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31 大切な人

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 彼の家に着くと居間に通されソファーに座るよう促された。

 アイスティーを注いだグラスを手渡された。彼も同じ物を飲みながら私の座る左隣に腰を下ろした。
 緊張してしまって両手で受け取ったアイスティーをちびちび口にする。横目で彼の様子を窺った。

 すぐに気付かれて相手の目がにんまりする場面に遭遇した。慌てて逸らしたけど後の祭りだった。

「ねぇ。昨日急に出てきて逃げてった人だろ? もしかして『好きでした』って言ってたのもアンタ?」

 ち、近い近い近い近い……!

 質問されているけどそれどころじゃない。身を寄せ顔を下から覗き込もうとする彼の仕草に半ばパニックになりそうな思考で口走った。 

「近付かないでください」

「何で?」

 聞き返され一瞬小さく「うっ」と詰まる。凄く落ち着かない。忙しなく鳴り響いている胸を押さえ顔をもっと横へ背ける。視線を合わせないまま言った。

「恥ずかしいからです。見られるの嫌なんです」

「何で嫌なの?」

 またも尋ねられた。直視するのさえためらわれる、心につっかえていた感情をやっとの思いで吐き出した。

「私っ……綺麗じゃないし……」

「綺麗だよ」

 思いがけない程すぐに返されハッとして顔を上げた。薄く微笑んだ彼の表情はどこか悲しそうにも見えた。

「音芽や己花さんと体をシェアしてるんだろ? 自分を卑屈に表現すれば二人にも失礼だ。……ご両親にも」

 彼の言葉が胸の深い所に落ちて涙が溢れてくる。

「そ……ですね……すみません」

 小さな声で同意した。せめて強がりで笑っていたかったのにうまく繕えない。

「という事で……近付いてもいいよな?」

「えっ?」

 彼の言い分に目を見開いた。再び距離を縮めてくる圧に気圧されていた。

「あ、あの、近いです」

「いいじゃん」

 顔を横に向け注意するけどさらりと言い退けられた。

「だめです」

 強く拒んだ拍子に溜まっていた涙が流れてしまった。言及される。

「随分泣き虫なんだな?」

「……はい」

「何で泣いてるの?」

 聞かれても自分でもよく分からない。口を噤んだ。

「抱きしめてもいい?」

 今、とてもそうされたかった。

 渇きのような望みを自覚して無言のまま頷いた。ぎゅっと包まれ、温もりに体の強ばりが解けていく心地がした。心の奥底に何年も閉じ込めていた想いを彼の胸へ訴える。

「……ずっと……っ……あなたの事が、好きでした……っ」

 暫くして返答があった。

「うん」

 慰めるような手付きで頭を撫でてくれる。彼も小学生だった頃の私を覚えていてくれたのだと悟った。涙がもっと溢れる。

「あの時……私っ…………ごめんなさいっ……」

「いいよ。これから償ってもらうから」

 何食わぬ口調で意向を告げられた。その意図を汲み取れず一時、涙が止まった。見開いた目で彼を見る。

「はい?」

「まずはそうだな……もう一度、頭に触ってもいい?」

「え? えっと……はい……」

 何をするんだろう。疑問に思いながらも了承した。さっきよりも遠慮ない手付きで撫でられた。こちらへ注がれる彼の眼差しも優しい。

「じゃあ次は……顔に触っても?」

 要求され少し怯んだ。恥ずかしくて逃げ出したい気持ちだったけど自制した。了承の意思を伝える。

「わ……かりました……」

 頬を撫でられながら思う。彼は何の為にこんな事を? これで償いになるの?

