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自覚と嘘

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「三谷さん今頃悪いんだけど、ここの数字だけちょっと直してもらえる?」
 定時30分前。岩井田さんから渡されたのは、商談を明日に控えたドラッグストアとの契約書だった。
「すみません、何か間違いがありました?」
「ううん、違うんだ。上からの指示。今頃になって本当にすまないね」
「いえ、大丈夫です」
とりあえず私のミスではなかったことにホッと息を吐く。
私は岩井田さんから書類を受け取ると、すぐに修正に取りかかった。
 さっきまで打ち込んでいたデータの入力が終わったら、今日はもう帰るつもりでいた。17時半のバスに乗れば、ぎりぎり母の夕食の時間に間に合う。
でも今日はもう、諦めるしかなさそうだ。

 あれから母は、ICUから一般病棟に戻ることが出来た。
それでも症状は日々確実に悪化している。私が会いに行っても、最近の母はほとんどベッドに臥せったままだ。
日に日に弱っていく母を放って置くことはできなかった。僅かな時間でも側にいてあげたかった。
 それなのに母の病状と比例するかのように、仕事は忙しさを増していく。
私は思い通りにいかない毎日に苛立っていた。
「あ!」
 そしてこうやって、普段の私ならやらないような単純なミスをしたりもするのだ。
キーボードを連打して、間違って入力してしまった数字を消していく。今度は連打しすぎて、消さなくていい分まで消してしまった。頭を掻きむしりそうになるのを必死で抑え、重たいため息を吐く。
 どうせ今日はもう残業決定だし、お茶でも入れてちょっと落ち着こう。濃い目に入れれば、きっと頭もすっきりするはず。ちょっとくらい席を外しても構わないだろう。
噛り付くようにPC画面に集中している岩井田さんを横目で確認して、私は給湯室へ向かった。
  
 いつもの棚から茶筒と急須と湯呑を取り出し、セットする。
こんな時は、濃い目入れた玉露がいい。いつもよりぬるめのお湯を急須に注いで、きっちり三分蒸らしの時間を取る。
 急須から漂う玉露の香りを胸いっぱいに吸い込んで息を吐く。とりあえず母のことは置いておいて、今は仕事に集中しなければ。
 今度は味を楽しもうと湯呑に手を伸ばした時、「先輩」と後ろから声をかけられた。振り向くと、出先から戻ったばかりなのだろう、額に薄く汗をかいた上村が立っていた。
「ああ上村、おつかれさま。リストランテHiraに行ってたんでしょう? どう、契約うまくまとまりそう?」
「そうですね、まあ」
 返事は素っ気ないけれど、上村は自信ありげな顔をしている。ずっと手こずっているみたいだったけど、きっとうまくいったんだろう。
「そう、良かったじゃない」
 上村からいい報告を聞けて、自然と笑顔になる。私は上機嫌で湯呑に口をつけた。
「喉渇いたなー。先輩、俺にも一杯もらえますか?」
「いいけど、熱いお茶でいいの?」
 上村は汗が滲んだ首筋をハンカチで拭っている。
「冷たいのがいいけど、それよりも先輩が入れたお茶がいい」
「な……」
 上村の言葉に一瞬、胸が音を立てた。
ほんの少し間を空けて、上村を見る。いつものように片頬を上げて憎らしい笑みを浮かべている。
 一瞬でも、意識した自分が馬鹿らしい。上村は、どうせいつもみたいに私をからかって遊んでいるだけだ。
「……仕方ないわね」
 上村から視線を逸らして、私は近くにある戸棚に手を伸ばした。
 ガラスのコップを取り出すと、冷凍庫から取り出した氷をコップ一杯に入れる。そこに入れたてのお茶を注いだ。
熱いお茶で解けた氷が、コップの中でカランと涼しげな音を立てる。
「あー、それうまそう」
「はい、どうぞ。軽くコップを揺すってから飲んでね」
 私がコップを手渡すと、上村は言われた通りにコップを揺すった。素直に言うことを聞く上村がかわいく思えて、思わず笑みが浮かぶ。
上村は氷が解けたのを確認すると、一息に飲み干した。
「うまい! ありがとうございました」
「うまいって、味わう暇なんてなかったじゃない」
 そう茶化しながら、上村から空になったコップを受け取った。
お茶を入れるくらい、あの日上村に助けてもらったことに比べたらなんてことない。
 あの夜以来、上村と会社で二人になるのは初めてだった。母のことがあって上村も遠慮しているのか、最近はあまり部屋を訪ねてこない。
 私はずっと上村にあの夜のことを謝りたいと思っていた。
「上村、あの日はごめんね。仕事で疲れてたのに、遅くまでつき合わせて」
「いいですよ、あれくらい」
 上村には、たぶんなんでもないことなんだろう。職場の先輩にちょっと手を貸してあげた。それぐらいにしか思っていないかもしれない。
「それでね、ちょっと話があるんだけど」
 それでもあの日、私は上村の存在に救われた。その上私は、上村の翌日の仕事に支障が出てもおかしくないような迷惑をかけた。もちろん上村はそんなことはしなかったけれど。
 これからきちんと一人で母に向き合うためにも、もう上村を部屋に上げてはダメだと思った。いつ病院から連絡があるかもわからないし、もしまたそんな時に居合わせたりしたら、上村は何度でも私を助けようとするだろう。
私はこれ以上、自分以外の誰かに甘えるようなことはしたくない。
「上村、鍵を……」
「先輩」
 意を決して放とうとした言葉は、上村に遮られた。
「な、何?」
「今度の土曜日空いてますか?」
「土曜日なら空いてるけど……」
「よかった。昼ごろ部屋に行くから、出かける用意をして待っててください」
 一体どうしたんだろう? 今まで上村は私の部屋に来るばかりで、外へ出かけようなんて言ったことない。
「出かけるってどこへ?」
「秘密」
 そう言うと、上村は悪戯を企んでいる子どものような顔で微笑んでみせた。「何それ。秘密って子供じゃないんだから――」
「約束ですよ。それじゃ、ごちそうさまでした」
 そして、あっという間に私の前から消えてしまう。
「あ、ちょっと。上村!」
 一刻も早く鍵を取り返さなきゃと思うのに、結局いつも上村にかわされてしまう。
 このままでは、いつまでたっても上村から離れることができない。そのことに、私はだんだんと焦りを感じるようになっていた。


出かけるって、一体どんな格好してったらいいんだか」
 窓越しの強い日差しに目を細めて、ぼそりと呟いた。
 上村と『約束』した土曜日。空調がほどよく効いた病室内とサッシ一枚で隔てたベランダ越しに、空高く昇る入道雲が見える。今日も暑くなりそうだ。
 病室のテレビから、「今日は猛暑になる」とアナウンサーの声がする。こんな日に、上村は私をどこに連れて行くつもりなのだろう。炎天下の中、わざわざ出て行くのも億劫だ。
「なあに、ため息なんかついて」
 ベッドに横たわる母を振り向くと、顔だけ僅かにこちらに向けて私に向かって微笑んでいた。母の弱々しい表情に胸が痛む。私は芽生えた不安を打ち消すように、わざとおどけた声を出した。
「それがさ、午後から用事があって出かけなきゃいけないんだけど、暑いしもう面倒くさくって」
「そうなの? でもその割に嬉しそうに見えるわ」
「え? 誰が」
「香奈が。そんなこと言って、本当はデートなんじゃないの?」
「そ、そんなわけないじゃない! ちょっと後輩に付き合うだけよ!!」
 慌てて両手を振る私を見て、母はふふっと微笑んだ。
「はいはい。そういうことにしておいてあげるわ」
「もう母さんったら、すぐ私のことからかうんだから」
 そのとき、ふいに母の顔から笑顔が消え、ゆっくりと目蓋を閉じた。
「ごめんなさい香奈。ちょっと疲れたみたい。……眠たいの」
「それじゃあ私はそろそろ帰るね。ゆっくり眠って、母さ……」
 私が最後まで言い終わらないうちに、母はもう寝息を立てていた。
 ここ最近の母は、私が来ても、すぐに「疲れた」と言って眠ってしまう。起きていると思って声をかけても、たまに夢なのか現実なのか区別がつかない時もあるようだった。
それが薬のせいなのか、それとも病気の進行のせいなのか私にはわからない。
 眠ってしまった母を起こさないように、私は静かに病室を後にした。
  
「用意できました?」
「まあ、一応」
 母の病院から、いったん部屋へ戻り、一時間くらいたった頃。コツコツと玄関のドアを叩く音がした。
 上村相手にうだうだ悩んでも仕方がない。そう思った私は、結局無難にワンピースを選んだ。白地に黒の小花柄がプリントされた、シンプルなデザインのものだ。
 マンションの前に停めてあった上村の車に、二人して乗り込む。車窓から、週末の街を行き交うたくさんの人々が見えた。
「先輩もそういう格好するんですね」
