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2巻
2-1
しおりを挟む第一章 封じられた魔導石
1
小国フリーダイルの王女アムリットが、砂漠の大国ヴェンダントに嫁いで一ヶ月余り……問題だらけの毎日で、体感としては一年以上経っている気がする。
波乱の日々は、彼女に仮初めの夫だったはずのサージへの恋心を自覚させた。事態の収束にようやく目途が立った今、アムリットはまだ想いが芽生える前のある出来事を思い出していた。
「ずっと部屋から出ないと気が滅入るでしょう、中庭に出てみませんか?」
ある日、離宮のアムリットのもとにやってきたサージがそんなことを言い出した。大国ヴェンダントの王である彼は、呪禁符塗れの姿で引き籠る妃を連れ出そうと必死なのだ。
戸口に立っていた近衛隊長のエイダンが、またろくでもないことを、と言いたげに細めた視線を送ってくる。サージに心からの忠誠を誓う彼だが、妃のアムリットを快く思っていなかった。
先の暗殺未遂事件で犯した失態への罰として、アムリットはエイダンを下僕扱いし、方言のデンボ弁で「ゲスゲス」言わせている。その上、大事な主が何を血迷ったのか、呪禁符塗れのミノムシ王女なんかにのぼせ上がってしまったのだ。彼が不快に思うのも無理はない。
しかし、生真面目なエイダンは己の立場を弁え、王の前で余計な口出しはしない。アムリットは遠慮なく口出ししてくれ、と念を送っていたのだが、真一文字に閉ざされたエイダンの口が開くことはなかった……役立たずな下僕である。
「いぇーで、ねらすかぁー」
一方、バッチャはデンボ弁で余計な口を突っ込んでくる。アムリットの専属侍女として祖国フリーダイルから遠路遥々やってきた彼女は、何故かサージを気に入っていた。
嫁いだばかりのアムリットにサージがぶつけた暴言や、元第一妃ダラシアの側仕えの少女が起こした暗殺未遂事件の顛末まで、洗い浚い話したのに……もっとも、この国の長老ホレストルに一目惚れするくらいだから、男の趣味が悪いのは分かっているけれど。
「バッチャは黙っててっ……陛下はお忘れかもしれませんが、私はもともと『水呪』なので城の離れの塔で二十三年間も過ごしてきたんです。同じところに居続けることには慣れてますし、精神的に参ったりしませんから」
バッチャに釘を刺しつつ、アムリットは丁重な断り文句を口にした。弟のフリッカーから王の機嫌を損なうなと重々言いつけられているので、最低限の礼は尽くす。
「ですがフリーダイルとヴェンダントでは、環境が根本的に違います。貴女もここでは水を操るのも一苦労だと、おっしゃっていたではありませんか……窓のないこの部屋よりも、空が見えて風も吹く中庭の方が余程涼やかです。きっと気持ちが解れるはずですよ」
丁重に断ったのに、サージはなおも無神経に誘ってきた。
アムリットの苛立ちは増すばかりで、全身に纏った呪禁符がザワザワと耳障りな音を立てる。
場所の問題ではないということに、いい加減気付いてほしい。
もしかしたら敢えて無視しているのかもしれないが、気づまりな相手と一緒ではどこに行ったって気が晴れるわけがない。
大体、命に危険が及ぶような生活を強いておいて、ちょっと微笑んで誘っただけでコロッといくと思われては心外だ。そんな脳味噌の軽い女しか周りにいなかったのだろうか。そんなのと一緒にされては困る。
サージが元第一妃ダラシアへの報われぬ想いを涙と鼻水交じりで切々と語った姿は、まだ記憶に新しい。アムリットの慰め(よくよく考えたら、被害者である自分が加害者を慰めるのもおかしいが)を誤解した彼にそのままの勢いで押し倒されかけ、返り討ちにしたことも。
「重ね重ね、お心遣い感謝します……ですが、このところいろいろあって本当に疲れているんです。部屋でゆっくり休ませてください」
