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1 ファーストキス
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肩下まである艶やかな黒髪。いつも見ているだけだったその房を指で掬って、滑らかな白い頬に口付けた。
一旦顔を離して彼女の反応を確認する。目線を下に彷徨わせて少し頬が赤い。動揺している様子の幼馴染がたまらなく可愛い。
いつもの彼女はオレに対して横暴だ。負けず嫌いなのか張り合ってくる事が多い。一緒にゲームしてても彼女が勝つまでやらされるのだっていつもの事だし、正直言って暑苦しいと思う時もある。でも良い意味で捉えればオレに心を開いてくれているものだと少なからず期待していた。
友達も少なく十七になるこの年齢まで浮いたエピソードも全くなかったオレだけど、唯一近しい幼馴染の女の子、今目の前にいる一井(いちい)柚佳(ゆずか)にずっと恋情を抱いていた。
もしかしたら相手も同じ気持ちを持ってくれているのかもしれない……そう思った時もあった。
その時のオレを殴ってやりたい。
彼女には好きな人がいたのだ。もちろんオレではなかった。
その事を考えると……ふつふつと自分の内側から何か黒いものが湧き出るような、しかしその感情を必死に抑えようとしている自分に泣けてくるような遣る瀬無さがあって強く奥歯を噛み締めてしまう。
「海里(かいり)」
名を呼ばれて視線を彼女に戻す。
柚佳は決意を固めたような面持ちでまっすぐに瞳を合わせてきた。
「口にして」
その要求に当然オレは抗う事等できない。
それまでぐちゃぐちゃと考えていた思考を放り捨てて、彼女の後頭部に左手を回す。
ずっと触れたかった細い華奢な指が、今は縋るようにオレのシャツを掴んでいる。もうそれだけで他の事はどうでもよくなった。
ただ、この夢のようなまやかしの時間が唐突に覚めてしまわないように、僅かに残った理性だけは持ち続けた。
恋人でもなく、ましてや彼女はオレの事が好きな訳でもない。何でこんな事になっているのかというと、少し時を遡って説明しなくてはならない。
「海里の好きな子って美南(みなみ)ちゃんでしょ?」
不意に尋ねられ顔を上げた。柚佳は細めた目でオレに険のある視線を送ってきた。
築三十年のアパートの一室。2DKの我が家の居間でオレたちはテレビゲームに興じていた。この間買ったレースゲーム。今日初めてこのゲームで遊んだ柚佳に、うっかりミスで負けてしまった。
「はっはは! オレこのゲームするのもう三日目なのに。柚佳に負けるなんて」
ツボにはまって腹を抱えて笑った。下を向いて出た涙を指で擦っている時、あの衝撃の質問が来た。
「え……」
今、柚佳は何て言った? オレの好きな子? 美南ちゃん?
美南ちゃんって言ったら……。
オレはクラスメイトの花山(はなやま)美南を思い起こす。細くて小顔でとても可愛らしい、クラスでも一際華のある子だと思う。オレの数少ない友人、和馬(かずま)も見惚れていたなぁ。
でも何でオレの好きな子が花山美南? 心外だ。オレが好きなのは――……。
言いかけた口を閉じた。
あっぶねぇぇぇ! 危うく告るとこだった。
勝算もなく勝負を挑んで、けちょんけちょんにされて惨めに泣くのは真っ平だ。オレは自分に自信がない。心の内を晒して相手にもし受け入れてもらえなかったら、幼馴染みという関係も失ってしまう事だってあり得る。
オレの思考中も柚佳はじいっとこちらを見ている。何か責められているようで居心地が悪い。
「う、うるせー、誰だっていいだろ。……柚佳の好きな奴は篤(あつし)だろ?」
何とか誤魔化す言葉を吐き出して、ついでに気になっていた事を聞いた。
学年で一番と言っていい程目立つ存在、桜場(さくらば)篤。和馬が言っていた。「この学年に、あいつの事好きじゃない女子はいないだろうな」と。文武両道、おまけに爽やかイケメン。性格もいい。噂では奴の彼女は期間限定なのだとか。一ヶ月だったかな……いや一週間だったか? 時々順番待ちの女子らで争いが起こっているらしいと和馬が震えていた。
オレの問いに柚佳はひと時目を見開いた。そして右下を向いて頬を赤らめた。
「クッ、さあね。教えてくれないと教えない! まあ、もうすぐ告白する予定だし?」
頭上から雷が落ちたような衝撃があった。まさかそんな。柚佳も篤の事を……?
