あなたの遺伝子、ください

志藤みかづき

文字の大きさ
上 下
26 / 43
第6章「愛されなさ過ぎて、愛されるのが怖かった」

6.4 迎え

しおりを挟む
 ――――あちらの世界で父の声を聞いたように。


「はッ……?」


 ――――こちらの世界で、リュイの声が聞こえた気がした。


「オイオイオイオイ、オイ…!」


 何もかも信じられなくて。


 怖々と目を開ければ、岸波聡きしなみさとしの手がわたしの身体に触れる直前で止まっていた。


「なんだあれ……!」


 聡は焦茶色の鋭い目を天井に向け、顎が外れそうなくらい大きな口を開けていた。


「う、そ…?」


 聡の視線を追うように後ろに目をやり、声が漏れ出た。

 
 洗面器ほどの黒い染みが天井にあった。
 うつくしい木目の天井に、雨も降っていないのに染みがどんどん広がっていく。
 わたしには見覚えがあった。リュイの声が聞こえたから、確信すらある。
 リュイに責め立てられていたあの日、父と一緒にベッドの上に現れた黒い水たまりによく似ていた。


「……ッ」


 期待してしまう。緊張で手が震える。
 大きな唾を飲み込み、振り向いた体勢のままで黒い水から目が離せなくない。
 

「うわ!クソ、なんだ!雨なんて降ってねえぞ!水漏れか!?つうか変な男の声が…っ」


 雨漏りの如く。やがて天井から溢れ出るように、黒い水が滴り落ちてきた。
 聡は大きな身体に似合わない声を上げ、水を避ける素振りを見せる。
 彼にとっての突然の怪奇現象に、顔を青くして周囲に目をやり慌てふためく。


 わたしたちの立っている畳以外の全てが水浸しになる。そこで、聡は気づく。
 もはや天井一面に広がった黒い染みからの水漏れが、わたしと聡の周囲にだけ降っていないことに。
 

「あ……?あんた……これ。あんたに関係したやつか?」


「そうだと思いますよ?神隠しされたって聞いていたんですよね。分家だからですか?岸波のお家の方って、意外と怖がりなんですね」


 わたしに乱暴しようとしたときは恐ろしく思えた男の怯える姿がいっそ可愛らしくて、つい煽ってしまう。今思えば、実家が神社のせいか、家にはワケアリの物が色々持ち込まれていた。夜ひとりでトイレに行くのが怖くて、母の視線に怯えながらも、父についてきてもらったことを思い出す。そちらに比べれば、正体がわかっている黒い水なんて怖くない。


「このクソ女が……っ!」


 わたしに馬鹿にされたと気づいた聡の真っ青だった顔が、瞬時に赤く変わる。
 激情のままに振り上げられた拳が、わたしの頭を狙う。


「―――――」


 至近距離過ぎて避けられない。
 予想通り短気な人だったなとどこか他人事のように考えながら見つめ、今度は目を閉じなかった。



「――――こんな男、触っても何も愉しくないんだけどな」



 ぬっと現れた人影が、わたしと聡の間に割り込む。
 父と違って、透き通っていなかった。はっきりとした実体として現れ、聡の拳を難なく受け止める。
 ぱしん、と音を立て衝撃が吸収される。


「誰だ、あんた」


 突然の乱入者に、聡が焦茶色の目を細める。


 わたしと聡の足元までもが完全に黒い水で水浸しになっている。


「ぼく?リュイだけど?」


(ああ――――…)

 ローブを着たリュイの後ろ姿に守られてるような形になる。
 期待を裏切らないリュイの登場に、胸に熱い何かが込み上がってくる。
 わたしは嬉しいような、そうでもないような複雑な気持ち。来て欲しかったけど、来て欲しくなかった。会いたいけど、会いたくなかった。あんな別れ方をして、いつもまともに向き合ってこなかったのに。どんな言葉と顔でリュイと話せばいいのかわからなかった。


「それより、トウコ。
ぼく以外の男を煽るのはやめたほうがいい。
愛だの恋だの関係なくても、貴女が他の男と触れ合う姿を見るのはとてもイライラします」


 けれど、実際に会えば自分が思っているよりあっさりとしたもので。
 あちらの世界に現れた父よりも実体とはいえ、それでも薄ら透けているリュイが、聡と対峙したまま呆れたような声でわたしを窘める。


「……っ、ご、ごめんなさい。
でも、リュイにはもう関係ないと思います。
父と同じように……どういった手段でこちらの世界にきたのかわかりませんが、
わたしはあなたのいない世界でこの子と生きていきますから」


 帰ってください。


 とは、言えなかった。言葉を紡ぐたびに、リュイの赤い瞳が不穏な光を帯びていった。
 帰れと言おうとして、より赤く瞳が煌めきかけたように見えて。
 わたしは反射的に口を噤んでいた。


「関係ない……?それはないよ。
―――トウコはぼくのことがよくわかっている良い子だと思っていたけど、自己完結してすぐ逃げようとするのは悪い癖だ」


 リュイがにっこりと美しい笑みを浮かべる。


「だからさ。この男をどうにかしたら、一緒にあっちに帰ろう。トウコと、ついでにその腹の子どもも」


「リュイ」


 ついでと言われたのがわかるのか。
 こちらの世界にきて微動だにしなかったお腹の子どもが、主張するように胎動した。


「―――なんだよ、それ。このお化け野郎。岸上透子ソイツは俺がモノにする女なんだわ。勝手なこと言ってんな?」


 片手で全力の拳を受け止められた聡は、下手な女性よりも美しい中性的な容姿に白い髪に赤い瞳、さらにはローブを着た日本人離れしたリュイの出現に、しばらくは呆気に取られ、口を開けていた。
 だがリュイとわたしの会話を聞いて、我に返ったらしい。凄んで見せるが、リュイより背が高いにも関わらず先の醜態のせいか小さく見える。
 

