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一章

28 恋

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 バスを降りると、待っていてくれたらしい春夜君が側へ来てくれた。

「急にごめんね。我儘を聞いてくれてありがとう」

 思わず下を向いて泣き出しそうなのを隠した。

「何かあったんですか?」

 春夜君が尋ねてくる。私は答えず俯いたまま顔も上げる事ができない。

「明?」

 名を呼ばれた。私の両手を春夜君が両手で握ってきた。

「まさかアイツに何かされた?」

 春夜君が心配する響きの声音で聞いてくる。今、私がここにいるのはそれが理由じゃない。首を左右に振った。

「手を繋いで、抱きしめられた。キスしていいか聞かれた。それだけだよ」

 特段、報告する程の事でもないかなと思いつつ一応言っておく。春夜君が一瞬、息を呑むように沈黙した。

「……どこまで許したんですか? ダメじゃないですか。岸谷先輩とは極力イチャイチャしない方針って認識を共有しましたよね? 色々早過ぎます!」

「ふっ」

 春夜君の言っている事がおかしくて笑ってしまった。

「明?」

 春夜君に両腕を掴まれた。相手を見返すと凄く心配してくれてるみたいな顔をしている。

「何で泣いてるんですか? もしかして、オレ何かしました?」

 目から落ちる涙を止める術がない。腕も掴まれているので拭えないし。

『オレの好きな人……あいつの事が好きなんだそうです』

 春夜君の以前言っていた言葉が胸に甦る。

『オレの好きな人、気になります?』
『誰だと思います? 当てて下さい』

 涙を流した状態のまま「フフッ」と笑った。過去の自分に苦笑が漏れる。

 春夜君の後方には川があって、その向こうには山と町並み……そして赤と灰色の混じった汚い色の空が夜に染まっていく。

 もう復讐をやり遂げる力は残っていないかもしれないと思考した。メッタメタにコテンパンに打ちひしがれた気分だ。

 ずっと疑問だった。何でほかの子はダメで春夜君は私に近付いても邪魔されなかったのか。私はその事を考えないようにしていた。だって、それじゃまるで……。

 春夜君との出会いは仕組まれていたみたいに思えて。

 だけど悪い予感って当たるものなんだね。
 さっきありすちゃんからメッセージをもらって詳しく話をする為通話した。ありすちゃんは私へ注意するよう教えてくれた。「第一図書室裏で聞かせられなかった音声だよ」と前置きがあって知らされた事実。場所は第二図書室。

「聡ちゃんが明ちゃんを諦めなくて困ってるの。ねぇ……悪い話じゃないでしょ?」

 晴菜ちゃんの声。その場にいたもう一人は……春夜君。
 二人、協力してた? 私に秘密で?

 その話を聞いた時、胸がモヤモヤしてその後……春夜君が晴菜ちゃんを好きだと思い至った。

 ぞっとした。足元が崩れて落ちていくような感覚に襲われる。
 過去の春夜君の言動に私を好きなのかとも思ったけど全部……全部当て嵌まる。晴菜ちゃんに。

 春夜君に出会うまで私は岸谷君の事が好きなんだと信じていた。でも違ったのだ。

「岸谷君なんて好きじゃなかった。だって……こんなに苦しくなかったもの」

 俯いて小さく呟いた。

「明?」

「何でもないよ。春夜君に会ったら少しほっとした。心配かけてごめんね」

 ニッコリ微笑んで見せた。

「何でもない訳ないですよね? ……何かあったらいつでもうちに来て下さい。うちの家族、皆煩いけど気分も紛れるかもしれません」

 きっと私がまだ元気じゃないと気が付いて言ってくれているんだろうな。それなのに私は……。春夜君と晴菜ちゃんが私の知らない時に会っているのが不安で堪らない。

「ありがとう、そうする」

 やっと返事を紡いだ。未熟な自分の心をうまく扱えなくて涙が零れてしまう。

「今日……春夜君のお家に行きたい」

「えっ? 今日っ?」

 春夜君が困った様相で視線を彷徨わせている。

「今日はまずいです」

「どうして?」

 上目遣いに首を傾げた。春夜君……ちょっと背が伸びた?

 彼は言う。

「今日は家に誰もいなくて。今度また誘いますから」

 露骨に私から視線を外して横を向いた彼の手首を握った。そのまま引いて歩き出す。春夜君のマンションへは一度行った事があるので道は分かる。川沿いの歩道を進む。

 振り解こうと思ったら振り払えるだろうに、彼はそれをしなかった。迷いがあるのだろうなと、ぼんやり考える。

「春夜君」

「はい」

「私たちは運命共同体なんだよね?」

 尋ねる。

「両想いになったよね?」

 その時にはマンション四階の通路まで来ていた。
 近くのドアが開いた。顔を出したのは理お兄さんだった。

「何だ、春夜たちか。ここ、結構響くぞ。痴話喧嘩は家の中で……」

 理お兄さんが言い終わらないうちに春夜君に手を引かれた。
 春夜君に続き彼の家へ入る。以前ちょっとだけ見せてもらった左手の部屋へ通された。

 振り返ると春夜君が後ろ手にドアを閉めたところだった。鍵の音が響く。近付いて来る彼の足が視界に入る。目の前で止まった。何て言えばいいのか分からなくて、代わりに右手で彼の上着の左袖を引っ張った。抱きしめられて深く充足した心地になった。目を閉じる。

 キスがくすぐったくて目を開いた。真剣な瞳で見つめられた。覚悟は決まっていた。

「私、春夜君のものになりたい」

 相手が息を呑んだ気配がする。

「そして終わりにしよう?」

 一拍置いて口にする。

「復讐はもうしなくていい」

「え……?」

「やめる」

 言い切った私を鋭い目で睨んでくる。当然だよね。身勝手だって自分でも思うよ。

「言ったよね? 今、オレのものになりたいって。何で? 何の目的で? 復讐の為? だからそれで終わりにしたい? 信じられない。本当にそう思ってる?」

 怒っている春夜君を虚ろに目に映す。泣きたいのを堪えるので精一杯だった。

「証明してみせてよ」

 怒りを抑えたような静かな声量で要求された。



 今まで彼が見せなかった強引な部分を知れた。私よりもずっと力が強いんだと分かった。焦がれて震えた。これが恋なんだって思い知らされた。
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