 信号待ちで車が停まった隙に、上村が私をちらりと横目で盗み見た。
「上村がどこに連れてくのか教えてくれないから。こういうのが一番無難でしょう?」
「はは、それはすみません。でもよく似合ってますよ、可愛いです」
「……そんなこと言っても何にも出ないわよ」
「何だ、言って損した」
 軽口を叩く上村を軽く睨む。別に私だって、上村の言葉を本気にしているわけじゃない。いつの間にか私も、上村とのこういうテンポのいい言葉のやり取りを楽しめるようになっていた。
 上村はこうやって少しずつ私の心の中に入り込んでくる。そして私はそのことを心地良く感じている。
それはもう私自身、認めざるを得ないことだった。

 繁華街への入り口近くにあるコインパーキングに車を停めると、上村は人通りの多い交差点の方に向かって歩き出した。
「ねえ、いったいどこに行くの?」
 スクランブルの交差点は大勢の人々で溢れていた。上村とはぐれてしまわないように、私は彼の背中を必死で追いかけた。
 上村は歩くのが早くてなかなか追いつけない。後ろにいる私のことを振り返りもしない。
今日の上村はなんか変だ。いつもなら、素の時でも私に気を遣ってくれるのに。
私を構わない上村のことが、却って不自然に思えた。
「飯、おごります」
 交差点を渡りきり、アーケード街に入ったところで、ようやく上村が口を開いた。それでもやはり上村は前を向いたままで、私の顔を見ようとしない。
「どうしたの、急に」
「いつもの家飯いえめしのお礼」
 そう言うと上村は歩くスピードを上げ、また私との距離を開いてしまう。
ひょっとして、照れてるとか? いや、あの上村に限ってまさか。
 結局私はレストランに着くまでの間、一度も上村の表情を確かめることができなかった。
  
 本筋であるアーケード街から、斜めに伸びた細い路地に入る。しばらく行くと、どこかで見覚えのあるお店が見えた。
「上村、このお店……」
『リストランテ Hira』
 上村が連れてきてくれたのは、オアシスタウンに二号店をオープンさせようと、上村がずっと交渉していたあのレストランだった。
「やっと客として来ることができました」
 上村は私を振り返り、ようやく目を合わせて話してくれた。その表情はどこか誇らしげだ。
 白い木製のドアを開け中に入ると、そろそろランチタイムは終わろうかという時間なのに、店内はまだまだお客さんでいっぱいだった。
「いらっしゃいませ、上村さん。お待ちしていましたよ」
 上村と二人で案内されるのを待っていると、一人の若いシェフがこちらへ歩いてくるのが見えた。とても体格がよくて、ユニフォームを着ていなければ格闘家か何かと間違えるかもしれない。
「お忙しいのに無理言ってすみません、比良ひらさん」
「いえいえ、来てくださって嬉しいですよ」
 比良さんというそのシェフは、満面の笑みで上村に握手を求めた。上村も笑顔でそれに応じている。
「こちらは同じオアシスタウン事業部の三谷です。先輩、こちらはリストランテHiraの二号店をやってくださる比良 たもつさん。こちらにいらっしゃる前は、東京の帝都ていとホテルで修業なさってたんですよ」
「はじめまして、三谷と申します。すごいですね、帝都ていとホテルにいらしたなんて」
「比良です、どうぞよろしく。そんな、すごいだなんて」
 私が驚くと、比良さんは慌てたように顔の前で手を振った。大きな体を精一杯小さくして、立派な眉を下げる姿に親しみが湧く。
比良さんは、有名店のシェフだというのにどこにも気取ったところのない人だった。
「今日はお二人ともお客様なんですから。さあこちらへどうぞ」
奥へと進む比良さんについていく。私と上村が通されたのは、窓からお店の中庭が見えるこじんまりとした個室だった。
「混んでいるのに、なんだか申し訳ないね」
「そうですね」
 比良さんのあの握手といい、わざわざ用意していてくれたこの個室といい、比良さんは上村のことをとても気にいっているように見えるのに、上村はどうしてこのレストランとの契約にあんなに手こずっていたのだろう。上村と食事をする間も、ずっとそのことが気になっていた。
 食後のデザートとコーヒーは比良さんが直々に運んできてくれた。シンプルなガラスの器の中の艶やかな果肉に目が釘付けになる。
「デザートはグレープフルーツのマリネです。どうぞ」
 真っ白なブランマンジェの上に、ピンクと薄い黄色のつやつやとしたグレープフルーツが交互にのっている。その内の一欠片を私はスプーンで掬い頬張った。
