ファーランドの聖女

小田マキ

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1巻

1-3

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「……やっばいなぁ、地雷踏んじゃったわ」

 一人取り残されたアムリットは、十分に時間を置いてつぶやいた。
 おのれの浅はかさが恨めしい。ほんの少しの腹立たしさが我慢できなかったなんて。
 サージもホレストルという長老も、自分を給水機のようにしか見ていない。それ自体は別に構わなかった。フリーダイルがそれで安泰あんたいなら……今まで散々さんざん迷惑をかけてきたことへの罪滅ぼしと思えば、何の文句もない。厄介者が役に立ててよかった、渇水かっすいで苦しむ人達も助かって一石いっせき二鳥にちょう、くらいにしか思わない。
 けれど、それは「水呪すいじゅ」が自分の代で終わればの話だ。昨夜自分が「休みたい」と言った途端に、大袈裟おおげさに反応したホレストル。その様子を見て、全てを理解した。
 ヴェンダントは「水呪すいじゅ」を代々承継していくことを望んでいるのだ。
 強力な呪いには解く方法がなくとも、他に移す方法がある。その一つが出産なのだ。原理は分からないが、親の呪いは子孫に受け継がれる。
 アムリットは呪われていても、思考まで邪悪に染まっているつもりはない。お腹を痛めて産んだ、可愛くてたまらないであろう我が子に、こんな薄暗いものを背負わせたいとは思わない。不自由な生活をいられるのは、自分だけで十分だ。呪いは呪いであって、聖なる力になることはあり得ないのだから。
 そう思った途端、口からは辛辣しんらつな嫌味が飛び出していた。
 だが、まさかサージがあんなに激昂げきこうするなんて……ろくな人付き合いをしてこなかった自分には、出会って間もない人間の沸点を見極める力が、圧倒的に不足していた。
 そう思っても、ただの言い訳にしかならない。吐き出してしまった言葉は戻ってこないのだ。

「あぁあぁぁーーーーーーっ、ごめんっ、フリッカー!」

 実弟はよわい十二にして、両親以上に口煩くちうるさい。その顔が頭をよぎり、アムリットは決して届かぬ謝罪の言葉を絶叫した。



     6


「呪われし王女……のナメクジ女も、最早もはやこれまでか」

 コテンと横たわった寝台で、口元のまじない札を鳴らしながら、アムリットはひとちる。
 繊細な刺繍ししゅう編みがほどこされた天蓋てんがい越しに、鏡台の上の香時計こうどけい見遣みやれば、右端の穴から伸びていた薄緑色の煙が、丁度掻き消えたところだった。
 今はバリュファスのこくだ。冥界神の名を冠する刻限は、全ての生命が眠りにつく深淵しんえんの闇が広がる時分……余程の大事だいじでもなければ、来訪者などあり得ない。
 怒りに任せて口がすべり、サージ王の不興を買ったのは三日前のこと。あれ以来、彼はこの部屋を訪れていない。それ自体は構わないし、当然だとも思うのだが。

「お腹いたぁー……」

 カサカサと、力なく口元の呪禁符じゅきんふが揺れた。それに呼応するように、空腹を訴える音が下腹部から起こる。
 口に出してしまうと、余計に空腹感が増してしまった。心身ともに疲れているはずなのに、眠気を凌駕りょうがする飢餓感きがかんのせいで、目を閉じていても一向に眠れやしない。
 サージが去って三日、この部屋を訪れないのは彼だけではなかった。召使いさえ一人として現れず、当然ながら食事も運ばれてこない。
 そして、厄介なことに魔法陣が塗り込められた扉は、内側からはいくら押しても開かなかった。アムリットは完全にこの部屋に閉じ込められているのだ。
 一日目は、うっかり忘れたのだろうくらいに考えていた。
 二日目になって、少々フラフラしてきたものの、まあ水は自主供給できるから、と努めて気にしないようにしていた。
 三日目にして、あのくせのあるリャントの肉さえ恋しくなった。
 人間、水さえあれば一週間は生きられると聞くが、呪禁じゅきんの魔法陣が張られた部屋では「水呪すいじゅ」の力も制限される。緑豊かなフリーダイルと違い、砂漠の国ヴェンダントでは、空気中に含まれる水分を集めて濾過ろかするにも結構な精神力を必要とした。


