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第一章
300年前の✕✕✕
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暫くの間4人の耳に入るのは、船の揺れに合わせ使われなくなった蜘蛛の巣だらけの吊り下げ式ランプが揺れる音と波が船を叩く音だけ。辺りを警戒していたケイがふ、と体の力を抜いた。
「……えーっと、終わり?で、いいのか?」
「……セオリー通りにいったらまだだと思いますけどねぇ」
『そうヨ!勝手に終わんないでヨ』
ケイとアーセルムの言葉に応えるように甲高い声が上がり、何故か全員思わずアサギを見る。明らかに彼の声ではなかったが、一番そんな声を出せそうなのはアサギだ。
視線を向けられた彼は一瞬驚きに目を瞬かせた後、何故自分が見られているのか思い至り拗ねたように唇を尖らせた。
「何でこっち見るんだ」
『アタシをそんなガキと間違えないでよネ!』
そう言って彼らの前にふわりと現れたのは水棲族セイレーン。海の碧の長い髪を靡かせて、肌は蒼く滑らか。ふっくらした胸を白い布で覆う。魚のヒレのような耳に、下半身もまた魚。30㌢の体長は、時折見えない人の目の前にも姿を現しその美貌と美声で海へと引きずり込むセイレーンにしては珍しい。
ただその小ささに反してかなりの年月を生きた気配のある彼女はふよふよと漂いながらアサギと間違われた事に拗ねて頬を膨らませている。
「何でセイレーンがここに……」
と呟きながらも可能性は1つだけ。消えていった魂の内の一つが彼女の主人だったのだろう。
使い魔は主人が死んでも生きる事が多い。稀に繋がりが濃すぎて主人と共に消滅する個体もいるが、大概は生き残り次の主人を待つ為に自然に溶け込むのだ。
恐らく彼女もまた主人の魂と共に珠へ封じられていたのだろう。
アサギの問いにセイレーンはその場でくるんと一回転し勝ち気に笑った。
『ふん、ガキんちょに関係ないデショ』
途端に力を使った反動の極度の疲労感など吹っ飛ぶ。
「ガキじゃない!」
ムッ、として言い返すアサギにケイが珍しいな、と青年を見下ろした。見下ろしながら、いや、珍しくないか、と考え直したのは港町での一件だ。そう言えば実際の年齢をまだ聞いていなかったが10代後半に見える彼は子供のように手を引かれて歩くのに腹を立てていた様子だったから、恐らくは子供扱いをされる事が嫌いなのだろう。この年代では多いことだけれど、あまりそういう面をケイ以外に見せない彼がここまで態度に出す事に関してはやはり珍しい。
『そんなのでムキになるとこがお子ちゃまじゃない』
「お前の望み通りに助けてやったのに礼もなしかこのチビ!チービ!」
『!!チビチビ言わないでよネ!今は力が足りないだけヨ!このガキんちょ!!バーカバーカ!』
「バカ!?バカって言う方がバカなんだぞ!チビ!」
『ガキんちょ!!』
ケイは本当にアサギにしては珍しい低次元な言い争いを続ける一人と一匹を暫く笑いを耐えながら見つめて、カルとアーセルムは普段と違うアサギにポカンとしている。もう暫く子供っぽいその姿を見ていたいがいつまでもここにいるわけにはいかない。やはり笑いを耐え口を開いた。
「とりあえず一度船に戻るぞ」
そこで初めてアサギ以外を思い出したのだろう。セイレーンは口元に手を当て
『あら、あらあらあら、やだワ』
とケイの側へ寄っていく。
『イイ男がいるじゃない。あなた、アタシのご主人様になってくれない?』
ペタ、と胸元に擦り寄る彼女に自分に対する態度と違うことにアサギが嫌そうな顔。
「生憎俺は特異体質でな。使い魔は宿せねぇ。他当たれ」
