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一章
8 裏
しおりを挟む立ったまま向かい合う格好で……沢西君の腕が私の背中にまわされている。
走ったし暑かったのかもしれない。沢西君が隣を歩いていた時、制服の上着を脱いでサブバッグに詰め込んでいるのを見た。だから彼の肩に顔を埋めている姿勢の今。シャツ越しに汗の香りを嗅いでいる状況でもあった。
何だろう……臭い感じじゃなくて。汗の匂いも爽やかとか……そんな人が実在するんだと驚愕していた。
そして「自分は臭いのではないか?」と凄く心配になった。この状況に戸惑っていたのもある。僅かに身じろぎしたところ沢西君の腕に更に力が入ったように感じた。姫莉ちゃんたちのものらしき足音も遠ざかったのでもう離れてもいいと思うんだけど。
「先輩? 逃げないで下さい」
咎めるニュアンスの囁きが間近で聞こえる。
「あの……、岸谷君が見てないとこでイチャイチャしても……」
意見しながらどうにか押しのけようとしたけど無駄だった。上半身がピッタリくっついている。
「知らない所でされてる方がダメージが大きい事もあります」
「うっ」
思わず呻いてしまう。身に覚えあるよ。
今日、晴菜ちゃんと岸谷君の関係を知った時……二人が私の知らない所でもキスしてるって想像して嫌な気分になったよ。だから沢西君の言い分に確かにそうだと納得させられる。
「ねぇ先輩」
後頭部を撫でられた。
「さっきの続きしましょーよ」
沢西君からの提案に、ただでさえ速い心拍がドクンと不整脈を刻む。
「さっきの……続き?」
何を指しているのか。ほとんど察していたけど聞いてしまう。
「分かってる癖に。意外とあざといんですね」
私を拘束する腕の力が緩んで僅かに体が離された。目の前の沢西君が笑った。彼の左手が少しためらうような仕草で私の右頬に添えられる。顔が近付く。
「嫌がらないと本当にしますよ?」
不服そうな声が聞こえてぎゅうっと閉じていた瞼を開いた。
至近距離で睨まれていた。
「オレだって嫌がってるのに強引にしたりしませんよ。酷いなぁ。そんなに、しかめっ面しなくてもいいのに……」
「しかめっ面?」
沢西君に指摘され自分の眉間に皺が寄っている事案に気付く。
「あっ、違うの! 嫌なんじゃなくて。ちょっとまだ心が追いついてなくて。沢西君は平気なの? 好きな人じゃない人ともキスできるの?」
言葉の後半、笑って誤魔化そうとしたけどだめだった。下に逸らした目から涙が落ちる。
「ごめんね。私……まだ岸谷君が好きみたい」
目の前にいるのは沢西君なのに、岸谷君の顔を思い出してしまうのだ。
「あーそうですか。まーそうですよね」
不満そうな声音で返されてドキリとして顔を上げた。不快に思われたかもしれない。
「オレじゃ岸谷先輩には敵いませんよね。坂上先輩の事、小一の頃から知ってるって言ってましたもんね、あの人。あーかわいそうなオレ。あんなたらし野郎に負けるなんて」
大げさなジェスチャーで悲しそうに振る舞っている沢西君の姿に、私の感傷が少し引っ込んだ。
そうだよね。岸谷君はたらし野郎だよね。私の事が好きって言ってたけど、じゃあ何で晴菜ちゃんとキスしてたの? 考えたらムカムカしてきた。あんな人を想って泣くなんて涙がもったいない。
もう私は失恋したのだ。「俺を選んでほしい」とも言われたけど私が晴菜ちゃんに敵う筈ないし。諦めないと。つらくなる前に。晴菜ちゃんと岸谷君はキスまでする仲なのだ。もう私の手は届かない。失恋したのだ。
繰り返し心の中で言い聞かせていた。沢西君が悲しそうに微笑み口にした。
「先輩。岸谷先輩の事、本当に好きなんですね」
私がすぐに涙を止められなかったから心配してくれたみたいだった。安心させたくて笑って見せる。ハッキリ言い切ろうと努めた。
「大丈夫! 忘れるよ。ちゃんと復讐して、スッキリして、終わりにする!」
「無理しないで下さい。……やめます? 復讐」
沢西君の言動に私は目を見開く。
「やめる? そんなの困るよ。気遣ってくれるのはありがたいんだけど。今言ったじゃん。私は復讐をやり遂げてスッキリしたいの。一泡吹かせて満足するまでやるんじゃなかったの? そんな弱気で勝てると思ってるの?」