普段は強気でオレには我儘を押し通す神経を持つ幼馴染の女の子っぽい一面。ショックだった。口では誤魔化しているけどオレに対するものとは明らかに違う態度で分かってしまう。しかも、もうすぐ告白?
「お前、自分が篤に釣り合うと思ってんの? お前より可愛い子が奴の周りにはわんさかいるだろうよ。キスもした事のない色気のない女、相手にされる訳ないだろ? 篤は学年一のモテ男だぞ」
オレは一体何を言っているのか。とんだ言い掛かりである。篤とはそんなに喋った事もない。けれど今日、オレの敵だと認識した。奴が憎くて仕方ない。
柚佳が目を丸くしてこちらを見ている。
しまった、失言した――。そう思った時。
「海里はした事あるの?」
「え?」
尋ねられて何の事か分からなくて聞き返した。
「キス」
視線を外さないままの彼女の口がはっきりとそう言った。
「あるよ?」
後に引けなくなったオレは嘘をついてしまう。散々彼女の恋路にケチを付けておいて自分は経験ありませんなんて言える筈がない。
俯いた柚佳は目を潤ませ黙ってしまった。きっと幼馴染が自分より恋愛経験があると思って悔しい気持ちなのかもしれない。罪悪感が湧いてくる。
オレ、何やってんの? 好きな子にこんな顔させて。何て声をかけたらいい? ごめんって素直に謝るか? そして励まして応援すればいい。オレも彼女の味方として篤の攻略を手助けしよう。認めたくないけど柚佳は篤の事が好きなんだ。大切な幼馴染の幸せを見守るのも……何十年か経った後にはこれでよかったと思える日が来るかもしれない。
心の中で自分を無理やり納得させる方向へ導き、前向きな言葉を選んだ。
「ごめん。言い過ぎた。オレも手伝うからさ。柚佳と篤が付き合えるように」
血を吐くような心持ちで伝えた。涙を堪えるように見上げてくる彼女。やめてくれ。そんな悲愴な顔で見つめないでくれ。
「キスかぁ」
呟かれた彼女の言葉に自信のなさのようなものを感じ取った。オレと一緒だ。きっと不安なんだ。告白する程の自信が持てなくて。
良心が咎める。
焦ったオレの口から今日最大の失言が飛び出た。
「キス、練習すりゃいいだろ? 篤をイチコロにするやつ」
一旦顔を離して彼女の反応を確認する。目線を下に彷徨わせて少し頬が赤い。動揺している様子の幼馴染がたまらなく可愛い。
いつもの彼女はオレに対して横暴だ。負けず嫌いなのか張り合ってくる事が多い。一緒にゲームしてても彼女が勝つまでやらされるのだっていつもの事だし、正直言って暑苦しいと思う時もある。でも良い意味で捉えればオレに心を開いてくれているものだと少なからず期待していた。
友達も少なく十七になるこの年齢まで浮いたエピソードも全くなかったオレだけど、唯一近しい幼馴染の女の子、今目の前にいる一井(いちい)柚佳(ゆずか)にずっと恋情を抱いていた。
もしかしたら相手も同じ気持ちを持ってくれているのかもしれない……そう思った時もあった。
その時のオレを殴ってやりたい。
彼女には好きな人がいたのだ。もちろんオレではなかった。
その事を考えると……ふつふつと自分の内側から何か黒いものが湧き出るような、しかしその感情を必死に抑えようとしている自分に泣けてくるような遣る瀬無さがあって強く奥歯を噛み締めてしまう。
「海里(かいり)」
名を呼ばれて視線を彼女に戻す。
柚佳は決意を固めたような面持ちでまっすぐに瞳を合わせてきた。
「口にして」
その要求に当然オレは抗う事等できない。
それまでぐちゃぐちゃと考えていた思考を放り捨てて、彼女の後頭部に左手を回す。
ずっと触れたかった細い華奢な指が、今は縋るようにオレのシャツを掴んでいる。もうそれだけで他の事はどうでもよくなった。
ただ、この夢のようなまやかしの時間が唐突に覚めてしまわないように、僅かに残った理性だけは持ち続けた。
恋人でもなく、ましてや彼女はオレの事が好きな訳でもない。何でこんな事になっているのかというと、少し時を遡って説明しなくてはならない。
「海里の好きな子って美南(みなみ)ちゃんでしょ?」
不意に尋ねられ顔を上げた。柚佳は細めた目でオレに険のある視線を送ってきた。
築三十年のアパートの一室。2DKの我が家の居間でオレたちはテレビゲームに興じていた。この間買ったレースゲーム。今日初めてこのゲームで遊んだ柚佳に、うっかりミスで負けてしまった。
「はっはは! オレこのゲームするのもう三日目なのに。柚佳に負けるなんて」
ツボにはまって腹を抱えて笑った。下を向いて出た涙を指で擦っている時、あの衝撃の質問が来た。
「え……」
今、柚佳は何て言った? オレの好きな子? 美南ちゃん?
