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一章

1 発端

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 片想いだった。私の恋は……この時、散った。


 目の前で好きな人の唇が奪われる。

 第二図書室の壁際に設置された本棚へ背を押し付けられたその人……岸谷(きしたに)聡(そう)は小学生の頃からご近所さんで、よく人見知りする私を気にかけてくれた優しい幼馴染の男の子。少しぶっきらぼうで何を考えているのか分からない冷たい表情をする時もあるけど、そんなミステリアスなところも含めて好きだったんだ。

 幼馴染を本棚に押し付けて、つま先立ちして唇を奪っている相手の女の子……彼女もまた私の幼馴染だった。内巻(うちまき)晴菜(はるな)。岸谷君と出会った同じくらいの時期に知り合った。サラサラで焦げ茶色の髪の毛を肩下に垂らし左方の耳の上辺りの髪を波型のヘアピンで留めている。美人と言って差し支えない。切れ長の目、通った鼻筋。右の目元にはホクロがある。長い睫毛は今は伏せられ、同じく目を閉じた岸谷君とのキスが続いている。ややあって岸谷君の腕が彼女の腰にまわされるのが見えた。

 ドクドクと心音が耳に痛くて視線を逸らしたいと思うのに大きく開いていた目は瞬きを忘れたように二人を映す。

 彼らの後方にある本棚の陰から一部始終を見ていた私は口を結んだまま微動だにできなかった。それは二人がそういう関係だと知らなかったので驚き、戸惑っていたから。でもそれ以上に私の中に生まれた大きな矛盾のせいで内心混乱していた。

 ……何となくだけど岸谷君は私の事が好きなんじゃないかと思っていた。

 何の変哲もない胸くらいまでの長さがある黒髪を一つの三つ編みに結ったいつもの髪型。少し垂れ気味のよく言えば毒気のない目。美人ではないにしても見れない程醜いとも思わない自分の顔。晴菜ちゃんみたいに綺麗じゃないけど可能性としてなくはないと薄く期待していた。

 彼とはよく目が合うし、色々気にかけてくれる素振りもあった。何よりプロポーズされた事もある。……小一の時だけどね。

 そんな話を私は以前から晴菜ちゃんに相談していた。恋の相談なんて初めてで恥ずかしかったけど、胸の内を聞いてもらい大丈夫だよって背中を押してもらいたかったんだと思う。

 愚かだ。

 こんな結果になって後悔したって遅いけど恨まずにはいられない。過去の自分を。

 晴菜ちゃんは言ってくれた。「明(めい)ちゃん、私も協力するから頑張ろう!」って。その時は心強かった優しげな言葉に今は背筋が寒くなる。

 晴菜ちゃんは私の気持ちを知っている。私が彼の事をどんなに好きか、どんなところが好きか力説して聞かせたから意味が違う風に伝わったとか……そんな誤解もない筈だ。

 もしかして。晴菜ちゃんも岸谷君の事が好きだった? 私に遠慮して言い出せなかった?

 私が悶々と考えている内に二人のキスは終わったようだった。見つめ合っている幼馴染たちを離れた場所から見つめている。岸谷君が不機嫌そうな目を晴菜ちゃんに向け溜め息を漏らした。

「学校ではしないって約束だろ? 誰かに見られでもしたらすぐ噂になる」

「はいはい。聡ちゃんは明ちゃんに知られたくないんだもんね。私との深~い関係を」

「深くない。それから! 坂上(さかがみ)との仲、いつになったら取り持ってくれるんだ?」

「ああ。明ちゃんってとっても繊細なのよね。聡ちゃんみたいに背の高い人より小柄な人がタイプみたい。今じわじわ聡ちゃんのいいところをオススメしてるんだけどね」

 二人の会話が耳を滑る。異次元の言語を聞いているのかと錯覚するくらい理解が追いつかない。

 まず……「学校でしない約束」という事はほかの場所でならしてるって事なのかとか。私(坂上明)との仲を取り持つよう岸谷君が晴菜ちゃんに頼んでいるような会話だった事とか。特に晴菜ちゃんの話していた内容が微塵も納得できない。私は一度も小柄な人がタイプだと彼女に言った記憶がない。むしろ背の高い人の方が好みのような気がする。

 おかしいな。岸谷君のいいところをガンガン話しまくっていたのは私の筈だったのに。手柄を横取りされたみたいに嫌な気分になる。私が岸谷君の話をしてる時、晴菜ちゃんは「あーそうなんだ」とか「はー」とか「ふーん」とか、ただそんな感じだったじゃん!

