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2巻
2-3
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* * *
サージの父にして故ヴェンダント王、アルサラーン・ケイラー・メヌーク二世は、かつて歴戦の戦士だった長老ホレストルに師事し、剣技と統率力を磨いていった。
臣下から慕われる反面、権力者にありがちな「英雄色を好む」を地で行く多情な人物でもあった。
そして近衛隊長エイダンの血族であるキルマー一族は、ホレストルを輩出したガラムナヴィ一族ほどではないものの、それなりに古い軍人家系だ。限りなく薄いが、王族とも縁続きである。
今から十六年前、エイダンの姉フェルオミナが許嫁との婚礼を一ヶ月後に控えた日、先王が城下の視察の帰りに、前触れもなくキルマー邸を訪れた。
仮縫いした婚礼衣装を試着中だった娘を、エイダンの両親は慌てて隠そうとしたが、一歩遅く……初々しい十四歳のフェルオミナを見初めた先王は、その場で第八妃として召し上げると言った。
王の命は絶対だ。
だがしかし、フェルオミナは相思相愛の相手との婚礼を心待ちにしていた。そんな姉を捨て置けず、エイダンは城まで直談判しにやってきたのだ。
警備兵と揉める幼い少年にサージが気付いたのは、全くの偶然だった。必死さの滲む表情で、殴られてもなお向かっていく姿が目に留まり、事情を聞いて素直に同情したのだ。
何とかしてやりたかったが、自分は父にとって自慢の息子ではなく、意見できるような立場でもない。それでも、死を願うほど追いつめられた若い娘の存在を知って、黙っていることはできなかった。
結局王には面会さえ許されなかったが、代わりに母リーザには会うことができた。母がどんな手を使ったのかは今も定かでないが、フェルオミナを召し上げるという話は白紙に戻ったのだ。
その上、リーザは彼女に咎が及ばないように取り計らったらしい。王であるアルサラーンの不興を買い、自分の身が危うくなることも恐れずに。
エイダンはリーザに深く感謝した。その息子であるサージに対する忠誠心も、その時に芽生えたものだ。
リーザを含む王族がことごとく流行病に倒れた後、唯一の王位継承者として祖国に連れ戻されたサージにとって、実直なエイダンの存在ほど頼もしいものはなかったのだが……
「サージっ、無事だったのですか……?」
そう言って駆け寄ろうとしたダラシアの前に、エイダンがすかさず立ち塞がる。
アムリットとエグゼヴィアを押しのけたダラシアにサージはムッとしたが、彼が口を開く前に忠実なる近衛隊長が吠えた。
「それ以上近付くな! 第二妃だけでは飽き足らす、我が君まで害する気かっ!」
「なっ……!」
鬼のような形相での鋭い叱責に、ダラシアの双眸にも怒りの炎が宿る。
元家臣であるエイダンに無礼な言葉を吐かれ、元第一妃としての矜持が傷付けられたのだろう。控えめな立ち居振る舞いに長年騙されてきたが、彼女の性格は意外なほどに苛烈だった。
エイダンもエイダンだが、若干厳し過ぎるこの対応には彼なりの根拠があるようだ。
聞けば、ダラシアが城に現れたのはこれが初めてではないらしい。一度目は、サージが病床に臥していた時のことだったそうだ。
生死の境を彷徨っていたサージの病状については箝口令が敷かれたため、限られた人々しか知り得ないはずだ。追放された身でありながら、その事実を知って駆けつけたダラシアは確かに怪しい。
もともと相性が悪かったのだろう、エイダンがダラシアに抱いていた不信感は、アムリット暗殺未遂事件で決定的なものになっていた。一人の側仕えが彼女を陥れるために起こしたものとして片付けられているが、エイダンはまだ納得していないのだ。
貧民街でスリを生業として強かに生きてきた少女が、自分とダラシアの証言のどちらが信用されるかも分からないほど愚かではあるまいと。
ダラシアが王宮から追放された際、その側仕え達も貧民街に強制送還された。それを不憫に思ったのか、アムリットが自らの側仕えとするべく呼び寄せた少女達の中には、舌を切られた者がいたらしい。
一体誰が、何の目的で幼子にそんな惨たらしい真似をしたのか?