「あ、おいしい!」
「それはそれは、ありがとうございます」
 比良さんはまたしても太めの眉を下げ、ニコニコしている。
ああ、この人は本当に料理が好きで、料理で人を喜ばせたいんだな。比良さんの笑顔は、そのことをうかがわせる生き生きとした笑顔だった。
「お料理は任せてくださいましたけど、デザートだけは上村さんからのリクエストで。本当はメニューにないものなんですけど、急遽作ったんですよ」
 そう言って比良さんは私にウインクをする。
「えっ、わざわざ?」
 上村は私の言葉には答えず、黙々とデザートを口に運んでいる。
「そんなことくらい、上村さんが僕にしてくれたことに比べればお安い御用ですよ。ここでの仕事にやりがいを感じられなくなっていた僕を救ってくれたのは上村さんですから」
「……どういうことですか?」
 上村は相変らず涼しい顔でコーヒーを口に運んでいる。わけがわからずにいる私に、比良さんは続きを話し始めた。
「ここのオーナーシェフ……僕の親父なんですけど、本当に昔気質で頑固で。二号店のお話をいただいて、僕はすぐにチャレンジするべきだって言ったんだけど、親父は『今いるお客様のために精一杯出来ることをやればいい、二号店なんて必要ない』って言い張るばかりだったんですよね……」
 比良さんはその頃のことを思い出したのか、苦笑を浮かべた。
「僕も東京のホテルで学んできたことを活かしたくて。使う素材にしろ料理のやり方にしろ親父と一緒にどんどん新しいことにチャレンジしたかったんですけど、親父はずっと僕のこと全否定で。仕事への情熱を失いかけていた時に上村さんに出会ったんです」
 そう言って比良さんは、黙ったままの上村を見る。それに応えるように、上村は手にしていたカップをテーブルに置いた。
「一度、ちょうどランチで店が混んでいた時に上村さんがいらしたことがあって、僕に『お客様の顔を見てみてください』って」
「お客様の顔?」
 意味がわからず、私は上村を覗きこんだ。でも、上村と視線は合うことなく、表情からも何も読み取れない。
「どのお客様もこのお店の料理に心から満足してる。みんな親父の料理が好きでこの店に来てる。この店を新しく作り変えるのではなく、お互いのいいところを取り入れた新しい店を作りませんか、って……」
「オーナーがこれまで築いてこられた伝統を守りつつ、比良さんの画期的なアイデアをいかせる店をこれから作ればいいんです。お二人の夢を現実にするために僕らがいるんですから」
 その瞳の力の強さに驚く。……上村はこんな顔をして仕事してるんだ。
「今まで以上にお客様を呼べるお店を一緒に作りましょう、比良さん」
「はい!」
 再び比良さんが上村に握手を求めた。希望に溢れた顔で、固い握手を交わす上村と比良さんのことがとても眩しく思えた。
 比良さんは、その後も二号店の構想や試作中の新メニューのことなどを話してくれた。上村はその一つひとつに丁寧に耳を傾け、時には自分の考えも躊躇なく述べる。こんなふうに熱く語る上村の姿を見たのは初めてだった。
 私は白熱する二人に圧倒されて、ただ見守ることしかできなかった。
「三谷さん、すみません。せっかくお休みの日に食事に来て下さったのに仕事の話ばかりしてしまって」
「いえ、お話とてもためになりました。食事も美味しかったです。ありがとうございました」
「またいらしてくださいね。お待ちしてます」
 仮屋さんは私たちが見えなくなるまで、店の前で手を振っていた。気さくな仮屋さんの人柄と料理への真摯な姿勢に、お腹だけでなく心まで満たされたような気がした。
「上村、今日はありがとう。ごちそうさまでした」
 結局、食事は上村がご馳走してくれた。私の手料理へのお礼にしては高くつき過ぎたようでなんだか気が引けてしまう。
「どういたしまして。あの店って料理もうまいけど、シェフもなかなかいいキャラでしょ?」
「ほんと! 見た目はごつい格闘家みたいなのに、作るお料理はどれも繊細で本当に美味しかった。お話も面白いし」
 そう興奮気味に話す私を、上村が優しく見下ろす。初めて見る表情に一瞬胸が音を立てた。
「よかった、元気出たみたいですね。最近疲れてるみたいだったから、先輩」
「や、やだ。会社でもそんな顔してた?」
 パチパチと頬に手を当てて、慌てて近くのショーウィンドーを覗き込んだ。やだな、目の下にクマでもできてたりする?
「いえ、誰も気づいてないとは思うけど」
「そうなんだ。それなら良かった」
 上村の言葉に、ホッと胸をなでおろした。会社の人にまで心配かけるのは本意じゃない。
「良くないでしょ。どうして先輩はしんどい時にちゃんとしんどいって言えないの?」
 ショーウィンドー越しに上村と目が合う。真剣な表情に思わず私から目を逸らした。
 「上村はちゃんと気づいて心配してくれてたのよね。ごめんなさい」
 会社のみんなにはまだ言ってないけれど、上村だけは母の病気のことを知っている。だから、上村が私の不調に気付いてくれたことも、今日の『約束』も、ただ私のことが心配だっただけだ。何も特別な意味はない。
勘違いして溢れ出そうになる感情を押さえ込もうと、私は口をつぐんだ。
「別に、謝って欲しいわけじゃない」
 上村はそういうと、私から顔を背け、来た時のように私を置いて歩き出す。
私と一緒に歩きたくないのなら、初めから約束なんてしなければいいのに。どうしてそこで機嫌が悪くなるのか、私にはわからなかった。
 たまに気まぐれのように優しくされると、胸が苦しくなる。
私はこぼれそうになるため息を封じ込め、重い足取りで上村の背中を追った。
 来た時と同じスクランブル交差点で信号待ちをしていると、道路を挟んだ向こう側に浴衣姿の女性を見つけた。まだ大学生くらいだろうか、恋人らしき男性と仲良さそうに話している。
 歩行者信号が青になり、私は浴衣の彼女を目で追いながら上村の後ろをついていった。
すれ違いざまに、はぐれないようどちらともなく手を繋ぐ二人の姿が目に入った。
横断歩道を渡りきり、私はほんの一瞬だけ目を閉じた。彼女が締めていた緋色の帯が、残像となって目蓋の裏に残っている。
 母はきっとあの二人のように、私と鳴沢さんが仲良く寄り添って歩く姿を想像しながら、あの浴衣を仕立てたのだろう。
私はそんな些細な母の願いも叶えてあげられなかった。今朝見た母の静かな寝顔を思い出し、胸が痛む。
「先輩、どうかしたんですか?」
 なかなか進もうとしない私を不審に思ったのか、少し先で私を待っていた上村がこちらへ戻ってきた。
「ごめん、なんでもないの。行こう」
「先輩……浴衣」
 上村はさっきの女性に気付いたらしい。ゆっくりと私に視線を戻すと、続けて問いかけた。
「ひょっとして、あの人のこと見てた?」
「……うん」
 たぶん上村は、私が母のことを考えていたことに気付いたんだろう。それ以上そのことには触れず、車を停めたコインパーキングに向けて再び歩き出した。
 私も黙って上村を追う。パーキングに向かう途中でも、浴衣姿の女性や子供と何度かすれ違った。
 車に乗り込んでからも上村は無言だった。BGMも流れない、静かな車内がなんだか息苦しくて、私はずっと窓の外を眺めていた。
「あ」
「どうしたの?」
 それまで静かだったのに、急に声を発した上村に驚いた。信号で停まった交差点で、上村は私とは逆の方を向いていた。
「今日じゃない? 照国神社てるくにじんじゃ六月灯ろくがつどう。先輩、見て」
 上村が指差した先に、花柄の浴衣に真っ赤な金魚の尾ひれような兵児帯へこおびを締めた小さな女の子が、四角柱型の燈とうろうを抱えて歩くのが見えた。燈ろうの側面には和紙が張り付けてあり、四方に有名なキャラクターのイラストが描いてある。
「懐かしい。私も自分で絵を描いた燈ろうを持って、近くの神社の六月灯に行ったな。夜店で母に綿菓子買ってもらうのが楽しみだった」
 それはもう遠い記憶だ。夏の宵闇の中を、母と二人手を繋いで歩く。
神社の入り口の鳥居から境内まで、ろうそくを灯した燈ろうがずらりと下げられていて、夢中になって自分が絵を描いた燈ろうを探した。
