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私は、大丈夫

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『私は、大丈夫』

 子供の頃から、つらいことがあるたびに鏡の中の自分にそう言い聞かせてきた。

 言葉には力があって、声に出せば本当になるから。


 浅い眠りの夜、暗闇の中目を凝らすと、窓辺に一人佇み月を見上げる母がいた。

 月明かりの下、母は何度も何度も繰り返していた。


『大丈夫、私は大丈夫』

 自分だけが温かい布団の中で、私はその光景をこの目に焼き付けた。

 今だけではなく、この先もずっと。決して忘れないように。


 ――母のように強く、私はなりたい……


「三谷さん、もう出てこられたんですか?」
「岩井田さん、あけましておめでとうございます」
 早朝のオアシス部で、まだ正月休みを引きずっているらしい、眠そうな目をした岩井田さんに頭を下げた。
「年末は、色々とありがとうございました」
 クリスマスだというのに、母の葬儀には会社からもたくさんの人が駆けつけてくれた。岩井田さんもその一人だ。
「その、もう大丈夫なのかな。こんなこと聞くのもあれなんだけど……」
不安気に私を覗きこむ岩井田さんにこれ以上心配をかけたくなくて、私はにっこりと微笑んだ。
「私は大丈夫ですよ、岩井田さん」
それなのに、岩井田さんの顔はなぜかまだ晴れない。
「……本当に?」
「岩井田さんって、案外心配性ですよね」
 眼鏡の奥、私に心配そうな視線を向ける岩井田さんに、私はもう一度微笑んでみせた。
「いや、だって……君葬儀の時、一度も涙を流さなかったから……」
 ――気づかれていた。
 母が亡くなってすぐは、母がもういないことが信じられなくて。……なんだか嘘のようで、しばらくぼんやりとしていた。
通夜や葬儀のときは、やらなければいけないこと、決めなくてはいけないことがたくさんあって、とにかくそれに追われていた。
私は母の死を実感する間もなく、気がつけば全てが終わっていた。
 本当は今このときも、悪い夢を見ていたような気がしている。
元気だった頃の母がひょっこりと姿を現して、『香奈』と笑いかけてくれるような気がしてならない。
「……泣かないってことは、もう大丈夫ってことですよ、岩井田さん」
 『私は大丈夫』
 ちぐはぐな心とはうらはらに、こうして今日も私は、自分の心に暗示をかける。
  
 会社帰りのバス停で、到着したバスを見上げてため息を吐き出した。まるで朝の通勤ラッシュのような人の多さだ。
バスの中は暖房が効きすぎていて、ウールのストールを巻きつけた首筋に汗が滲む。それでもいつもは平気なのに、私は珍しく人に酔った。
ひどくめまいがして、家の近くのバス停にたどり着くまで目を瞑り、私は必死でつり革を握り締めていた。
 きっとずっと眠れていないから、そのせいだろう。今日くらいはぐっすり眠れたらいいのに。
 母のことをきちんと受け入れられたら、私は眠りを思い出せるのだろうか。
一人の家に帰ると、あの月夜の母の姿が脳裏に蘇っていつまでも消えない。
母が近くにいないことが、ずっと不思議でならなかった。
 ――でもその時は、突然訪れた。
 とにかくずっと靄がかかったような頭をすっきりさせたくて、私は食事もそこそこにシャワーを浴びた。
濡れた髪を乾かそうと、洗面台の前に立つ。覗き込んだ鏡の中の自分に、私は初めて母の面影を見た。
「ずっと似てないって言われたのに……」
 私はおそらく父親似なのだろう。母と一緒に居ても、これまで似ていると言われたことがなかった。それなのに……。
 鏡の中の自分に手を伸ばしてみる。
キリと上がった眉、すっと通った鼻筋、痩せた頬、薄い唇。
いつの間にかこんなにも、私は母に似てきていた。
「本当に、居なくなったんだなあ……」
 今頃、母の不在を実感して、一粒、二粒と涙が零れる。
「……とうとう一人になっちゃった」
 そう呟いて、もう一度鏡を覗きこんだとき、それは突然舞い降りて来た。
「かあ……さん?」
 呼びかけても、答えてくれるわけじゃないのに。気づけば母を呼んでいた。
 ……もしかしたら、これは母からの最後の贈り物なのかもしれない。それは徐々に、確信へと変わっていく。
「うっ……、母さん!」
私は、その場に膝をつき泣き崩れた。
『涙はもう出ない』そう思っていたのに。涙は枯れることなく私の中から溢れてくる。
 泣いて泣いて、時間も場所も何もかもが曖昧になるほど泣き続けて、真冬の空が白み始める頃、ようやく私は眠りに落ちた。
 それは久しぶりに訪れた、安らかな眠りだった。
 