サージはきちんと調べるつもりだったが、その後ファーランドの泉跡で起こった惨事のせいで果たせずにいる。よって舌を切ったのがダラシアでないとは断言できない。
「貴様が長老議会と長年結託していたことは分かっている……第一妃の座を不当に手にしたことも」
サージが様々な疑念に囚われているうちに、エイダンは彼女を更に糾弾した。
彼の肩越しに見えるダラシアの顔が、見る間に驚愕の色に染まる。
「エイダンっ、それはどういう意味だ!」
サージの問い掛けに振り返ったエイダンの表情は、至極真剣だった。
常日頃から冗談など一切口にしない実直な男だ。これだけ大それた発言をするからには根拠があるのだろうが、すぐには信じられない。
「流行病で王族の方々がことごとく崩御された時、亡き王太子殿下の婚約者であったこの女がホレストル様の屋敷に出入りしていたのを私は見ております。我が君をヴェンダントへ呼び戻すよう長老議会に働きかけたのは、こやつなのです……ヴェンダントの最高権力を手中に収めるために、ホレストル様と密約を交わしたのですよ」
エイダンはずっと胸に秘めてきたのであろう事実を口にした。
思ってもみない言葉にサージは絶句し、その場に静寂が訪れる。
「……うーん、どうもしっくりこないんだけど。ねぇ下僕、それってあんたの私情入ってない?」
なかなか言葉が見つからないサージに代わって、ザワザワという紙擦れの音とともに口を開いたのはアムリットだ。
「何だとっ……?」
能天気にさえ聞こえる口調での問い掛けに、エイダンは彼女を睨みつける。だがアムリットの言う通り、今の彼は感情的過ぎるように思う。
「あんたの陛下に対する忠誠心は大したものだけどさ、ちょっと無理あると思わない? その頃にはもうダラシア様には子がいたんだし、権力を握りたいなら陛下はむしろ邪魔……あっ、決して役立たずだからとか、そういう意味じゃないですからね!」
冷静に自らの考えを吐露していたアムリットだが、サージについて言及しかけたところで慌てて言い添えた。
「お気になさらず、アムリット姫。貴女のおっしゃりたいことは全くその通りです。この国が欲しければ我が子をそのまま国王に据えて、王太后として実権を握る方が簡単だ」
彼女の配慮に感謝しながら、サージは首肯する。
エイダンの証言の全てを否定しようとは思わないが、彼の推論にはどうにも無理があった。
いくらタグラムよりも王位継承権が上位であるとはいえ、魔術師であるサージは一度ヴェンダントから追い払われた身だ。本当にダラシアが長老議会と結託していたのならば、王位継承権を引っくり返すこともできるだろう。
「……でっ、ですが、確かにこの目で見たのです! サージ様を呼び戻すようにとホレストル様に命じるこの女をっ!」
「それは違うわっ……!」
更に言い募ろうとしたエイダンに、ダラシアが否の声を上げる。
「待った! 二人ともそう興奮しなさんな、見苦しいよ」
口論が勃発しかけた二人の間に、今度はエグゼヴィアが割って入った。
「隠し通路からコソコソ戻ってくるぐらいだ、薄暗い秘密の一つや二つは抱えてるだろうさ。でも、それは脳味噌まで筋肉でできたアンタが考えつくほど単純な理由じゃない。アム様がおっしゃりたいのは、そういうことだよ」
目を細めてエイダン達を見遣る彼女の言葉は、歯に衣着せない横柄なものだった。
「うーん、さすがにそこまで言うつもりはなかったかな……でもさ、下僕。ダラシア様は陛下のことをちゃんと心から心配してると思う。あたしは世間知らずだけど、嘘吐きの顔ならあんたより見慣れてるから」
そう口にしたアムリットに、サージは更に驚かされた。
この突然の擁護にエイダンはもとより、ダラシアさえ目を見張っている。
「どうも長引きそうだな……サージ、アーちゃんはまだ病み上がりだ。一旦、お前の部屋に戻らないか?」
事態を静観していたイグナシスが提案してきた。
「それは……確かに、そうですね」
「陛下っ……!」
ダラシアに向かって歩を進めたサージに対し、エイダンが非難するような声を上げる。
「下がれ、エイダン。たとえお前の推論の通りだとしても、自分の命は自分で守れる。……どうぞ、ダラシア」
気色ばむ彼を短く切って捨てると、サージは元義姉であり、仮初めの妻だった女性に手を差し伸べる。一瞬身を硬くしたダラシアだったが、おずおずとその手を彼に委ねてきた。
久しぶりに間近で見る彼女は、相変わらず美しかった。
しかし、その手を緩く握り込んだサージに対し、ダラシアは何とも形容し難い奇妙な表情を浮かべている。そのことを不思議には思っても、以前のように心がざわつくことはなかった。
己の心を占めるのは、今やアムリットただ一人だ……ダラシアへの想いは、完全に消え去っていたことにハッキリと気付く。
同時に、背後からザワザワと耳障りな音がして、見遣れば案の定アムリットがいた。所在なさげに立ち尽くす呪禁符塗れの姿から表情は窺えなかったが、刺すような鋭い視線を感じた。
「姉上、行きましょう」
サージがその視線の意味を見極めるより先に、明るい少年の声が二人の間に割り込んでくる。
天使のように愛くるしい笑顔で、フリッカーは有無を言わさず姉の手を取った。膨大なまじない札の下に隠れたその手を迷わず見つけ出したのはさすがだが、分かり易い牽制にサージの頬がピクリと痙攣する。
「……いやいやいやっ、病み上がりって言っても一人で歩けるし! その笑顔も怖いわっ」
「遠慮は無用です。姉上が我慢しかしない人だっていうのは、僕が一番理解してますから」
実に騒々しいが、見ようによっては微笑ましくもある攻防戦を繰り広げる姉弟から、サージは慌てて視線を逸らす。
