婚約者が記憶喪失になりました。

ねーさん

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 別荘でシルベストの祖母と面会した次の日、朝一番でセシリアはシルベストの部屋に呼ばれた。
 セシリアが部屋に入ると、シルベストは人払いをし、扉を開けたままの部屋にはセシリアとシルベスト二人だけになる。
 ソファに向かい合わせに座ると、シルベストは膝の上で両手を握り合わせた。

「セシリア・アボット子爵令嬢、キミとの婚約を解消させて欲しい」
 シルベストは眉を寄せ、苦渋の表情で、しかしハッキリと、目の前のソファに座るセシリアに告げた。
 …ああ、とうとうこの日が来たんだわ。
 セシリアは苦しげなシルベストを見つめ、そして目を伏せる。
 どんな時にも表情を変える事のないシルベストが、こうして目に見えてわかるほど苦しげな表情をしている。その事がセシリアの心をわずかながら満たしていた。
 シルがこうして少しでも感情を表せるようになったなら、それだけで…
「承知いたしました」
 少し震える声で、セシリアは言った。
 記憶と一緒に私のシルは失われてしまった。だからもう心の中でも「シル」と呼ぶのはやめなくちゃね。

「勝手な願いだが、別荘ここから出るまでは婚約者として振る舞ってくれないだろうか」
 祖母のためにと頭を下げるシルベストにセシリアは「わかりました」と頷く。
 元々今日の午後にはセシリアだけが王都へ帰るべく別荘を立つ予定だったし、婚約解消の手続き自体がシルベストが王都に戻ってからになる。貴族の婚約に関しては議会や教会の承認が要るのだから実際に婚約が解消されるのはもっと先になるのだ。
 セシリアはソファから立ち上がるとドレスのスカートを摘んで礼をした。
「シルベスト様…いえ、マルセル様、今までありがとうございました」

 セシリアが潤んだ瞳でシルベストを見る。
 ドクンッとシルベストの心臓が鳴った。
 ドクン、ドクンと脈打つと、冷や汗が吹き出す。
「俺の方こそ、キミには申し訳ない……」
 胸を押さえるシルベストの目に、心配そうなセシリアが映った。
「いえ。マルセル様のせいでは……あの、大丈夫ですか?」
「大丈夫だ」
 シルベストは口元を手で覆うと、大きく息を吸って、大きく吐く。それからセシリアを真っ直ぐに見た。
「キミには本当に申し訳ないと思っているし、感謝している」
「……はい」
 セシリアの寂しそうな笑顔に、シルベストはまた胸を押さえる。

 セシリアが部屋を出て行ってもドクドクと打つ鼓動と冷や汗は止まらなかった。
 
-----

 午後のつもりだったけど、昼食でシル…いやマルセル様と顔を会わせるのも気まずいし、すぐに出発しようかな。
 セシリアがそう考えながら部屋に戻ると、すぐにクラリッサがやって来る。
「マジョリカがもうすぐ到着するらしいの」
 今日の夕刻に別荘に着く予定だったファイネン公爵家一家が、随分と早く到着するようだ。
「じゃあ、私、もう出るわ」
「え?でも」
「マジョリカ様と顔を合わせない方が良いと思うし」
 セシリアはそう言いながら衣装部屋に行くと、スーツケースを引っ張り出した。
「そうね。侍女を呼んで来るわ」
 クラリッサが部屋を出て行く。

 床に置いたスーツケースを開いて衣装部屋に行く、と、ポロッと一粒涙が落ちた。
「…終わっちゃった」
 ポツリと呟く。
 少しの間俯いていたセシリアは、ふるふると頭を振って顔を上げた。
「あ、しまった。最後の我儘で頭を撫でさせてもらえば良かったわ」
 明るく言って、持って来た服を掛けてあるハンガーから外していく。
 ほどなくクラリッサが侍女を連れて戻って来た。

-----

「セシリアお姉さま、もう帰っちゃうの?」
 別荘の玄関の前でロレッタが悲しそうな顔でセシリアを見上げる。
「ごめんね。ロレッタ」
 ロレッタの頭を撫でた。
 髪質がマルセル様に似てる。でもロレッタの方が髪が細い感じ。
 マルセル様との婚約がなくなったらロレッタには会えなくなっちゃうな…
「また王都でね」
 クラリッサが笑顔で言う。
「うん。またね」
 セシリアも笑顔で応えた。
 クラリッサとは変わらず友達でいられるかな…?
 いられるといいな。
「セシリアさん、来てくれてありがとう」
「遠くまで済まなかったな」
「お祖母様にご挨拶できて良かったです」
 シルベストの両親とも挨拶を交わす。

 シルベストが少し離れた場所に立ちセシリアたちをじっと見ていた。
「シルベスト様」
 セシリアがシルベストの方を向く。
「…じゃあ、また」
 手を差し出すシルベスト。セシリアがその手を軽く握ると、シルベストはギュッと握り返した。
「はい」
 社交辞令の「また」には応えず、セシリアは手を離す。

 馬車に乗り込んだセシリアは窓から顔を覗かせてシルベストと家族に手を振り、馬車は走り出した。



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