「タン!」とキッチンの方から思い切りのいい包丁の音がして目が覚めた。
目を開けると、私はきちんとベッドの中で眠っていた。泣きすぎて、頭が痛い。まだふらつく体で、ベッドから抜け出した。
 寝室のドアを開けると、あの香りが漂ってくる。
酸っぱくて苦い、それなのにほのかに甘いグレープフルーツの香り。
どうしても欲しくて、私はそれに手を伸ばす。
「先輩……起きた?」
 足音に気付いた上村が、私を振り返った。
「上村、またグレープフルーツ?」
 笑ったつもりだったのに、久しぶりに私の部屋に居る上村の姿を見て、ほろりと一粒涙が零れた。
「……ごめんね、上村が寝室まで運んでくれたの? 重かったでしょう」
 上村は包丁を置き、体を私の方に向けると、眉間にしわを寄せた。
どうしたんだろう? なんだか上村、怒ってるみたいだ。
「ちっとも重くない、軽すぎるよ。先輩、ちゃんと飯食ってたの?」
「ああ、あんまし……」
「あんましじゃないよ。前にも言っただろ。どうしてしんどい時にちゃんとしんどいって言わないんですか」
 真剣な上村につい吹き出してしまう。こんなに一生懸命な上村、今まで見たことがあっただろうか。
「あのね上村、私には呪文があるの」
「……呪文?」
 私がそう言うと、上村はまた訝しげに眉をひそめた。
「そう、『私は大丈夫』って何度も胸の中で唱えるの。そうしたらほんとに大丈夫になる。……だから私は、誰かを頼らなくても生きていけるの」
「何言ってんの……」
 上村は眉間にしわを寄せると、私を胸に抱き寄せた。
懐かしい上村の体温と匂い。それが、いつも私を惑わせてしまう。
「今度から俺を頼って。鍵もあるからいつでも来られる」
 そう言って体を離すと、シャツの胸ポケットからこの部屋の鍵を取り出して私に見せた。
「先輩は捨てろって言ったけど、やっぱり俺にはできなかった。……先輩、この鍵俺が貰ってもいいですか?」
「上村……」
 私は、上村の腕の中から抜け出すと、彼の手のひらから部屋の鍵を受け取った。
チャームと鍵がぶつかって、涼やかな音を立てる。
 ――全ては、この鍵から始まったんだ。
「ダメよ。返し……」
 全て言い終わらないうちに、両肩をきつく掴まれた。見たことないほど苦しげな表情を見せる上村に、胸が痛む。
「……どうして。ひょっとして朝倉のこと? それならちゃんと……」
「違うわ」
 麻倉さんがどうであろうと関係ない。問題は、私と上村では『違い過ぎる』ということだ。
「違うならどうして」
「上村、もうやめよう。私たちは一緒にいるべきじゃない」
「……どうしても?」
「どうしても」
 素直にその手を取ることができたなら良かったのに。
 私の気持ちは変わらないと悟ったのか、上村はゆっくりと私から離れた。名残惜しげに私に触れ、唇にキスを落す。
「さよなら、香奈」
 最後にそう告げ、上村はこの部屋から出て行く。
これで、最後。
そう思ったことはこれまで何度もあったけど、本当にこれで最後なんだ。
 音もなく、玄関のドアが閉まる。私は手のひらの鍵をきつく握り締めた。



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