『技術者でもない人間が口を出すな!』

 自分がどれだけ無知むち蒙昧もうまいな言葉を口にしたのか、今になって思い知る。国が違えば、気候も違う。必要とされる技術力も、ここでは格段に違ってくるのだろう。浅はかな馬鹿者は、アムリットの方だった。
 サージは激昂げきこうしながらも、傷付いた顔をしていた。頭ごなしに怒声を浴びているのはアムリットなのに、何故か弱い者いじめをしている気分になった。その時は不思議に思ったものだが、今は理由がよく分かる。
 呪われた女を妻に迎えたがる人間なんて、いるはずがない。議論に次ぐ議論、熟考に熟考を重ねた結果、サージがその役目を負わされただけのこと……彼だって被害者だ。
 しいたげられることに慣れている自分だからこそ、サージの心の痛みに気付いてやらなければならなかった。やられてやり返しただけでは、遺恨いこんしか生まれないことは、二十年前に痛いほど思い知らされている。物事の良ししに関係なく、年長者が先に折れてやることも必要だ。
 また来るという言葉を信じて、王の再訪を待つしかない。一時の怒りでせっかくの給水機を死なせるほど愚かではないはずだ。
 とにかく、彼が来たら外交だとか政策だとかの小難しいことは脇に置いて、真摯しんしに謝ろう。フリーダイルにとがを及ぼすことなく、アムリット自身への制裁だけに留めてくれた(んだろう、多分)心の広さも絶賛しておこう。


 ぐぅうぅぅ……


 体力、精神力の限界がくる前に、次の機会があったらだけど。


     * * *


 王家の管理する聖泉せいせんファーランドは、メヌーク王家の象徴である八本の石柱テベリクに囲まれていた。更にそれを囲って神殿が建てられ、吹き抜けの上空からは燦々さんさんと日の光が差し込んでいる。テベリクの尖端せんたんに貼られた金箔きんぱくが太陽光を反射し、周囲は神々こうごうしい光に満ちあふれていた。