ケイが苦笑いと共に他二人を指すが、
『やぁヨ!どっちも先住がいるじゃない。サラマンダーと蛇なんて最悪だワ!』
ぷん、とセイレーンがそっぽを向けばひょこ、と現れたラネルが地団駄を踏むように威嚇している。ついでにセンリからも嫌悪のオーラが立ち上る。
二匹とも彼女の言葉にそれはこっちの台詞だと怒っているらしい。確かに相性はかなりよろしくないようだ。
「……ま、船に行きゃ他にもイイ男は沢山いるからそっちで探せ」
ケイ以外の三人はほぼ同時に
(イイ男……)
と脳裏に乗員を思い浮かべる。とりあえず大部分は厳つい海の男達で、セイレーンの言う“イイ男”かどうかはちょっと謎である。
『なら早く!早く行きましょ!300年も閉じ込められてたの、いい加減うんざりヨ』
アサギは思わず化け物を振り返った。
(300年……)
彼女は役目から解放された事さえわからず300年もの間この船と共に彷徨い続けたのか。
正直彼女の気持ちは痛いほどによくわかる。
(……だって俺は、)
その役目から逃げてきたのだから。
側に座りケイが止める間もなくソッ、と醜い顔に触れた。見開いたままの眼球を塞ぐ目蓋は存在しない。その目を手の平で覆い、もはや髪とも呼べない頭部の塊を撫でて囁く。
「もう自由だよ……」
『グ、ォォ……っ』
完全に沈黙していた筈の化け物の口から苦痛のような声が漏れ、後ろの3人が武器を構える気配を感じながらも構わず撫で続ける。
目に当てた手の平には暖かい水の感触。
「自由なんだよ」
『ォ、オォォ……』
「うん、大丈夫。足りないならちょっとわけてやるから」
もう熱すぎて感覚のない背中はまたもジリジリと熱を発し始め、手の平が淡く光る。
『コ、ワ、イィィィ――』
「大丈夫、怖い事はもう終わった。ゆっくりそこから離れて」
『ウア……アァァァァ……』
何かを引っ張り上げるように指を軽く曲げたまま立ち上がるアサギにつられるように、手の平にはぼんやりと光が集まっていく。
やがて全ての光がアサギの手の中に集まると彼は両手でその光をソッ、と包む。光は戸惑うようにチカチカ明滅しながらふわりと浮かび上がった。
「ほら、軽くなった」
背後のケイ達にその表情は見えないけれど想像することはできる。恐らくその声色と同じ優しく穏やかな笑みを浮かべているのだろう。
光は暫くチカチカと戸惑いながら部屋を彷徨っていたが、やがて自由になった事実を理解したようで一際明るく輝くとアサギの周りを数回回ってふわりと消えていった。
流石に疲労がピークに達したらしいアサギがかくり、と膝を折り床に崩れ落ちる前にケイが抱き止める。
「っ!?」
だがその背が燃えるように熱い。思わず服を捲ろうとしたその手を力任せに振り払われて一瞬動きを止め、アサギの顔を窺うと彼は静かにケイを睨んでいた。まるで初めて言葉を話したあの日のような視線に小さくため息を吐いて抱き上げる。
尻の下と膝裏で支える抱き方が不安定で慌てて首に縋るアサギの熱い背をあやすように撫でていると。
『……フン、あの女もようやく成仏したのネ』
どこか悲し気な、そして苦し気な声色でセイレーンが呟いた。男達の問うような視線に彼女は答えない。
あの化け物になってしまった女をここへ閉じ込めたのは彼女の愛した男だからだ。男は私利私欲の為に彼女を奪い、繋ぎ、やがて化け物へと変えてしまった。
それでも善悪が乏しい魔に属する彼女は男を愛していた。だから男の望むまま付き従っていたのだけれど、本音は少しだけ女に同情する気持ちも確かにあったのだ。
化け物になってしまった女が彼らの魂を刈り取って集め珠に閉じ込めて、さらなる魂を求めて船と共に彷徨うのをただ見ていた。いつか彼女の気も晴れ解放されると思っていたからだ。
