3 / 37
1巻
1-3
しおりを挟む
「……やっばいなぁ、地雷踏んじゃったわ」
一人取り残されたアムリットは、十分に時間を置いて呟いた。
己の浅はかさが恨めしい。ほんの少しの腹立たしさが我慢できなかったなんて。
サージもホレストルという長老も、自分を給水機のようにしか見ていない。それ自体は別に構わなかった。フリーダイルがそれで安泰なら……今まで散々迷惑をかけてきたことへの罪滅ぼしと思えば、何の文句もない。厄介者が役に立ててよかった、渇水で苦しむ人達も助かって一石二鳥、くらいにしか思わない。
けれど、それは「水呪」が自分の代で終わればの話だ。昨夜自分が「休みたい」と言った途端に、大袈裟に反応したホレストル。その様子を見て、全てを理解した。
ヴェンダントは「水呪」を代々承継していくことを望んでいるのだ。
強力な呪いには解く方法がなくとも、他に移す方法がある。その一つが出産なのだ。原理は分からないが、親の呪いは子孫に受け継がれる。
アムリットは呪われていても、思考まで邪悪に染まっているつもりはない。お腹を痛めて産んだ、可愛くて堪らないであろう我が子に、こんな薄暗いものを背負わせたいとは思わない。不自由な生活を強いられるのは、自分だけで十分だ。呪いは呪いであって、聖なる力になることはあり得ないのだから。
そう思った途端、口からは辛辣な嫌味が飛び出していた。
だが、まさかサージがあんなに激昂するなんて……ろくな人付き合いをしてこなかった自分には、出会って間もない人間の沸点を見極める力が、圧倒的に不足していた。
そう思っても、ただの言い訳にしかならない。吐き出してしまった言葉は戻ってこないのだ。
「あぁあぁぁーーーーーーっ、ごめんっ、フリッカー!」
実弟は齢十二にして、両親以上に口煩い。その顔が頭を過り、アムリットは決して届かぬ謝罪の言葉を絶叫した。
6
「呪われし王女……彼のナメクジ女も、最早これまでか」
コテンと横たわった寝台で、口元のまじない札を鳴らしながら、アムリットは独り言ちる。
繊細な刺繍編みが施された天蓋越しに、鏡台の上の香時計を見遣れば、右端の穴から伸びていた薄緑色の煙が、丁度掻き消えたところだった。
今はバリュファスの刻だ。冥界神の名を冠する刻限は、全ての生命が眠りにつく深淵の闇が広がる時分……余程の大事でもなければ、来訪者などあり得ない。
怒りに任せて口が滑り、サージ王の不興を買ったのは三日前のこと。あれ以来、彼はこの部屋を訪れていない。それ自体は構わないし、当然だとも思うのだが。
「お腹空いたぁー……」
カサカサと、力なく口元の呪禁符が揺れた。それに呼応するように、空腹を訴える音が下腹部から起こる。
口に出してしまうと、余計に空腹感が増してしまった。心身ともに疲れているはずなのに、眠気を凌駕する飢餓感のせいで、目を閉じていても一向に眠れやしない。
サージが去って三日、この部屋を訪れないのは彼だけではなかった。召使いさえ一人として現れず、当然ながら食事も運ばれてこない。
そして、厄介なことに魔法陣が塗り込められた扉は、内側からはいくら押しても開かなかった。アムリットは完全にこの部屋に閉じ込められているのだ。
一日目は、うっかり忘れたのだろうくらいに考えていた。
二日目になって、少々フラフラしてきたものの、まあ水は自主供給できるから、と努めて気にしないようにしていた。
三日目にして、あの癖のあるリャントの肉さえ恋しくなった。
人間、水さえあれば一週間は生きられると聞くが、呪禁の魔法陣が張られた部屋では「水呪」の力も制限される。緑豊かなフリーダイルと違い、砂漠の国ヴェンダントでは、空気中に含まれる水分を集めて濾過するにも結構な精神力を必要とした。
『技術者でもない人間が口を出すな!』
自分がどれだけ無知蒙昧な言葉を口にしたのか、今になって思い知る。国が違えば、気候も違う。必要とされる技術力も、ここでは格段に違ってくるのだろう。浅はかな馬鹿者は、アムリットの方だった。
サージは激昂しながらも、傷付いた顔をしていた。頭ごなしに怒声を浴びているのはアムリットなのに、何故か弱い者虐めをしている気分になった。その時は不思議に思ったものだが、今は理由がよく分かる。
呪われた女を妻に迎えたがる人間なんて、いるはずがない。議論に次ぐ議論、熟考に熟考を重ねた結果、サージがその役目を負わされただけのこと……彼だって被害者だ。
虐げられることに慣れている自分だからこそ、サージの心の痛みに気付いてやらなければならなかった。やられてやり返しただけでは、遺恨しか生まれないことは、二十年前に痛いほど思い知らされている。物事の良し悪しに関係なく、年長者が先に折れてやることも必要だ。
また来るという言葉を信じて、王の再訪を待つしかない。一時の怒りでせっかくの給水機を死なせるほど愚かではないはずだ。
とにかく、彼が来たら外交だとか政策だとかの小難しいことは脇に置いて、真摯に謝ろう。フリーダイルに咎を及ぼすことなく、アムリット自身への制裁だけに留めてくれた(んだろう、多分)心の広さも絶賛しておこう。
ぐぅうぅぅ……
体力、精神力の限界がくる前に、次の機会があったらだけど。
* * *
王家の管理する聖泉ファーランドは、メヌーク王家の象徴である八本の石柱テベリクに囲まれていた。更にそれを囲って神殿が建てられ、吹き抜けの上空からは燦々と日の光が差し込んでいる。テベリクの尖端に貼られた金箔が太陽光を反射し、周囲は神々しい光に満ち溢れていた。
「少々痩せられましたか、陛下。さては恋煩いですな?」
この炎天下にありながら、背筋が凍りつくような冗談を吐いたホレストルを、サージは一瞥する気にもなれなかった。
いくら渇水問題に解決の目処が立ったとはいえ、浮かれすぎだ。聖泉ファーランドを前にして……と言っても干上がっているのだが、不敬であることには変わりない。
エリアスルートは、神代が終わった時から三つの世界に分かれている。天上界には創造神達とその眷属である聖獣が住まい、冥界には冥界神バリュファスを要とした破壊神達と、配下の聖獣が住んでいる。