「少々せられましたか、陛下。さては恋煩こいわずらいですな?」

 この炎天下にありながら、背筋が凍りつくような冗談を吐いたホレストルを、サージは一瞥いちべつする気にもなれなかった。
 いくら渇水かっすい問題に解決の目処めどが立ったとはいえ、浮かれすぎだ。聖泉せいせんファーランドを前にして……と言っても干上がっているのだが、不敬であることには変わりない。
 エリアスルートは、神代しんだいが終わった時から三つの世界に分かれている。天上界には創造神達とその眷属けんぞくである聖獣が住まい、冥界には冥界神バリュファスをかなめとした破壊神達と、配下の聖獣が住んでいる。
 そして地上には人々と、精霊達が共存していた。天上界や冥界に住むことをこばみ、その代償として肉体を失って魂だけの存在となった精霊達。元聖獣である彼らは姿かたちを持たないため、自然の中に溶け込んでいる。風火水土の属性に特化した場所には、それぞれに属する精霊が宿っていると言われていた。
 砂漠の国ヴェンダントにおいて、乾季にもれたことのなかった聖泉ファーランド。ここには水属性の精霊が宿っているとされ、その恵みに感謝して神殿が建立こんりゅうされたのだ。
 だが、神秘的なまでに青く輝いていた泉は、今や乾いた砂地に変わっていた。来るはずの雨季も、いまだやってこない。
 ファーランドの精霊は死んだのか、いずこかへ去ったのか……魔術師のたぐいを切り捨ててきたヴェンダントには、聖獣や精霊の声を聞き届ける聖獣使いもおらず、それを確かめるすべはなかった。
 聖泉せいせんを復活させるには、まず精霊の所在を確認することが先決だ。
 そう考えたサージは、聖獣使いを招聘しょうへいすることを提言した。祖国に呼び戻されるまで、魔法王国ガルシュの王立魔導研究所に在籍していた彼は、とある聖獣使いに伝手つてがあったのだ。
 エリアスルート一との呼び声も高いその人物とは、浅からぬ因縁がある。品行方正とは言いがたいが、腕は確かで仕事には真面目な男なので、正式に依頼すれば受けてくれるはずだった。
 だがしかし、魔導の力に差別的な長老議会は、その言葉に耳を貸さなかった。仕方なく第二案として海水濾過ろか装置の開発を打診したが、開発資金の見積もりを出した段階で却下された。
 一週間前の朝、アムリットにぶつけた言葉は、そっくりそのままサージ自身に突きつけられたものなのだ。何の関係もない彼女を、長老議会から受けた屈辱くつじょくけ口にしてしまった。
 まわしい存在とされ、およそ人には見えない姿かたちをした「水呪すいじゅ」の娘。だが自分を含めたヴェンダント人よりも、アムリットは遥かに「人間」らしかった。サージの暴言を「慣れている」の一言で一蹴いっしゅうし、祖国の民のためだけに心を砕く。まわしき存在は、呪わしき悪人は一体どちらだ。もっと貪欲どんよくに、いっそ薄汚いほどに利権を主張してもらいたかった。
 彼女を悪に仕立て上げれば、おのれの所業を正当化できる……そんな浅ましい思いに気付かされたことが、サージには腹立たしかったのだ。
 紺碧こんぺきの空を映してきらめく泉の消失とともに、この国の誇りは地にちた。民族の矜持きょうじは砂にまみれて、もうどこにも見つからない。

「では、陛下……こちらを」

 神殿の奥から現れた神官長が、サージに水差しを手渡す。それには、ファーランドがれ切る前にんでおいた水が収められていた。
 コルク栓を外したサージは、かつて泉であった場所に一頻ひとしきり回しかける。だが、砂がわずかな湿り気を帯びるだけで、他には何の変化も起こらなかった。
 次に腰に帯びていた短剣を抜き、左のてのひらに宛がう……そして、迷うことなく横一線にいだ。噴き出す血が砂地を染め、手の甲には青い発光が生じる。

『メヌークの血とともに誓う、なんじらにあだなすものではないと……』

 公用語のパシュミル語ではなく、いまや限られた人間しか知らない神代しんだいの言葉で精霊に呼びかけた。流れ落ちる血は、まるで軟体動物のようにグニャグニャとい回り、地面に文様を描き始めた。うずを巻き、かぎを作り、八つの角を持つ複雑怪奇な魔法陣が形成される。

「効果は如何いかほどですかな、陛下?」
「あの部屋の扉に塗り込められたものには劣るが、それでも彼女には十分だろう」

 こんなもの、どうせ気休めだ……分かってはいたが、サージはホレストルにそれを伝えなかった。
 サージがおのれの血を使ってファーランドにほどこしたのは、呪禁じゅきんの魔法陣だった。
水呪すいじゅ」の娘の受け入れに最後まで反対していたのは、ファーランド神殿の神官長である。アムリットをここに招き、地脈を辿たどって泉をよみがえらせるためには、彼を筆頭とする聖職者達を納得させなければならない。この魔法陣があれば、聖なる泉が「水呪すいじゅ」によってけがされることはないのだと。
 ホレストルが反対を押し切って迎えたアムリットは、到着した直後にディル・マースの城門前で見事に地下水をかせた。それをの当たりにした彼が狂喜乱舞きょうきらんぶしたのは、神官長の鼻を明かせたからでもあったのだ。

「いつ頃いらっしゃるのですか、その……聖女様は」

 水差しを受け取る神官長の笑顔はいびつに引きっており、まだ完全には納得していないことを物語っている。それでも、もう反対することはなかった。

「明日にも連れてこよう、くれぐれも失礼のないように」

 神官長の目に映り込んだ、おのれの空々しい微笑み。嫌悪感が込み上げたサージは、傷付いた左手を構わず握り締める。アムリットに対し、誰よりも不敬な振る舞いをしたのはサージ自身なのだ。


