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「ヴィクトリアとウォルター殿下が婚約する事になった」
 お父様がそう言ったのは私が十歳、ガードナー家に来て三年くらい経った頃だった。
「婚約?」
 お父様を見上げる私の頭に、お父様はポンッと手を置く。
「そう。ヴィクトリアとウォルター殿下は将来結婚する約束をしたんだよ」
「結婚!」
 その時、私は嬉しかった。
 お父様はお義母様と結婚していて、母さまとは結婚していなかった。
 自分の母が「愛人」と呼ばれる立場で、自分が婚外子である事、だからお義母様に疎まれている事もその頃にはもう良く理解できていたから、大好きなお姉様と、大好きなウォルター殿下が将来正式に結婚すると約束した事が、本当に嬉しかったわ。

 殿、か。
 自覚はなかったけど、もうあの頃には私、ウォルター殿下の事を特別に好きだったんだろうな…

「ヴィクトリア?」
 ドッキンッ!
 紫の瞳が至近距離に見えて、アイリスの心臓が大きく跳ねる。
 坑道へ視察に向かう馬車の中で、ウォルターが隣に座るアイリスの顔を覗き込んでいた。

「今日はずっと黙っているけど、どうしたの?」
 心配そうな表情。
 …ヴィクトリア、か。
「昨夜、夜中に目が覚めて、それから少し眠れなかったので…」
「眠れなかったの?」
 ウォルターがますます心配そうな表情になる。
「大丈夫です。それより、東国へ繋がってる道は、どの辺りにあるんですか?」
 アイリスはウォルターから目を逸らすと、馬車の窓から外を見た。
 今日視察に行く坑道への道のりの途中に東国へ通じる道への入口があると聞いていたのだ。
「ああ。ちょうどもう少しで見えるよ」
 ウォルターが窓に顔を近付けて外を見ているアイリスの横からアイリスと顔を並べて窓を覗き込む。

 馬車の窓、そんなに大きくないから仕方ないけど、かっ顔が近い。
 好きだって自覚しちゃったらこの距離は心臓に悪いわ。
 アイリスが少しウォルターから離れようと身体を動かすと、すかさずウォルターがアイリスの肩を抱くように押さえた。
「ひぇっ」
 アイリスは思わず小さく悲鳴を上げる。
 だから、近っ。近いってば。それに、肩、肩に手が。
「あそこだよ」
 ウォルターが窓の外を指差すので、アイリスは心の中で悲鳴を上げながらも外を見た。

 ウォルターが指差したのは、馬車がすれ違える道から脇へと入る、何の変哲もないただの道だった。
 でも馬車一台くらいなら通れそう。
 でも馬車は通れなくて、徒歩か馬じゃないと東国までは行けないのよね?つまり途中で狭くなるって事か。
「採取された銀の運搬は、大半は山の麓沿いの広い道を使う。この道は急ぎの物を運んだり、人が緊急で行き来するためのものだね」
 あっという間に東国へ通じる道の入口は見えなくなったが、ウォルターはアイリスの肩を抱いた手を離しながら言う。
「そうなんですね」
 アイリスが小さく息を吐きながら言うと、ウォルターはアイリスの隣に座り直した。
「あの道を入ってしばらく行くと険しい山道に入る前に平地があって、そこには小さな集落があるんだよ。馬車から馬や徒歩に切り替える時、乗ってきた馬車や馬を預かったり、東国から山を超えて来た者に馬車や馬を貸したりしているんだ」
 なるほど。途中まで馬車で行けても、そこから徒歩とか馬だとその場に馬車とか置いて行く訳にはいかないものね。

 東国に割り当てられた坑道の近くに馬車が停まる。
 先に馬車を降りたウォルターがアイリスに手を差し出した。
 これも、昨日までは平気…むしろちょっと嬉しかったけど、自覚してしまったら何だか恥ずかしいと言うか、気不味いような申し訳ないような…
「ヴィクトリア?」
 ウォルターの手を取るのを少し躊躇ったアイリスに、ウォルターが少し首を傾げる。

 あ。
 そうだ。「ヴィクトリア」だわ。
 ウォルター殿下が手を差し出してるのは私じゃない。
 お姉様だ。

「ヴィクトリア?」
 ウォルターがヴィクトリアを呼ぶ声にアイリスは我に返ってウォルターの手に自分の手を乗せた。
「眠れなかったなら、馬車で休んでいても良いんだよ?」
 心配そうに自分を見るウォルターに、アイリスは笑顔を向ける。
「大丈夫です」
「そう?」

「ウォルター!」
 先に到着していたラウルがウォルターを呼び、ウォルターは
「無理しないようにね」
 とアイリスに言い残してラウルやベンジャミンたちの元へと駆けて行った。



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