なのに、解放の時は訪れなかった。
集められ閉じこめられ続けた魂達の思念を集め少女の形を作り、幽霊船に誘われ乗り込んで来た人々に解放を願ってきたけれど、みな女に刈られ珠へ閉じこめられた。
300年それを繰り返す内彼女の愛した男は心底自分の罪を後悔し懺悔し涙を溢し続けて、そして今日漸く解放されたのである。
ただあの女があの珠をどこで手に入れたかはずっと共にいた筈のセイレーンですらわからない。
ケイが何かを言おうと口を開いたそのタイミングで、足元に微かに伝わり始めたのは震動。気づいた瞬間は小さな物だった震えはすぐに大きくなり、ゴロゴロ、と空き瓶が転がって壁がミシミシ鳴っている。
「……なぁ、俺ちょっと嫌な予感するんだけど気の所為だと思うやつー」
「いやぁ、……これは気の所為じゃねぇと思うっすよぉ?」
「だよなぁ。……走れッ!!」
バキッ、という音と共に濁流が流れ込んだ。
◇◇
幽霊船から沢山の光がフワフワと天へ昇っていく不思議な光景を部下達と共にぽかん、と見上げて暫く。
「副長、何だか嫌な音が聞こえるんですが……」
先程まで全く動きのなかった隣の船が揺れている。それに合わせてこちらの船も煽られるように上下に揺れ始めた。
「緊急配備」
短く指示を出し、まだ姿の見えない上司を想う。
(何やってるんですか、バカ船長)
カルの連れている使い魔サンリでは全員は守れない。アーセルムのラネルでは水との相性が悪い。
「フラン」
『キィ』
する、と姿を現したフランは力強く羽ばたいた。
◇◇
『うー……っ!主人のいないアタシじゃあそんなに力出せないんだから……っ、早く走んなさいヨぉ~!!』
飲み込もうとする海水を何とか押し止めるセイレーンに助けられながらひた駆けていた彼らの背中をグイッと押すような追い風が吹いた。
『キィ!』
「フラン!」
『げぇ!何でハーピーなんかがここにいるのヨ!』
セイレーンは嫌そうな声を上げたがフランの風のおかげで先程よりも駆け上がる速度は早い。いつの間にか開け放たれている扉から飛び出した時には自船の船縁はこの中で一番長身のアーセルムの背丈よりさらに上。
「船長!」
ゴン、と何度か音が響き重石と共に投げられたロープの輪になった結び目に足を掛ける。足手まといは嫌だと疲労を圧して自力で駆けてきたアサギには恐らくもうロープに掴まるだけの気力はない筈だ。
ケイは一瞬の迷いもなく隣のロープを引き寄せアサギの体に巻き付けるとそのまま抱き上げた。例えケイがバランスを崩しても巻き付けたロープが命綱になる。
隣のアーセルム達も同じように足を掛けた所で上から威勢のいい掛け声がかかり体が持ち上げられ、足元の船は離れていく。
それは向こうが緩やかに離れている所為でもあるし、自船が自ら離れている所為でもある。
何人もの手で引き上げられ甲板に転がった4人は一息つきながら幽霊船を見た。
魂は解放され、もはやあの船の役目は終わったのだ。
「……良かったな」
何となくそう思ったそのままを呟くとアサギは一瞬驚いたように振り返って、やがて小さくこくりと頷いた。
「感傷的なとこ悪いですが」
そんなやり遂げた感を感じていた二人の頭上からひんやりとした声が落ちてきて、ケイはサッと頭と腹をガードするがガードしきれなかった箇所に拳が入り
「ぅぐ……っ」
と呻く彼を鬼の形相で見下ろすのは当然リツである。
「今日という今日は言わせてもらいます!」
「いや、お前文句ならいつも言ってるから」
「煩いです!こっちがどれだけ心配したかわかりますか!?大体あなたは――」
延々続きそうだったお説教をぶったぎったのは
『きゃー!』
というセイレーンの悲鳴だった。何事かと振り返ったリツの目を盗みこそこそ逃げ出すケイをアーセルムが笑って迎える。