そして地上には人々と、精霊達が共存していた。天上界や冥界に住むことを拒み、その代償として肉体を失って魂だけの存在となった精霊達。元聖獣である彼らは姿かたちを持たないため、自然の中に溶け込んでいる。風火水土の属性に特化した場所には、それぞれに属する精霊が宿っていると言われていた。
砂漠の国ヴェンダントにおいて、乾季にも涸れたことのなかった聖泉ファーランド。ここには水属性の精霊が宿っているとされ、その恵みに感謝して神殿が建立されたのだ。
だが、神秘的なまでに青く輝いていた泉は、今や乾いた砂地に変わっていた。来るはずの雨季も、いまだやってこない。
ファーランドの精霊は死んだのか、いずこかへ去ったのか……魔術師の類を切り捨ててきたヴェンダントには、聖獣や精霊の声を聞き届ける聖獣使いもおらず、それを確かめる術はなかった。
聖泉を復活させるには、まず精霊の所在を確認することが先決だ。
そう考えたサージは、聖獣使いを招聘することを提言した。祖国に呼び戻されるまで、魔法王国ガルシュの王立魔導研究所に在籍していた彼は、とある聖獣使いに伝手があったのだ。
エリアスルート一との呼び声も高いその人物とは、浅からぬ因縁がある。品行方正とは言い難いが、腕は確かで仕事には真面目な男なので、正式に依頼すれば受けてくれるはずだった。
だがしかし、魔導の力に差別的な長老議会は、その言葉に耳を貸さなかった。仕方なく第二案として海水濾過装置の開発を打診したが、開発資金の見積もりを出した段階で却下された。
一週間前の朝、アムリットにぶつけた言葉は、そっくりそのままサージ自身に突きつけられたものなのだ。何の関係もない彼女を、長老議会から受けた屈辱の捌け口にしてしまった。
忌まわしい存在とされ、およそ人には見えない姿かたちをした「水呪」の娘。だが自分を含めたヴェンダント人よりも、アムリットは遥かに「人間」らしかった。サージの暴言を「慣れている」の一言で一蹴し、祖国の民のためだけに心を砕く。忌まわしき存在は、呪わしき悪人は一体どちらだ。もっと貪欲に、いっそ薄汚いほどに利権を主張してもらいたかった。
彼女を悪に仕立て上げれば、己の所業を正当化できる……そんな浅ましい思いに気付かされたことが、サージには腹立たしかったのだ。
紺碧の空を映して煌めく泉の消失とともに、この国の誇りは地に堕ちた。民族の矜持は砂に塗れて、もうどこにも見つからない。
「では、陛下……こちらを」
神殿の奥から現れた神官長が、サージに水差しを手渡す。それには、ファーランドが涸れ切る前に汲んでおいた水が収められていた。
コルク栓を外したサージは、かつて泉であった場所に一頻り回しかける。だが、砂が僅かな湿り気を帯びるだけで、他には何の変化も起こらなかった。
次に腰に帯びていた短剣を抜き、左の掌に宛がう……そして、迷うことなく横一線に薙いだ。噴き出す血が砂地を染め、手の甲には青い発光が生じる。
『メヌークの血とともに誓う、汝らに仇なすものではないと……』
公用語のパシュミル語ではなく、いまや限られた人間しか知らない神代の言葉で精霊に呼びかけた。流れ落ちる血は、まるで軟体動物のようにグニャグニャと這い回り、地面に文様を描き始めた。渦を巻き、鉤を作り、八つの角を持つ複雑怪奇な魔法陣が形成される。
「効果は如何ほどですかな、陛下?」
「あの部屋の扉に塗り込められたものには劣るが、それでも彼女には十分だろう」
こんなもの、どうせ気休めだ……分かってはいたが、サージはホレストルにそれを伝えなかった。
サージが己の血を使ってファーランドに施したのは、呪禁の魔法陣だった。
「水呪」の娘の受け入れに最後まで反対していたのは、ファーランド神殿の神官長である。アムリットをここに招き、地脈を辿って泉を蘇らせるためには、彼を筆頭とする聖職者達を納得させなければならない。この魔法陣があれば、聖なる泉が「水呪」によって穢されることはないのだと。
ホレストルが反対を押し切って迎えたアムリットは、到着した直後にディル・マースの城門前で見事に地下水を湧かせた。それを目の当たりにした彼が狂喜乱舞したのは、神官長の鼻を明かせたからでもあったのだ。
「いつ頃いらっしゃるのですか、その……聖女様は」
水差しを受け取る神官長の笑顔は歪に引き攣っており、まだ完全には納得していないことを物語っている。それでも、もう反対することはなかった。
「明日にも連れてこよう、くれぐれも失礼のないように」
神官長の目に映り込んだ、己の空々しい微笑み。嫌悪感が込み上げたサージは、傷付いた左手を構わず握り締める。アムリットに対し、誰よりも不敬な振る舞いをしたのはサージ自身なのだ。
「サージ様っ……」
切羽詰まった声に、ドタドタと石畳を駆ける足音が続く。振り返ると、神官達を掻き分けて近衛隊長のエイダンが現れた。蒼褪めたその顔が、大事が起きたことを告げている。
「エイダンっ、聖域で無礼な!」
「構わん、何用だ」
叱責の声を上げたホレストルを制止し、サージはエイダンに尋ねる。
「水呪っ……いえ、聖女殿のことでっ……!」
彼の口から出た言葉に、サージは瞠目する。初見での印象が最悪だったため、エイダンはアムリットのことを舌に乗せるのも嫌がっていたのだ。
「私にはどういう状態か、判断がつかぬのです。どうかっ、すぐにご同行を……!」
全ての言葉を聞き終える前に、サージは駆け出していた。
「陛下っ……!」
浅く被っていた頭冠が外れ、ガトラが頭から滑り落ちる。既視感を覚えるホレストルの怒号も振り切り、サージは走り続けた。
7
分厚い扉を開ければ、そこには密林があった。
濃い靄がかかった部屋の中には、ガリガリと硬い物を咀嚼するような奇怪な音が響いていた。調度品は全てなくなっており、床に敷かれていた絨毯も取り払われている。
剥き出しの石畳を割って高く伸びた木々は、青々と葉をつけた枝を広げ、完全に天井を隠してしまっていた。頭で分かっていながらも、屋外かと錯覚してしまう。
サージがこの部屋を飛び出してから一週間、一体何が起こったのか……扉は外側からカノワと呼ばれる植物の汁で塗り固められていて、叩き壊さなければ部屋に入ることができなかった。アムリットの姿は、いまだ見当たらない。
これは彼女の仕業だろうか?