それは、ヒル王子の異名を持つフリッカーへの、本能的な恐怖心からではない。アムリットとの離別を決意したにもかかわらず、悋気を覚えそうになる心を戒めるためだった。
そんなサージの横顔を、ダラシアが意味ありげに見つめていた。
だが、叶わぬ恋情を持て余していたサージは、そのことに気付いていなかった。
5
手と手を取り合うサージとダラシアは、実に似合いの美男美女だった。
かつて酒に酔い切々と失恋を語ったサージの言い分では、初恋の君は小指の先の甘皮ほども愛情を返してくれなかったらしい。
けれど、アムリットの目には全く違って見える。ダラシアが彼に向ける眼差し一つとっても確かな愛情に満ちていた。
サージやエイダンの言葉から想像していた「男を手玉に取る悪女」には到底見えない。外見の美しさに劣らぬ内面の美しさを感じる。
サージへの恋心を自覚したアムリットだからこそ、直感的にそれを見抜くことができたのだろう。
だが、そのことをサージに告げれば、自分への付け焼刃のような恋情など積年の想いの前には呆気なく消え去るに違いない。
サージがダラシアに向ける表情は少し硬かったが、一度は愛した相手だ。このまま側にいれば、想いが復活するのも時間の問題かもしれない……そう思うだけで、悲しみよりも怒りに似た感情が胸に湧いてくる。
「ムグっ……!」
動揺するアムリットの耳に、くぐもった声が飛び込んでくる。
何事かと思って声のした方向に視線を移すと、王の間の床に口を縄で縛った小汚い麻袋が転がされていた。それは、まるでイモムシのようにもぞもぞとのたうっている。
幼い少女のものと思われる呻き声は、その麻袋の中からしたようだ。
「アレって、もしかして……?」
アムリットは呪禁符の下で血相を変え、背後にいた弟を振り返る。
「お察しの通り、あの側仕えの少女ですよ。猿轡を噛ませてはいますが、お祖母様の魔法で気道は確保されてますから、ご心配なく。逃げようとしたのを捕まえたはいいんですが、命までは取らないと言っても泣き喚くわ、暴れるわ……そのまま連れてくるには、どうにも厄介だったんですよ」
フリッカーは相変わらずの天使の笑みでとんでもない告白をした。
「あれはルーフェだというのっ? 何てひどい……!」
ダラシアは慌ててサージの手を振り解き、悲鳴のような声を上げて麻袋に縋る。
「……そのままにしておいた方が、あんたの身のためだと思うがねぇ」
麻袋を縛っている縄に手を掛けた彼女に、エグゼヴィアは呆れたような口調で言った。
「一体、それは誰なんだ?」
ただ一人、エイダンだけが事情を呑み込めていない様子で呟く。
「離宮に呼んだ時、あんたもチラッと見たかもね。元第一妃様の側仕えで、この前の暗殺事件起こしたフィリペって子の姉さんよ」
「貴様っ、報復のために子供達を……?」
アムリットが答えてやると、エイダンは語勢も荒く睨みつけてきた。咎人の身内だからといってあまりの仕打ちだ、という言外の非難が鋭い視線から伝わってくる。
「確かに利用するつもりではあったけど、目的は報復なんかじゃない。ただ、あの子達が更生してくれたら、ダラシア様を第一妃として呼び戻していいって長老が……」
「なっ、一体どうしてそんな話がっ?」
アムリットが言い訳じみた事情を話すと、今度はサージが目を剥く。
ダラシアも縄を解く手を止め、信じられないと言わんばかりの表情でアムリットを振り仰いだ。
「殺されそうになったことを思うと……そりゃ気分は良くないですけど、側仕えの管理不行き届きだけで王宮から追放なんて重過ぎるんじゃないかと思って。まだ幼いのに母親と引き離される王太子様なんて、それこそ何の罪もないのに……あまりに後味が悪過ぎて、あのまま何もしないでいたら一生後悔しそうだったんです」
たどたどしく告げた言葉は真実ではあったが、これは当時アムリットが抱いていた目的の半分……綺麗事でしかない。
情けなくて、馬鹿な自分をサージに知られたくなくて、もう半分の目的は伝えられなかった。
その頃、まだ自分の想いに気付いていなかったアムリットは、どうにかしてサージと離縁して祖国フリーダイルに戻りたかった。そのためには、自分への恋心が酔った勢いによる錯覚だとサージに気付かせなければならない。彼が長く想い続けていたダラシアさえ王宮に戻ってくれれば、二人の仲は修復されると安易に信じ込んでいたのだ。
そんなことはあり得ないのに、人間関係に疎いアムリットは気付かなかった。
そして、当然のように計画は頓挫したが、サージに離縁されるという大前提は果たせた。
だからといって、これっぽっちも晴れがましい気持ちにはなれなかったけれど。
後悔や激しい焦燥感が胸の中で渦巻いていて、酷く息苦しい。
こんな後ろ向きでありながら、どこか攻撃的な気持ちは初めてだ。自分が悪いのは明らかなのに、サージに対する正体不明な苛立ちを抑えるのに必死だった。
「我がき……いえ、サージ。貴方が彼女を好きになった気持ち、少しだけ分かった気がしますわ」
アムリットの内心の葛藤を知ってか知らずか、ダラシアがサージを振り返って告げた。
思ってもみない言葉に、アムリットは一瞬苛立ちを忘れる。
「おや、驚いた。なかなかどうして呑み込みが早いじゃないのさ。それに比べて脳筋下僕ときたら……賢妃だか女神だか知らないが、そこまで肩入れするほどの御方かねぇ」
エグゼヴィアが麻袋の少女からダラシアへ、その後意味ありげにエイダンへと視線を移す。
「なんだと、貴様っ……!」
怒りのあまり声が裏返ったエイダンが、気色ばんで詰め寄ろうとするが……
「……ぐえっ!」
