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 少し小腹がすいたと執筆の手を止めて冷蔵庫を開けたものの、開けた瞬間に何もないとわかる空っぽの箱にため息をつき、それでも何かないかと漁ってはみたが当然何もなく笹原 裕司はもう一度、今度はより重々しいため息をついた。
 大学に入りたての頃は自炊だったのだけれど、試しに書いてみた物語を出版社勤めの昔馴染みに強奪されてからはあっという間に生活は変わってしまった。何とか大学は卒業出来、安堵しつつも締め切りに追われる日々。物語を書く事自体は嫌いではないから苦にはならなかったが、それでも時折こんな天気のいい日に自分はここで何をしているのか、と投げ出して逃げてしまいたくなる事もある。
 あの父子が引っ越してきたのは珍しく裕司が逃亡を実行に移そうとした日だった。
 何度書いても納得のいくものが出来ず、書いては消し書いては消しを繰り返し、もうダメだと財布を片手に部屋を飛び出したまさにその瞬間、チャイムを押そうとしていたらしい相手の額をドアで強打してしまった。
 慌てて謝る裕司に彼は涙目のまま穏やかに笑っていた。その笑顔は今の真希が浮かべる笑みとそっくりだ。

(……まさか亡くなるなんて思ってなかったよ)

 その日から何となく交流している内に、年上のくせに年下のような頼りなさが放っておけなくて、普段はほとんどしっかり者の長男がやってくれているようだけどそれでも抜けている所を手が空いた昼間に手伝うようになった。
 そのしっかり者の長男は出会えばいつでも元気いっぱいで人懐っこい笑顔を向けてくれるし、かと思えば父親と良く似て時折ひどく危なっかしい一面を見せるし、大人しい次男はまだ幼く、元々面倒見のいい裕司にとって隣の一家はまとめて目が離せなくなる存在だった。
 兄弟の父である太一に『自分に何かあったら』と言われた時は全くピン、とこなかったけれど恐らく彼は死期を悟っていたのだろう。他に頼れる親族はいないと言っていた彼の、最愛の息子達を残して逝かなければならなかった無念はどれ程のものか。
 そんなことを考えながら財布を片手にドアを開けると

「わっ!?」

 外からは驚いたような声。隣には現在その放っておけない兄弟が住む部屋しかなく、このドアの前を通過するのはその部屋の住人か客だけだ。
 慌てて覗けばそこには予想通り真希の驚いた顔。すっかり熟睡している真央を背負って固まっている。

「うわ!ごめん。ドア、当たらなかった?」

「だ、大丈夫です!びっくりしただけ」

 こちらを安心させるように微笑んで、それからこれ、と袋を差し出してくる。

「お土産です。いつもお世話になってるから」

「水族館行ったんだ?」

「はい。真央を連れてってやりたくて」

 いつもワガママ言ってくれないから、と少し寂しそうに笑う。真央は真央なりに現状を察しているから、こんな子供に気を使わせてしまう事が真希には辛いのだ。
 お土産をありがたく受け取り、疲れた様子の真希に代わって玄関を開けてやってから当初の目的通り近所のコンビニまで向かって、そこでその噂を耳にした。
 特に何も感じない取るに足りない噂話だった。――――その時は。



 彼を見つけたのは偶然だ。行きつけの隠れ家的な飲み屋はいわゆるそういう建物の並ぶ一画でひっそりと経営していて、だからこそ隠れ家と呼ぶには相応しく知る人ぞ知る名店。
 その日も真希はバイトがある、と言っていたが裕司も担当編集との打ち合わせがあり真央を預かる事は出来なかった。そういう日は真央はあの部屋で一人、大人しくくまのヌイグルミ相手にママゴトのような事をしながら留守番をしている。たった5歳の子供には酷な事だ。
 何よりも真央を大切にする真希がその真央を一人残してまで行かなければならないバイトとは何なのか、以前何気なしに訊いたら土木業だと言っていた。しかし今裕司の目の前で腹の突き出た中年男に肩を抱かれる、土木業のバイトへ行っている筈の真希はいつもの人懐っこい笑みを浮かべている。
 制服なのに堂々としているのは近くにそういうサービスを専門とする店があり、学生ではないのに制服を着て歩いている人が他にもいるからだ。最も中には真希のように本物の学生も混じっている筈。時折警察が張り込んでいたりするが、彼らは目敏く私服警官を発見しなかなか尻尾を見せない。
 男に何か耳打ちされたらしい真希が頬を赤らめて、拗ねたフリで身を捩ると男はそんな真希にくすくす笑いご機嫌をとるように引き寄せこめかみに口付ける。
 そうしてまた恋人のように寄り添って歩き出した。

(何だ、これは……)

 今見ている物が信じられなくて、良く似た他人である事を願いもう一度通りすぎて行った後ろ姿に真希と違う点を見つけようと躍起になりながら、しかしそれが真希であるという確信しか持てない物ばかり見つけてしまう。
 余程疲れていたのか珍しく朝寝坊をしてしまったらしい真希が慌てて出ていくのを見送った時に気付いた寝癖は朝のまま、いつもは首にかけている可愛いマスコットのヘッドホンが鞄の隙間から少しだけ覗いていて、何よりも5年とは言え側で彼を見ていた自分が見間違う筈もない、と根拠のない自信。
 気付いた時には担当編集の制止を振り切って真希を追っていた。

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