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第6章「愛されなさ過ぎて、愛されるのが怖かった」

6.5 どんな犠牲も厭わない

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 月の無い夜の海に沈められた様な感覚。
 あらゆる重力が身体にかかるかのように全身が重くなり、酸素を求めて口からぶくぶく泡が零れる。なにも見えない恐怖から取り乱し、余計に泡が零れ、息苦しくなっていく。


(死んじゃう)


 水中の中で、もがく、もがく。


 けれど、父に異世界から連れ去られたときと同様に、だんだんと朦朧としはじめてきた。


 限界だった。最後に一際大きな泡をごほっと吐き出す。


 ――――トウコ。


 諦めて、目を閉じかけたわたしの耳に、リュイがわたしを呼ぶ声がして。
 

 それからぎゅうっと抱きしめられて。ああもう大丈夫だ、と安堵して意識を手放す。
  

 ――――いつかと同じように巨大な塔の天辺で。 
 冷たい風が吹き荒れる中、大理石に刻まれた魔法陣の上で目を白黒するわたしを、中性的な美しさを持つ白髪の短髪に、熟れた林檎よりも赤い瞳を持ったリュイが抱きしめていた。 


「おかえり、トウコ」


「う……」


 リュイのいるこちらの世界に戻って来る気なんてなかった。


 返事を返さないわたしを、何も言わずにさらに強く抱きしめてくるリュイに根負けする。


「た、ただ……い……?」


 良い笑顔でわたしを見下ろすリュイの顔がまともに見られない。俯いて足元を見て、固まる。 


「た、ただ……?え。あ、あ……れ?」 


 実は、さっきから靴で液体の上に立っている感触がしていたのだ。でもあの不思議な黒い水の中を通ってきたから、そのせいだろうと思って気に留めていなかった。 
 大理石の床も、魔法陣も。その大半が血で塗りつぶされるかのように赤黒い血の海になっていた。
 わたしとリュイは血の海の中で抱き合っている。


「リュイ、なにこれ、血が……!?」


 縋るように意外にしっかりした逆三角形の背に腕を回すと、べったりした生温い液体の感触がした。
 驚いてリュイの肩越しに自分の手を見れば、床に広がる血とよく似た赤黒い液体がべったりとついていて。 
 

「この血、リュイの!?どうして、あ、お医者さん。メイさん!メイさんを呼びに行くから、離して」 
「トウコ、落ち着いて。べつにたいしたことないから。これくらいで騒がなくていい」
「でも……!」 


 テンパり心配するわたしに、リュイは落ち着かせるように背中を撫でる。 
 そうはいってもリュイが背中を擦る手の弱さに、居ても立ってもいられなくなる。リュイの腕の中から逃げ出そうとするが、抜け出せそうで抜け出せない。
 元の世界では、リュイの姿は少しだけ透けていたから気がつかなかった。わたしを抱いて離さないリュイの顔は血の気を失って蝋のようだった。リュイの容貌の美しさと相まって、蝋人形のように無機質に見えた。

 召喚の魔法陣がある塔から、マグナスマグまでは随分と離れている。 
 オネエだが<素質>と相まって信頼できる医師であるメイさんの名前を口にすると、リュイは明らかに不機嫌になった。


「本当に平気なんです。でも、すこし、座ろうか」


 よろけながらも魔法陣の上から、比較的血のついていない大理石の床の上へと離れることなく移動する。平気だと言うわりに、リュイはわたしを抱きしめたまま崩れ落ちるように座った。


「ああ、疲れた。心配しなくても、これくらいの出血よりも、君がほかの男の名前を呼ぶことのほうが余程ぼくの身体に障る」 

「そんなわけないですよ。こんな出血したら、死んじゃう……っ」 

「死なないよ。貴女の世界ではどうだか知らないけど、


 死は、遠い。


 聞き慣れないフレーズに一瞬理解が追いつかなかった。
 すぐに【リセット】のことだと知り、どこからか血を流しているリュイのことを思わず抱き締めてしまう。


 「ああ、違う。【リセット】するほどの損傷じゃないよ」

 リュイは意味ありげにわたしの下腹部を見つめ、笑う。


「これでも結構手加減してもらったんだよ。だから、まあ、トウコがそれほど心配しているようなことじゃないんだ」 


 リュイは喋りながらおもむろに肩からローブを脱ぎ始める。片手ずつ袖を抜いて、完全にローブを脱ぎ捨てると、シャツを捲ってお腹を見せた。 

 リュイの余分な肉のついてない理想的な体型が露わになる。
 リュイは、自身のほんのりと割れた腹筋を指さした。指の先には、かすかに割れる腹筋の上を斜めに走る深い刃傷があった。 


「後は背中かな。そっちは汚いからトウコには見せないよ。
―――けど、そうだね。ぼくがこんな血を流してるのは、トウコのせいだよ。
アインヘルツ家に逃げるならまだしも、センリの手を借りて異世界に逃げるから。ぼくもセンリと同じようにするしかなかったんだ。ぼくの怪我をそんなに心配してくれるトウコなら、こうなった責任取ってくれるよ、ね?」 


