34 / 160
34
しおりを挟む
理由は教えてもらえなかったが、その時から奈津は母と共に、母の実家で祖父母と暮らすことになった。父に会えなくなった理由を何度も母に尋ねた気がするが、曖昧な答えしかもらえなかったように思う。
祖母は、母に似てよく笑う優しい人で、祖父は少し頑固だが物知りで頼りがいのある人だった。
実家には大きなグランドピアノがあり、母はまた子どもたちにピアノを教えた。髪は短くなり、静かに微笑んでいることが多くなった。
その頃、母がよく弾いていたのは、『ラプソディー・イン・ヘヴン』という曲だった。物憂げな美しい旋律を弾いていたかと思うと急に激しく鍵盤を叩き出し、不協和音すれすれのメロディーになったかと思うとまた穏やかな旋律に戻る。子供心に、不思議な魅力がある曲だと思った。
『ラプソディーってね、形にとらわれたりしないで、自由なところがいいのよ』
『じゆう?』
『……こうでなくちゃ、とか思わなくていいのよ。結局は、自分の好きにすればいいのよね』
そんな風に母は楽しそうに言っていたが、時々、憑かれたようにピアノを弾く姿は少し怖いものがあった。大人になって分かったのだが、母はかなり自我流にこの曲を弾いていた。結構大胆だったんだな、と思う。
奈津は、母に叱られた記憶がほとんどない。もちろんだめなことはだめだと言われるが、酷い叱責を受けたことはなかったと思う。それは単に、奈津が大きく道を外すような間違いを犯さなかったから、だけなのかもしれないが。
母が亡くなったのは、奈津が中学校3年に上がったばかりの春だった。
胃がんだった。見つかった時にはもう手遅れで、進行が早くあっという間に亡くなった。あまり苦しまずに済んで、良かったのかもしれない。母が大好きだった桜も、最後に見せることができた。
葬式には、父も来た。久しぶりに会う父は、随分と小さく見えた。
柩を前にした父は手で顔を覆い、『すまない』と何度も何度も繰り返し、泣いていた。祖父母は黙ってそれを見ていたが、父が柩に横たわる母に手を伸ばそうとした時、祖父がその手を掴んで止めた。
斎場の桜は、もう散りかけていた。
祖母は、母に似てよく笑う優しい人で、祖父は少し頑固だが物知りで頼りがいのある人だった。
実家には大きなグランドピアノがあり、母はまた子どもたちにピアノを教えた。髪は短くなり、静かに微笑んでいることが多くなった。
その頃、母がよく弾いていたのは、『ラプソディー・イン・ヘヴン』という曲だった。物憂げな美しい旋律を弾いていたかと思うと急に激しく鍵盤を叩き出し、不協和音すれすれのメロディーになったかと思うとまた穏やかな旋律に戻る。子供心に、不思議な魅力がある曲だと思った。
『ラプソディーってね、形にとらわれたりしないで、自由なところがいいのよ』
『じゆう?』
『……こうでなくちゃ、とか思わなくていいのよ。結局は、自分の好きにすればいいのよね』
そんな風に母は楽しそうに言っていたが、時々、憑かれたようにピアノを弾く姿は少し怖いものがあった。大人になって分かったのだが、母はかなり自我流にこの曲を弾いていた。結構大胆だったんだな、と思う。
奈津は、母に叱られた記憶がほとんどない。もちろんだめなことはだめだと言われるが、酷い叱責を受けたことはなかったと思う。それは単に、奈津が大きく道を外すような間違いを犯さなかったから、だけなのかもしれないが。
母が亡くなったのは、奈津が中学校3年に上がったばかりの春だった。
胃がんだった。見つかった時にはもう手遅れで、進行が早くあっという間に亡くなった。あまり苦しまずに済んで、良かったのかもしれない。母が大好きだった桜も、最後に見せることができた。
葬式には、父も来た。久しぶりに会う父は、随分と小さく見えた。
柩を前にした父は手で顔を覆い、『すまない』と何度も何度も繰り返し、泣いていた。祖父母は黙ってそれを見ていたが、父が柩に横たわる母に手を伸ばそうとした時、祖父がその手を掴んで止めた。
斎場の桜は、もう散りかけていた。
1
お気に入りに追加
40
あなたにおすすめの小説




百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

寮生活のイジメ【社会人版】
ポコたん
BL
田舎から出てきた真面目な社会人が先輩社員に性的イジメされそのあと仕返しをする創作BL小説
【この小説は性行為・同性愛・SM・イジメ的要素が含まれます。理解のある方のみこの先にお進みください。】
全四話
毎週日曜日の正午に一話ずつ公開
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる