婚約者が記憶喪失になりました。

ねーさん

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 ヒヒーンッ!
 馬が嘶いて急停止する。
「マジョリカお嬢様どうなさっ…」
「あの馬車を追い掛けて!」
 マジョリカは馬車の窓を開けると、窓から半身を乗り出して御者に怒鳴り、すれ違った馬車を指差した。
「あれはマルセル公爵家の馬車では?」
「いいから追い掛けて!前に回り込んででも馬車を停めなさい!」
「しかし…」
「あの女に話があるのよ!今すぐ!行かなきゃクビよ!」

-----

 セシリアを見送り、部屋に戻ったシルベストはドサリと音を立ててソファへと座る。
「何だこれは…」
 自分の両手を持ち上げると、その手は小刻みに震えていた。
 心臓もずっとドクドクと鳴りっぱなしで、冷や汗が背中を流れている。
 ずっと。ずっと。
 
 これは、まるで…
「は…」
 シルベストは手を握ると、苦笑いを漏らすように短く息を吐き、ソファから立ち上がった。

-----

 山を越える道は馬車がすれ違うには狭く、離合のためにところどころが広くなっている。
 前を行く一台の馬車を追う、もう一台の馬車。
「おい!停まれ!」
 段々と近付きながら後ろの馬車の御者が叫んだが、蹄の音と車輪の音で前の馬車には届かない。
 御者はチッ!と舌打ちをした。
 その先の広い所で、一気に抜かして前に出る。それからスピードを緩めればあの馬車を停められるだろう。
 御者はスピードを上げると、前の馬車へ近付く。

 前の馬車に追い付き、追い越そうとした、その時、緩やかなカーブの向こうから別の馬車がこちらに向かって来るのが見えた。
「!」
 前の馬車と、後ろの馬車、対向の馬車も、御者は同時に手綱を引く。
 
 ───凄まじい音を立て、三台の馬車が衝突した。

-----

 部屋を出たシルベストが廊下を歩いていると、別荘を管理している祖父の執事が急ぎ足で階段を上がって来ているのが目に入る。
 別荘の管理と祖母の療養生活の差配を任せている執事は元々祖父付きのベテラン。いつでも落ち着き払っていて、この執事が少しの動揺を見せたのは祖父が倒れた時のみだ。その執事の急ぎ足に、シルベストは嫌な気配を感じた。
 もしやお祖母様の容態が?
 いや、しかし、俺は今…
「シルベスト様!」
 階段上の廊下に立つシルベストに気付くと、執事は眉を寄せて話し掛けて来る。
「どうした?」
「ここから隣町へ向かう山道で馬車同士の事故があったようだと連絡がありました」
「事故?」
「時間と場所から、セシリア様の乗られた馬車ではないかと…」
「!」
 ドクンッ!と心臓が大きく脈打った。
 シルベストは小さく震え続けている手をグッと握る。
「馬を。すぐ向かう」
「はっ!」
 彼女がここを立ってから、まだそんなに時間は経っていない。現場は近いだろう。
 ドクンッドクンッと鳴る心臓を震える拳で押さえ、シルベストは階段を駆け降りた。

-----

 衝突した三台の馬車。
 対向の馬車は山側の藪へと突っ込み停車、貨物を乗せた馬車に大きな損傷はない。
 後ろの馬車は急停止の遠心力で車体を振られ、横並びになりかけていた前の馬車に車体をぶつけ、道を塞いだ。
 前の馬車は斜め横から後ろの馬車にぶつけられ、横転し、道からはみ出し山肌から落ち掛けて止まっていた。
 グッタリとした馬、興奮状態の馬、横転した二頭引きの馬車の馬は一頭の姿がない。
 シルベストが馬を駆け、事故現場に向かう途中、鞍のついていない馬に乗った男性と行き合った。
 貨物を乗せた馬車の御者で、シルベストは別荘へ怪我人を収容するので別荘へ応援を要請に行けと御者に指示し、また馬を駆ける。

 現場に着くと、マジョリカが道端に座り込んでいた。
「シルベストお兄様!」
 シルベストに気が付くと、馬を降りるシルベストに取り縋る。
「セシリアは!?」
「…お兄様、わ、私…」
 シルベストは自分のシャツの袖を掴むマジョリカを引き剥がすと、山肌から落ち掛けているマルセル家の馬車へと向かう。
「セシリア!」
 名前を呼びながら近付くと…車体の下になった方の扉が開いていて───
「まさか…」
 馬車の中は無人。開いた扉の下方へは草木が生えた薮が続いていた。
 まさか、落ちたのか!?
「セシリア!」
「お兄様!!」
 薮へ踏み込もうとするシルベストの足にマジョリカが抱き付く。
「御者が、もう探しに行きましたわ。それより私、足が痛くて」
「……」
「!」
 シルベストはマジョリカを無言で見下ろした。
 その冷たい瞳にマジョリカはビクリと肩を揺らす。
 無言で足を払い、マジョリカの手を振り払うと、シルベストは薮へと踏み出した。



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