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イグニス

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 大量の水を指先1つで操れる魔力量があるなら一人でも倒せるんじゃないかと思ったけれど、男はまだ足を引きずっている。早く動くのは無理そうだ。
 僕も精霊術を使って遠距離から攻撃出来るけど、敢えてしないのは物理で戦えるというのを見せておく為だ。変に舐められて家までついて来られたら嫌だし、実は悪人で脅して悪事に加担させようという気を削ぐ為でもある。尤も役に立ちそうだから、と目をつけられたらそれはそれで困るんだけど。

「足元を凍らせる。あいつさっき火の魔術を使ってたから保って10秒」

 動物型をしているからと言って知能が低いわけじゃない。物理特化の魔獣もいるけれど、中には魔術を使ってくる奴もいる。魔獣が魔素から産まれた異形だと考えたら自然な事らしい。
 ジリジリとお互いに距離を計り、タイミングを見計らう。一歩間違えたら大惨事だ。万が一失敗したら中級精霊くらいは呼び出さないと危ないかも知れない。

 グルルルル、と唸る声が一段と低くなる。

「爪ギリギリで跳ぶ」

 端的に言ったけれど伝わっただろうか。

(一歩、二歩、三歩……今!)

 跳び上がった足の下を魔獣の巨大な爪が通過していく。と、同時にキンと澄んだ音を立てて広がった氷が一瞬魔獣の動きを封じた。この魔獣の弱点は知っている。――顔面についている物ではない目玉、だ。
 頭頂部の窪みにある不気味な目玉がギョロギョロと動いている。白目と黒目が反転したような見た目は気持ち悪いけれど、腰から引き抜いた短刀でまず頭頂部を一突き。着地したと同時にパキン、と音を立てた足元の氷で滑らないようにしながら振り向きざまに背中の目玉を一突き。雄たけびを上げ、腕を滅茶苦茶に振り回そうとする魔獣の腕を凍らせたのを見て脇の下にある最後の1つを突いた。
 断末魔の叫びが上がって、ドッと重たい音を立てながら魔獣が倒れる。

「……終わった。これ、解体して村に持って行ったら歓迎されるんじゃない」

 魔獣と言えど食べられるのがこの獣型の特徴だ。普通の獣と違って脂ののりも良く、特に熊型の魔獣は使えない所がほぼないから重宝されている。買おうと思えば高価なそれをたまに村人に渡すと凄く喜ばれるから、沢山捕れた時にはお互い分け合うのが暗黙の了解となっているんだ。
 見た目が異質な色持たずの僕を快く受け入れてくれた村人の為にも熊型の魔獣が出た時は出来るだけ皆に振舞うようにしてる。

「仕留めたのは少年だろ。自分で持って行ったらどうだ?」

「あんた連れを待たないといけないんでしょ。待ってる間に解体して、連れと一緒に持って来たら?」

 余所者は警戒されやすいけれど、熊肉を土産にしたら多少は歓迎してもらえるに違いない。男には言わないけど今日のうちに村長には森に旅人がいて、近々村に来るかも知れない事は話しておこう。

「明日までに連れが来なかったら、朝一で村の女の子達がこの辺りに木の実を取りに来るから」

 朝になれば魔獣の多くは大人しくなるし、昼間に活動する魔獣は大人しい。だから昼の森は危険が少なく、女の子達でも気軽に来られる場所。その子達と熊肉を持って帰って来たら、村の男達が連れを捜す手伝いくらいはしてくれるだろう。
 それに解体には時間がかかるから僕の後をつけられる心配も減るし。というかそれが一番大きい理由だ。尤も魔獣を放置して付いて来られたら困るからここを離れたら少し遠回りして帰ろう。

 ◇◇

「随分とそっけない子ですね」

「イグニス」

 木々の影からひょっこり現れた赤毛の男――イグニスは少年が去った方角を見つめている。見たところ大きな傷は負ってなさそうで安堵した。

「あの崖から落ちて良く無事だったな」

「周りに土があって助かりました。岩石は操れませんから」

 イグニスの魔力属性は火と土。戦いの途中媒体となる松明を失った彼が使える魔力は土属性のみだったが、岩石の奥にある土を呼び起こし何とか足場を作って着地し、事なきを得たらしい。
 魔獣の群れに襲われ、大半は何とか倒したものの残った大型の魔獣に後れを取ったのは自分達の油断が招いた事だろう。隣国では考えられない事だが、この国ではまだ辺境の村々への魔獣対策は疎かになっているようだ。
 
 シルヴェスター皇国では、貴族の腐敗が目立つようになってきていると聞く。本来上に立つ人間として民が健やかに暮らせるよう心を砕くべき貴族達が、こぞって民を虐げ私腹を肥やしていると。
 現皇帝ゲルハルト・リヒト・シルヴェスターが腐敗した貴族の一部を罰した物の、全ての貴族を廃爵してしまえば国が立ちいかなくなる事もわかっている為、全粛清に乗り出せないでいるのだ。しかもその疑惑の貴族達は皇太子派として強い発言権を持っている。現皇帝とはいえおいそれと罰する事が出来ないでいるらしい。

「皇帝はまともなのに、その息子が馬鹿だと民は苦労するな」

「周りに碌な大人がいなかったのでしょう」

 爵位の低い娘を正妃に迎えた皇帝への反発。
 公爵家から来た由緒正しい娘が側妃となった事への反発。
 それはそのまま息子達の処遇を決める事となった。後ろ盾の少ない皇后が生んだ第一王子は12歳の頃暗殺されたと聞く。その悲報に、元々貴族からの嫌がらせにより心を病んでいた皇后は数年後にこの世を去った。彼女を心から愛していた皇帝は嘆き、国は1か月以上喪に服したという。
 第二王子派の仕業だと断定できる証拠もなく、誰も断罪出来ないまま第二王子は皇太子となった。
 それが影響したか定かではないが現在皇帝と、皇后の死によりその座を得た現皇后との仲は冷え切っており彼らの間に新たな子はいない。
 
「あの皇太子が皇帝になった時にはこの国はすぐ滅びるだろう」

「アクア。我々にこの国の行く末を案じる必要が?」

 まるでわからない、と首を傾げるイグニスにアクアと呼ばれた男はただ苦笑を返した。

 
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