自分が中にいると見せかけるために扉を封印し、ヴェンダントを出奔したのだろうか?
そんな考えがサージの頭を過ったが、それも不自然だった。カノワの汁を入手する術も、部屋の中に木々を生やす必要性も、全くないはずだ。
他に考えられるのは、「水呪」の力の暴走しかない。制御不能となった強力な呪いが、自然界では到底あり得ない怪異を引き起こした……そう考える方が現実的だ。
その引き金となったのが、サージがアムリットにぶつけた暴言だったとしたら……あのような醜い言葉、何度投げつけられても慣れるはずがない。
そして呪いの暴走は、アムリット本人にも止められない。地下水脈を掘り当て、たった数日で木々を生やせるほどの「水呪」が、彼女の身に何の危害も与えないわけがなかった。
サージの身勝手な言葉が暴走の引き金となり、彼女を殺したのではなかろうか?
「アムリット姫っ……!」
身の毛がよだつような恐怖が襲い、サージはその名を呼んだ。
「はいっ!」
「ひぃっ……!」
「ぎゃあっ!」
間髪容れずに戻ってきた返事に、サージとエイダンは飛び上がる。たたらを踏む足で石畳の破片を踏みつけ、二人揃ってその場に尻餅をついてしまった。
「……大丈夫ですか?」
腰を抜かしたサージ達に声をかけてきたのは、部屋の中央に生える大樹の枝から、吊り下がるようにして現れた巨大ミノムシだった。
「……あ、あぁ、ああっ……アムリット、姫っ?」
「はい、だから何でしょうか?」
裏返ったサージの呼びかけに応える声は、ガサゴソという紙擦れの音を伴っていて、彼女のものでしかあり得なかった。木の枝にぶら下がる姿はミノムシそのものだったが、到底笑う気にはなれない。
「このっ、くそっ……何をしとるんだっ、貴様は!」
大口を開けて固まるサージの隣で、エイダンが怒声を張り上げる。
「自給自足に決まってるじゃない。誰もご飯持ってきてくんないし、扉は開かないし、呼んでも何しても無反応だし。いくら呪われてたって、人間なんだから食べないと死ぬのよ。私が変な死に方したら、この国一帯に呪いが沁み込むんだからね……そしたら、困るのはあんたらでしょーが」
さすがにムッとしたようで、アムリットは早口に言うと、床の上に飛び降りた。いつかと同じように、まじない札が空気を孕んで、ザワザワと大きな音を立てる。
「いてっ!」
その音に混じって、ゴンッという重い音とエイダンの悲鳴が上がった。彼の額にぶつかって跳ね返り、サージの足元に転がってきたのは、何とも硬そうな木の実だ。どうやら、枝から飛び降りたと同時に、アムリットが投げてきたらしい。
「それ、ウゲウゴガルンの木の実。硬いけど、食べられなくはなかった。名匠が作った家具とか家とかは、切られた後も生きてるって聞いたから、バッチャに教えてもらったおまじないを試してみたの。お水もあげたら、元の姿に戻って実をいっぱいつけてくれた……私だって水害しか起こせないワケじゃないんだからね」
乱雑で棘のある口調よりも、その内容にサージは驚いていた。呪禁の魔法陣の扉に閉じ込められながらも、部屋の中にあった家具に退化魔法をかけ、青々とした森林に変えたと言うのだ。
魔導の力を排除したヴェンダントにおいて、アムリットの「水呪」が持つ強大な力を正しく理解しているのは、恐らくサージだけだろう。
「私が悪あがきせずに死んで、ヴェンダントが呪われるより、かなり安上がりだと思うんだけど……どう思います、陛下?」
足元の果実に目を落としたまま、恐るべき事実に慄いていたサージは、弾かれたように顔を上げた。アムリットの声音は異様なほど落ち着いていたが、間違いなく怒気が感じられる。
「もうフリーダイルに帰してもらえませんか?」
彼女が続けた言葉は疑問形だったが、サージの耳には断固とした宣言に聞こえた。
「何とかなると思った私が浅はかでした。ヴェンダントの気候は『水呪』の私に合ってませんし、一番きついのは気力です。私は陛下のような魔術師じゃないので、この二十年、大きな水害を起こさずにいられたのは、ただの精神力なんです。こんな私でもちゃんと愛してくれる家族とバッチャだけは、絶対に哀しませたくない。だからフリーダイルにいれば、『水呪』を暴走させまいとする意志を保てます……けど、私を安易な給水機としか思っていないヴェンダントのことは、どんなに頑張っても祖国のようには愛せません。罪のない国民の皆さんには申し訳ないですけど、心から守りたいとは思えないんです。今後こんなことが続くようなら、いずれ私の心は折れます。この国は砂じゃなくて海の底に沈むことになりますよ」
理不尽な扱いに対する憤懣を、彼女はどこまでも静かな口調で吐き出した。もしもヴェンダントが「水呪」を手に入れるため、フリーダイルに対して挙兵すると言えば、彼女が最後に宣言した通り、海の底に沈められるだろう……たとえそれが、彼女の命と引き換えであっても。
一歩も引かない気迫が、サージの胸を一直線に貫く。ウゲウゴガルンの実をぶつけられたエイダンさえ、何も言い返さなかった。その瞳にあった懐疑と侮蔑の色は、薄暗く濁った何かに変わっている。
「約束したからには、泉は湧かせます。ヴェンダントの下には大きな地下氷河がありましたから、そう簡単に涸れることはないはずです。それが終わったら、お願いですからフリーダイルに帰してください」
サージ達にとって圧倒的に不利な状況。自分達に非があることも否定しようがない……それでも彼女が要求するのは、信じられないほどにささやかなものだった。
「……ああ、そうだった」