一歩踏み出す間もなく後ろから肩を掴まれ、声帯が潰れたような呻き声を上げた。
「俺の女に乱暴な口をきくんじゃない。今度やったら捻り潰すぞ、てめぇ」
イグナシスの声は少しも力んだ風ではなく、その手も肩口にただ添えているだけにしか見えない。けれど、エイダンの目は血走り、必死に悲鳴を抑えていた。
祖父のようなオルガイム人は、一見細身なのにとんでもない馬鹿力だという。実際にそれを目の当たりにしたアムリットは、呪禁符の下で目を見張った。
「何も知らないくせに、勝手なことを言い出したのはそっちだ!」
「前ヴェンダント第四妃にして、現国王サージの母親……リーザの父親は、彼の砂上船を作り上げた、ヴェンダント随一の腕を持つ船大工だった。だが身分がそう高くなかったために、娘のリーザは第一妃にはなれなかった。それでも新たに作られた賢妃の地位が与えられ、先王の寵愛と臣下や国民達の尊敬を一身に受けることになる」
肩の手を振り払い、怒鳴り返してきたエイダンに対し、イグナシスは報告書でも読み上げるかの如く滔々と語る。
エイダンは出鼻を挫かれたように口をパクパクさせていた。
「ガルシュの魔導研究所にいた頃、サージを酔わせると必ず愚痴られたんだ。お前の姉の話と、リーザの本当の企みもについてもな。俺もエグゼヴィアも考えなしに言ってるわけじゃない……姉のことで恩義を感じるのは分からんでもないがな、そのことで得をしたのはお前達だけか?」
「一体、何が言いたいっ!」
再び激昂するエイダンに答えたのは、サージだった。
「お前の姉君、フェルオミナの離宮入りを母上が阻止したのは、婚約者と不当に引き裂かれる彼女を哀れんだからではないのだ。己の寵妃として立場を守るため……そのためなら、何でもする方だ。そんな母上を私は恥じていたが、フェルオミナを救うために利用した」
その薄暗い表情に、アムリットの胸がドキリとする。
「我が君まで何をっ……?」
「済まない、エイダン。母上を盲目的に崇拝するお前には、とても言えなかったんだ。母上がお前の姉を救ったことには変わりないし、知らない方が幸せだろうとも……当時の私はじきにガルシュへ行くことが決まっていて、祖国には二度と帰れないと思っていたから」
二人のやり取りから、アムリットはおおよその事情を掴んだ。
先王はエイダンの姉に婚約者がいたにもかかわらず、彼女を離宮に入れようとしたのだろう。
その話がサージの母親である前第四妃によって、白紙に戻されたのだとしたら……以前から疑問に思っていたエイダンの並々ならぬ忠誠心にも、至極納得がいく。
「あの女のやりそうなことだこと! 愛し合う者達が引き離されるのを親切で助けたふりをして、先王の寵愛が自分よりも年若い娘に移るのを防いだのでしょう。地位を守るためには我が子だって平気で切り捨てるのだからっ……!」
憎々しげに吐き捨てたダラシアに、サージの顔が歪んだ。
それまでは冷静に分析できていたのに、彼女の一言でアムリットの心は俄かに波立つ。自らの心の動きを、もう見て見ぬふりはできない。
それは、自分が知らないサージの過去を知るダラシアへの嫉妬に違いなかった。
「姉上、どうかしましたか? まだ気分が優れないのですか?」
傍らにいたフリッカーが、じっと黙りこくっている姉を不審がるように問い掛けてくる。
「なっ、何でもない……大丈夫だから」
慌てて頭を振ったアムリットだが、仄暗い思いに気付いたばかりの心は、そう簡単には落ち着かなかった。
「そんなっ、そんっ……」
アムリットが自らの心と向き合っている間も、エイダンはすぐには信じられないようで、否定を繰り返している。誰も彼も、彼に掛ける言葉を持たなかった。
「痛っ……!」
唐突にダラシアが悲鳴を上げる。
何事かと見遣れば、彼女の前にある麻袋から少女……ルーフェが顔を出し、床に転がされた格好のままその手に噛み付いていたのだ。
「ダラシアっ……?」
「わっ、何やってんの……!」
ダラシアの手に滲んだ血を目の当たりしたサージとアムリットが、同時に動く。咄嗟にアムリットは、その手から勢いよく水を噴射させた。
「ぶあっ……!」
それをまともに顔面で受けたルーフェは堪らず呻き、噛んでいた手を解放した。その場に尻もちをついたダラシアは呆然とした様子で、サージに後ろから支えられる。
「ダラシア、すぐに手当てをっ!」
サージは上衣の袖を裂き、彼女の手に巻き付ける。
それは、まるで壊れ物を扱うような恭しい所作だった。
そんな彼を前にして、アムリットの胸が再びツキンと痛んだ……サージは実に手際が良くて、何一つ間違っていない。どこにもおかしなところはなく、当然の行為なのに。
「ぎゃあっ!」
今度は苦痛を帯びた幼い悲鳴が上がった。
ハッとして顔を上げると、いつの間にかエグゼヴィアが件の少女を麻袋から引きずり出し、その手を捩じり上げていたのだ。
「バッチャっ?」
アムリットは驚いて声を上げたが、祖母はそのまま少女の身体を宙吊りにしてしまった。
「大丈夫ですよ、まだ殺しゃしませんから。まったく……だから拘束しておいたのに、あんたも不用意だったね。こういう洗脳は、ガキだからこそ簡単に解けやしないんだ」
「……洗脳?」
ジタバタともがく少女を物ともせずにぶら下げたまま、祖母が放った言葉をアムリットは復唱する。
「ヴェンダントに来る途中、イグナシスが妙な拾い物をしたんだそうです。行き倒れたヴェンダント人の女だったんですがね、灼熱の砂漠を裸同然の姿で突っ切ろうとしてたんですよ。介抱してやったら息を吹き返したんで、事の仔細を聞いたら、何とまあ奇妙な身の上でして……」