これまでのことを思い出し、一層嫌悪感を深めたアムリットは、「いろいろ」を殊更強調して言った。だんだんと棘を隠すのも面倒になってきたのだ。
元第一妃ダラシアの側仕えの少女が計画した身勝手な暗殺事件。それが未遂で終わったのは、偏にアムリットの強運と努力のお陰だ。杜撰な警備体制についての警備責任者エイダンの謝罪もふざけたものだったし、この国はどこまでも自分を舐めている。
「水呪」の娘はそう簡単には死なないし、呪いを恐れて誰も味方になったりしないだろう……そんな考えが透けて見えた。
散々な待遇をしてきたくせに、謝罪という名の言い訳をした上、更に被害者面して縋ってくるなんて勝手過ぎる。
「離宮の庭に、どうしても貴女にお見せしたいものがあるのです。それ程時間も掛かりませんし、それさえ済めばすぐに退散しますから」
笑みを引っ込めたサージが懇願してくる。ザワザワ、ザワザワと紙擦れの音をさせて苛立つアムリットを前にしながら、本当にしつこい。
「……それでは、本当に少しだけ。見たらすぐに帰りますから」
渋々ながらアムリットが応じると、彼はホッとした様子で微笑んだ。
* * *
ヴェンダントに来て以来、ずっと押し込められていた部屋から出たアムリットは、前を行くサージの後ろ姿を見つめていた。
彼に何やかやと理由を付けられ、バッチャもゲス下僕も同行していない。
暗殺未遂事件から間もないのに、この国の警備体制は本当に大丈夫なのだろうか……最早呆れ果てて文句を言う気も失せる。
アムリットの住む離宮を上から見ると、花の形をしているそうだ。かつて、聖泉ファーランドの水面に咲いていたヒツジグサの花を模しているらしい。妃達の部屋が花弁のように放射線状に配置され、その中央にあるのが今向かっている中庭だった。
程なくして石造りの廊下が途切れ、足元が砂地に変わる。
相変わらず雲一つない炎天だ。空気はカラカラに乾き切っていて風もなかったが、屋根付きの通路なので、そこまで暑さは感じなかった。
円形の中庭の中央には、黒光りする巨大な丸い石盤がある。アムリットに割り当てられた部屋と同じくらいの大きさではなかろうか。
砂らしき細かな青白い粒状のものが敷き詰められていて、まるで水を張っているかのように見えた。そこから乳白色の石を彫り出して作った花や、翡翠で作った緑色の茎が突き出している。恐らくこれもヒツジグサなのだろう。
その前には、布製のテントのようなもので天井を覆った東屋があった。
ここ最近続く水不足のせいなのか、あるいはもともとなのか、庭という割には本物の植物や水場が一切ない。
「あれは、ファーランドの泉を模しているのです」
中央の石盤を示しながら、サージがアムリットに説明してくれる。
「陛下がおっしゃっていた見せたいものというのは、あれですか?」
確かに見事な彫刻だとは思うが、正直言って、強引に誘ってまで見せるようなものとは思えなかった。
「ええ、あの砂舞台です」
「砂舞台?」
耳慣れない言葉に、アムリットは小首を傾げる。
「あれはただの芸術品ではなくて、一つの楽器なのですよ。石盤に敷き詰めてあるのは鳴き砂です……今から演奏しますので、是非聴いてほしいんです。どうぞ、そこに座って」
アムリットに東屋へ移動するよう促すと、サージは砂舞台へと向かっていった。アムリットが半信半疑で東屋のベンチに腰を下ろせば、彼は鳴き砂を敷き詰めた石盤の上に上がる。
サンダルを履いた足が青白い砂を踏むと、キュッと動物の鳴き声のような甲高い音が鳴った。長衣と頭を覆うガトラを翻してステップを踏むように、サージが軽やかに移動する。その度に複雑な音階が奏でられ、アムリットは目を見張った。
適当に移動しているだけに見えたが、着地する先々に白いヒツジグサの花の彫刻があった。彼のステップに合わせ、細かく揺れている。ただの美しい彫刻ではなく、それも楽器の一部なのだ。