何かを思い出したというような呟きに、サージは猛獣に睨まれたように身を硬くする。
「一週間前は、分かりもしないのに好き勝手言って済みませんでした。あの後、魔法陣と暑さと戦いながら、空気の中からお水出してたんです。ゲラ……じゃなくて、すごくしんどかった。その土地や気候によっては難しいこともあるんですよね。海水を飲み水に変えればいいなんて、安易なことを言ってしまって、本当にごめんなさい」
戦々恐々と見つめるサージにかけられたのは、真摯な謝罪の言葉だった。
ザワザワと揺れる呪禁符の下から聞こえてくるのは、とても静かな声音で、媚びたり演じたりしている様子は感じられない。大体、今の彼女にそんなことをする必要などないのだ。
数百の呪禁符の下で、アムリットは今どんな表情を浮かべているのだろう。
「陛下……人が謝ってんですから、返事くらいしたらどうなんです」
またも言葉を見つけられずにいるサージに、アムリットはいい加減うんざりだと言うように話しかけてくる。
「……申し訳ありません」
サージの口から勝手に言葉が零れ落ちた。
「本当に、申し訳ありません……が」
「……が?」
無意識に付け加えてしまった接続詞を、アムリットが怪訝そうに復唱する。
「貴女をフリーダイルには帰したくない」
彼女を引き留める台詞を発したサージだが、その場にいる誰よりも彼自身が一番驚いていた。
第二章 ゲスとバッチャと小舅と
1
「貴女をフリーダイルには帰したくない」
年若く美しい大国の王にそんな言葉をかけられ、縋りつくような視線を送られて、心揺れない乙女はいないだろう……しかし。
「……ナニ寝言言ってやがるんだ、テメェは」
アムリットは、呪禁符の下に隠れた眉を盛大に顰めていた。
どんなに見てくれが美しかろうが、己を餓死寸前まで追い込んだ相手に、何故心惹かれてやる必要があるのか……大体、世間一般における婦女子と自分は違うのだし。
『誰が好き好んで「水呪」の娘なぞっ……!』
同じ口からそんな言葉を投げつけられたのは、僅か七日前のことだ。馬鹿にするにも程がある。魔術師の癖に、「水呪」の恐ろしさが何一つ分かっていない。
過去にも「水呪」を利用して一山当てよう、なんて馬鹿な考えを抱いて近付いてくる者達がいた。子供だった自分はそんな人間達に利用され、村一つを湖の底に沈めるという取り返しのつかない失態を犯したのだ。幸いなことに死者こそ出なかったが、そこに住んでいた数十もの人達が、大切な故郷と生活基盤を失った。
厚かましいことに「水呪」を利用しようと目論んでいた人々も被害者に紛れ、一緒になってアムリットを責めたのだ。
罪科を贖えと両親に迫った彼らに、アムリットは自身が断罪を受けることを告げた。呪禁符だらけの異様な姿となり、魔障壁を張り巡らせた呪禁の塔で幽閉生活を送る……そして今後一切その姿を見せないと誓った。
全ては強制ではなく自分の意思であり、浅はかだった自分への戒めだ。もうこれ以上、馬鹿な人々に利用されはしない。存在を蔑まれ、恐れられてはいても、自分のせいで誰かが泣くことはないはずだった。
アムリットが苦労して作り上げた、危うくも平穏な生活を叩き壊した、高慢ちきな大国ヴェンダント。挙句に飢死させようとしておいて、それが失敗すれば、またぞろ懐柔しようと言うのか……理不尽という言葉の意味を全く知らないらしい、厚顔無恥な若造を前に、アムリットの沸点は振り切れていた。
一人取り残されたアムリットは、十分に時間を置いて呟いた。
己の浅はかさが恨めしい。ほんの少しの腹立たしさが我慢できなかったなんて。
サージもホレストルという長老も、自分を給水機のようにしか見ていない。それ自体は別に構わなかった。フリーダイルがそれで安泰なら……今まで散々迷惑をかけてきたことへの罪滅ぼしと思えば、何の文句もない。厄介者が役に立ててよかった、渇水で苦しむ人達も助かって一石二鳥、くらいにしか思わない。
けれど、それは「水呪」が自分の代で終わればの話だ。昨夜自分が「休みたい」と言った途端に、大袈裟に反応したホレストル。その様子を見て、全てを理解した。
ヴェンダントは「水呪」を代々承継していくことを望んでいるのだ。
強力な呪いには解く方法がなくとも、他に移す方法がある。その一つが出産なのだ。原理は分からないが、親の呪いは子孫に受け継がれる。
アムリットは呪われていても、思考まで邪悪に染まっているつもりはない。お腹を痛めて産んだ、可愛くて堪らないであろう我が子に、こんな薄暗いものを背負わせたいとは思わない。不自由な生活を強いられるのは、自分だけで十分だ。呪いは呪いであって、聖なる力になることはあり得ないのだから。
そう思った途端、口からは辛辣な嫌味が飛び出していた。
だが、まさかサージがあんなに激昂するなんて……ろくな人付き合いをしてこなかった自分には、出会って間もない人間の沸点を見極める力が、圧倒的に不足していた。
そう思っても、ただの言い訳にしかならない。吐き出してしまった言葉は戻ってこないのだ。
「あぁあぁぁーーーーーーっ、ごめんっ、フリッカー!」
実弟は齢十二にして、両親以上に口煩い。その顔が頭を過り、アムリットは決して届かぬ謝罪の言葉を絶叫した。
6
「呪われし王女……彼のナメクジ女も、最早これまでか」
コテンと横たわった寝台で、口元のまじない札を鳴らしながら、アムリットは独り言ちる。
繊細な刺繍編みが施された天蓋越しに、鏡台の上の香時計を見遣れば、右端の穴から伸びていた薄緑色の煙が、丁度掻き消えたところだった。