ようやく恐怖から解放されたカルが
「副長ぉぉぉ、怖かったっすー!」
としがみついて、セイレーンは
『イイ男!イイ男がいるワ!』
とリツに張り付いてフランに翼でひっぱたかれ、間に挟まれたリツは困り果て、アサギは座り込んだままくすくすと笑っている。それを見ながらアーセルムはいつになく真剣な顔をケイへと向けた。
「船長、あの子」
「何だ、気付いたのか。……黙っとけよ。カルにも言っとかねぇとな」
「カルは多分気付いてませんよ。あいつそんな知識ないでしょ。噂ぐらい聞いてても実物がどんなのかなんて知りませんよ。それより……何考えてんです?あの子は俺達が連れ回せる相手じゃないでしょ」
アーセルムの語尾が伸びない時は素の時だ。そしてそういうときは下手な誤魔化しは通用しない。
「本人が帰りたがるまではこのままだ」
「……あの人の代わり、っすか」
リツと同じ言葉に小さく笑ってアーセルムを見返す。
「いや?」
後ろめたいことなど1つもない、いつものケイの笑み。
そう、もう代わりなどではない。彼女の代わりはどこにもいない。例え同じ運命を負っていても彼は彼で、彼女とは違うのだ。
アーセルムは暫く挑むようにケイのその笑みを見つめていたがやがて大きく息を吐いた。
「まぁ俺はあんたを信用してるんでー、あんたがそのつもりならどこまでも付き合うっすよー 」
「そりゃどうも。……お前、素の方がモテんじゃねぇの?」
「やぁですよ、女寄ってきてうぜぇ。この喋り方だとぉ、結構引かれるんすよねー。オネエと迷ったけどやってみたらキモかったんでー」
「マジか、やってみちゃったのか。ちょっと聞いてみたい」
「船長が副長の前でオネエしてくれたらしてもいいっすよー?」
「お前は俺を殺す気か」
アサギはまだ騒ぎを見て笑っている。
――もう自由だよ
本来負けず嫌いで好奇心旺盛、責任感も感受性も強い普通の青年である筈の彼はどんな気持ちであの一言を発したのだろう。ケイはただ静かにアサギを見つめた。
「……えーっと、終わり?で、いいのか?」
「……セオリー通りにいったらまだだと思いますけどねぇ」
『そうヨ!勝手に終わんないでヨ』
ケイとアーセルムの言葉に応えるように甲高い声が上がり、何故か全員思わずアサギを見る。明らかに彼の声ではなかったが、一番そんな声を出せそうなのはアサギだ。
視線を向けられた彼は一瞬驚きに目を瞬かせた後、何故自分が見られているのか思い至り拗ねたように唇を尖らせた。
「何でこっち見るんだ」
『アタシをそんなガキと間違えないでよネ!』
そう言って彼らの前にふわりと現れたのは水棲族セイレーン。海の碧の長い髪を靡かせて、肌は蒼く滑らか。ふっくらした胸を白い布で覆う。魚のヒレのような耳に、下半身もまた魚。30㌢の体長は、時折見えない人の目の前にも姿を現しその美貌と美声で海へと引きずり込むセイレーンにしては珍しい。
ただその小ささに反してかなりの年月を生きた気配のある彼女はふよふよと漂いながらアサギと間違われた事に拗ねて頬を膨らませている。
「何でセイレーンがここに……」
と呟きながらも可能性は1つだけ。消えていった魂の内の一つが彼女の主人だったのだろう。
使い魔は主人が死んでも生きる事が多い。稀に繋がりが濃すぎて主人と共に消滅する個体もいるが、大概は生き残り次の主人を待つ為に自然に溶け込むのだ。
恐らく彼女もまた主人の魂と共に珠へ封じられていたのだろう。
アサギの問いにセイレーンはその場でくるんと一回転し勝ち気に笑った。
『ふん、ガキんちょに関係ないデショ』
途端に力を使った反動の極度の疲労感など吹っ飛ぶ。
「ガキじゃない!」