そう言えば、ヴェンダントにやってきた日の夜に催された宴で、楽団が奏でる管楽器に交じり、似たような楽器があった。さすがにここまでの規模はなく、精々手洗い用の水盤くらいの大きさだったが。
件の楽器の前に座った楽士は、その中に忙しなく手を突き入れていたような……ゲテモノ料理の数々や、スケスケ衣装の踊り子達等々、他に気になることがてんこ盛りだったので、あまりはっきりとは覚えていない。
大体宴が始まって幾許も経たぬ間に、アムリットとサージは中座することになったのだ。旅疲れで早く休みたいと言った自分の発言を、長老ホレストルが邪推して先走ってしまったせいで。
アムリットには未知の楽器であるし、サージの演奏の良し悪しも分からなかったが、この涼やかな音は嫌いではない。鈍臭いと思っていた彼の意外な特技に驚かされるとともに、あの悪趣味な宴よりも余程楽しめる気がした。
嗚呼、見目麗しいのは得だな……とつくづく思う。
いつになく真剣な彼の横顔から、この演奏技術は持って生まれた才能ではなく、努力によって身に付けたものであろうことも窺えた。
つらつらと考えていると、ジャーンと石盤が一際高く鳴り響き、サージの足が止まった。どうやら演奏が終わったらしい。長過ぎず短過ぎず、尺も丁度良い。
アムリットが拍手を送ると、彼は綺麗に一礼して砂舞台から下りてきた。
「意外な特技に驚きました。音楽のことはよく分かりませんが、聞いていて涼しい気持ちになりました」
楽しめたのは事実なので、アムリットは素直に気持ちを伝える。
「良かったです。半ば無理矢理誘ったので、お気に召さなかったらどうしようかと内心冷や冷やしていました……見様見真似で、誰に師事したわけでもありませんから」
額に浮いた汗を袖で拭いながら、心底ホッとした様子でサージが言う。
その笑顔は、まるで芸を褒められた犬のようだ。尻尾を盛大に振っている幻覚が見える。アムリットに褒められるのは初めてのことなので、余程嬉しかったのだろう……だが、ここまで純粋に喜ばれると、何だかこそばゆい。
「独学だったんですか?」
アムリットが気を取り直して尋ねると、サージの笑顔に微かな苦みが走った。
「実は、鳴き砂は本来女性の楽器なんです。ここも、離宮を訪れた王をもてなすために、妃達が演奏する場所だったんですよ。幼い私は、滅多に会えない母の歓心を買うために、こっそり覚えて演奏してみせようと思ったんです。そして、満を持して母の前で演奏したんですが、手酷く怒られてしまいましたよ……仮にも王子である私のすることではないとね」
彼の母親リーザは、第四妃だったと聞いている。彼女もアムリットと同じように、この離宮で暮らしていたのだろう。離宮は男子禁制だから、たとえ王子といえども滅多なことでは入れなかったようだ。
母を喜ばせようという一心だったのに、こっぴどく叱られたら幼い彼は甚く傷付いただろう。いくら王子に相応しくない振る舞いだったとしても、その気持ちだけなら受け取ってあげていいはずだ。
「……陛下、そろそろ部屋へ戻りましょうか。着替えないと、汗臭いですよ」
いろいろ言いたいことはあったが、結局アムリットの口から出たのはぶっきらぼうな言葉だった。
どうせ自分はフリーダイルに帰るのだ。その気持ちは変わらない。
下手な同情や慰めの言葉は、彼を期待させるだけ……その気もないのに優しくするのは、偽善者のやることだ。
「ははっ、済みません。不躾でしたね……最後にくだらないことまで話してしまいました。どうか忘れてください」
サージは乾いた声で笑い、踵を返した。いつもは突っ撥ねられると分かっていながら、性懲りもなく手を差し出してくる彼だが、今回ばかりはそれもしない。
自分が汗臭いと言ったからだろうか?