今はバリュファスの刻だ。冥界神の名を冠する刻限は、全ての生命が眠りにつく深淵の闇が広がる時分……余程の大事でもなければ、来訪者などあり得ない。
怒りに任せて口が滑り、サージ王の不興を買ったのは三日前のこと。あれ以来、彼はこの部屋を訪れていない。それ自体は構わないし、当然だとも思うのだが。
「お腹空いたぁー……」
カサカサと、力なく口元の呪禁符が揺れた。それに呼応するように、空腹を訴える音が下腹部から起こる。
口に出してしまうと、余計に空腹感が増してしまった。心身ともに疲れているはずなのに、眠気を凌駕する飢餓感のせいで、目を閉じていても一向に眠れやしない。
サージが去って三日、この部屋を訪れないのは彼だけではなかった。召使いさえ一人として現れず、当然ながら食事も運ばれてこない。
そして、厄介なことに魔法陣が塗り込められた扉は、内側からはいくら押しても開かなかった。アムリットは完全にこの部屋に閉じ込められているのだ。
一日目は、うっかり忘れたのだろうくらいに考えていた。
二日目になって、少々フラフラしてきたものの、まあ水は自主供給できるから、と努めて気にしないようにしていた。
三日目にして、あの癖のあるリャントの肉さえ恋しくなった。
人間、水さえあれば一週間は生きられると聞くが、呪禁の魔法陣が張られた部屋では「水呪」の力も制限される。緑豊かなフリーダイルと違い、砂漠の国ヴェンダントでは、空気中に含まれる水分を集めて濾過するにも結構な精神力を必要とした。
『技術者でもない人間が口を出すな!』
自分がどれだけ無知蒙昧な言葉を口にしたのか、今になって思い知る。国が違えば、気候も違う。必要とされる技術力も、ここでは格段に違ってくるのだろう。浅はかな馬鹿者は、アムリットの方だった。
サージは激昂しながらも、傷付いた顔をしていた。頭ごなしに怒声を浴びているのはアムリットなのに、何故か弱い者虐めをしている気分になった。その時は不思議に思ったものだが、今は理由がよく分かる。
呪われた女を妻に迎えたがる人間なんて、いるはずがない。議論に次ぐ議論、熟考に熟考を重ねた結果、サージがその役目を負わされただけのこと……彼だって被害者だ。
虐げられることに慣れている自分だからこそ、サージの心の痛みに気付いてやらなければならなかった。やられてやり返しただけでは、遺恨しか生まれないことは、二十年前に痛いほど思い知らされている。物事の良し悪しに関係なく、年長者が先に折れてやることも必要だ。
また来るという言葉を信じて、王の再訪を待つしかない。一時の怒りでせっかくの給水機を死なせるほど愚かではないはずだ。
とにかく、彼が来たら外交だとか政策だとかの小難しいことは脇に置いて、真摯に謝ろう。フリーダイルに咎を及ぼすことなく、アムリット自身への制裁だけに留めてくれた(んだろう、多分)心の広さも絶賛しておこう。
ぐぅうぅぅ……
体力、精神力の限界がくる前に、次の機会があったらだけど。
* * *
王家の管理する聖泉ファーランドは、メヌーク王家の象徴である八本の石柱テベリクに囲まれていた。更にそれを囲って神殿が建てられ、吹き抜けの上空からは燦々と日の光が差し込んでいる。テベリクの尖端に貼られた金箔が太陽光を反射し、周囲は神々しい光に満ち溢れていた。
「少々痩せられましたか、陛下。さては恋煩いですな?」
この炎天下にありながら、背筋が凍りつくような冗談を吐いたホレストルを、サージは一瞥する気にもなれなかった。
いくら渇水問題に解決の目処が立ったとはいえ、浮かれすぎだ。聖泉ファーランドを前にして……と言っても干上がっているのだが、不敬であることには変わりない。
エリアスルートは、神代が終わった時から三つの世界に分かれている。天上界には創造神達とその眷属である聖獣が住まい、冥界には冥界神バリュファスを要とした破壊神達と、配下の聖獣が住んでいる。
そして地上には人々と、精霊達が共存していた。天上界や冥界に住むことを拒み、その代償として肉体を失って魂だけの存在となった精霊達。元聖獣である彼らは姿かたちを持たないため、自然の中に溶け込んでいる。風火水土の属性に特化した場所には、それぞれに属する精霊が宿っていると言われていた。
砂漠の国ヴェンダントにおいて、乾季にも涸れたことのなかった聖泉ファーランド。ここには水属性の精霊が宿っているとされ、その恵みに感謝して神殿が建立されたのだ。
だが、神秘的なまでに青く輝いていた泉は、今や乾いた砂地に変わっていた。来るはずの雨季も、いまだやってこない。
ファーランドの精霊は死んだのか、いずこかへ去ったのか……魔術師の類を切り捨ててきたヴェンダントには、聖獣や精霊の声を聞き届ける聖獣使いもおらず、それを確かめる術はなかった。
聖泉を復活させるには、まず精霊の所在を確認することが先決だ。
そう考えたサージは、聖獣使いを招聘することを提言した。祖国に呼び戻されるまで、魔法王国ガルシュの王立魔導研究所に在籍していた彼は、とある聖獣使いに伝手があったのだ。
エリアスルート一との呼び声も高いその人物とは、浅からぬ因縁がある。品行方正とは言い難いが、腕は確かで仕事には真面目な男なので、正式に依頼すれば受けてくれるはずだった。
だがしかし、魔導の力に差別的な長老議会は、その言葉に耳を貸さなかった。仕方なく第二案として海水濾過装置の開発を打診したが、開発資金の見積もりを出した段階で却下された。