ムッ、として言い返すアサギにケイが珍しいな、と青年を見下ろした。見下ろしながら、いや、珍しくないか、と考え直したのは港町での一件だ。そう言えば実際の年齢をまだ聞いていなかったが10代後半に見える彼は子供のように手を引かれて歩くのに腹を立てていた様子だったから、恐らくは子供扱いをされる事が嫌いなのだろう。この年代では多いことだけれど、あまりそういう面をケイ以外に見せない彼がここまで態度に出す事に関してはやはり珍しい。
『そんなのでムキになるとこがお子ちゃまじゃない』
「お前の望み通りに助けてやったのに礼もなしかこのチビ!チービ!」
『!!チビチビ言わないでよネ!今は力が足りないだけヨ!このガキんちょ!!バーカバーカ!』
「バカ!?バカって言う方がバカなんだぞ!チビ!」
『ガキんちょ!!』
ケイは本当にアサギにしては珍しい低次元な言い争いを続ける一人と一匹を暫く笑いを耐えながら見つめて、カルとアーセルムは普段と違うアサギにポカンとしている。もう暫く子供っぽいその姿を見ていたいがいつまでもここにいるわけにはいかない。やはり笑いを耐え口を開いた。
「とりあえず一度船に戻るぞ」
そこで初めてアサギ以外を思い出したのだろう。セイレーンは口元に手を当て
『あら、あらあらあら、やだワ』
とケイの側へ寄っていく。
『イイ男がいるじゃない。あなた、アタシのご主人様になってくれない?』
ペタ、と胸元に擦り寄る彼女に自分に対する態度と違うことにアサギが嫌そうな顔。
「生憎俺は特異体質でな。使い魔は宿せねぇ。他当たれ」
ケイが苦笑いと共に他二人を指すが、
『やぁヨ!どっちも先住がいるじゃない。サラマンダーと蛇なんて最悪だワ!』
ぷん、とセイレーンがそっぽを向けばひょこ、と現れたラネルが地団駄を踏むように威嚇している。ついでにセンリからも嫌悪のオーラが立ち上る。
二匹とも彼女の言葉にそれはこっちの台詞だと怒っているらしい。確かに相性はかなりよろしくないようだ。
「……ま、船に行きゃ他にもイイ男は沢山いるからそっちで探せ」
ケイ以外の三人はほぼ同時に
(イイ男……)
と脳裏に乗員を思い浮かべる。とりあえず大部分は厳つい海の男達で、セイレーンの言う“イイ男”かどうかはちょっと謎である。
『なら早く!早く行きましょ!300年も閉じ込められてたの、いい加減うんざりヨ』
アサギは思わず化け物を振り返った。
(300年……)
彼女は役目から解放された事さえわからず300年もの間この船と共に彷徨い続けたのか。
正直彼女の気持ちは痛いほどによくわかる。
(……だって俺は、)
その役目から逃げてきたのだから。
側に座りケイが止める間もなくソッ、と醜い顔に触れた。見開いたままの眼球を塞ぐ目蓋は存在しない。その目を手の平で覆い、もはや髪とも呼べない頭部の塊を撫でて囁く。
「もう自由だよ……」
『グ、ォォ……っ』
完全に沈黙していた筈の化け物の口から苦痛のような声が漏れ、後ろの3人が武器を構える気配を感じながらも構わず撫で続ける。
目に当てた手の平には暖かい水の感触。
「自由なんだよ」
『ォ、オォォ……』
「うん、大丈夫。足りないならちょっとわけてやるから」
もう熱すぎて感覚のない背中はまたもジリジリと熱を発し始め、手の平が淡く光る。
『コ、ワ、イィィィ――』
「大丈夫、怖い事はもう終わった。ゆっくりそこから離れて」
『ウア……アァァァァ……』
何かを引っ張り上げるように指を軽く曲げたまま立ち上がるアサギにつられるように、手の平にはぼんやりと光が集まっていく。
やがて全ての光がアサギの手の中に集まると彼は両手でその光をソッ、と包む。光は戸惑うようにチカチカ明滅しながらふわりと浮かび上がった。
「ほら、軽くなった」
