ブライダル・ラプソディー

葉月凛

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          ◇

(ああ、もう何やってんだか……)

 外に出てすぐに、奈津は自分の荷物を全て音響台に置きっぱなしにしていることに気が付いた。すぐには戻る気になれず、近くの公園で時間を潰すことにする。ポケットの小銭で缶コーヒーを購入し、足を向けた。

 メルマリーから程近い場所にある、木立に囲まれたこの小さな一角は、奈津のお気に入りの場所だった。公園といっても、楕円にひらかれたスペースに遊具などはなく、真ん中は少し盛り上がった芝生になっているだけだった。芝生には囲いもなく、その周りにベンチが幾つか点在している。

 この時間に人はほとんどいなくて、たまに犬の散歩に来た人を見掛けるくらいだった。奈津は、一番大きな木の側にあるベンチに腰を下ろし、缶コーヒーのプルタブを引き上げた。

 ここにある木は、全て桜だ。今は緑が青々と茂っている。
 奈津は、桜が好きだった。

 メルマリーに初めて来たのは、今年の3月の初めだった。ひと月も過ぎた頃、この一角は桜で埋もれるように満開になった。奈津は仕事の帰りに、よくここに立ち寄った。その頃はさすがに人も沢山いて賑わいを見せていた。メルマリーのスタッフも、ここで花見をしたと聞く。

 成瀬と初めて会ったのは、桜が蕾をつける少し前の頃だった。

 本城に、散々厳しい人だと脅されていたのだが、実際に会った成瀬に、奈津は初めから好感を持っていたように思う。事実、どんな小さなミスも容赦なく追求され叱責を受けるのだが、いつも筋が通っているし気分屋なところもない。……少々、話がくどいところはあるが。

 耳に痛いことを言われるのは辛いけれど、自分の弱いところや間違ったところを叱ってくれるのはありがたいと、奈津は思っている。本城もそうだ。……決して、叱られたい訳ではないけれど。

 厳しく叱ってくれるような人が、これまで奈津の周りにはあまりいなかったせいかもしれない。それは決して親身になる人がいなかった訳ではなく、むしろその逆だった。奈津の周りの人は皆、奈津に優しかった。その最たる人が、母だ。

 奈津の母はピアノの先生で、自宅で近所の子供たちにピアノを教えていた。その影響で、奈津は物心がつく前からピアノに触るようになり、小学校に上がる頃には、母に褒められるのが嬉しくて夢中になって練習したものだった。

 きれいな黒髪で、ころころとよく笑い、奈津と同じ大きな黒い瞳をした優しい母が、大好きだった。

 父は、大きくて、穏やかな人だった。
 いつもソファの同じ場所に座り、母が弾くピアノをゆったりと聴いていた。そんな時に自分が側に行くと、大きな手で頭をぽんぽんと撫でてくれた。その様子を横目で見ている母も嬉しそうで、よくよそ見をしながら間違えずにピアノが弾けるなあと、不思議に思っていたのだった。

 両親が離婚したのは、奈津が小学校3年生の時だった。

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