アムリットは空っぽの両手を握り締め、黙って彼の後に続いた。
2
長老議会の長、ホレストルの屋敷の地下にある土蔵。そこへ続く階段を下り切ると、前を行くサージの歩みがピタリと止まる。
鳴き砂を聴かせてもらった日のことを思い出していたアムリットは、ぶつかりそうになって慌てて足を止めた。
サージが軽く左手を掲げると、その甲が松明のように輝き、薄暗い周囲を照らし出す。
床板を支えるための支柱が等間隔に立ち並び、その間を縫うように大小様々な箱が雑然と積み上げられていた。大半が木製か、葦の葉で編まれた長持なのは、ここが湿気とは無縁の砂漠地帯だからだろうか。
邸宅の規模に見合う広々とした土蔵を前にして、アムリットの口からは溜め息が漏れる。生まれてすぐに盗まれたという、サージの魔導石の欠片。それは、この土蔵のどこかにあるらしい。文字通り山のような荷物の中から、掌に収まるくらい小さな魔導石を見つけなければならない。
シンと静まり返った土蔵に溜め息は大きく響き、サージが彼女を振り返った。そして、手の甲の魔導石を示す。
「大丈夫ですよ、アムリット姫。探すのはこれの双子石ですから。手当たり次第に検めずとも、どの箱に入っているかは特定できます」
溜め息からアムリットの懸念を察したらしく、柔らかな笑みとともに丁寧に答えてくれた。
あの毒泉の中では呼び捨てだったのに……と、そんな些細なことに不満を感じる自分に、アムリットは呪禁符の下でこっそり狼狽えていた。
それまで常に卑屈でオドオドしていたサージだが、今の彼にそうした態度は窺えない。
彼ら魔術師にとって、生まれ持った魔導石は魂の次に大切なもので、心臓石とも呼ばれている。物心つく前に三つに砕かれ、奪われたそれを取り戻す目途が付いたことで、彼は精神的な安定を手に入れたのだろう。
ホレストルの口を割らせるため、サージはその力の片鱗を見せた。
彼が魔導の力を発動した際、呪禁符越しに肌身を舐めた無色透明の波動……まだ完全ではないというそれは、「水呪」と言われた自分の力さえ凌ぐかもしれないとアムリットは直感した。
強大な力を得たことで、驕り高ぶる人間は多い。それまで理不尽に虐げられていた者ならば、なおさらだ。生まれ持った力を奪われ、不当に蔑まれていたサージだが、それでも取り戻した力を悪戯に行使しようとはしなかった。
理由なき差別をもたらした張本人――ホレストルが目の前にいたというのに。報いを受けて当然の人間に対する彼の反撃は、アムリットからすれば手緩かった。
大量のフナムシにたかられたホレストルの姿は壮絶で、精神的苦痛も決して小さくはなかろうが、命に危険が及ぶわけではない。鋼のように硬い筋肉を持つあの老人なら、多少齧られたところで致命傷にはなり得ない。
実際、少し前にもバッチャ――アムリットの祖母であるエグゼヴィアからフナムシ攻撃を受けたらしいが、素っ裸に近い夜着姿の彼の身体に大した傷跡は見当たらなかった。
だが、サージにはそれでも十分だったようだ。虐げる側は自分には向かないとも言っていた。どこか浮かないその表情は、残虐な行為に快感を覚える者が浮かべるものではなかった。力を得る前と得た後で、彼の根本的な性質は変わっていなかったのだ。
変わってしまったのは、アムリット自身の気持ちだけだった。サージへの気持ちが同情ではなく恋心であると認めた途端、彼に対する見方が変わった。
今更、こんな歳になって初恋だなんて……しかも相手は離縁を言い渡してきた元夫。それだけで十分に絶望的だ。
想いが芽吹いたのは、サージが力を取り戻す前のこと。一度は祖国を追われ、虐げられることに慣れ切った、後ろ向きで臆病な人間だと思っていた頃だ。
サージが初めからアムリットの祖父母のように強い人間だったなら、心惹かれることはなかったかもしれない。
毒泉の底でもがくアムリットを命懸けで救出に来てくれた時も、心が震えることはなかったかもしれない。
彼が無力で臆病だったからこそ、その勇気が際立った。お陰で自分に対する想いも、一時の気の迷いだと一蹴できなくなった。
祖国フリーダイルへ帰れと言われた時、思いの外動揺したのはそのせいだ。
無意識に、彼の気持ちに応えたいと思い始めていたから。
「ここだ……って、あれっ……アムリット姫?」
耳を衝いた声で我に返ると、少し先の支柱と箱の間で赤い光がチラチラと揺れていた。アムリットが再び記憶の中に潜っていた間に、サージはさっさと魔導石の在処を割り出していたようだ。
「済みません! 考え事をしていて、うっかり見失っていました」
