ファーランドの聖女

小田マキ

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1巻

1-2

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 フリーダイルの王女は、一体どこに消えたのか?
 そのことをようやく思い出した時、天高く舞っていたショールと呪禁符じゅきんふが、まるで意思を持つかのように集結していく。同時に、地中から噴き出す水柱の中に影が現れる。

「我が君っ……!」

 我に返ったエイダンが腰から剣を抜き、サージの前に立つ。

「下がれ、エイダン」

 サージはそう命じて近衛このえ隊長の身体を押しのけた。
 水の中を天高く駆け昇っていく姿は、まるで昇り龍だ。水中から勢いよく飛び出した影に、風に舞い上がった呪禁符じゅきんふが巻きついていく。強い陽光を反射する飛沫しぶきや、砂塵さじんまぎれ、その姿をはっきりとは確認できないが……


「……はぁー……やっと少し涼しくなった」

 轟々ごうごうと噴き上げる水の音以外は、静まり返った場に、どこか飄々ひょうひょうとした声が響いた。
 サージ達が見守る中、それは全身にまとったまじない札をカサカサとはためかせ、空気の力を受けてゆっくりと降下する。その上からショールがフワフワと舞い落ちてきて、性別どころか人であるかさえも判断し辛い姿をおおい隠してしまった。


「……貴女がフリーダイル王女、アムリット姫?」
「そうだけど……あんた、誰?」

 どえらい美形だな。


 おずおずと問いかけてきた未来の夫に、そうとは知らぬアムリットは、そんな感想を抱いた。



     3


 嗚呼ああ、えらいところに来てしまった。
 やたら弾力のある座布ざふの上にポスンと座らされたアムリットは、目の前で繰り広げられる歓迎のうたげ辟易へきえきしていた。
 無礼な近衛このえ隊長を、ちょっと驚かせるだけのつもりだった。砂が目に入って「アイタタタッ、ひえー、お助けぇー!」くらいの、ほんの些細ささい意趣返いしゅがえしだったのに。
水呪すいじゅ」を受けている自分にとって、地下水脈を辿たどって水をかせることなど造作もない。彼らが欲しがっている水を見せつけてやれば、少しばかり目に砂が入ったところで、怒り狂うわけにもいかないだろう。その程度の軽い考えだった。
 だが砂漠の水がどれだけ貴重か、アムリットは理解していなかったのだ。
 直後に現れたホレストルとかいう長老は、水柱をの当たりにし、マタタビを投げられた猫の如く狂喜乱舞きょうきらんぶした。次いで、抜き身の剣を持つ近衛このえ隊長の顔面に「聖女様に向かって、この無礼者がっ!」と拳骨げんこつを叩き込んだのだ。老いてなお筋骨きんこつ隆々りゅうりゅうたくましい体躯をしたホレストルの一撃で、ど派手に吹っ飛んだ近衛このえ隊長……その姿は、今思い返しても寒気を覚える。
 アムリット歓迎のうたげは、長老の号令の下にもよおされた。警護任務に近衛このえ隊長は、広間の入り口に立ち、鬼のような形相でこちらをにらんでいる。遠目かつ褐色かっしょくの肌であっても、殴られた左頬がれて赤くなっているのが分かった。
 そこまでする気はなかった、と今更言っても怒りは治まるまい。
 中央の舞台では、異国情緒ただよう管楽器の音色に乗り、踊り子達が踊っている。けのショールをヒラヒラとなびかせ、驚くほど小さな布切れで局部をおおっていた。一糸いっし乱れぬ動きと高い跳躍は、まるで漆黒しっこくやいばが舞っているようだった。すきのない身のこなしは、確かにとても美しい。
 目の前にドンッと置かれた巨大な骨付き肉は、実に独特な香りの香辛料で味付けされていた。少々鼻白はなじろんだが、さすがに手をつけないのはまずかろうと渋々しぶしぶ食べた。胃腸が強くてよかったと思える生焼きで、豪快な味付け……後で何の肉かを知らされて吐きたくなった。この国の人間は、貴重な移動手段を食用にもするらしい。
 渇水かっすいのせいか飲み水は見当たらず、代わりに取っ手のついた大きなグラスには、真っ赤な液体が入っていた。随分度の強い酒だったが、呪いのお陰で相当の酒豪でもあるアムリットには「ちょっとくせがあるなぁ」というくらいの代物である。
 他にもやたら巨大な金の皿に、果実だとか魚だとか、野性味あふれる色鮮やかな料理がてんこ盛りになっている。うかうかくしゃみでもしようものなら、倒れてきそうだ。
 床の上に敷かれた絨毯じゅうたんや、座っている座布ざふにも、見事な刺繍ししゅうほどこされている。先程勧められた乳白色の喫煙具きつえんぐは、きっと象牙ぞうげを彫り出したものだろう。嗜好品しこうひん、食器、調度品のどれ一つとっても貴重なものだと分かる。
 壁のない大広間には、宵闇よいやみの広がるこの時分になっても、風はそよりとも吹かなかった。けれど、左右に立つ召使い達が、巨大な飾りせんで休むことなく風を送り続けてくれていた。
 故郷フリーダイルではあり得ないぜいの限りが、ただ一夜のうたげの中に凝縮されている。熱晶国ねっしょうこくヴェンダントは、エリアスルートでも五本の指に入る大国……渇水かっすい続きで国力の低下した状態にもかかわらず、このような絢爛豪華けんらんごうかうたげもよおせる財力は大したものだ。
 ……だがしかし。
 アムリットは、まじない札の下で眉間みけんしわを寄せる。

