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第三章 神子

瘴気に飲まれる

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エテュセは微かに聞こえた靴音に体を起こした。すなおの元から引き離されてすでに10日が経っている。
初めは大人しくして扱いやすそうな態度で過ごした。しかし徐々にしびれを切らし、いい加減我慢の限界だ、今すぐ朴に会わせろ、と見張り相手に7日程大騒ぎをしてやった。そして今日、エテュセの元に現れたのは黒いローブを目深に被った誰か。
エテュセは黙って相手を睨む。しばらくどちらも何も言わない沈黙が続き、やがて口を開いたのは相手の方だった。

「神子は眠りについた」

肉声ではない、人工的に作られた声が言う。
その言葉の意味を理解するのにまたしばらくの時間を要した。

「…どう、いう…、意味…」

「死んではいない。文字通り、眠っている」

現実を直視出来なくなって、全てを遮断した、と。

「しかし、マグアイーズはそれでも神子を叩き起こし、辱めている」

食事を摂らせ、死なないようにしながらその尊厳を踏みにじり続けている。今朝からは起こされるたび絶望のあまり発狂し泣き叫ぶようになった、と言われてエテュセは足元から崩れ落ちた。全身から血の気が引いて、頭がくらくらする。
今この相手は何と言っただろうか。朴が、何だと言っただろうか。

「連れていけ…っ」

嘘だと思いたかった。でも、本当なら今すぐ側に行って支えなければ、と思った。なのに。

「今は無理だ」

「うるさい、連れていけ…ッ!!!」

瞬間、しばしの静寂。それから相手は静かにフードを後ろへ落とした。
目深に被ったフードの下からは思った通りの人物が現れ、わずかに驚いた顔をしている。

「良くわかったな」

その問いには答えない。答えたところで、なんの意味もないから。
だからエテュセは鉄格子を乱暴に掴んで言った。

「スナオ様の所に連れていけ!!」

「今は無理だと言っている」

「何故だ!」

「…今はその時じゃない。今動けば消される。俺も、ーーーお前も」

どういう意味だ、と問うより先にコン、と何かを叩き合図が送られる。グリニッジはこちらを覗いた見張りの兵士に一度頷き返し再びフードを被り直しながら言った。

「時を待て」

「…いつまで」

「わからない。だが下手を打てば全てが水の泡だ」

だからお前は今まで通りにしていろ、と言いながら踵を返し地下牢から去っていくその背中に何かを叫びかけて…口を噤んだ。
グリニッジを信用したわけではない。でも朴を助ける為なら少しの可能性にも賭けたい。

(…待つって…いつまで?)

たったの10日で心まで壊された朴をこのままここへ置いておけと言うのか、という怒りも胸にある。
しかしエテュセ一人ではどうにもならない事も理解している。
朴の立場と代われ、と言っても叶わないのもわかっている。あの狂った王が欲しているのは朴の魔力。エテュセでは到底足元にも及ばないその魔力はこの国の魔法障壁にまで使われていると見張りが話しているのを聞いた。初日に朴が儀式的な服を着せられていたのも、神に捧げる贄としての意味合いがあったのだと。
地下牢で身動きのとれない今の自分に出来ることは、ただ祈るだけだ。神にではない。きっと助けに向かってきているであろう朴のつがい達へ、だ。

(早く…早く来てください。早くスナオ様を助けて)

その為に自分に出来る事はなんでもする。
エテュセは静かに決意を固めた。


 ◇

絶望して泣き叫んでいた神子がまた眠りについて、ダリアセンは静かにその寝顔を見つめた。夢の中だけは幸せなのか涙の跡が色濃く残る顔のまま穏やかに眠っている。
この10日で神子は随分とやつれた。食事を無理矢理食べさせた所で大半を吐くし、ほとんど体内に取り込まれてはいないだろう。こうして眠っている間にダリアセンが栄養を注入してやらないときっとすぐに死んでしまう。

(…早く全て忘れてしまえば楽になるのに)

いや、全て忘れた所でマグアイーズが神子を慈しむ事はないから同じことか。
全てを凌駕する神子の魔力が、浄化ではなく破壊に向いたら未だかつてない程の兵器が出来る、と聞かされたのはいつだったのか。
そもそもマグアイーズが全てを憎むようになったのはいつだったのか。
彼が目指す物が何なのか、ダリアセンは知っている。

「ダリアセン」

不意に神子を見下ろすダリアセンの背後から声がかかり、彼は誰もいなかったはずの背後を振り向いた。

「…10日ぶりですね」

「順調なようだな」

布団をめくり、遠慮の欠片もなく神子の服をめくる。すっかりと嵩のなくなった腹にぼんやりと浮かぶ不気味な黒い文様に彼はうっすらと笑った。
今はまだ薄いこの紋様が完全に瘴気に飲まれた時には滴る血のような赤黒い色になる。そう、あの人のように。

「順調にーーー瘴気に飲まれ始めている」

腹を撫でれば、その下で瘴気がゾワリと動いた。まるでその手の平の主にすり寄るかのような動きに、彼は満足そうに笑う。

「…神子が瘴気に飲まれたら、マグアイーズ様は元に戻るのですか」

戻らない、と彼は言う。アークオランの神官服を着た、自分によく似たイオはその深紅の瞳を細めてダリアセンを見た。

「言ったはず。あの薬を飲み、己の欲望に負けた者が元に戻ることはないと」

飲めば飲んだ分だけ求める力も欲望も増幅し、やがては狂い、その姿を醜いモンスターに変えてしまう。
生きているものは誰しもが欲望を抱えている。生きる為に必要なそれは切り離せないけれど、己の意志で制御は出来る。
神官服のイオが差し出した薬の誘惑に勝てなかった時点で最早欲望のままに生きる化け物への道から外れることは出来ないのだ。


■■
間違えて本日2個投稿してしまいました(笑)
明日の投稿はお休みします(^^)
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