エグゼヴィアが一体何を語ろうとしているのかは分からないが、彼女が言葉を続けるにつれ、少女が拘束を解こうと激しくもがき始める。
それをエグゼヴィアはまったく意に介さず、蹴り出された足を難なく避けた。それどころか、振り上げられたもう一方の手も捕らえて、ひとまとめに掴み上げてしまう。
「表向きは一年前の流行病にやられて身罷ったことになってますがね、ずっと城の地下牢に幽閉されていたんだそうですよ……そこにいる元第一妃と、長老議会の命で」
「邪魔するなっ、何で……! せっかく追い出したのに、何で戻ってきやがったんだよ! 全部全部っ、その女のせいだ!」
必死に足をバタつかせ、少女はエグゼヴィアの言葉を遮って叫んだ。
ギラギラとした視線とともに「その女」と口にし、蹴り出した足から勢い余って脱げた靴が飛んでいく。その先にいたのは、サージの腕に庇われたダラシアだ。今し方までその少女……ルーフェを助けようと動いていた彼女は、衝撃のあまり蒼褪めている。
もう何が何だか分からない。
「お黙り、お嬢ちゃん。ホントにその舌、引っこ抜かれたいかい……ガキの浅知恵もここまでさ。アンタ達の本当のご主人様は、アタシらが預かってるんだからねぇ」
「本当のご主人様?」
アムリットはダラシアに落としていた視線を、エグゼヴィアに戻した。
「その優しいご主人様は、名前さえなかった子供達に名前を付けてやったんです。特に忠実だった二人の姉妹のうち姉にはルーフェ、妹にはフィリペと。ヴェンダントでは有名な対の聖女達の名から取ったんだそうですよ……昔、とある聖獣を祀った神殿を建立する時、人柱に指名された姫君を守るために、身代わりを買って出た侍女達だって言い伝えがあるとか」
サージの父にして故ヴェンダント王、アルサラーン・ケイラー・メヌーク二世は、かつて歴戦の戦士だった長老ホレストルに師事し、剣技と統率力を磨いていった。
臣下から慕われる反面、権力者にありがちな「英雄色を好む」を地で行く多情な人物でもあった。
そして近衛隊長エイダンの血族であるキルマー一族は、ホレストルを輩出したガラムナヴィ一族ほどではないものの、それなりに古い軍人家系だ。限りなく薄いが、王族とも縁続きである。
今から十六年前、エイダンの姉フェルオミナが許嫁との婚礼を一ヶ月後に控えた日、先王が城下の視察の帰りに、前触れもなくキルマー邸を訪れた。
仮縫いした婚礼衣装を試着中だった娘を、エイダンの両親は慌てて隠そうとしたが、一歩遅く……初々しい十四歳のフェルオミナを見初めた先王は、その場で第八妃として召し上げると言った。
王の命は絶対だ。
だがしかし、フェルオミナは相思相愛の相手との婚礼を心待ちにしていた。そんな姉を捨て置けず、エイダンは城まで直談判しにやってきたのだ。
警備兵と揉める幼い少年にサージが気付いたのは、全くの偶然だった。必死さの滲む表情で、殴られてもなお向かっていく姿が目に留まり、事情を聞いて素直に同情したのだ。
何とかしてやりたかったが、自分は父にとって自慢の息子ではなく、意見できるような立場でもない。それでも、死を願うほど追いつめられた若い娘の存在を知って、黙っていることはできなかった。
結局王には面会さえ許されなかったが、代わりに母リーザには会うことができた。母がどんな手を使ったのかは今も定かでないが、フェルオミナを召し上げるという話は白紙に戻ったのだ。
その上、リーザは彼女に咎が及ばないように取り計らったらしい。王であるアルサラーンの不興を買い、自分の身が危うくなることも恐れずに。
エイダンはリーザに深く感謝した。その息子であるサージに対する忠誠心も、その時に芽生えたものだ。
リーザを含む王族がことごとく流行病に倒れた後、唯一の王位継承者として祖国に連れ戻されたサージにとって、実直なエイダンの存在ほど頼もしいものはなかったのだが……
「サージっ、無事だったのですか……?」
そう言って駆け寄ろうとしたダラシアの前に、エイダンがすかさず立ち塞がる。
アムリットとエグゼヴィアを押しのけたダラシアにサージはムッとしたが、彼が口を開く前に忠実なる近衛隊長が吠えた。
「それ以上近付くな! 第二妃だけでは飽き足らす、我が君まで害する気かっ!」
「なっ……!」
鬼のような形相での鋭い叱責に、ダラシアの双眸にも怒りの炎が宿る。
元家臣であるエイダンに無礼な言葉を吐かれ、元第一妃としての矜持が傷付けられたのだろう。控えめな立ち居振る舞いに長年騙されてきたが、彼女の性格は意外なほどに苛烈だった。
エイダンもエイダンだが、若干厳し過ぎるこの対応には彼なりの根拠があるようだ。
聞けば、ダラシアが城に現れたのはこれが初めてではないらしい。一度目は、サージが病床に臥していた時のことだったそうだ。
生死の境を彷徨っていたサージの病状については箝口令が敷かれたため、限られた人々しか知り得ないはずだ。追放された身でありながら、その事実を知って駆けつけたダラシアは確かに怪しい。
もともと相性が悪かったのだろう、エイダンがダラシアに抱いていた不信感は、アムリット暗殺未遂事件で決定的なものになっていた。一人の側仕えが彼女を陥れるために起こしたものとして片付けられているが、エイダンはまだ納得していないのだ。
貧民街でスリを生業として強かに生きてきた少女が、自分とダラシアの証言のどちらが信用されるかも分からないほど愚かではあるまいと。
ダラシアが王宮から追放された際、その側仕え達も貧民街に強制送還された。それを不憫に思ったのか、アムリットが自らの側仕えとするべく呼び寄せた少女達の中には、舌を切られた者がいたらしい。
一体誰が、何の目的で幼子にそんな惨たらしい真似をしたのか?