「サージ様っ……」

 切羽詰せっぱつまった声に、ドタドタと石畳を駆ける足音が続く。振り返ると、神官達を掻き分けて近衛このえ隊長のエイダンが現れた。蒼褪あおざめたその顔が、大事だいじが起きたことを告げている。

「エイダンっ、聖域で無礼な!」
「構わん、何用だ」

 叱責の声を上げたホレストルを制止し、サージはエイダンに尋ねる。

水呪すいじゅっ……いえ、聖女殿のことでっ……!」

 彼の口から出た言葉に、サージは瞠目どうもくする。初見での印象が最悪だったため、エイダンはアムリットのことを舌に乗せるのも嫌がっていたのだ。

「私にはどういう状態か、判断がつかぬのです。どうかっ、すぐにご同行を……!」

 全ての言葉を聞き終える前に、サージは駆け出していた。

「陛下っ……!」

 浅く被っていた頭冠とうかんが外れ、ガトラが頭からすべり落ちる。既視感を覚えるホレストルの怒号も振り切り、サージは走り続けた。



     7


 分厚ぶあつい扉を開ければ、そこには密林があった。
 濃いもやがかかった部屋の中には、ガリガリと硬い物を咀嚼そしゃくするような奇怪な音が響いていた。調度品は全てなくなっており、床に敷かれていた絨毯じゅうたんも取り払われている。
 き出しの石畳を割って高く伸びた木々は、青々と葉をつけた枝を広げ、完全に天井を隠してしまっていた。頭で分かっていながらも、屋外かと錯覚してしまう。
 サージがこの部屋を飛び出してから一週間、一体何が起こったのか……扉は外側からカノワと呼ばれる植物の汁で塗り固められていて、叩き壊さなければ部屋に入ることができなかった。アムリットの姿は、いまだ見当たらない。
 これは彼女の仕業しわざだろうか?
 自分が中にいると見せかけるために扉を封印し、ヴェンダントを出奔しゅっぽんしたのだろうか?
 そんな考えがサージの頭をよぎったが、それも不自然だった。カノワの汁を入手するすべも、部屋の中に木々を生やす必要性も、全くないはずだ。
 他に考えられるのは、「水呪すいじゅ」の力の暴走しかない。制御不能となった強力な呪いが、自然界では到底あり得ない怪異を引き起こした……そう考える方が現実的だ。
 その引き金となったのが、サージがアムリットにぶつけた暴言だったとしたら……あのようなみにくい言葉、何度投げつけられても慣れるはずがない。
 そして呪いの暴走は、アムリット本人にも止められない。地下水脈を掘り当て、たった数日で木々を生やせるほどの「水呪すいじゅ」が、彼女の身に何の危害も与えないわけがなかった。
 サージの身勝手な言葉が暴走の引き金となり、彼女を殺したのではなかろうか?

「アムリット姫っ……!」

 身の毛がよだつような恐怖が襲い、サージはその名を呼んだ。


「はいっ!」
「ひぃっ……!」
「ぎゃあっ!」

 間髪容かんはついれずに戻ってきた返事に、サージとエイダンは飛び上がる。たたらを踏む足で石畳の破片を踏みつけ、二人揃ってその場に尻餅をついてしまった。

「……大丈夫ですか?」

 腰を抜かしたサージ達に声をかけてきたのは、部屋の中央に生える大樹の枝から、吊り下がるようにして現れた巨大ミノムシだった。

「……あ、あぁ、ああっ……アムリット、姫っ?」
「はい、だから何でしょうか?」

 裏返ったサージの呼びかけに応える声は、ガサゴソという紙擦かみずれの音を伴っていて、彼女のものでしかあり得なかった。木の枝にぶら下がる姿はミノムシそのものだったが、到底笑う気にはなれない。