 焦燥と怒りで頬が熱い感覚がある。私は思わず一歩前へ踏み出しそうになった。

 普通の教室と比べて広さは半分程の室内。午後の薄黄色い陽光が窓から差し、きらめきで空気中に埃が漂っているのが見える。

 彼らのいる場所より奥の本棚の角から足を出し掛けて、やめる。

 私が今あの場に出て行ったとして。何ができるの?
 たとえ岸谷君がちょこっとでも私を好きだったとしても。晴菜ちゃんと岸谷君の関係は……。

 下を向いて唇を噛む。出そうになった涙を必死に堪える。

「ええっふん! ええっふげほげほ」

 明らかにわざとだと分かる咳払いが聞こえた。
 後方を振り返ると私のいる場所より更に奥の本棚の角に人影があった。左右にある棚の間をこちらに向かって歩いて来る人物。上のみ黒い縁のある眼鏡を掛けていて背丈は恐らく私と同じくらい。男子にしてはやや長めのツンツンした黒髪。

 この第二図書室入口近くで密着し合う我が幼馴染たちに彼は言った。

「イチャつくならよそでやって下さい。読書の邪魔です」

「人がいたのか。すまない。すぐに出る」

 岸谷君は彼に答えた後、晴菜ちゃんを伴って第二図書室を出て行った。その際、彼が晴菜ちゃんの肩にためらいなく触れるのを見てしまった。二人分の足音が遠のき、やがて聞こえなくなった。

 ショックが大きかったのかもしれない。私は彼らの去った方向を呆然と眺めていた。

「全く。ここは図書室だぞ? いくら新しくてキレイな第一図書室ができて、こっちが倉庫みたいに扱われてるからって」

 ぶつくさ不満を呟きながら、その人は私の前で足を止めた。

「もしよかったら、これ使って下さい」

 差し出された紺色のハンカチを目にしてやっと気が付いた。手で己の目元を拭った。

「す、すみません。ハンカチは大丈夫です。ありがとうございます」

 そう愛想笑いして右手を振り、ハンカチは借りなかった。

「あの人たちが坂上先輩の幼馴染ですか? 小学校からの。という事はあの『聡ちゃん』って呼ばれてた人が坂上先輩の好きな人なんですね。ふーん」

 岸谷君と晴菜ちゃんが出て行った引き戸の辺りを見やって目を細める男子生徒に悪寒がする。

「『何で知ってるの?』って顔ですね。先週もあれだけここで喋りまくっておいて、それはないんじゃないですか?」

 先回りして告げられた事案に戦慄する。

「えっ? あの時ここってほかに誰もいなかったよ?」

「盗み聞きするつもりはなかったんですけど。奥にいました。話の内容的に出るに出れなくて先輩たちが立ち去るまで待ちました」

 口調から後輩らしいと分かるツンツン髪の男子生徒は奥の本棚横……死角になっている場所を指差した。

「あの話……聞こえてたんだね」

 顔から火がでそうな程恥ずかしい。岸谷君への溢れ出る愛を晴菜ちゃんに延々と聞いてもらってた時だ。

「正直……何であんな女と友達なんですか? 好きな男を取られたんでしょ? オレなら絶交もんですよ」

 現実を鋭く言い切られて少し怯む。目を泳がせつつも何とか答えた。

「そうだね。はは。私友達って言ったら彼女だけなんだよね。彼女はほかにも友達たくさんいるけど。だからきっと絶交はしないと思う」

 力なく笑った後、下を向いた。
 幸いにもあの二人は私がここにいると気付いていないようだった。知らないフリで見なかった事に装えるかもしれない。

 そこまで考えた時、胸がもやついた。

 何なんだ。晴菜ちゃんは私の気持ちを知っていながら。岸谷君は私と結婚するって言っていたのに(大昔の話だけど)。二人に秘密にされていたのも悔しい。

「私ってバカだなぁ。友達に相談する前にさっさと告白しとけばよかった。目が合ったり優しくされたりしただけで相手も私の事が……なんて浮かれポンチもいいところだったわ!」