サージはきちんと調べるつもりだったが、その後ファーランドの泉跡で起こった惨事のせいで果たせずにいる。よって舌を切ったのがダラシアでないとは断言できない。
「貴様が長老議会と長年結託していたことは分かっている……第一妃の座を不当に手にしたことも」
サージが様々な疑念に囚われているうちに、エイダンは彼女を更に糾弾した。
彼の肩越しに見えるダラシアの顔が、見る間に驚愕の色に染まる。
「エイダンっ、それはどういう意味だ!」
サージの問い掛けに振り返ったエイダンの表情は、至極真剣だった。
常日頃から冗談など一切口にしない実直な男だ。これだけ大それた発言をするからには根拠があるのだろうが、すぐには信じられない。
「流行病で王族の方々がことごとく崩御された時、亡き王太子殿下の婚約者であったこの女がホレストル様の屋敷に出入りしていたのを私は見ております。我が君をヴェンダントへ呼び戻すよう長老議会に働きかけたのは、こやつなのです……ヴェンダントの最高権力を手中に収めるために、ホレストル様と密約を交わしたのですよ」
エイダンはずっと胸に秘めてきたのであろう事実を口にした。
思ってもみない言葉にサージは絶句し、その場に静寂が訪れる。
「……うーん、どうもしっくりこないんだけど。ねぇ下僕、それってあんたの私情入ってない?」
なかなか言葉が見つからないサージに代わって、ザワザワという紙擦れの音とともに口を開いたのはアムリットだ。
「何だとっ……?」
能天気にさえ聞こえる口調での問い掛けに、エイダンは彼女を睨みつける。だがアムリットの言う通り、今の彼は感情的過ぎるように思う。
「あんたの陛下に対する忠誠心は大したものだけどさ、ちょっと無理あると思わない? その頃にはもうダラシア様には子がいたんだし、権力を握りたいなら陛下はむしろ邪魔……あっ、決して役立たずだからとか、そういう意味じゃないですからね!」
冷静に自らの考えを吐露していたアムリットだが、サージについて言及しかけたところで慌てて言い添えた。
「お気になさらず、アムリット姫。貴女のおっしゃりたいことは全くその通りです。この国が欲しければ我が子をそのまま国王に据えて、王太后として実権を握る方が簡単だ」
彼女の配慮に感謝しながら、サージは首肯する。
エイダンの証言の全てを否定しようとは思わないが、彼の推論にはどうにも無理があった。
いくらタグラムよりも王位継承権が上位であるとはいえ、魔術師であるサージは一度ヴェンダントから追い払われた身だ。本当にダラシアが長老議会と結託していたのならば、王位継承権を引っくり返すこともできるだろう。
「……でっ、ですが、確かにこの目で見たのです! サージ様を呼び戻すようにとホレストル様に命じるこの女をっ!」
「それは違うわっ……!」
更に言い募ろうとしたエイダンに、ダラシアが否の声を上げる。
「待った! 二人ともそう興奮しなさんな、見苦しいよ」
口論が勃発しかけた二人の間に、今度はエグゼヴィアが割って入った。
「隠し通路からコソコソ戻ってくるぐらいだ、薄暗い秘密の一つや二つは抱えてるだろうさ。でも、それは脳味噌まで筋肉でできたアンタが考えつくほど単純な理由じゃない。アム様がおっしゃりたいのは、そういうことだよ」
目を細めてエイダン達を見遣る彼女の言葉は、歯に衣着せない横柄なものだった。
「うーん、さすがにそこまで言うつもりはなかったかな……でもさ、下僕。ダラシア様は陛下のことをちゃんと心から心配してると思う。あたしは世間知らずだけど、嘘吐きの顔ならあんたより見慣れてるから」
そう口にしたアムリットに、サージは更に驚かされた。
この突然の擁護にエイダンはもとより、ダラシアさえ目を見張っている。
「どうも長引きそうだな……サージ、アーちゃんはまだ病み上がりだ。一旦、お前の部屋に戻らないか?」
事態を静観していたイグナシスが提案してきた。
「それは……確かに、そうですね」
「陛下っ……!」
ダラシアに向かって歩を進めたサージに対し、エイダンが非難するような声を上げる。
「下がれ、エイダン。たとえお前の推論の通りだとしても、自分の命は自分で守れる。……どうぞ、ダラシア」
気色ばむ彼を短く切って捨てると、サージは元義姉であり、仮初めの妻だった女性に手を差し伸べる。一瞬身を硬くしたダラシアだったが、おずおずとその手を彼に委ねてきた。
久しぶりに間近で見る彼女は、相変わらず美しかった。
しかし、その手を緩く握り込んだサージに対し、ダラシアは何とも形容し難い奇妙な表情を浮かべている。そのことを不思議には思っても、以前のように心がざわつくことはなかった。
己の心を占めるのは、今やアムリットただ一人だ……ダラシアへの想いは、完全に消え去っていたことにハッキリと気付く。
同時に、背後からザワザワと耳障りな音がして、見遣れば案の定アムリットがいた。所在なさげに立ち尽くす呪禁符塗れの姿から表情は窺えなかったが、刺すような鋭い視線を感じた。
「姉上、行きましょう」
サージがその視線の意味を見極めるより先に、明るい少年の声が二人の間に割り込んでくる。
天使のように愛くるしい笑顔で、フリッカーは有無を言わさず姉の手を取った。膨大なまじない札の下に隠れたその手を迷わず見つけ出したのはさすがだが、分かり易い牽制にサージの頬がピクリと痙攣する。
「……いやいやいやっ、病み上がりって言っても一人で歩けるし! その笑顔も怖いわっ」
「遠慮は無用です。姉上が我慢しかしない人だっていうのは、僕が一番理解してますから」
実に騒々しいが、見ようによっては微笑ましくもある攻防戦を繰り広げる姉弟から、サージは慌てて視線を逸らす。
それは、ヒル王子の異名を持つフリッカーへの、本能的な恐怖心からではない。アムリットとの離別を決意したにもかかわらず、悋気を覚えそうになる心を戒めるためだった。
そんなサージの横顔を、ダラシアが意味ありげに見つめていた。
だが、叶わぬ恋情を持て余していたサージは、そのことに気付いていなかった。
5
手と手を取り合うサージとダラシアは、実に似合いの美男美女だった。
かつて酒に酔い切々と失恋を語ったサージの言い分では、初恋の君は小指の先の甘皮ほども愛情を返してくれなかったらしい。