「えっと、その……?」

 真意を尋ねようとした時、彼が話し始めた。

「結構捜したんだよな。君の事、何年も」

 胸がぎゅっと締め付けられたように苦しい。捜してくれてたなんて。

「っ……ごめんなさい」

 感情でいっぱいになりながらやっとの思いで言葉を絞り出した。日溜まりのように微笑んで彼は言った。

「今、凄く嬉しいんだ」

 頬にあった手が離れた。

「嫌じゃなかったら受け入れて。嫌だったらしないから」

 そう前置きをした後、神妙な表情で許可を求めてくる。

「唇に触ってもいい?」

「え? っと……はい」

 彼の考えは読めなかったけど応じた。恥ずかしいので目を閉じていた。

 唇同士が触れたのだと思い至るまでに十数秒時間を要した。終わってから認識した。

「えっ? 指で……触るのだと……思って……」

 思い掛けない行為にうろたえる。彼に確認された。

「嫌だった?」

 僅かの間、自分の心の内を探ってみる。正直に答えた。

「いいえ」

「もっとしてもいい?」

 確認しながら瞳を覗いてくる。

「えっと……」

 呟いて口ごもった。至近距離に耐えられなくて視線を下に逸らした。弱々しい声だったけど意思を伝えた。

「は……い?」

 直後、たくさんキスされた。


「オレはっ……音芽ちゃんも己花さんも己音ちゃんも好きだよ」

「……はい」

 腕の中で涙した。彼の呟きが聞こえる。

「多分、己音ちゃんを一番最初に好きになったんだ」

「え?」

「君は何も心配しなくていいんだ」

 そうするのが当たり前のように一緒にいてくれる。受け入れてもらえた。ダメな私も好きだと言ってくれた。涙が止まらなかった。しがみついて流し続けた。ずっと好きだった人が今「私」を抱きしめてくれている。


「音芽に代わってもらっていい?」

 私が落ち着いた頃、彼に言われた。

『音芽ちゃん』

 心の内に呼び掛けてみる。音芽ちゃんの反応があった。耳打ちのような囁きが聞こえる。


「代わった……よ?」

 告げる。しどろもどろになりながら彼の様子を窺った。

「ふうん? 何も代わってないように見えるけど?」

 見抜かれてる! 驚愕して相手を見つめた。彼は愉快そうに目を細めた。

「分かるよ、そりゃ。好きな子の事だし」

 どきっとする。やっぱり私より音芽ちゃんの方が好きだよね。明るくて可愛いし。私、根暗だし。

「音芽。聞こえてる? 何拗ねてんのかな?」

 彼が私の中の音芽ちゃんへ呼び掛けている。

「オレは嫌なの。お前一人だけオレから逃げてんのが。そんなに『オレ』と交流すんのが嫌なの? 蒼にはあんなに可愛い顔すんのに、オレの時は見せてくんねーの? ぶっちゃけ己花さんと己音の前にお前をどーにかしたいと思ってて。何? ビビってんの? 蒼にしか許さないの?」

「そっ、それ以上言わないでっ!」

 はっ……思わず出て来てしまった。目の前の『銀河君』がニヤリと強者の笑みを浮かべた。

「顔真っ赤」

 指摘されたけど言い返せない。自分でもそうだと思う。
 彼は楽しそうに笑った後、とても優しい視線を送ってきた。

「やっと出て来たな?」

「私、銀河君が嫌な訳じゃないから」

 言っておく。彼は「うん」と答えた。静かに凪いだ瞳で見つめ返されている。

 まだ自分の気持ちを整理できていない。明確な答えを見つけられないまま口を開いた。

「ただちょっと……どう接していいのか……落ち着かなくて……」

「うん。だよな。分かってる」

 二人の間に残っていた距離が薄くなる。

「でもお前もいないと。少しずつでいいから慣れて?」

 『彼』とキスした。「私」もちゃんと好かれていた。嬉しい。

 抱きしめて幸せを噛み締める。認めてもらえた。両親のいない穴が埋まる事はないけど凄く満たされている。



 いつの間にか眠っていたらしい。夢を見ている。過去にあった事のように思えた。

 小学生だった己音は私と入れ替わっていた時期に彼に会えなかった。何年も。公園を訪れ喪失感に苛まれていた。

 私……知ってる。その時も彼女の中にいたから。彼女は『大切なものを失った。きっともう戻らない』と悲しんでいた。

 思わず声を掛けた。

『違うよ』

 彼女が顔を上げた。見ていた夢はそこで途切れた。



「違うよ」

 瞼を持ち上げながら呟いた。だって……私たちはまた巡り会うのだから。

 これからも問題に直面する事が何度もあるだろう。だけど。

 隣に眠っている彼の寝顔が可愛くて微笑んだ。
 幸せになれるよ。

 私があなたを幸せにするよ。
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