一週間前の朝、アムリットにぶつけた言葉は、そっくりそのままサージ自身に突きつけられたものなのだ。何の関係もない彼女を、長老議会から受けた屈辱の捌け口にしてしまった。
忌まわしい存在とされ、およそ人には見えない姿かたちをした「水呪」の娘。だが自分を含めたヴェンダント人よりも、アムリットは遥かに「人間」らしかった。サージの暴言を「慣れている」の一言で一蹴し、祖国の民のためだけに心を砕く。忌まわしき存在は、呪わしき悪人は一体どちらだ。もっと貪欲に、いっそ薄汚いほどに利権を主張してもらいたかった。
彼女を悪に仕立て上げれば、己の所業を正当化できる……そんな浅ましい思いに気付かされたことが、サージには腹立たしかったのだ。
紺碧の空を映して煌めく泉の消失とともに、この国の誇りは地に堕ちた。民族の矜持は砂に塗れて、もうどこにも見つからない。
「では、陛下……こちらを」
神殿の奥から現れた神官長が、サージに水差しを手渡す。それには、ファーランドが涸れ切る前に汲んでおいた水が収められていた。
コルク栓を外したサージは、かつて泉であった場所に一頻り回しかける。だが、砂が僅かな湿り気を帯びるだけで、他には何の変化も起こらなかった。
次に腰に帯びていた短剣を抜き、左の掌に宛がう……そして、迷うことなく横一線に薙いだ。噴き出す血が砂地を染め、手の甲には青い発光が生じる。
『メヌークの血とともに誓う、汝らに仇なすものではないと……』
公用語のパシュミル語ではなく、いまや限られた人間しか知らない神代の言葉で精霊に呼びかけた。流れ落ちる血は、まるで軟体動物のようにグニャグニャと這い回り、地面に文様を描き始めた。渦を巻き、鉤を作り、八つの角を持つ複雑怪奇な魔法陣が形成される。
「効果は如何ほどですかな、陛下?」
「あの部屋の扉に塗り込められたものには劣るが、それでも彼女には十分だろう」
こんなもの、どうせ気休めだ……分かってはいたが、サージはホレストルにそれを伝えなかった。
サージが己の血を使ってファーランドに施したのは、呪禁の魔法陣だった。
「水呪」の娘の受け入れに最後まで反対していたのは、ファーランド神殿の神官長である。アムリットをここに招き、地脈を辿って泉を蘇らせるためには、彼を筆頭とする聖職者達を納得させなければならない。この魔法陣があれば、聖なる泉が「水呪」によって穢されることはないのだと。
ホレストルが反対を押し切って迎えたアムリットは、到着した直後にディル・マースの城門前で見事に地下水を湧かせた。それを目の当たりにした彼が狂喜乱舞したのは、神官長の鼻を明かせたからでもあったのだ。
「いつ頃いらっしゃるのですか、その……聖女様は」
水差しを受け取る神官長の笑顔は歪に引き攣っており、まだ完全には納得していないことを物語っている。それでも、もう反対することはなかった。
「明日にも連れてこよう、くれぐれも失礼のないように」
神官長の目に映り込んだ、己の空々しい微笑み。嫌悪感が込み上げたサージは、傷付いた左手を構わず握り締める。アムリットに対し、誰よりも不敬な振る舞いをしたのはサージ自身なのだ。
「サージ様っ……」
切羽詰まった声に、ドタドタと石畳を駆ける足音が続く。振り返ると、神官達を掻き分けて近衛隊長のエイダンが現れた。蒼褪めたその顔が、大事が起きたことを告げている。
「エイダンっ、聖域で無礼な!」
「構わん、何用だ」
叱責の声を上げたホレストルを制止し、サージはエイダンに尋ねる。
「水呪っ……いえ、聖女殿のことでっ……!」
彼の口から出た言葉に、サージは瞠目する。初見での印象が最悪だったため、エイダンはアムリットのことを舌に乗せるのも嫌がっていたのだ。
「私にはどういう状態か、判断がつかぬのです。どうかっ、すぐにご同行を……!」
全ての言葉を聞き終える前に、サージは駆け出していた。
「陛下っ……!」
浅く被っていた頭冠が外れ、ガトラが頭から滑り落ちる。既視感を覚えるホレストルの怒号も振り切り、サージは走り続けた。
7
分厚い扉を開ければ、そこには密林があった。
濃い靄がかかった部屋の中には、ガリガリと硬い物を咀嚼するような奇怪な音が響いていた。調度品は全てなくなっており、床に敷かれていた絨毯も取り払われている。
剥き出しの石畳を割って高く伸びた木々は、青々と葉をつけた枝を広げ、完全に天井を隠してしまっていた。頭で分かっていながらも、屋外かと錯覚してしまう。
サージがこの部屋を飛び出してから一週間、一体何が起こったのか……扉は外側からカノワと呼ばれる植物の汁で塗り固められていて、叩き壊さなければ部屋に入ることができなかった。アムリットの姿は、いまだ見当たらない。
これは彼女の仕業だろうか?
自分が中にいると見せかけるために扉を封印し、ヴェンダントを出奔したのだろうか?
そんな考えがサージの頭を過ったが、それも不自然だった。カノワの汁を入手する術も、部屋の中に木々を生やす必要性も、全くないはずだ。
他に考えられるのは、「水呪」の力の暴走しかない。制御不能となった強力な呪いが、自然界では到底あり得ない怪異を引き起こした……そう考える方が現実的だ。
その引き金となったのが、サージがアムリットにぶつけた暴言だったとしたら……あのような醜い言葉、何度投げつけられても慣れるはずがない。
そして呪いの暴走は、アムリット本人にも止められない。地下水脈を掘り当て、たった数日で木々を生やせるほどの「水呪」が、彼女の身に何の危害も与えないわけがなかった。
サージの身勝手な言葉が暴走の引き金となり、彼女を殺したのではなかろうか?