 あの時も、母が仕立てた浴衣を着ていた。一面にピンクの朝顔が散った浴衣は私のお気に入りで、背が伸びて着られなくなった後も、大事に仕舞っておいた。たぶん今も母の部屋の押し入れに、大切に取ってあるはずだ。
 あの頃は、ずっと母といられるのだと思っていた。ずっと母の温かい手を握っていられるのだと信じていた。私はそれを今、失いかけている。
 信号が青になり、車が動き出す。私は、滲んだ涙を上村に気付かれないように、再び顔を窓の外に向けた。
  
「今日は本当にありがとう。楽しかった」
 上村とは、マンションの駐車場で別れるつもりだった。
街中で浴衣姿の女性を見かけてからずっと、母のことが頭から離れない。早く部屋で一人になりたかった。そうでないと、きっとまた上村に弱い自分を見せてしまう。
「じゃあ、また来週会社で」
 何か言いたげな雰囲気の上村を振り切るように、助手席のドアに手をかけた。
「待って」
 上村が私の肩を掴み、車の外に出られないようにした。すぐ近くに上村の吐息を感じ、私は咄嗟にドアを背に後ずさった。
泣いたことに気付かれたくなかった。
「……どうかした?」
 その一言で精一杯だった。肩に感じる上村の手のひらの熱が、母を失いかけたあの夜を思い出させ、気持ちが揺らぐ。
「先輩、浴衣着て今から俺と一緒にお母さんに会いに行きましょう」
「……何言ってるの?」
「後悔してるんでしょう、浴衣を着て見せてないこと」
 ……どうして。どうして上村は、いつも私の心を見抜いてしまうんだろう。
「それは……そうだけど。でも私と一緒に行くって、上村その意味わかってるの?」
「わかってますよ、もちろん」
「それならどうして? こんなことに上村を巻き込むわけにはいかないよ」
「俺なら構いませんよ」
 私を覗きこむ上村からはいつもの皮肉めいた表情は消えている。上村が決して面白半分で言っているんじゃないということが、私にもよくわかった。
「やっぱりダメよ、そんなこと絶対にダメ。それに上村を連れて行けば、母さんにも嘘をつくことになる」
 私の肩を掴んだままだった上村の手の力が更に強くなった。両肩にはっきりと指先の圧力を感じる。
「このまま何もしないでお母さんを見送って、あの浴衣も子供の頃の思い出みたいに一度も着ないまま仕舞いこむんですか? それで本当に先輩は後悔しない? 後から後悔したって、どうにもならないんですよ」
 どうして上村はこんなに熱心なんだろう。普段のクールな上村は鳴りを潜め、瞳は見たことのない熱を帯びている。
「どうして私にそこまでしてくれるの?」
 まるで上村自身が、何かを強く後悔してるみたいだ。私の言葉に、上村の眉間のしわがグッと深くなり、表情は更に苦しげなものになった。
「……先輩に、俺と同じような後悔をして欲しくないから」
「どういうこと?」
 上村は私から顔を背け、肩を掴んでいた手を放した。急に体から上村の熱を失い、途端に私は心細くなる。
「……俺のことはいいんです。今は先輩のことでしょう」
 一瞬、上村と私の間が暗幕で遮られたような気がした。
今この瞬間、上村は私に心を閉ざした。私は自分でも気付かないうちに、上村の踏み込んではいけない場所に踏み込もうとしていたのだろうか。
まるで私の注意を自分から逸らすように、上村は強い口調で話し続けた。
「お母さんに不安を抱えさせたままでいいんですか? 嘘をつけば、確かにこの先先輩は苦しむでしょう。でも少なくともお母さんは、これ以上苦しまずにすむ。お母さんに未練を残させてはダメです」
「そう……そうだよね」
 私の返事に、上村は静かに頷いた。
 そうだ、私がこの先苦しむのは構わない。でも、母さんには憂いを抱えたままでいて欲しくない。