「いえ、私もついてきてくださっていると思い込んで、石の在処を探ることに夢中で……申し訳ありません」
正直に謝罪して走り寄ったアムリットに対し、サージは首を横に振る。国王らしからぬ腰の低さも相変わらずだ。
「……それで、どの箱ですか?」
謝罪合戦をしても仕方ないと割り切り、アムリットは尋ねる。
すると、彼は周囲にうずたかく積まれた箱には目もくれず、おもむろに足元を指差した。つられて見遣るも、そこには剥き出しの砂地があるだけだが……もしかして。
「埋められているようです。ご丁寧にも、随分と深いところに」
純白の長衣が汚れることも厭わず片膝をついたサージは、そう言いながらペタリと左手を地につける。鈍く点滅していた手の甲が、まるで松明の火が爆ぜるようにボウっと強く瞬いた。
周囲の土の色が変色し始め、アムリットの鼻にどこか懐かしい匂いが届く。
「……水脈がある」
微かな涼気を嗅ぎ取った彼女が呟くと、サージは大きく頷いた。
「この下に、蜘蛛の巣のように複雑な流れが集結しているのが分かりますか? どうやらヴェンダントの地下水脈の中心点らしい……これは、まるで結界です。ホレストルには無理だ。一体誰がこんな真似を?」
彼の表情がだんだんと険しくなり、アムリットは赤く発光するその手の下で、湿り気を帯びていく砂面に目を凝らす。
地下を縦横無尽に走る水の道が、脳裏に浮かび上がってきた。鮮明に浮かび上がったそれはヴェンダントにやってきた日、城門前の砂地から湧き上がらせた地下氷河と同じように凍りついている。
サージが言った通り、全ての水脈に通じる地下深くの中心部は、結界……いや、分厚い氷の監獄さながらだ。何本もの氷柱が絡み合って固まったその中に、赤く輝くオーバルな輝石が重々しく鎮座していた。
「……呼んでる」
まるで操られているかのように口を衝いて出た言葉を、アムリットは他人事のように聞いていた。
どういうことかと考える暇もなく、全力疾走した後のように動悸が速くなり、眩暈を覚えてその場に尻もちをつく。
「アムリット姫っ……?」
すぐ傍らにいるはずなのに、サージの声が酷く遠くに聞こえる……まるで、水の中にいるように。
3
「……呼んでる」
跪いて砂面を見つめていたサージがアムリットの異変に気付くまで、僅かな間があった。
感情の抜け落ちた声と、不安を煽るような紙擦れの音に顔を上げた時、アムリットの身体が大きく傾ぐ。次の瞬間には、砂の上にドサリと崩れ落ちていた。
「熱っ……!」
素早く抱き起こそうとしたサージだが、彼女の身体はあり得ない熱を発している。彼は咄嗟に、その手を引いてしまった。
直後、足元から濛々と蒸気が立ち昇り、砂面がグニャリと沈み込んだ。
「やめてくださいっ、危険です……!」
「行かないとっ、……待ってるから……ずっと!」
アムリットの仕業だと即座に悟ったサージが制止するも、彼女の耳には届いていないようだ。
カサカサという乾いた紙の音と、浅く荒い息遣いの合間に、熱に浮かされたような声音が漏れる。明らかに正気を失っている彼女は、凍てついた地下水脈を蒸発させんばかりに熱を上げていた。
水蒸気の切れ間に見えた支柱の一つは足元の砂を崩され、微かに傾いでいるようだ。周囲に積み上げられた長持も不気味に横揺れを起こしている。
このままでは支柱が屋敷を支え切れず、二人とも下敷きになってしまうかもしれない。
「……姫っ、……済みません!」
サージは呪禁符に塗れた彼女の頭頂部を、左手で強く押さえつけた。
燃え盛る炎で肌を直接炙られているような激痛が走るが、散り散りになりそうな意識を魔導石に集中させる。そうして突如暴走し始めたアムリットの脳に、直接指令を送った。
眠れ。
サージは雑念を払うように、ギュッと両目を閉じて念じる。
すると、程なくしてアムリットの頭が胸の中にコテンと倒れ込んできた。一瞬身体を硬くしたサージだが、覚悟した熱は襲ってこない。
バサバサと一際大きな紙擦れの音がして、目の上に薄っぺらな何かが貼り付いた。反射的に目を開けて瞬きすると、頬の輪郭に沿ってハラリと滑り落ちていく……無意識に目で追えば、その薄い紙は豪奢に波打つ赤い髪に受け止められた。
正常な体温を取り戻し、サージの腕の中でスヤスヤと寝息を立てているその人は――
「……アムリット」
意識を失ったせいなのか、全身を覆っていた呪禁符は一枚残らず剥がれ落ち、砂の上に散乱している。
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