「アムリット姫っ……!」
身の毛がよだつような恐怖が襲い、サージはその名を呼んだ。
「はいっ!」
「ひぃっ……!」
「ぎゃあっ!」
間髪容れずに戻ってきた返事に、サージとエイダンは飛び上がる。たたらを踏む足で石畳の破片を踏みつけ、二人揃ってその場に尻餅をついてしまった。
「……大丈夫ですか?」
腰を抜かしたサージ達に声をかけてきたのは、部屋の中央に生える大樹の枝から、吊り下がるようにして現れた巨大ミノムシだった。
「……あ、あぁ、ああっ……アムリット、姫っ?」
「はい、だから何でしょうか?」
裏返ったサージの呼びかけに応える声は、ガサゴソという紙擦れの音を伴っていて、彼女のものでしかあり得なかった。木の枝にぶら下がる姿はミノムシそのものだったが、到底笑う気にはなれない。
「このっ、くそっ……何をしとるんだっ、貴様は!」
大口を開けて固まるサージの隣で、エイダンが怒声を張り上げる。
「自給自足に決まってるじゃない。誰もご飯持ってきてくんないし、扉は開かないし、呼んでも何しても無反応だし。いくら呪われてたって、人間なんだから食べないと死ぬのよ。私が変な死に方したら、この国一帯に呪いが沁み込むんだからね……そしたら、困るのはあんたらでしょーが」
さすがにムッとしたようで、アムリットは早口に言うと、床の上に飛び降りた。いつかと同じように、まじない札が空気を孕んで、ザワザワと大きな音を立てる。
「いてっ!」
その音に混じって、ゴンッという重い音とエイダンの悲鳴が上がった。彼の額にぶつかって跳ね返り、サージの足元に転がってきたのは、何とも硬そうな木の実だ。どうやら、枝から飛び降りたと同時に、アムリットが投げてきたらしい。
「それ、ウゲウゴガルンの木の実。硬いけど、食べられなくはなかった。名匠が作った家具とか家とかは、切られた後も生きてるって聞いたから、バッチャに教えてもらったおまじないを試してみたの。お水もあげたら、元の姿に戻って実をいっぱいつけてくれた……私だって水害しか起こせないワケじゃないんだからね」
乱雑で棘のある口調よりも、その内容にサージは驚いていた。呪禁の魔法陣の扉に閉じ込められながらも、部屋の中にあった家具に退化魔法をかけ、青々とした森林に変えたと言うのだ。
魔導の力を排除したヴェンダントにおいて、アムリットの「水呪」が持つ強大な力を正しく理解しているのは、恐らくサージだけだろう。
「私が悪あがきせずに死んで、ヴェンダントが呪われるより、かなり安上がりだと思うんだけど……どう思います、陛下?」
足元の果実に目を落としたまま、恐るべき事実に慄いていたサージは、弾かれたように顔を上げた。アムリットの声音は異様なほど落ち着いていたが、間違いなく怒気が感じられる。
「もうフリーダイルに帰してもらえませんか?」
彼女が続けた言葉は疑問形だったが、サージの耳には断固とした宣言に聞こえた。
「何とかなると思った私が浅はかでした。ヴェンダントの気候は『水呪』の私に合ってませんし、一番きついのは気力です。私は陛下のような魔術師じゃないので、この二十年、大きな水害を起こさずにいられたのは、ただの精神力なんです。こんな私でもちゃんと愛してくれる家族とバッチャだけは、絶対に哀しませたくない。だからフリーダイルにいれば、『水呪』を暴走させまいとする意志を保てます……けど、私を安易な給水機としか思っていないヴェンダントのことは、どんなに頑張っても祖国のようには愛せません。罪のない国民の皆さんには申し訳ないですけど、心から守りたいとは思えないんです。今後こんなことが続くようなら、いずれ私の心は折れます。この国は砂じゃなくて海の底に沈むことになりますよ」
理不尽な扱いに対する憤懣を、彼女はどこまでも静かな口調で吐き出した。もしもヴェンダントが「水呪」を手に入れるため、フリーダイルに対して挙兵すると言えば、彼女が最後に宣言した通り、海の底に沈められるだろう……たとえそれが、彼女の命と引き換えであっても。
一歩も引かない気迫が、サージの胸を一直線に貫く。ウゲウゴガルンの実をぶつけられたエイダンさえ、何も言い返さなかった。その瞳にあった懐疑と侮蔑の色は、薄暗く濁った何かに変わっている。
「約束したからには、泉は湧かせます。ヴェンダントの下には大きな地下氷河がありましたから、そう簡単に涸れることはないはずです。それが終わったら、お願いですからフリーダイルに帰してください」
サージ達にとって圧倒的に不利な状況。自分達に非があることも否定しようがない……それでも彼女が要求するのは、信じられないほどにささやかなものだった。
「……ああ、そうだった」
何かを思い出したというような呟きに、サージは猛獣に睨まれたように身を硬くする。
「一週間前は、分かりもしないのに好き勝手言って済みませんでした。あの後、魔法陣と暑さと戦いながら、空気の中からお水出してたんです。ゲラ……じゃなくて、すごくしんどかった。その土地や気候によっては難しいこともあるんですよね。海水を飲み水に変えればいいなんて、安易なことを言ってしまって、本当にごめんなさい」
戦々恐々と見つめるサージにかけられたのは、真摯な謝罪の言葉だった。
ザワザワと揺れる呪禁符の下から聞こえてくるのは、とても静かな声音で、媚びたり演じたりしている様子は感じられない。大体、今の彼女にそんなことをする必要などないのだ。
数百の呪禁符の下で、アムリットは今どんな表情を浮かべているのだろう。
「陛下……人が謝ってんですから、返事くらいしたらどうなんです」
またも言葉を見つけられずにいるサージに、アムリットはいい加減うんざりだと言うように話しかけてくる。
「……申し訳ありません」
サージの口から勝手に言葉が零れ落ちた。
「本当に、申し訳ありません……が」
「……が?」
無意識に付け加えてしまった接続詞を、アムリットが怪訝そうに復唱する。
「貴女をフリーダイルには帰したくない」
彼女を引き留める台詞を発したサージだが、その場にいる誰よりも彼自身が一番驚いていた。
第二章 ゲスとバッチャと小舅と
1
「貴女をフリーダイルには帰したくない」
年若く美しい大国の王にそんな言葉をかけられ、縋りつくような視線を送られて、心揺れない乙女はいないだろう……しかし。