「このっ、くそっ……何をしとるんだっ、貴様は!」

 大口を開けて固まるサージの隣で、エイダンが怒声を張り上げる。

「自給自足に決まってるじゃない。誰もご飯持ってきてくんないし、扉は開かないし、呼んでも何しても無反応だし。いくら呪われてたって、人間なんだから食べないと死ぬのよ。私が変な死に方したら、この国一帯に呪いがみ込むんだからね……そしたら、困るのはあんたらでしょーが」

 さすがにムッとしたようで、アムリットは早口に言うと、床の上に飛び降りた。いつかと同じように、まじない札が空気をはらんで、ザワザワと大きな音を立てる。

「いてっ!」

 その音に混じって、ゴンッという重い音とエイダンの悲鳴が上がった。彼のひたいにぶつかって跳ね返り、サージの足元に転がってきたのは、何とも硬そうな木の実だ。どうやら、枝から飛び降りたと同時に、アムリットが投げてきたらしい。

「それ、ウゲウゴガルンの木の実。硬いけど、食べられなくはなかった。名匠が作った家具とか家とかは、切られた後も生きてるって聞いたから、バッチャに教えてもらったおまじないを試してみたの。お水もあげたら、元の姿に戻って実をいっぱいつけてくれた……私だって水害しか起こせないワケじゃないんだからね」

 乱雑でとげのある口調よりも、その内容にサージは驚いていた。呪禁じゅきんの魔法陣の扉に閉じ込められながらも、部屋の中にあった家具に退化魔法をかけ、青々とした森林に変えたと言うのだ。
 魔導の力を排除したヴェンダントにおいて、アムリットの「水呪すいじゅ」が持つ強大な力を正しく理解しているのは、恐らくサージだけだろう。

「私が悪あがきせずに死んで、ヴェンダントが呪われるより、かなり安上がりだと思うんだけど……どう思います、陛下?」

 足元の果実に目を落としたまま、恐るべき事実におののいていたサージは、弾かれたように顔を上げた。アムリットの声音こわねは異様なほど落ち着いていたが、間違いなく怒気が感じられる。

「もうフリーダイルに帰してもらえませんか?」

 彼女が続けた言葉は疑問形だったが、サージの耳には断固とした宣言に聞こえた。

「何とかなると思った私が浅はかでした。ヴェンダントの気候は『水呪すいじゅ』の私に合ってませんし、一番きついのは気力です。私は陛下のような魔術師じゃないので、この二十年、大きな水害を起こさずにいられたのは、ただの精神力なんです。こんな私でもちゃんと愛してくれる家族とバッチャだけは、絶対に哀しませたくない。だからフリーダイルにいれば、『水呪すいじゅ』を暴走させまいとする意志を保てます……けど、私を安易な給水機としか思っていないヴェンダントのことは、どんなに頑張っても祖国のようには愛せません。罪のない国民の皆さんには申し訳ないですけど、心から守りたいとは思えないんです。今後こんなことが続くようなら、いずれ私の心は折れます。この国は砂じゃなくて海の底に沈むことになりますよ」

 理不尽な扱いに対する憤懣ふんまんを、彼女はどこまでも静かな口調で吐き出した。もしもヴェンダントが「水呪すいじゅ」を手に入れるため、フリーダイルに対して挙兵すると言えば、彼女が最後に宣言した通り、海の底に沈められるだろう……たとえそれが、彼女の命と引き換えであっても。
 一歩も引かない気迫が、サージの胸を一直線につらぬく。ウゲウゴガルンの実をぶつけられたエイダンさえ、何も言い返さなかった。その瞳にあった懐疑かいぎ侮蔑ぶべつの色は、薄暗くにごった何かに変わっている。

「約束したからには、泉はかせます。ヴェンダントの下には大きな地下氷河がありましたから、そう簡単にれることはないはずです。それが終わったら、お願いですからフリーダイルに帰してください」