「わかったわ。私を助けて、上村」
 私は上村を一人車内に残し、マンションのエントランスに駆け込んだ。

「母さん……香奈よ、起きて」
 ぐっすりと寝入っている母の肩に、そっと触れてみた。
 病院はちょうど夕食の時間帯らしく、母の部屋の外からも、食器を使う音や台車の軋む音、食事を配膳する人々の話し声が聞こえてくる。しかし母の耳には、そのざわめきすら届いてはいないようだった。
「……か…な?」
 ベッドに横たわったままの母が、ゆっくりと目蓋を開けた。私は母に声が届くよう中腰になり、耳元に顔を寄せた。
「今日母さんの浴衣着てきたの。わかる?」
 私はその場で立ち上がり、母の目の前で、クルリと一度回って見せた。母の目が大きく見開かれる。
「ようやく着てくれたのね。嬉しいわ、香奈。よく……似合ってる」
「ありがとう、母さん」
 母の笑顔に、胸が熱くなる。やはり母は、待っていたのだ。
そのとき、それまで壁際に黙って立っていた上村が、私の隣に立ち、母に話しかけた。
「はじめまして、上村と申します。香奈さんとお付き合いさせていただいてます。ご挨拶が遅くなり申し訳ありません」
 上村は、母に向かってしっかりと頭を下げた。母の表情が、驚きからみるみる笑顔に変わる。
「え? え? そうなの、香奈」
「うん。今日は照国神社の六月灯でしょ? この後、彼と出かけるの」
「そう……、そうなのね」
 母の目にじわりと涙が浮かび、一筋の線を作った。母は仰向けのまま目のふちに指先を当て、次々に溢れてくる涙を拭っている。
「よかった……よかった、本当に。上村さん、香奈のことよろしくお願いします」
「はい、どうぞ安心なさってください。香奈さんには僕がついていますから」
 上村の力強い言葉に安心したのか、母は一度大きく頷くと、ゆっくりと目蓋を閉じ、小さな寝息を立てはじめた。
 母の寝顔は、幸せな夢でも見ているかのような、とても穏やかなものだった。
  
「今日は本当にありがとう……って、これ二回目だね」
 脱いだばかりの浴衣をカーテンレールに掛け、リビングの入り口に立ったままの上村にそう声をかけた。
 私を気遣ってくれたのか、何度も断ったのに上村は部屋まで送ると言ってきかなかった。
帰りの車の中でも、車を降りた後も、お互いに会話を交わすでもない。ただ、心配そうな上村の表情には、気づいていないふりをした。
「コーヒーでも飲む? 上村も疲れたでしょう」
 窓辺からリビングを通り抜け、キッチンへと向かう。
「先輩、コーヒーなら俺が……」
 シンクの上にある作り付けの戸棚に伸ばした私と上村の手が、軽く触れ合った。
「ごっ、ごめんね。コーヒーすぐ淹れるから……」
 変に意識してしまった自分が恥ずかしくて、思わず上村が持っていたコーヒーフィルターを奪い取った。
「先輩」
 背中越しに声をかけられて、胸が音を立てる。全身で上村の気配を感じていた。
「本当は、大丈夫なんかじゃないんでしょう?」
 答えたくなくて、唇を噛み締めた。上村に背を向けたまま、シンクの淵を両手できつく掴む。
 ……お願いだから、これ以上私に優しくしないで。
目の奥から、涙がじわりと溢れてくるのがわかった。
「こっち向いたら?」
 いつまでも動こうとしない私に業を煮やしたのか、上村が私の肩を掴み、無理やり体を引き寄せた。私と向かい合った上村の表情が、驚きで固まっている。
「……先輩、泣いてる」
 上村は、指先でそっといたわるように私の頬に触れた。こぼれる涙を、親指で一粒ずつ拭っていく。
「触ら……ないで」
 溢れる涙はそのままに、逃れるように上村から体を反らせた。
「後悔してるんですか?」