けれど、アムリットの目には全く違って見える。ダラシアが彼に向ける眼差し一つとっても確かな愛情に満ちていた。
サージやエイダンの言葉から想像していた「男を手玉に取る悪女」には到底見えない。外見の美しさに劣らぬ内面の美しさを感じる。
サージへの恋心を自覚したアムリットだからこそ、直感的にそれを見抜くことができたのだろう。
だが、そのことをサージに告げれば、自分への付け焼刃のような恋情など積年の想いの前には呆気なく消え去るに違いない。
サージがダラシアに向ける表情は少し硬かったが、一度は愛した相手だ。このまま側にいれば、想いが復活するのも時間の問題かもしれない……そう思うだけで、悲しみよりも怒りに似た感情が胸に湧いてくる。
「ムグっ……!」
動揺するアムリットの耳に、くぐもった声が飛び込んでくる。
何事かと思って声のした方向に視線を移すと、王の間の床に口を縄で縛った小汚い麻袋が転がされていた。それは、まるでイモムシのようにもぞもぞとのたうっている。
幼い少女のものと思われる呻き声は、その麻袋の中からしたようだ。
「アレって、もしかして……?」
アムリットは呪禁符の下で血相を変え、背後にいた弟を振り返る。
「お察しの通り、あの側仕えの少女ですよ。猿轡を噛ませてはいますが、お祖母様の魔法で気道は確保されてますから、ご心配なく。逃げようとしたのを捕まえたはいいんですが、命までは取らないと言っても泣き喚くわ、暴れるわ……そのまま連れてくるには、どうにも厄介だったんですよ」
フリッカーは相変わらずの天使の笑みでとんでもない告白をした。
「あれはルーフェだというのっ? 何てひどい……!」
ダラシアは慌ててサージの手を振り解き、悲鳴のような声を上げて麻袋に縋る。
「……そのままにしておいた方が、あんたの身のためだと思うがねぇ」
麻袋を縛っている縄に手を掛けた彼女に、エグゼヴィアは呆れたような口調で言った。
「一体、それは誰なんだ?」
ただ一人、エイダンだけが事情を呑み込めていない様子で呟く。
「離宮に呼んだ時、あんたもチラッと見たかもね。元第一妃様の側仕えで、この前の暗殺事件起こしたフィリペって子の姉さんよ」
「貴様っ、報復のために子供達を……?」
アムリットが答えてやると、エイダンは語勢も荒く睨みつけてきた。咎人の身内だからといってあまりの仕打ちだ、という言外の非難が鋭い視線から伝わってくる。
「確かに利用するつもりではあったけど、目的は報復なんかじゃない。ただ、あの子達が更生してくれたら、ダラシア様を第一妃として呼び戻していいって長老が……」
「なっ、一体どうしてそんな話がっ?」
アムリットが言い訳じみた事情を話すと、今度はサージが目を剥く。
ダラシアも縄を解く手を止め、信じられないと言わんばかりの表情でアムリットを振り仰いだ。
「殺されそうになったことを思うと……そりゃ気分は良くないですけど、側仕えの管理不行き届きだけで王宮から追放なんて重過ぎるんじゃないかと思って。まだ幼いのに母親と引き離される王太子様なんて、それこそ何の罪もないのに……あまりに後味が悪過ぎて、あのまま何もしないでいたら一生後悔しそうだったんです」
たどたどしく告げた言葉は真実ではあったが、これは当時アムリットが抱いていた目的の半分……綺麗事でしかない。
情けなくて、馬鹿な自分をサージに知られたくなくて、もう半分の目的は伝えられなかった。
その頃、まだ自分の想いに気付いていなかったアムリットは、どうにかしてサージと離縁して祖国フリーダイルに戻りたかった。そのためには、自分への恋心が酔った勢いによる錯覚だとサージに気付かせなければならない。彼が長く想い続けていたダラシアさえ王宮に戻ってくれれば、二人の仲は修復されると安易に信じ込んでいたのだ。
そんなことはあり得ないのに、人間関係に疎いアムリットは気付かなかった。
そして、当然のように計画は頓挫したが、サージに離縁されるという大前提は果たせた。
だからといって、これっぽっちも晴れがましい気持ちにはなれなかったけれど。
後悔や激しい焦燥感が胸の中で渦巻いていて、酷く息苦しい。
こんな後ろ向きでありながら、どこか攻撃的な気持ちは初めてだ。自分が悪いのは明らかなのに、サージに対する正体不明な苛立ちを抑えるのに必死だった。
「我がき……いえ、サージ。貴方が彼女を好きになった気持ち、少しだけ分かった気がしますわ」
アムリットの内心の葛藤を知ってか知らずか、ダラシアがサージを振り返って告げた。
思ってもみない言葉に、アムリットは一瞬苛立ちを忘れる。
「おや、驚いた。なかなかどうして呑み込みが早いじゃないのさ。それに比べて脳筋下僕ときたら……賢妃だか女神だか知らないが、そこまで肩入れするほどの御方かねぇ」
エグゼヴィアが麻袋の少女からダラシアへ、その後意味ありげにエイダンへと視線を移す。
「なんだと、貴様っ……!」
怒りのあまり声が裏返ったエイダンが、気色ばんで詰め寄ろうとするが……
「……ぐえっ!」
一歩踏み出す間もなく後ろから肩を掴まれ、声帯が潰れたような呻き声を上げた。
「俺の女に乱暴な口をきくんじゃない。今度やったら捻り潰すぞ、てめぇ」
イグナシスの声は少しも力んだ風ではなく、その手も肩口にただ添えているだけにしか見えない。けれど、エイダンの目は血走り、必死に悲鳴を抑えていた。
祖父のようなオルガイム人は、一見細身なのにとんでもない馬鹿力だという。実際にそれを目の当たりにしたアムリットは、呪禁符の下で目を見張った。
「何も知らないくせに、勝手なことを言い出したのはそっちだ!」
「前ヴェンダント第四妃にして、現国王サージの母親……リーザの父親は、彼の砂上船を作り上げた、ヴェンダント随一の腕を持つ船大工だった。だが身分がそう高くなかったために、娘のリーザは第一妃にはなれなかった。それでも新たに作られた賢妃の地位が与えられ、先王の寵愛と臣下や国民達の尊敬を一身に受けることになる」
肩の手を振り払い、怒鳴り返してきたエイダンに対し、イグナシスは報告書でも読み上げるかの如く滔々と語る。
エイダンは出鼻を挫かれたように口をパクパクさせていた。