 サージ達にとって圧倒的に不利な状況。自分達に非があることも否定しようがない……それでも彼女が要求するのは、信じられないほどにささやかなものだった。

「……ああ、そうだった」

 何かを思い出したというようなつぶやきに、サージは猛獣ににらまれたように身を硬くする。

「一週間前は、分かりもしないのに好き勝手言って済みませんでした。あの後、魔法陣と暑さと戦いながら、空気の中からお水出してたんです。ゲラ……じゃなくて、すごくしんどかった。その土地や気候によっては難しいこともあるんですよね。海水を飲み水に変えればいいなんて、安易なことを言ってしまって、本当にごめんなさい」

 戦々せんせん恐々きょうきょうと見つめるサージにかけられたのは、真摯しんしな謝罪の言葉だった。
 ザワザワと揺れる呪禁符じゅきんふの下から聞こえてくるのは、とても静かな声音こわねで、びたり演じたりしている様子は感じられない。大体、今の彼女にそんなことをする必要などないのだ。
 数百の呪禁符じゅきんふの下で、アムリットは今どんな表情を浮かべているのだろう。

「陛下……人が謝ってんですから、返事くらいしたらどうなんです」

 またも言葉を見つけられずにいるサージに、アムリットはいい加減うんざりだと言うように話しかけてくる。

「……申し訳ありません」

 サージの口から勝手に言葉がこぼれ落ちた。

「本当に、申し訳ありません……が」
「……が?」

 無意識に付け加えてしまった接続詞を、アムリットが怪訝けげんそうに復唱する。

「貴女をフリーダイルには帰したくない」

 彼女を引き留める台詞せりふを発したサージだが、その場にいる誰よりも彼自身が一番驚いていた。



   第二章 ゲスとバッチャと小舅こじゅうと


     1


「貴女をフリーダイルには帰したくない」

 年若く美しい大国の王にそんな言葉をかけられ、すがりつくような視線を送られて、心揺れない乙女はいないだろう……しかし。

「……ナニ寝言言ってやがるんだ、テメェは」

 アムリットは、呪禁符じゅきんふの下に隠れた眉を盛大にひそめていた。
 どんなに見てくれが美しかろうが、おのれを餓死寸前まで追い込んだ相手に、何故心かれてやる必要があるのか……大体、世間一般における婦女子と自分は違うのだし。


『誰が好きこのんで「水呪すいじゅ」の娘なぞっ……!』

 同じ口からそんな言葉を投げつけられたのは、わずか七日前のことだ。馬鹿にするにも程がある。魔術師の癖に、「水呪すいじゅ」の恐ろしさが何一つ分かっていない。
 過去にも「水呪すいじゅ」を利用して一山当てよう、なんて馬鹿な考えを抱いて近付いてくる者達がいた。子供だった自分はそんな人間達に利用され、村一つを湖の底に沈めるという取り返しのつかない失態を犯したのだ。幸いなことに死者こそ出なかったが、そこに住んでいた数十もの人達が、大切な故郷と生活基盤を失った。
 厚かましいことに「水呪すいじゅ」を利用しようと目論もくろんでいた人々も被害者にまぎれ、一緒になってアムリットを責めたのだ。
 罪科をあがなえと両親に迫った彼らに、アムリットは自身が断罪を受けることを告げた。呪禁符じゅきんふだらけの異様な姿となり、魔障壁ましょうへきを張り巡らせた呪禁じゅきんの塔で幽閉生活を送る……そして今後一切その姿を見せないと誓った。
 全ては強制ではなく自分の意思であり、浅はかだった自分へのいましめだ。もうこれ以上、馬鹿な人々に利用されはしない。存在をさげすまれ、恐れられてはいても、自分のせいで誰かが泣くことはないはずだった。
 アムリットが苦労して作り上げた、危うくも平穏な生活を叩き壊した、高慢ちきな大国ヴェンダント。挙句あげくに飢死させようとしておいて、それが失敗すれば、またぞろ懐柔かいじゅうしようと言うのか……理不尽という言葉の意味を全く知らないらしい、厚顔こうがん無恥むちな若造を前に、アムリットの沸点は振り切れていた。


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