『復讐の先制攻撃』前に第二図書室で言われた台詞を言い返してやった。沢西君はきょとんとした顔をしている。ややあって強気な眼差しでフッと笑われた。
「そんな強がり言ってて大丈夫なんですか? オレとイチャイチャする覚悟もない癖に。ましてや岸谷先輩に見られている訳でもないのに弱腰だったじゃないですか。好きでもない奴とイチャイチャしたくないのは分かりますけど……。そうだ! 百歩譲ってオレの事、岸谷先輩だと思ったらどうです?」
「えっと……」
沢西君がたくさん喋るから言いそびれた。私、別に沢西君が嫌だとか思ってない。ただ岸谷君のイメージが邪魔してくるだけで。むしろ今までキスの一つもした事がなかったので興味はある。本で読んだ知識では何ともいい気分になるらしい。本当なのだろうか? 確かめたい。
沢西君の事は嫌いじゃないし。今日知り合ったばかりだけど、むしろ好青年過ぎて「私なんかが相手でいいの?」と考えている。しかし気になる事があり、思い切って質問した。
「あの、その……。沢西君は平気なの?」
「オレはできますよ」
事もなげに即答された。お互いの胴体がさっきより離れているとは言え。まだ両腕を掴まれていて逃げられない。視線を左下に逸らした。
「沢西君はドキドキしないの? 私は今、心臓がおかしくて死にそうなのに」
自分の胸の中央を右手で押さえながらやっと伝えた。暫くして沢西君の静かな声が駐車場に響いた。
「やめた方がいいですよ? 好きでもない男にそういう事言うの。勘違いされますよ。まぁ、オレを落とそうとしてるのなら話は別ですけど」
……ここが薄暗い場所でよかった。私の顔、赤くなってると思うから。恥ずかしい気がして、あんまり見られたくない。
沈黙していると溜め息が聞こえた。
「すみません。言い過ぎました。先輩がそんな事考えてないのは分かってますから。ただオレがちょっと焦ってしまって」
沢西君へ返答する為の言葉が出てこない。自分の中に事実を見つけてしまったから。そこから意識を逸らせないでいた。震える右手で口を覆う。
『まぁ、オレを落とそうとしてるのなら話は別ですけど』
『先輩がそんな事考えてないのは分かってますから』
先程の沢西君の物言い。私も沢西君を落とそうとした訳ではなかった。でも。
「沢西君も同じだといいのに」とは思った。
「先輩。さっき先輩が聞いてきた事の答えを教える代わりにオレの質問にも答えて下さい」
「分かった。沢西君の質問って何?」
私は自分の中に見出だした恋心の芽らしき感情に衝撃を受けていたので沢西君の話を半分くらい上の空で聞いていた。まさか後から、あんな事になるなんて予想もしていなかった。
「岸谷先輩とだったらキスしたいですか?」
沢西君の投げ掛けてきた問いに閉口した。分からない。昨日までだったら確実にイエスと答えただろう。でも今はもう分からない。胸の中を感情が入り乱れる。
「分からない」
答えとしては不十分だと感じていたけど、適切な言葉が浮かばないからそう返した。沢西君は少しの間何か思考している様子だった。五秒程経ってから「分かりました。次はオレの番ですね」とさらっと話題を切り替えてきた。
沢西君は何を考えてさっきの質問をしてきたのだろう。気になったけどこれから答えてもらう内容も凄く知りたかったので尋ねるタイミングを逃した。
「坂上先輩の質問は、オレが坂上先輩とイチャイチャする時にドキドキするかどうかって質問でしたよね? 合ってます?」
「う、うん」
改めて言葉にされるとこそばゆい。
「それって少なからずオレに興味を持ってくれてるって事で合ってます?」
「う、うん」
あ、あれ?
「オレの好きな人って誰か分かってます?」
「ちょっと待って! 私の質問に答えてくれるんじゃなかったっけ? 逆にこっちが答えてるんですけど!」
やっと気が付いて沢西君に主導権のある流れを止めた。沢西君は目を細めてふてぶてしく答えた。
「あー。オレの質問、一つだけとは言ってないですよね」
「狡っ!」
「さあ。一つは答えたし、さっきのドキドキについては実際にキスする時に教えますよ」
「ず、狡っ!」
前言撤回。好青年なんかじゃなかった。
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