「ガルシュの魔導研究所にいた頃、サージを酔わせると必ず愚痴られたんだ。お前の姉の話と、リーザの本当の企みもについてもな。俺もエグゼヴィアも考えなしに言ってるわけじゃない……姉のことで恩義を感じるのは分からんでもないがな、そのことで得をしたのはお前達だけか?」
「一体、何が言いたいっ!」
再び激昂するエイダンに答えたのは、サージだった。
「お前の姉君、フェルオミナの離宮入りを母上が阻止したのは、婚約者と不当に引き裂かれる彼女を哀れんだからではないのだ。己の寵妃として立場を守るため……そのためなら、何でもする方だ。そんな母上を私は恥じていたが、フェルオミナを救うために利用した」
その薄暗い表情に、アムリットの胸がドキリとする。
「我が君まで何をっ……?」
「済まない、エイダン。母上を盲目的に崇拝するお前には、とても言えなかったんだ。母上がお前の姉を救ったことには変わりないし、知らない方が幸せだろうとも……当時の私はじきにガルシュへ行くことが決まっていて、祖国には二度と帰れないと思っていたから」
二人のやり取りから、アムリットはおおよその事情を掴んだ。
先王はエイダンの姉に婚約者がいたにもかかわらず、彼女を離宮に入れようとしたのだろう。
その話がサージの母親である前第四妃によって、白紙に戻されたのだとしたら……以前から疑問に思っていたエイダンの並々ならぬ忠誠心にも、至極納得がいく。
「あの女のやりそうなことだこと! 愛し合う者達が引き離されるのを親切で助けたふりをして、先王の寵愛が自分よりも年若い娘に移るのを防いだのでしょう。地位を守るためには我が子だって平気で切り捨てるのだからっ……!」
憎々しげに吐き捨てたダラシアに、サージの顔が歪んだ。
それまでは冷静に分析できていたのに、彼女の一言でアムリットの心は俄かに波立つ。自らの心の動きを、もう見て見ぬふりはできない。
それは、自分が知らないサージの過去を知るダラシアへの嫉妬に違いなかった。
「姉上、どうかしましたか? まだ気分が優れないのですか?」
傍らにいたフリッカーが、じっと黙りこくっている姉を不審がるように問い掛けてくる。
「なっ、何でもない……大丈夫だから」
慌てて頭を振ったアムリットだが、仄暗い思いに気付いたばかりの心は、そう簡単には落ち着かなかった。
「そんなっ、そんっ……」
アムリットが自らの心と向き合っている間も、エイダンはすぐには信じられないようで、否定を繰り返している。誰も彼も、彼に掛ける言葉を持たなかった。
「痛っ……!」
唐突にダラシアが悲鳴を上げる。
何事かと見遣れば、彼女の前にある麻袋から少女……ルーフェが顔を出し、床に転がされた格好のままその手に噛み付いていたのだ。
「ダラシアっ……?」
「わっ、何やってんの……!」
ダラシアの手に滲んだ血を目の当たりしたサージとアムリットが、同時に動く。咄嗟にアムリットは、その手から勢いよく水を噴射させた。
「ぶあっ……!」
それをまともに顔面で受けたルーフェは堪らず呻き、噛んでいた手を解放した。その場に尻もちをついたダラシアは呆然とした様子で、サージに後ろから支えられる。
「ダラシア、すぐに手当てをっ!」
サージは上衣の袖を裂き、彼女の手に巻き付ける。
それは、まるで壊れ物を扱うような恭しい所作だった。
そんな彼を前にして、アムリットの胸が再びツキンと痛んだ……サージは実に手際が良くて、何一つ間違っていない。どこにもおかしなところはなく、当然の行為なのに。
「ぎゃあっ!」
今度は苦痛を帯びた幼い悲鳴が上がった。
ハッとして顔を上げると、いつの間にかエグゼヴィアが件の少女を麻袋から引きずり出し、その手を捩じり上げていたのだ。
「バッチャっ?」
アムリットは驚いて声を上げたが、祖母はそのまま少女の身体を宙吊りにしてしまった。
「大丈夫ですよ、まだ殺しゃしませんから。まったく……だから拘束しておいたのに、あんたも不用意だったね。こういう洗脳は、ガキだからこそ簡単に解けやしないんだ」
「……洗脳?」
ジタバタともがく少女を物ともせずにぶら下げたまま、祖母が放った言葉をアムリットは復唱する。
「ヴェンダントに来る途中、イグナシスが妙な拾い物をしたんだそうです。行き倒れたヴェンダント人の女だったんですがね、灼熱の砂漠を裸同然の姿で突っ切ろうとしてたんですよ。介抱してやったら息を吹き返したんで、事の仔細を聞いたら、何とまあ奇妙な身の上でして……」
エグゼヴィアが一体何を語ろうとしているのかは分からないが、彼女が言葉を続けるにつれ、少女が拘束を解こうと激しくもがき始める。
それをエグゼヴィアはまったく意に介さず、蹴り出された足を難なく避けた。それどころか、振り上げられたもう一方の手も捕らえて、ひとまとめに掴み上げてしまう。
「表向きは一年前の流行病にやられて身罷ったことになってますがね、ずっと城の地下牢に幽閉されていたんだそうですよ……そこにいる元第一妃と、長老議会の命で」
「邪魔するなっ、何で……! せっかく追い出したのに、何で戻ってきやがったんだよ! 全部全部っ、その女のせいだ!」
必死に足をバタつかせ、少女はエグゼヴィアの言葉を遮って叫んだ。
ギラギラとした視線とともに「その女」と口にし、蹴り出した足から勢い余って脱げた靴が飛んでいく。その先にいたのは、サージの腕に庇われたダラシアだ。今し方までその少女……ルーフェを助けようと動いていた彼女は、衝撃のあまり蒼褪めている。
もう何が何だか分からない。
「お黙り、お嬢ちゃん。ホントにその舌、引っこ抜かれたいかい……ガキの浅知恵もここまでさ。アンタ達の本当のご主人様は、アタシらが預かってるんだからねぇ」
「本当のご主人様?」
アムリットはダラシアに落としていた視線を、エグゼヴィアに戻した。
「その優しいご主人様は、名前さえなかった子供達に名前を付けてやったんです。特に忠実だった二人の姉妹のうち姉にはルーフェ、妹にはフィリペと。ヴェンダントでは有名な対の聖女達の名から取ったんだそうですよ……昔、とある聖獣を祀った神殿を建立する時、人柱に指名された姫君を守るために、身代わりを買って出た侍女達だって言い伝えがあるとか」
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