「貴方こそ。これ以上トウコに構うなら――容赦できないかな」


「はあ……?…あ、ア、あぁ…?」


 立ちはだかるリュイの背中越しに見える、聡の焦げ茶色の目に、リュイの赤く光り輝く目が見えた。


「―――さて、どうぞ。貴方、いや、【】だよね?ほら、【】ですよ?」


「な、ん……で、だ?で、出ちまうッ」

 聡は、言葉にならない声を発しながら、足をガクガク震わせ始めた。
 真っ直ぐと目を見つめたままリュイの言葉を重ねて受け取った結果、聡は前屈みになる。
 足を内股にして、最後には悲鳴にも似た嬌声をあげ、腰から崩れ落ち、果てた。
 聡の黒いスーツの股間部分が、リュイの黒い水ではない、別の液体で色濃くなる。


「りゅ、リュイ様って呼んでもいいっスか?」


 とろんとした目で、崩れ落ちた体勢のまま顔をあげた聡が、リュイの足元に縋り付く。


「ひぇ」


 傲慢な聡の姿からかけ離れた無様な様子と、180度変わったリュイへの態度に背筋が冷える。
 <だれとでも親密な関係を築ける素質>って、こんな危ない<素質>だったとは知らなかった。


「―――お断りします。
ぼくら、もう帰らないと行けないんですよね。
伝言お願いできます?」

「は、ハイ!俺に出来ることなら……!」

「センリに―――ああ、トウコの父親に一言伝えてくれますか?
トウコは、こいつみたいなクズにやるくらいなら、ぼくみたいなクズがもらっていきますから」

「うっす!リュイ様、あ、えと、あんた様がクズなわけないっス!俺はクズですが!」


 岸波聡の人格が変わったまま戻らない。リュイに尻尾を振るだけの犬に成り下がっている。


「はい喜んで……!」


 リュイからお願いされたのが嬉しいのか。
 居酒屋での受け答えのような返事をして、聡はわたしの父のもとに飛んで行くように旅館から出て行った。すれ違った旅館の仲居さんの悲鳴が遠くに聞こえた。


「この世界の人間は耐性なさ過ぎだね」


 唖然としながら聡が走り去るのを見つめるわたしに、リュイが完全に振り返り、見下ろす。


「トウコ。……こんなぼくのこと、怖くなった?嫌いになった?」


 リュイの赤い瞳は、聡に見せていた時のように、もう輝いていない。
 初めて見るリュイのしゅんとした態度に、どきんと胸が跳ねる。


「そんなこと……そんなことないです。
それにわたしの答えをいまさら聞くだなんて、リュイはいじわるですね」


 リュイが好きだから、薬を盛って襲った。
 どんな姿を見せられたって、この想いは変わらないつもりだ。
 

「――――……そうだね、そうだった」


 リュイにお腹を撫でて見せれば、ふっとリュイの身体から緊張感が抜ける。


「良かった。それじゃあ一緒に戻ろう。
あっちの世界で、トウコはしっかりぼくと話し合おうね?」


「あ、でも。それ、は―い、――嫌、で―――」


「駄目だから」


 好きなのは変わらないが、リュイと一緒に帰るのは違う。
 天井から滴り落ちていた黒い水が、足首が浸かるほどの水たまりになっていた。
 逃げようとすれば笑顔のリュイに肩に手を置かれ、そのまま足元の黒い水たまりの中に沈められた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?

アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。 泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。 16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。 マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。 あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に… もう…我慢しなくても良いですよね? この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。 前作の登場人物達も多数登場する予定です。 マーテルリアのイラストを変更致しました。

番から逃げる事にしました

みん
恋愛
リュシエンヌには前世の記憶がある。 前世で人間だった彼女は、結婚を目前に控えたある日、熊族の獣人の番だと判明し、そのまま熊族の領地へ連れ去られてしまった。それからの彼女の人生は大変なもので、最期は番だった自分を恨むように生涯を閉じた。 彼女は200年後、今度は自分が豹の獣人として生まれ変わっていた。そして、そんな記憶を持ったリュシエンヌが番と出会ってしまい、そこから、色んな事に巻き込まれる事になる─と、言うお話です。 ❋相変わらずのゆるふわ設定で、メンタルも豆腐並なので、軽い気持ちで読んで下さい。 ❋独自設定有りです。 ❋他視点の話もあります。 ❋誤字脱字は気を付けていますが、あると思います。すみません。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?

水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。 日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。 そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。 一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。 ◇小説家になろうにも掲載中です! ◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています

まだ20歳の未亡人なので、この後は好きに生きてもいいですか?

せいめ
恋愛
 政略結婚で愛することもなかった旦那様が魔物討伐中の事故で亡くなったのが1年前。  喪が明け、子供がいない私はこの家を出て行くことに決めました。  そんな時でした。高額報酬の良い仕事があると声を掛けて頂いたのです。  その仕事内容とは高貴な身分の方の閨指導のようでした。非常に悩みましたが、家を出るのにお金が必要な私は、その仕事を受けることに決めたのです。  閨指導って、そんなに何度も会う必要ないですよね?しかも、指導が必要には見えませんでしたが…。  でも、高額な報酬なので文句は言いませんわ。  家を出る資金を得た私は、今度こそ自由に好きなことをして生きていきたいと考えて旅立つことに決めました。  その後、新しい生活を楽しんでいる私の所に現れたのは……。    まずは亡くなったはずの旦那様との話から。      ご都合主義です。  設定は緩いです。  誤字脱字申し訳ありません。  主人公の名前を途中から間違えていました。  アメリアです。すみません。    

処理中です...