「……っ、元の世界にわたしが帰ったことと何の関係が。よくわかりませんが、あれは父さんが勝手にしたことで」


 真っ赤に血だらけになっている痛ましい傷を見ながら、責任を取れと言われて反射的に首を振る。


「連帯責任だよ。だって、センリは君の父親だろう?だからこうして、トウコはふたつの世界を行き来できた」


 リュイはそう言って、血塗られた魔法陣を見下ろし皮肉げに笑う。


「【管理者】はぼくが思ってた以上に、この世界の神にわりと愛されているみたいなんだ。
かつては、あれほどこの世界の男が理解できなくて、『』は馬鹿にしていたのにね。
わざわざ血を捧げて、貴女を迎えに行くことにしたんですよ?トウコ」 

 リュイが簡単に説明してくれる。
 神に愛された【管理者】は、孕ませた愛する女と結ばれるために考慮されていると。
 血と血の結びつきを利用して、つまり、ふたつの異なる血を持った子どもを目印に、異世界へ渡ることができる。ただし往復一回限りで、界渡りの際には、代償として多量の血が必要だと。


「ぼくらが支払った血が、黒水となり、世界を繋ぐ」


「じゃあ……」
 
 
 岸波聡との会合の場に使われた旅館で現れたあの黒い水は、リュイの血? 
 であるならば、最初にこの世界に現れた父の時の水も―――?


「……ぼくの血を見ながら、センリでもほかの男のことを連想するのはやめてくれるかな。気分が悪くなる」 


 リュイの傷を見ながら、父のことを考えていると、目敏いリュイが、そう言って重い溜め息を吐く。


「綺麗にするから少し待って」


 リュイが自分の傷口に左手を重ねた。 
 傷口に触れて痛むのか、リュイが顔を顰める。
 右手でホールドされたまま大人しくじっと眺めていると、変化が始まる。


「傷口が……!」 
 
 リュイの指の隙間から傷口が盛り上がり、蠢きながらどんどん修復されていくのが早送りコマのように起きた。 


「細胞の増殖を早めたんだ。あんまり多用すると【リセット】の周期が早まるから、普通なら自然治癒するのを待つんだ」 


「え、すごい……」 


 リュイが手を退けて傷のあった場所を見せてくれる。付着した血痕はそのままだが、傷口は完全に塞がっていた。


「あ、血痕は消せないの。拭きましょうか」


 返事を待たずに、着物の袖をリュイの腹の血痕へと伸ばす。 


「いいから。トウコによく似合っているのに勿体ない。まだ汚さないで」


 リュイに手を掴まれ止められる。
 

「これ以上は話す時間も惜しいな。此処から早く離れたほうがいい。 
軍にマークされたぼくが【管理者】でもないのに、魔法陣この場所にいるのはよくない。 
それに、こんなイカれた方法で、界渡りが出来るだなんて知られてもよくないから」 


 傷を塞いだからか。
 幾分か顔色のよくなったリュイがそう言って立ち上がる。 


「でも、リュイ。みんなが交代で【管理者】になれば、女の人が召喚されるのを待たなくてすむんじゃないですか?わたしの世界に探しにくればいいんじゃ」 


 両脇に手を入れられ、リュイによって立たされる。 
 ありがとうと呟きながら、リュイに問いかければ、鼻で笑われた。 


「断る。ぼくらの世界の男が何人いるかわかってる?【リセット】して待ち続けられるとしても、長いよ。
―――それにさ、どうだっていいんですよ。
この世界の男の命運だなんて興味ない。極論でいえば、ぼくは女も喚ばなくていいと思ってる。 
ただの好意ですら煩わしいのに、愛だの恋だの絡まれると余計に面倒くさい」


 リュイの赤い瞳が陰り、遠くを見つめる。
 リュイが、随分と辛辣な言葉を吐いていた。
 1年ほどほとんどずっと一緒にいて、こんな毒を吐くリュイを見るのは初めてだった。 

 ―――けれど、不思議ではない。驚きもない。納得すらしている。 
 


 リュイは好意というものを歓迎していない。 


 リュイを好きになってから、薄々わかっていた。
 そんなリュイの心情をわかっていながら、わたしはタクトからメイさんの薬を貰い受け、無理矢理関係を結んだ。 
 だって、リュイのことが好きだから。
 気持ちが通じ合うことはないとしても、せめて【リセット】してもちゃんとわたしのことを覚えていて欲しかった。 
 <素質なし>と言われてこの世界の男性から必要とされなくても。
 どうしても、リュイにだけは頭の片隅にだっていいからわたしの存在を覚えていたもらいたかった。
 大好きだから、せめて、リュイの遺伝子をわたしの身体に取り込みたいと思った。
 心はひとつになれずとも、遺伝子同士は混じり合えると思ったから。
 子どもを作ることで、わたしの恋の代わりにしたかったのだ。 