背後のケイ達にその表情は見えないけれど想像することはできる。恐らくその声色と同じ優しく穏やかな笑みを浮かべているのだろう。
光は暫くチカチカと戸惑いながら部屋を彷徨っていたが、やがて自由になった事実を理解したようで一際明るく輝くとアサギの周りを数回回ってふわりと消えていった。
流石に疲労がピークに達したらしいアサギがかくり、と膝を折り床に崩れ落ちる前にケイが抱き止める。
「っ!?」
だがその背が燃えるように熱い。思わず服を捲ろうとしたその手を力任せに振り払われて一瞬動きを止め、アサギの顔を窺うと彼は静かにケイを睨んでいた。まるで初めて言葉を話したあの日のような視線に小さくため息を吐いて抱き上げる。
尻の下と膝裏で支える抱き方が不安定で慌てて首に縋るアサギの熱い背をあやすように撫でていると。
『……フン、あの女もようやく成仏したのネ』
どこか悲し気な、そして苦し気な声色でセイレーンが呟いた。男達の問うような視線に彼女は答えない。
あの化け物になってしまった女をここへ閉じ込めたのは彼女の愛した男だからだ。男は私利私欲の為に彼女を奪い、繋ぎ、やがて化け物へと変えてしまった。
それでも善悪が乏しい魔に属する彼女は男を愛していた。だから男の望むまま付き従っていたのだけれど、本音は少しだけ女に同情する気持ちも確かにあったのだ。
化け物になってしまった女が彼らの魂を刈り取って集め珠に閉じ込めて、さらなる魂を求めて船と共に彷徨うのをただ見ていた。いつか彼女の気も晴れ解放されると思っていたからだ。
なのに、解放の時は訪れなかった。
集められ閉じこめられ続けた魂達の思念を集め少女の形を作り、幽霊船に誘われ乗り込んで来た人々に解放を願ってきたけれど、みな女に刈られ珠へ閉じこめられた。
300年それを繰り返す内彼女の愛した男は心底自分の罪を後悔し懺悔し涙を溢し続けて、そして今日漸く解放されたのである。
ただあの女があの珠をどこで手に入れたかはずっと共にいた筈のセイレーンですらわからない。
ケイが何かを言おうと口を開いたそのタイミングで、足元に微かに伝わり始めたのは震動。気づいた瞬間は小さな物だった震えはすぐに大きくなり、ゴロゴロ、と空き瓶が転がって壁がミシミシ鳴っている。
「……なぁ、俺ちょっと嫌な予感するんだけど気の所為だと思うやつー」
「いやぁ、……これは気の所為じゃねぇと思うっすよぉ?」
「だよなぁ。……走れッ!!」
バキッ、という音と共に濁流が流れ込んだ。
◇◇
幽霊船から沢山の光がフワフワと天へ昇っていく不思議な光景を部下達と共にぽかん、と見上げて暫く。
「副長、何だか嫌な音が聞こえるんですが……」
先程まで全く動きのなかった隣の船が揺れている。それに合わせてこちらの船も煽られるように上下に揺れ始めた。
「緊急配備」
短く指示を出し、まだ姿の見えない上司を想う。
(何やってるんですか、バカ船長)
カルの連れている使い魔サンリでは全員は守れない。アーセルムのラネルでは水との相性が悪い。
「フラン」
『キィ』
する、と姿を現したフランは力強く羽ばたいた。
◇◇
『うー……っ!主人のいないアタシじゃあそんなに力出せないんだから……っ、早く走んなさいヨぉ~!!』
飲み込もうとする海水を何とか押し止めるセイレーンに助けられながらひた駆けていた彼らの背中をグイッと押すような追い風が吹いた。
『キィ!』
「フラン!」
『げぇ!何でハーピーなんかがここにいるのヨ!』
セイレーンは嫌そうな声を上げたがフランの風のおかげで先程よりも駆け上がる速度は早い。いつの間にか開け放たれている扉から飛び出した時には自船の船縁はこの中で一番長身のアーセルムの背丈よりさらに上。
「船長!」
