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第5章「あなたの遺伝子、いりません」
5.2 地獄のような選択肢
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「逃げよう」
一刻も早く。
新聞を早々に読み終え、タクトとメイさんがわたしの名前を呼ぶのに返事もせずに自室に戻る。
わたしの交友関係は広くない。
レイシさんとのデートを除けば召喚当初から屋敷を出ることはほとんどなかった。たいした<素質>が見いだされなかったわたしを見初めるような物好きが早々いるはずもなく、リカちゃんやエレミアを筆頭に同性との仲も良好とはいえず。
まともに話すのは【管理者】であるリュイと、日本人なら誰でもいいと豪語していたタクトだけだった。
つまり、リュイはわたしがタクトのもとにいることは分かっている。不幸中の幸いはリュイのいた屋敷のあった場所から、マグナスマグまで辿り着くのに車ですら結構な距離があったということだ。リュイが車を所持しているとは聞いたことも見たこともない。
リュイに追いつかれる前にと、自室に戻るとすぐに鞄を探す。クローゼットから当座の下着やら服やらお金を詰める。立ち上がりかけて、くらりと視界が回る。慌ててメイさんに処方して貰った薬も詰めていく。
「こらこら、お嬢さん。今、私の家の外に出て行くことは感心しないな?」
「っ!」
同じ家に住んでいるにも関わらず、最近ほとんど顔を合わせることがなかったガウスさんが、扉を半開きにして、柱にもたれかかるようにして立っていた。
「ガウスさん……帰って来られてたんですね」
いつの間にと言いたい言葉を飲み込む。やましさから、悪戯が見つかった子どものように声が震える。
「そうだな」
お嬢さんと会うのは随分久しぶりに気がすると言ってガウスさんはただいまと返事をしてくれる。ほのかな笑みを浮かべてはいるが、桜色の瞳は笑ってない。ほとんど瞬きもほとんどせずに、ガウスさんはわたしの一挙一動を見つめている。
「それで?お嬢さんは今度はどこに逃げるつもりだい?そんな身重の体で」
取り繕っても無駄か。
ガウスさんからのはっきりとした追及に、わたしは観念して頭を下げる。
「……お世話になってるのに、勝手なことしてごめんなさい。 行き先は決めてません。
でも、今行かないとリュイに会ってしまう。それだけは」
「メイ・プリシパルが」
合わせる顔がないから避けたいと続けようとして、
謝罪と言い訳はガウスさんに途中で遮られた。
「リュイの<素質>はね。メイ・プリシパルが、正気に戻す薬を使ってもその好意は薄れることはない。好意とは時に人に過激な攻撃性を与える。また【リセット】されたとしても、やはり過去を諦めきれない人間もいる。レイシ・マックスウェルは日和って諦めたようだが、そうじゃない人間もいることを忘れてはいけない」
ガウスさんは何を言っているのだろうか。
「……?どういう、意味、ですか?」
ガウスさんが柱にもたれかかるのをやめ、私のほうに近づいてきた。
ガウスさんは丸窓の外に視線をやり、漆喰の壁の向こう側を見るような遠い目をする。
「家の外にリュイを待ち望む人間が集っている。メイ・プリシパルが一時的な効果を持つ劇薬で対処してくれていたようだが、それでも人の熱は収まらず、アインヘルツの当主として私も処理していたというわけだが」
ガウスさんはわたしの荷物を詰め込んだ鞄を見下ろし、桜色の垂れ下がった瞳を細める。
「お嬢さんにリュイは言っていないのか。まあ、リュイのことだ。『前のこと』だからと歯牙にもかけてないのかもしれないが」
ガウスさんはふと吐息のような笑みを零し、話についていけていないわたしを見る。
「リュイはかつてしろいあくまと呼ばれていた。いまだ、リュイを慕い、教祖のように崇める連中もいれば、かつての仕打ちからリュイに復讐せんと息巻いているものもいる。どこから聞きつけたのか、私の家の外にはそういう連中がボウフラのようにわいている」
優しく、子どもに絵本を読み聞かせるかの如く説明される。
リュイを崇めるもの、復讐したいもの?
前者はわかるが、後者は信じられない。
だが言われてよく見れば、涼しげな顔をしているが、ガウスさんの高そうな黒い軍服が何かで濃く汚れ、装飾も歪んでいる。腰に下げている鞭もくたびれているようだった。
「魔法陣がお嬢さんの胎にあるとはいえ、執拗に殺されれば永遠とも思える時間をもがき苦しみことになり、それは子どもが生まれるまで続くだろう。そうして生まれた子どもの産声を聞くこともなく死ぬだろう。
リュイとの子どもをその手に抱き、慈しみたいのなら、リュイから逃げるのはやめたほうがいい。
――――なにより、これだけの労力を君に割いているんだ。あのリュイが、ハメてきた君を見てどんな反応をするのか見物じゃないか?なあお嬢さん」
ガウスさんは色っぽい低い声でゆっくりと喋りながら、わたしの鞄の上に手をかざす。
ぶわっと空気が燃える音と、一瞬の熱気が立ち上がり、ガウスさんの髪よりも赤い炎が鞄を燃やし尽くした。絨毯の上に灰と、焦げ跡だけが残る。
魔力を使って小さな炎を出せる人間がいるとは聞いたことがある。ガウスさんは炎を正確に操ることに長けているようだった。
「薬が!ガウスさん、その中には薬も入ってたんです。メイさんが最近わたしの調子が悪いからって……メイさんはまだここにいますか?」
ガウスさんに燃やされた薬は、よりにもよって水薬だった。高温の炎にガラス瓶は溶け、中の液体も蒸発してしまっただろう。
最近、つわりかなんなのか体調も悪い。さっきも目眩がしたのに、荷物を詰めるほうを優先してすぐに薬を飲まなかった。アインヘルツの家から逃げ出して、どこか落ち着いた場所で飲めばいいと思っていた。
「もちろん、まだいるね。でも、ダメだ。薬に頼ることは許さないし、そろそろ許されない。
最近、お嬢さんは体の調子が悪いんだろう?お嬢さんのように女性が多い世界では、つわりなるものがあるというね。
それと確かによく似ているから、間違えてしまうらしい。眠たくて眠たくて仕方なかったり、気持ち悪くなったり、立っていられなくなったり。
だが、全然違う。私たちの世界では、妊娠した女性に起こるその症状を『胎児魔力欠乏症』と呼んでいる」
「『胎児魔力欠乏症』……?」
「ああ、そうだ。たいてい女性には魔力がない。
少なくなってきているとはいえ、我々には魔力がある。もちろん、これから生まれてくる子どもにも。
なのに母親に魔力がないんだ。当然、調子が悪くなる。
だから、妊娠中は、男から体液を通して魔力を摂取することが推奨されている」
ちょっとガウスさんが何を言っているのか分からない。
男の人から、体液……?
そこから先は、考えるまでもない。
破廉恥なワードに、顔がひきつる。
わたしの表情の変化を、ガウスさんは愉快そうに眺め笑う。
「お嬢さんの場合は、もちろん、父親であるリュイの体液が推奨される。
だが、何事にも例外はある。父親が死ぬことがないわけではない。
そうだな、この家には今、精力に満ちあふれた男が三人―――おっと、メイ・プリシパルは除外して―――二人、私と、タクトがいる」
ガウスさんは淀みなく、まるで歌うように残酷な提案をする。
「私は死んだ妻を一番に愛しているが、人命救助だと思えば、なんてことはないが……。
お嬢さんはタクトとの子どもを産む約束をしているんだったな。ならタクトとするのも問題ない。予行演習みたいなものさ」
さあ、誰の体液にしようか?