「……ナニ寝言言ってやがるんだ、テメェは」
アムリットは、呪禁符の下に隠れた眉を盛大に顰めていた。
どんなに見てくれが美しかろうが、己を餓死寸前まで追い込んだ相手に、何故心惹かれてやる必要があるのか……大体、世間一般における婦女子と自分は違うのだし。
『誰が好き好んで「水呪」の娘なぞっ……!』
同じ口からそんな言葉を投げつけられたのは、僅か七日前のことだ。馬鹿にするにも程がある。魔術師の癖に、「水呪」の恐ろしさが何一つ分かっていない。
過去にも「水呪」を利用して一山当てよう、なんて馬鹿な考えを抱いて近付いてくる者達がいた。子供だった自分はそんな人間達に利用され、村一つを湖の底に沈めるという取り返しのつかない失態を犯したのだ。幸いなことに死者こそ出なかったが、そこに住んでいた数十もの人達が、大切な故郷と生活基盤を失った。
厚かましいことに「水呪」を利用しようと目論んでいた人々も被害者に紛れ、一緒になってアムリットを責めたのだ。
罪科を贖えと両親に迫った彼らに、アムリットは自身が断罪を受けることを告げた。呪禁符だらけの異様な姿となり、魔障壁を張り巡らせた呪禁の塔で幽閉生活を送る……そして今後一切その姿を見せないと誓った。
全ては強制ではなく自分の意思であり、浅はかだった自分への戒めだ。もうこれ以上、馬鹿な人々に利用されはしない。存在を蔑まれ、恐れられてはいても、自分のせいで誰かが泣くことはないはずだった。
アムリットが苦労して作り上げた、危うくも平穏な生活を叩き壊した、高慢ちきな大国ヴェンダント。挙句に飢死させようとしておいて、それが失敗すれば、またぞろ懐柔しようと言うのか……理不尽という言葉の意味を全く知らないらしい、厚顔無恥な若造を前に、アムリットの沸点は振り切れていた。
0
お気に入りに追加
192
あなたにおすすめの小説
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
【完結】お飾りの妻からの挑戦状
おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。
「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」
しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ……
◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています
◇全18話で完結予定
政略より愛を選んだ結婚。~後悔は十年後にやってきた。~
つくも茄子
恋愛
幼い頃からの婚約者であった侯爵令嬢との婚約を解消して、学生時代からの恋人と結婚した王太子殿下。
政略よりも愛を選んだ生活は思っていたのとは違っていた。「お幸せに」と微笑んだ元婚約者。結婚によって去っていた側近達。愛する妻の妃教育がままならない中での出産。世継ぎの王子の誕生を望んだものの産まれたのは王女だった。妻に瓜二つの娘は可愛い。無邪気な娘は欲望のままに動く。断罪の時、全てが明らかになった。王太子の思い描いていた未来は元から無かったものだった。後悔は続く。どこから間違っていたのか。
他サイトにも公開中。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

絶対に間違えないから
mahiro
恋愛
あれは事故だった。
けれど、その場には彼女と仲の悪かった私がおり、日頃の行いの悪さのせいで彼女を階段から突き落とした犯人は私だと誰もが思ったーーー私の初恋であった貴方さえも。
だから、貴方は彼女を失うことになった私を許さず、私を死へ追いやった………はずだった。
何故か私はあのときの記憶を持ったまま6歳の頃の私に戻ってきたのだ。
どうして戻ってこれたのか分からないが、このチャンスを逃すわけにはいかない。
私はもう彼らとは出会わず、日頃の行いの悪さを見直し、平穏な生活を目指す!そう決めたはずなのに...……。
側妃は捨てられましたので
なか
恋愛
「この国に側妃など要らないのではないか?」
現王、ランドルフが呟いた言葉。
周囲の人間は内心に怒りを抱きつつ、聞き耳を立てる。
ランドルフは、彼のために人生を捧げて王妃となったクリスティーナ妃を側妃に変え。
別の女性を正妃として迎え入れた。
裏切りに近い行為は彼女の心を確かに傷付け、癒えてもいない内に廃妃にすると宣言したのだ。
あまりの横暴、人道を無視した非道な行い。
だが、彼を止める事は誰にも出来ず。
廃妃となった事実を知らされたクリスティーナは、涙で瞳を潤ませながら「分かりました」とだけ答えた。
王妃として教育を受けて、側妃にされ
廃妃となった彼女。
その半生をランドルフのために捧げ、彼のために献身した事実さえも軽んじられる。
実の両親さえ……彼女を慰めてくれずに『捨てられた女性に価値はない』と非難した。
それらの行為に……彼女の心が吹っ切れた。
屋敷を飛び出し、一人で生きていく事を選択した。
ただコソコソと身を隠すつまりはない。
私を軽んじて。
捨てた彼らに自身の価値を示すため。
捨てられたのは、どちらか……。
後悔するのはどちらかを示すために。

番から逃げる事にしました
みん
恋愛
リュシエンヌには前世の記憶がある。
前世で人間だった彼女は、結婚を目前に控えたある日、熊族の獣人の番だと判明し、そのまま熊族の領地へ連れ去られてしまった。それからの彼女の人生は大変なもので、最期は番だった自分を恨むように生涯を閉じた。
彼女は200年後、今度は自分が豹の獣人として生まれ変わっていた。そして、そんな記憶を持ったリュシエンヌが番と出会ってしまい、そこから、色んな事に巻き込まれる事になる─と、言うお話です。
❋相変わらずのゆるふわ設定で、メンタルも豆腐並なので、軽い気持ちで読んで下さい。
❋独自設定有りです。
❋他視点の話もあります。
❋誤字脱字は気を付けていますが、あると思います。すみません。

過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。