派手に喘げば相手は多少の違和感を感じようと気にせず喜んで続ける。
「それが君の本音か」
「うん、だから気にしないで?」
気にしないで、と完璧な笑みで告げる真希を見て、今度は明確にここまで気付いてやれなかった自分への怒りと悔しさと悲しみで胃の辺りがムカムカする。
「太一さんは君にこんなことをさせる為に育てたんじゃない!!」
瞬間真希の顔が僅かに強ばった。それは真希が最も触れられたくない場所で、一番触れてはいけない部分。
裕司は知らなかったが普段遺影に挨拶をしている真希は“バイト”の時だけは決して挨拶をしなかった。それは父に顔向けが出来ないとわかっていたからだ。
「……父さんは関係ないよ。だってもう、いないから」
仮面を崩せるのはここだ、と綻びを見つけて徹底的に攻め立てる。真希を引き戻すには恐らく今、この瞬間しかない。
そうやって太一を引き合いに出しながら、何を考えているんだと怒鳴った。裕司自身こんなに大きな声が出せるのかというくらいの大声で、密室だからというのも手伝って恥も外聞もなく怒鳴り散らし、何度も頬をひっぱたいた。
最初は受け入れていた真希が
「だってしょうがないだろ!!!」
ついにそう叫んだ時には裕司の方が泣いていた。
「じゃあどうすればよかったんだよ!母さんには捨てられた!父さんは死んじゃった!真央はまだ小さいしせめて高校は出てないとマトモな就職先だって見つけらんない!!言ったでしょ!綺麗なままじゃ生きていけないんだよ!!」
父親の残したお金では真央の将来までは守ってやれない、と叫ぶ真希もボロボロと涙を溢す。
「ホントはやりたくなかったよ!痛かった、怖かった、気持ち悪かった!!だけどやんなきゃ真央を守ってやれなかった!!真央がオレの生きる意味なのに、守ってやれないなら生きてる意味なんてない!!」
そう叫んで自分を抱き締め泣き崩れる真希は今まで見た中で一番頼りなく小さく見えた。
「助けてくれないなら、もうほっといてよ……」
(ほら、ね……)
裕司は涙を拭って思う。今本音がチラリと洩れた。本当は誰かに助けてほしいのだと、そう願っている。
「真希」
「……っ、るさ、い、うるさい、ばかぁ……っ、あっちいけ……っ」
子供の癇癪のように泣きながら手近にあったクッションを振り回して、あっちいけ、あっちいけ、と繰り返すその手からクッションを奪い取って抱き締めた。
「やさしくすんな……っ、どうせ助けてくれないくせに……っ、離せ、ばか、きらい……っ」
「真希」
ぐいぐいと胸を押してくる手の平に負けじと抱き締める腕に力を込める。
「きらい……っ、やだ、離してよ、ばか……っ」
「ごめん、離せない」
「なんでだよ、ほっといてよ……っ」
「嫌だ」
「なんで……っ」
「本音を言って、真希」
それでも離して、離して、と言い続けて裕司の胸を押していたその手は、本音を言えと囁き続けた裕司に根負けしたかのように力を失いシャツに縋って皺を刻む。
やがて小さな小さな声で押し出されたのは。
「……裕司さん……、……たす、けて……」
彼が隠し続けた本音。
「良くできました」
そう言って頭を優しく撫でた瞬間、真希は仮面の最後の欠片を剥ぎ取って
「ぅあぁぁぁ……っ、ひ、あぁぁぁーー……っ、」
小さな子供みたいに声をあげて泣き出した。
「落ち着いた?」
大号泣から啜り泣き、そしてしゃくりあげるだけになった頃ようやく真希を抱き締めていた腕を緩めてやると真っ赤に泣き腫らした目の真希がうん、と小さく頷く。
「ほっぺたも目も腫れちゃったな。……ごめん」
今度はううん、と首を振る。
まだ、ひっ、ひっ、とひきつるような声を洩らしている真希の頭を撫で続けていると。
「あの、……っ、怒って、……っ」
懸命に何かを紡ごうとしているけれど言葉にならないようだ。まだ怒っているか、ということだろうかと思って
「もう怒ってない」
そう告げるとブンブンと首を振る。どうやら違うらしい。なんだろう、と真希の言葉を待った。何度も何度もつっかえながら、ようやく彼は偽りじゃない笑顔を浮かべ言う。
「怒ってくれて、ありがとう」
と。
0
お気に入りに追加
51
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
猫をかぶるにも程がある
如月自由
BL
陽キャ大学生の橘千冬には悩みがある。声フェチを拗らせすぎて、女性向けシチュエーションボイスでしか抜けなくなってしまったという悩みが。
千冬はある日、いい声を持つ陰キャ大学生・綱島一樹と知り合い、一夜の過ちをきっかけに付き合い始めることになる。自分が男を好きになれるのか。そう訝っていた千冬だったが、大好きオーラ全開の一樹にほだされ、気付かぬうちにゆっくり心惹かれていく。
しかし、弱気で優しい男に見えた一樹には、実はとんでもない二面性があって――!?
ノンケの陽キャ大学生がバリタチの陰キャ大学生に美味しく頂かれて溺愛される話。または、暗い過去を持つメンヘラクズ男が圧倒的光属性の好青年に救われるまでの話。
ムーンライトノベルズでも公開しております。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
つまりは相思相愛
nano ひにゃ
BL
ご主人様にイかないように命令された僕はおもちゃの刺激にただ耐えるばかり。
限界まで耐えさせられた後、抱かれるのだが、それもまたしつこく、僕はもう僕でいられない。
とことん甘やかしたいご主人様は目的達成のために僕を追い詰めるだけの短い話です。
最初からR表現です、ご注意ください。
学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語
紅林
BL
『桜田門学院高等学校』
日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する野球ドーム五個分の土地が学院としてなる巨大学園だ
しかし生徒数は300人程の少人数の学院だ
そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語である
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
BL団地妻on vacation
夕凪
BL
BL団地妻第二弾。
団地妻の芦屋夫夫が団地を飛び出し、南の島でチョメチョメしてるお話です。
頭を空っぽにして薄目で読むぐらいがちょうどいいお話だと思います。
なんでも許せる人向けです。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる