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case.4

理想の子どもが欲しい老女①

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 女の歌声が聞こえる。自分を育てた老女がよく聞かせてくれたのと同じ子守歌だった。その声でパラノイアは目を覚ました。
 薄目を開けると眠っていたのはいつも使っている酒店(ホテル)のベッドではなく、西洋風の豪華な寝床だ。見覚えある場所の気もするが思い出せない。どうしてここで眠っていたのかもだ。昨夜の記憶はまったくなかった。
 女は歌うのをやめた。

「おはよう、ノア」

 パラノイアは起き抜けで頭がぼんやりとしており、今がいつかも曖昧で、声の主をとっくに死んだ育ての老女だと思い込んだ。

「……婆さん、もうちょっと寝かせてくれよ」

 寝返りを打ち、くぐもった声でパラノイアは言う。

「まぁ、お婆さん扱いなんて失礼しちゃうわ」

 女は怒ったような口調で言うと、ベッドに潜り込んで来た。

「ちゃんと私を見て」

 女はパラノイアの肩を掴むと無理やり自分に向かせた。白磁の肌を持つ栗色の髪の女が裸で横たわっていた。女は蠱惑的に微笑んだ。

「あんたは……俊熙ジュンシーの絵の……」

 頭が徐々にはっきりとして来た。はっきりすればする程、何故この女が人間としてここにいるのかわからない。

「あの人のおかげで私は人間になったのよ」

 栗色の髪の女はパラノイアの手を取ると、自分の頬を触らせた。頬の感触は霞みたいに現実感がなかった。

「貴方は誰に人間にして貰ったの」

 女は無邪気に尋ねた。見た目こそ成熟していたが、表情や口調は少女のようにあどけない。

「肉体を作ったのは母親と父親だね。人間的な常識や振る舞い方を教えてくれたのは、婆さんだ」

 パラノイアは女の頬から手を剥がし、答えた。

「人間になる前はなんだったの」
「あたしはずっと人間だよ」
「本当に? そう思い込んでいるだけで、元は絵だったかもしれないわよ」

 女は歌うように言った。

「あたしが妄想を抱いているって言いたいのかい」
「そうよ。自分が自分だとその人が思っているだけで、他人から見たら別な物かもしれないじゃない」
「面白い考え方だね」

 パラノイアはベッドから起き上がり、軽く衣服を整えた。そして手の平を天井からの灯りに――豪華なシャンデリアだ――翳し、呟く。

「あたしが人間じゃない、か」

 手の甲の血管が薄っすらと透けて見える。その内側はまさか機械で出来ているようには思えなかった。
「……ねぇ、機械人形マシン・ドールは人間になれると思う?」

 女が甘えた声で問いかけた。

「無理だね」

 パラノイアはきっぱりと答えた。

「人間と同じ素材で肉体を作って、人間的な振る舞いを教えても?」
「機械人形には心がない。妄想も抱けない。そんな奴らは人間じゃないよ」
「妄想を抱くことができれば人間になれるのなら私にも売ってちょうだいよ」

 女の声に機械音のようなノイズが走った。

「あんたは何者だい」
「言ったでしょう。私は人間」

 女もベッドから降りた。染みひとつ無い肌は作り物めいていて不気味だ。女は窓を開け放った。絵画では銀色の雨が吹き込んでいたはずだが、今は快晴が広がっていた。

「いい天気ね。雨は嫌いだから嬉しいわ。出かけましょうか」
「どこに行くつもりだい」
「すべての人間が幸せで、争いのない世界よ」

  絵の具の匂いが鼻を掠めた。パラノイアが辺りを見回すと、世界がドロリと溶けはじめていた。

「一緒に行きましょう。みんなで幸せになるの」

 女の顔も溶け出した。絵の具の下から現れたのは機械人形だった。

「そのために私は生まれて来たのよ」

 機械人形がパラノイアの手首を掴んだ。骨が折れそうになるほどの強い力だ。食い込む女の指にたまらず顔を顰めた。
 遠くから自分を呼ぶ声がした。リビドーの声だ。パラノイアは機械人形を振り払い、窓と反対側にある扉に向かった。
 扉を開くと眩い光が飛び込んで来た。反射的に目を瞑る。
 次に目を開くと、顔いっぱいに相棒の姿が見えた。

【ノア! ノーア、起きロー!】

 パラノイアは「重い……」と呟いて、胸の上に乗った相棒を払いのけた。

【ハァ、やっと起きたカァ。今日は早起きして出かける約束だったのに、寝坊助ガ】

 薄っぺらな毛布を剥がし、目を擦ってから辺りを見回す。いつもの酒店だった。

【うなされてたけど大丈夫カァ?】
「妙な夢を見たんだ」

 絵を描く機械人形なんて不気味なものを見たせいだろう。何かの暗示という可能性もなくはないが。

【ふぅん。ま、蚤の市で美味いモンでも食って忘れようゼ】

 思いつめた顔でもしていたのか、リビドーはパラノイアを励ました。今はこれ以上考えても仕方がない。パラノイアは気持ちを切り替えた。

「そういや今日は蚤の市に行く予定だったね」
【おいおい、忘れてたのかヨ】

 妄想屋のある収容所から少し離れた空閑地では、月に一回、蚤の市が開催される。近所の住人や商売人、遠方の行商人なども集う。料理を出す店もあり、リビドーは毎回それを楽しみにしていた。

【羊肉の串焼き、油条ヨウティヤオ……早く食いたいゼ! さっさと着替えロ】
「はいはい」

 パラノイアは祭りにはしゃぐ幼子を見るような穏やかな気持ちを抱きつつ、朝の準備を済ませた。
 蚤の市には大小様々な店が参加している。地面に布を敷き、ガラクタを置いただけの趣味でやっているような店もあれば、立派なテントを立てて各地で集めた品々を置いているところもある。
 まだ朝の十時前だったがかなり賑わっていた。あちこちから料理を楽しむ声や、物品を値切る声などが聞こえて来る。リビドーはさっそく羊肉の串焼きにありつけてご満悦だった。

【んー、美味いゼ。お前も食ってみろヨ】

 パラノイアはひとつ貰った。肉は柔らかく、臭みも無く、塩だけのシンプルな味つけながら侮れない味だ。

【おっ、あっちで油条が売ってるゾ。財布の準備をしロ!】

 揚げたてのきつね色したパンに、リビドーはよだれを垂れんばかりだった。
 パラノイアは羊肉を飲み込むと、一直線に油条屋に向かうリビドーを追いかけた。その時、視界に煌めく小瓶の陳列が写り、思わず足を止める。
 小瓶はどれも少しずつ色や形が異なっており、ひとつとして同じものはなかった。出来のよさだけは同じだ。優れた職人によって作られたのだろう。美煙壺の材料によさそうだ。パラノイアはふらりとその店に足を向けた。

「いらっしゃい。色々あるからゆっくり見てって」

 店主は威勢のある声で言った。翡翠色のデールを着た赤毛の若い女だ。見覚えがある。あちらも同じことを思ったのだろう。女は「あっ」と、口を開いた。

「あんた、この前の行商人じゃないか」
「どうやら無事に帰って来れたみたいね」

 行商人はいたずらっぽく笑った。葦毛の馬の姿はない。近くの馬繋場(ばけいじょう)にでもやっているのだろう。

「あそこで見つけた物のおかげで、お客に喜んで貰えた。感謝するよ」
「えっ、まだ金目の物があったの? もっとよく探せばよかったぁ」

 行商人の女は何か勘違いしたらしく、がっくりと肩を落とした。

「ま、いいわ。お礼を言いたいならお金を落として行くことね」

 すぐに気を取り直して行商人は言った。

「そうさせて貰うよ。いい品を売っているみたいだね」

 パラノイアは小瓶に視線をやりながら言う。行商人の表情が輝いた。

「なかなかの慧眼ね。それは私が見つけた凄腕ガラス加工職人の手による品よ。私も材料集めに苦労したんだから!」

 行商人は自信満々に言ってのけた。

「こっちはどう? 西洋まで旅した先で集めたんだけど」ティーカップや皿を勧められた。「あと珍しい石や、装飾品もあるわよ」
「そっちは興味ないね」
「あら、そう。まぁゆっくり見て行ってよ」
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