 わたしは、最低だ。


 でも。


「なら、どうして…?どうして、わたしをこっちに連れて帰ってきたんですか。
少し前まで、わたしがあなたを襲ったから……怒っていたんですよね?」 


 アインヘルツ家での行われた暴力的なまでに爛れた日々のことを思い出す。 

 リュイから、ただ『胎児魔力欠乏症』のためだと言いながら何度も精を注がれた。 
 強引にされているはずなのに、わたしの身体はリュイに触れられるたびに歓喜の雫を零し、そのたびにリュイには男なら誰でもいいのかと罵られた。 
 否定の言葉は聞いてもらえなかった。届かなかった。 
 肉体的にも精神的にも限界のときに、お腹の子がリュイを吹っ飛ばして、それから父が現れて。 


 あれから数日しか経っていないのに、リュイから怒りは消えたのか。
 凪いだ海のように穏やかな眼差しで、わたしを見つめている。 


「それ、は――っと」 


 わたしの疑問に、リュイが赤い目を見開いてたじろぐ。 
 何か言いかけたところで、青い空が銀色に一瞬煌めいて。 



「少しじゃないわ。―――二年近くも行方を眩ませられたら、流石のしろいあくまだって沈静化するってもんよ!」 



 流星のようにが降ってきた。 



「!?」 


 降り注いだ大量にメスによって、わたしとリュイの周りを囲むように綺麗な円が作られる。 

 独特な喋りに似合わない低い声。そして医療道具。
 こんなことをする知り合いは、わたしは一人しか知らない。


「メイ・プリシパル」 


 リュイが嫌そうな声を出して、わたしを少し離す。
 そうして塔の最上階へと続く階段を見た。
 予想通り、階段付近に白衣をはためかせる豪奢な王子様―――の格好をしたオネエが立っていた。 


「ハァイ、お帰り、リュイ。それからトウコクンも」


 リュイに名前を呼ばれ、メイは風に金色のポニーテルをたなびかせながら颯爽と歩く。
 カツカツカツとブーツの踵で大理石を踏みならしながらこちらに近寄ってきた。 


「何の用ですか。もう帰っていいと言いましたよね。……トウコなら渡しませんよ」 


 メイの視界から隠すようにリュイの腕の中に抱き込まれる。 


「いや、いらないわよ」


 メイさんに即答で切り捨てられた。


「ワタシにはワタシの可愛い子がいるのに、有象無象の女にキョーミないわよ。 じゃなくて、純粋にトウコクンの主治医として様子を見に来てあげたんでショ? そもそも、誰がアンタを此処までお膳立てしてやったと思っているわけ?
アタシとタクト、それにキリでしょう。 
なんならタクトも屋敷の前に車を停めて待っているし、キリだって軍の駐屯所で無駄に暴れて時間稼いでくれているわ。軍に拘束されたくなかったら、大人しくアタシたちについてくるべきじゃないの?リュイ」 


 長々とメイさんがリュイを諭す。そうしてメイさんはリュイに抱き込まれたわたしの頭を掴んで、顔を覗き込んできた。綺麗な指先で顔を揉まれ、眼球を見られ、脈を取られる。 


「フム、二年近く消えていたわりに健康ね。お腹の子も成長してなさそうだし。詳しくはマグナスマグの女医に診て貰ったほうがいいんでしょーけど、まあ、アタシの健康になる薬でも飲ませていたら問題ないでショ。魔力だってこれからリュイ父親からたっぷりもらえるでしょーし?」 

 ふふんと鼻を鳴らして、メイさんはリュイを見る。


「そうだね。貴方とタクト、それからキリには感謝してるよ」 

「しろいあくまが随分と丸くなったじゃない。
トウコアンタの可愛い子が手元に帰ってきて気が立ってただけでしょ?気持ちはわかるからいいわ。
―――ね、いいからさっさとズラかりましょうよ。アタシだって時間外労働はしたくないの。早く家に帰って、アタシの可愛い子をひとりにしておけないでしょ?」


 床に刺さったメスをそのままに、メイさんが颯爽と階段のほうへ歩き始める。  


「……わかったよ。ただいい加減覚えてよ。
しろいあくまは、『前のぼく』の話ですよ。今は、違う。
トウコ。気が進みませんが、メイに一理ある。メイたちの手を借りて、帰ろう」


 リュイとメイさんがこんなに話す関係だとは知らなかった。 

 メイさんの後ろ姿を見つめながら、リュイが溜め息を吐く。 


「だから、トウコのこれまでのことは、戻って落ち着ける場所でじっくり話そう。大丈夫、もう貴女を逃がさないよ」


 逃げられない。
 背中に回された腕がなくなったと思ったら、手を恋人繋ぎされた。 


「これまでの、こと?そんなもの忘れ……あ、うそです。は、はい、もちろんです」 


 元の世界なら逃げ切れたけれど、こちらの世界に連れ戻されたなら、わたしも観念するしかない。 
 リュイの目を見て、喉まで出かかった「嫌」を無理やり飲み込んで、頷いた。
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