ゴン、と何度か音が響き重石と共に投げられたロープの輪になった結び目に足を掛ける。足手まといは嫌だと疲労を圧して自力で駆けてきたアサギには恐らくもうロープに掴まるだけの気力はない筈だ。
ケイは一瞬の迷いもなく隣のロープを引き寄せアサギの体に巻き付けるとそのまま抱き上げた。例えケイがバランスを崩しても巻き付けたロープが命綱になる。
隣のアーセルム達も同じように足を掛けた所で上から威勢のいい掛け声がかかり体が持ち上げられ、足元の船は離れていく。
それは向こうが緩やかに離れている所為でもあるし、自船が自ら離れている所為でもある。
何人もの手で引き上げられ甲板に転がった4人は一息つきながら幽霊船を見た。
魂は解放され、もはやあの船の役目は終わったのだ。
「……良かったな」
何となくそう思ったそのままを呟くとアサギは一瞬驚いたように振り返って、やがて小さくこくりと頷いた。
「感傷的なとこ悪いですが」
そんなやり遂げた感を感じていた二人の頭上からひんやりとした声が落ちてきて、ケイはサッと頭と腹をガードするがガードしきれなかった箇所に拳が入り
「ぅぐ……っ」
と呻く彼を鬼の形相で見下ろすのは当然リツである。
「今日という今日は言わせてもらいます!」
「いや、お前文句ならいつも言ってるから」
「煩いです!こっちがどれだけ心配したかわかりますか!?大体あなたは――」
延々続きそうだったお説教をぶったぎったのは
『きゃー!』
というセイレーンの悲鳴だった。何事かと振り返ったリツの目を盗みこそこそ逃げ出すケイをアーセルムが笑って迎える。
ようやく恐怖から解放されたカルが
「副長ぉぉぉ、怖かったっすー!」
としがみついて、セイレーンは
『イイ男!イイ男がいるワ!』
とリツに張り付いてフランに翼でひっぱたかれ、間に挟まれたリツは困り果て、アサギは座り込んだままくすくすと笑っている。それを見ながらアーセルムはいつになく真剣な顔をケイへと向けた。
「船長、あの子」
「何だ、気付いたのか。……黙っとけよ。カルにも言っとかねぇとな」
「カルは多分気付いてませんよ。あいつそんな知識ないでしょ。噂ぐらい聞いてても実物がどんなのかなんて知りませんよ。それより……何考えてんです?あの子は俺達が連れ回せる相手じゃないでしょ」
アーセルムの語尾が伸びない時は素の時だ。そしてそういうときは下手な誤魔化しは通用しない。
「本人が帰りたがるまではこのままだ」
「……あの人の代わり、っすか」
リツと同じ言葉に小さく笑ってアーセルムを見返す。
「いや?」
後ろめたいことなど1つもない、いつものケイの笑み。
そう、もう代わりなどではない。彼女の代わりはどこにもいない。例え同じ運命を負っていても彼は彼で、彼女とは違うのだ。
アーセルムは暫く挑むようにケイのその笑みを見つめていたがやがて大きく息を吐いた。
「まぁ俺はあんたを信用してるんでー、あんたがそのつもりならどこまでも付き合うっすよー 」
「そりゃどうも。……お前、素の方がモテんじゃねぇの?」
「やぁですよ、女寄ってきてうぜぇ。この喋り方だとぉ、結構引かれるんすよねー。オネエと迷ったけどやってみたらキモかったんでー」
「マジか、やってみちゃったのか。ちょっと聞いてみたい」
「船長が副長の前でオネエしてくれたらしてもいいっすよー?」
「お前は俺を殺す気か」
アサギはまだ騒ぎを見て笑っている。
――もう自由だよ
本来負けず嫌いで好奇心旺盛、責任感も感受性も強い普通の青年である筈の彼はどんな気持ちであの一言を発したのだろう。ケイはただ静かにアサギを見つめた。
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