 上村は再び私への距離を詰め、もう一度私の頬に触れた。優しく触れる指先に、つい手を伸ばしたくなる。
「後悔はしていない。ただ情けないの」
 一度閉じた目蓋を、今度は大きく見開いた。瞬間私の世界は上村でいっぱいになる。
「私は、母の望むようには生きられない……」
 一生をかけて愛せる人と出逢い、結ばれ、温かな家庭を築く。
いつの間にか私は、そんな未来を自分から手放していた。
 その時、頬に触れていた上村の指が私から離れ、上村は両腕で私を包み込んだ。きつく抱きしめられ、息ができなくなる。
「それでも私は誰かに縋って生きたくないの。一人で立っていられるようになりたい」
「それで……先輩は寂しくないんですか?」
 上村は、さらに私を抱きしめる腕に力を込めた。上村の体温を全身で感じ、強張っていた体から少しずつ力が抜けていく。頭では『ここにいてはダメだ』と思うのにどうしても体が動かない。
このままでは、あの日心に蓋をして押し込めた感情が、再び溢れ出してしまう。そんな私の必死の葛藤を、上村はいとも簡単に押し流した。
「俺にはもっと吐き出していいんですよ、先輩」
「う……っ」
 上村の優しい言葉と体温に心と体の緊張が解けて、ついに本音がこぼれ落ちた。
「……寂しい。母さんを失うのが怖い。本当は一人になりたくない……」
 上村は私の顔を持ち上げると、涙で濡れたまつげにそっとキスをした。それが合図となり、私を覆っていた最後の鎧がポロポロと剥がれ落ちていく。
 たとえ一夜だけでもいい、この苦しみを上村が忘れさせてくれるなら。
 ――気がつけば、上村のキスを受け入れていた。
両手で顔を引き寄せられ、唇を開く。舌を絡め、窒息しそうなほど苦しいキスをした
息を継ぐ間もないほど激しいキスに、色んな感情でぐちゃぐちゃだった頭の中が真っ白に塗り替えられていく。
 そのまま二人もつれるようにソファーの上に倒れこんだ。
 上村の大きな手のひらが私の肌の上を滑り、触れられた場所が熱を持つ。体中に広がっていく。
それは、上村の体温なのか、それとも自分が発する熱なのか。それすらも判然としないほど、互いの肌がピタリと吸い付いた。
 上村の唇が耳、首筋、鎖骨と順序良く私の体を滑り降りていく。濡れた感触が膨らみのその先に届くと、たまらず私は悲鳴をあげた。
心地よくて、このままではきっと身体が溶けてしまう。思考の全てを奪い取られ、心も身体も上村に支配されていく。
 今この瞬間、私の全ては上村で満たされた。一夜の酔いに、全てを忘れた。
 その夜、私はただひたすらこの年下の男に溺れた。

 じりじりと頬を刺す熱い日差しで目が覚めた。カーテンの隙間から、真っ青な夏空が覗く。時計の針はすでに午前10時を指していた。
下着すら纏っていない剥き出しの肌と気怠い身体が、昨夜の出来事は夢ではないのだということを私に思い知らせる。
 でも、私の隣に上村はもういない。
「いるわけないか……」
 上村は、私が眠っている間に部屋を出たようだった。
つまりは、そういうことだ。私は彼に同情された。
その証拠に、上村は私に何も残さなかった。その場限りの甘い言葉も、言い訳も、何一つない。
 わかっていたことなのに、現実がチクリと胸を刺す。どこかで期待していた自分に、苦い笑みが零れた。
それにもう、涙は全部出尽くしたみたいだ。
 ベッドの下に落ちていたTシャツを素肌の上に身に着けると、私は勢い良く寝室のカーテンを開けた。真夏の強い日差しが肌を焼く。
 シャワーを浴びて、全てを洗い流そう。そして私は生まれ変わる。
誰にも頼らず生きていくために。


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