 怒りが込み上げてきて顔を上げた。

「もし本当に岸谷君が私を好きでも――……」

 そこまで口にして言葉が詰まる。さっきの幼馴染たちの会話が胸に甦った。

『坂上との仲、いつになったら取り持ってくれるんだ?』

 岸谷君は私の事が好きなのかもしれない。実際のところは確認しないと分からないけど。

 その時ハッと閃いた。直接聞かなくても確認する方法を。もし本当に彼が私を好きだった場合、復讐にもなる方法。

 目の前にいる後輩らしき男子生徒を見た。先程何か口走っている途中で言葉を切り考え込んでいた挙動不審な私を訝しげな目付きで眺めている。突然視線を合わせたので驚いたのか一瞬、彼の体が揺れた。

「私は坂上明……って知ってるよね」

 名前だけの超簡単な自己紹介をし、あははと小さく笑った直後には本題へ突入した。

「あなたの名前も教えてほしい。そして図々しいけどお願いを聞いてもらえたらとても助かる。何分晴菜ちゃんのほかに友達いなくて頼める人の当てがほかにないの」

 半歩近付いて切実に訴える。何故か男子生徒は後方へ半歩退き距離を取る。これは後から思った事だけど……私が必死な形相だったから怖がらせてしまったのかもしれない。

「な……何ですか?」

 掠れた声で尋ねられた。目を見て真剣に要請した。

「私の彼氏になってほしい」

「……えっ?」

 男子生徒の目が丸くなっているので気付いた。
 おっと。事を急いて端折り過ぎてしまった。慌てて補足する。

「あ! もちろんフリでいいの! 復讐を達成できたらすぐにやめるから。引き受けてくれると、とても助かる。……はっ! もしかして付き合ってる人いる? それならこの話はなかった事にして!」

 やっと思い至って頭を抱えたくなる。相手の事を考えず突っ走り過ぎた。
 男子生徒に微妙な苦笑いをされたので大急ぎで手を振ってそう言った。気まずさに、こちらも苦笑いを浮かべる。

「いいですよ」

 突如あっさりした返答があり目を大きく開いて見返した。簡単に承諾されるとは思っていなかったので耳を疑った。真意を探ろうとやや明るめで濃い茶色の瞳を窺う。先程はあった苦笑いの苦みが消えた微笑みの表情で彼は言う。

「オレもちょっと色々あって、あいつらに復讐したい気分なんです。付き合ってる人はいないので大丈夫です。名前は沢西(さわにし)春夜(はるや)です。よろしく先輩。岸谷先輩に揺さ振りをかけてあいつらの仲を引き裂こうという企みですね? 坂上先輩って無害そうな顔して実はエグい事考えてるんですねー」

「えっ……? そこまで考えてなかったよ! 岸谷君が私の事を好きだったのかどうかの確認と、こっちには未練がないところを見せ付けて惜しい事したかもって後悔させられたらなっていう些細な嫌がらせで一矢報いたいと……」

「奪ってやりましょうよ、どうせなら。そして捨ててやるんです」

 沢西君の強い瞳に気圧される。唾を飲み込んだ喉が鳴った。やっと返事を紡ぐ。

「そ、そうだね」

「協力しますよ」

 ニコリと笑うどこか油断ならない後輩。心の中で思う。敵に回したら厄介そうだけど味方だと心強いよね。多分。

 少しだけ不安に思いながらも差し出された手を握って笑い返した。

「よろしく」



 二人の復讐劇が幕を開けた。


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