美南ちゃんって言ったら……。
オレはクラスメイトの花山(はなやま)美南を思い起こす。細くて小顔でとても可愛らしい、クラスでも一際華のある子だと思う。オレの数少ない友人、和馬(かずま)も見惚れていたなぁ。
でも何でオレの好きな子が花山美南? 心外だ。オレが好きなのは――……。
言いかけた口を閉じた。
あっぶねぇぇぇ! 危うく告るとこだった。
勝算もなく勝負を挑んで、けちょんけちょんにされて惨めに泣くのは真っ平だ。オレは自分に自信がない。心の内を晒して相手にもし受け入れてもらえなかったら、幼馴染みという関係も失ってしまう事だってあり得る。
オレの思考中も柚佳はじいっとこちらを見ている。何か責められているようで居心地が悪い。
「う、うるせー、誰だっていいだろ。……柚佳の好きな奴は篤(あつし)だろ?」
何とか誤魔化す言葉を吐き出して、ついでに気になっていた事を聞いた。
学年で一番と言っていい程目立つ存在、桜場(さくらば)篤。和馬が言っていた。「この学年に、あいつの事好きじゃない女子はいないだろうな」と。文武両道、おまけに爽やかイケメン。性格もいい。噂では奴の彼女は期間限定なのだとか。一ヶ月だったかな……いや一週間だったか? 時々順番待ちの女子らで争いが起こっているらしいと和馬が震えていた。
オレの問いに柚佳はひと時目を見開いた。そして右下を向いて頬を赤らめた。
「クッ、さあね。教えてくれないと教えない! まあ、もうすぐ告白する予定だし?」
頭上から雷が落ちたような衝撃があった。まさかそんな。柚佳も篤の事を……?
普段は強気でオレには我儘を押し通す神経を持つ幼馴染の女の子っぽい一面。ショックだった。口では誤魔化しているけどオレに対するものとは明らかに違う態度で分かってしまう。しかも、もうすぐ告白?
「お前、自分が篤に釣り合うと思ってんの? お前より可愛い子が奴の周りにはわんさかいるだろうよ。キスもした事のない色気のない女、相手にされる訳ないだろ? 篤は学年一のモテ男だぞ」
オレは一体何を言っているのか。とんだ言い掛かりである。篤とはそんなに喋った事もない。けれど今日、オレの敵だと認識した。奴が憎くて仕方ない。
柚佳が目を丸くしてこちらを見ている。
しまった、失言した――。そう思った時。
「海里はした事あるの?」
「え?」
尋ねられて何の事か分からなくて聞き返した。
「キス」
視線を外さないままの彼女の口がはっきりとそう言った。
「あるよ?」
後に引けなくなったオレは嘘をついてしまう。散々彼女の恋路にケチを付けておいて自分は経験ありませんなんて言える筈がない。
俯いた柚佳は目を潤ませ黙ってしまった。きっと幼馴染が自分より恋愛経験があると思って悔しい気持ちなのかもしれない。罪悪感が湧いてくる。
オレ、何やってんの? 好きな子にこんな顔させて。何て声をかけたらいい? ごめんって素直に謝るか? そして励まして応援すればいい。オレも彼女の味方として篤の攻略を手助けしよう。認めたくないけど柚佳は篤の事が好きなんだ。大切な幼馴染の幸せを見守るのも……何十年か経った後にはこれでよかったと思える日が来るかもしれない。
心の中で自分を無理やり納得させる方向へ導き、前向きな言葉を選んだ。
「ごめん。言い過ぎた。オレも手伝うからさ。柚佳と篤が付き合えるように」
血を吐くような心持ちで伝えた。涙を堪えるように見上げてくる彼女。やめてくれ。そんな悲愴な顔で見つめないでくれ。
「キスかぁ」
呟かれた彼女の言葉に自信のなさのようなものを感じ取った。オレと一緒だ。きっと不安なんだ。告白する程の自信が持てなくて。
良心が咎める。
焦ったオレの口から今日最大の失言が飛び出た。
「キス、練習すりゃいいだろ? 篤をイチコロにするやつ」
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