硬直するわたしに、ガウスさんは目元の黒子に指先を添えながら、気さくな調子で告げる。
誰を選んでも地獄の選択肢を。
一刻も早く。
新聞を早々に読み終え、タクトとメイさんがわたしの名前を呼ぶのに返事もせずに自室に戻る。
わたしの交友関係は広くない。
レイシさんとのデートを除けば召喚当初から屋敷を出ることはほとんどなかった。たいした<素質>が見いだされなかったわたしを見初めるような物好きが早々いるはずもなく、リカちゃんやエレミアを筆頭に同性との仲も良好とはいえず。
まともに話すのは【管理者】であるリュイと、日本人なら誰でもいいと豪語していたタクトだけだった。
つまり、リュイはわたしがタクトのもとにいることは分かっている。不幸中の幸いはリュイのいた屋敷のあった場所から、マグナスマグまで辿り着くのに車ですら結構な距離があったということだ。リュイが車を所持しているとは聞いたことも見たこともない。
リュイに追いつかれる前にと、自室に戻るとすぐに鞄を探す。クローゼットから当座の下着やら服やらお金を詰める。立ち上がりかけて、くらりと視界が回る。慌ててメイさんに処方して貰った薬も詰めていく。
「こらこら、お嬢さん。今、私の家の外に出て行くことは感心しないな?」
「っ!」
同じ家に住んでいるにも関わらず、最近ほとんど顔を合わせることがなかったガウスさんが、扉を半開きにして、柱にもたれかかるようにして立っていた。
「ガウスさん……帰って来られてたんですね」
いつの間にと言いたい言葉を飲み込む。やましさから、悪戯が見つかった子どものように声が震える。
「そうだな」
お嬢さんと会うのは随分久しぶりに気がすると言ってガウスさんはただいまと返事をしてくれる。ほのかな笑みを浮かべてはいるが、桜色の瞳は笑ってない。ほとんど瞬きもほとんどせずに、ガウスさんはわたしの一挙一動を見つめている。
「それで?お嬢さんは今度はどこに逃げるつもりだい?そんな身重の体で」
取り繕っても無駄か。
ガウスさんからのはっきりとした追及に、わたしは観念して頭を下げる。
「……お世話になってるのに、勝手なことしてごめんなさい。 行き先は決めてません。
でも、今行かないとリュイに会ってしまう。それだけは」
「メイ・プリシパルが」
合わせる顔がないから避けたいと続けようとして、
謝罪と言い訳はガウスさんに途中で遮られた。
「リュイの<素質>はね。メイ・プリシパルが、正気に戻す薬を使ってもその好意は薄れることはない。好意とは時に人に過激な攻撃性を与える。また【リセット】されたとしても、やはり過去を諦めきれない人間もいる。レイシ・マックスウェルは日和って諦めたようだが、そうじゃない人間もいることを忘れてはいけない」
ガウスさんは何を言っているのだろうか。
「……?どういう、意味、ですか?」
ガウスさんが柱にもたれかかるのをやめ、私のほうに近づいてきた。
ガウスさんは丸窓の外に視線をやり、漆喰の壁の向こう側を見るような遠い目をする。
「家の外にリュイを待ち望む人間が集っている。メイ・プリシパルが一時的な効果を持つ劇薬で対処してくれていたようだが、それでも人の熱は収まらず、アインヘルツの当主として私も処理していたというわけだが」
ガウスさんはわたしの荷物を詰め込んだ鞄を見下ろし、桜色の垂れ下がった瞳を細める。
「お嬢さんにリュイは言っていないのか。まあ、リュイのことだ。『前のこと』だからと歯牙にもかけてないのかもしれないが」
ガウスさんはふと吐息のような笑みを零し、話についていけていないわたしを見る。
「リュイはかつてしろいあくまと呼ばれていた。いまだ、リュイを慕い、教祖のように崇める連中もいれば、かつての仕打ちからリュイに復讐せんと息巻いているものもいる。どこから聞きつけたのか、私の家の外にはそういう連中がボウフラのようにわいている」
優しく、子どもに絵本を読み聞かせるかの如く説明される。
リュイを崇めるもの、復讐したいもの?
前者はわかるが、後者は信じられない。
だが言われてよく見れば、涼しげな顔をしているが、ガウスさんの高そうな黒い軍服が何かで濃く汚れ、装飾も歪んでいる。腰に下げている鞭もくたびれているようだった。
「魔法陣がお嬢さんの胎にあるとはいえ、執拗に殺されれば永遠とも思える時間をもがき苦しみことになり、それは子どもが生まれるまで続くだろう。そうして生まれた子どもの産声を聞くこともなく死ぬだろう。
リュイとの子どもをその手に抱き、慈しみたいのなら、リュイから逃げるのはやめたほうがいい。
――――なにより、これだけの労力を君に割いているんだ。あのリュイが、ハメてきた君を見てどんな反応をするのか見物じゃないか?なあお嬢さん」
ガウスさんは色っぽい低い声でゆっくりと喋りながら、わたしの鞄の上に手をかざす。
ぶわっと空気が燃える音と、一瞬の熱気が立ち上がり、ガウスさんの髪よりも赤い炎が鞄を燃やし尽くした。絨毯の上に灰と、焦げ跡だけが残る。
魔力を使って小さな炎を出せる人間がいるとは聞いたことがある。ガウスさんは炎を正確に操ることに長けているようだった。
「薬が!ガウスさん、その中には薬も入ってたんです。メイさんが最近わたしの調子が悪いからって……メイさんはまだここにいますか?」
ガウスさんに燃やされた薬は、よりにもよって水薬だった。高温の炎にガラス瓶は溶け、中の液体も蒸発してしまっただろう。
最近、つわりかなんなのか体調も悪い。さっきも目眩がしたのに、荷物を詰めるほうを優先してすぐに薬を飲まなかった。アインヘルツの家から逃げ出して、どこか落ち着いた場所で飲めばいいと思っていた。
「もちろん、まだいるね。でも、ダメだ。薬に頼ることは許さないし、そろそろ許されない。
最近、お嬢さんは体の調子が悪いんだろう?お嬢さんのように女性が多い世界では、つわりなるものがあるというね。
それと確かによく似ているから、間違えてしまうらしい。眠たくて眠たくて仕方なかったり、気持ち悪くなったり、立っていられなくなったり。
だが、全然違う。私たちの世界では、妊娠した女性に起こるその症状を『胎児魔力欠乏症』と呼んでいる」
「『胎児魔力欠乏症』……?」
「ああ、そうだ。たいてい女性には魔力がない。
少なくなってきているとはいえ、我々には魔力がある。もちろん、これから生まれてくる子どもにも。
なのに母親に魔力がないんだ。当然、調子が悪くなる。
だから、妊娠中は、男から体液を通して魔力を摂取することが推奨されている」
ちょっとガウスさんが何を言っているのか分からない。
男の人から、体液……?
そこから先は、考えるまでもない。
破廉恥なワードに、顔がひきつる。
わたしの表情の変化を、ガウスさんは愉快そうに眺め笑う。
「お嬢さんの場合は、もちろん、父親であるリュイの体液が推奨される。
だが、何事にも例外はある。父親が死ぬことがないわけではない。
そうだな、この家には今、精力に満ちあふれた男が三人―――おっと、メイ・プリシパルは除外して―――二人、私と、タクトがいる」
ガウスさんは淀みなく、まるで歌うように残酷な提案をする。
「私は死んだ妻を一番に愛しているが、人命救助だと思えば、なんてことはないが……。
お嬢さんはタクトとの子どもを産む約束をしているんだったな。ならタクトとするのも問題ない。予行演習みたいなものさ」
さあ、誰の体液にしようか?
硬直するわたしに、ガウスさんは目元の黒子に指先を添えながら、気さくな調子で告げる。
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