「綺麗なお姉ちゃんと酒池肉林しゅちにくりん、……こんなの脳みそ筋肉の男しか喜ばんでしょーが」

 飾りせんが送り込む風に掻き消される程度の音量で、アムリットは悪態をいた。呪禁符じゅきんふがカサカサと音を立てただけで、周囲に緊張感が走るのがありありと感じ取れる……そこまで警戒するならば、歓迎のうたげなどさっさと終わらせてくれればいいのに。

「退屈ですか、アムリット姫?」

 辟易へきえきする彼女に、ごく控えめに声がかけられた。穏やかで落ち着いた、どこか甘い声音こわねは、すぐ隣に座す人物のもの……目線だけ送るのは失礼かと思い、頭ごとそちらを見遣みやる。再びザワザワと紙がこすれ、召使い達の飾りせんを持つ手に微妙な緊張が走った。
 目元に貼り付けられた呪禁符じゅきんふは特別なもので、アムリットの視界に何ら支障をきたさない。透明な遮光布しゃこうふへだてて見ているようなものだ。
 どえらい美形だな。
 未来の夫だとは知らなかったアムリットが、サージ王に抱いた感想である。
 地上に戻った自分を見つめていた彼は、異国の人間の目から見ても整った顔立ちをしていた。琥珀こはく色の肌によく映える深い緑の瞳と、背中に流した同色の長い髪がとても美しい。
 彫りの深い顔立ちや、理知的で落ち着いた双眸そうぼうからは柔らかな印象を受ける。白いローブをまとった体躯は、近衛このえ隊長や長老ほど筋肉質でなく、武官には見えなかった。左手の甲が青い残光を放っていたから、きっと魔術師なのだろう。
 ヴェンダントの王のあかしは、頭から被ったしま模様のショールで、ガトラと呼ばれているらしい。それしか教えられずにやってきたのだから、ガトラのない彼がサージ王だなんて思うはずがない。大体、武力を重んじる国の王が魔術師だなんて、不意討ちもいいところだ。

「アムリット姫?」

 不可解そうにサージ王が呼びかけてくる。目鼻口も分からない異様な姿で黙り込んでいたので、無視されたと感じたのかもしれない。

「……しっ、したたか酔ったようなので、そろそろ休みたいのですがっ……!」

 度重なる無礼で不興を買ってはたまらない。何か返事をしなければ、と思って咄嗟とっさに返すと、目の前の綺麗な顔は瞬時に固まった。
 何故?
 水をかすくらいしか能がないナメクジ女の癖に、せっかくもよおしてやったうたげにケチをつけるのか……そんな風に思ったのだろうか?
 それとも、「成金趣味もここまで来たら立派な嫌がらせ」なんて考えて、思わずいてしまった先程の悪態が、耳に届いていたのだろうか?

「あの、私は別にっ……」

 アムリットが弁解を口にしようとしたその時……


「かしこまりましたっ、すぐにねやの準備を致しましょうぞーーーーっ!」

 凍りついた空気を端微塵ぱみじんに打ち砕いたのは、離れたところで祝杯を挙げていたはずの長老ホレストルであった。
 あまりにもあからさまな言葉と大音量に、ギョッとしてそちらを見遣みやる。すると、赤ら顔の彼がグラスを放り出して走り出していく背中と……彼がすり抜けていった入り口で直立不動の近衛このえ隊長が放つ、射殺さんばかりの視線が目に入る。恐る恐る視線を元に戻せば、サージ王はいまだ固まったままだった。
 塔に引きこもって二十三年、ほとんど外出もしない世間知らずなナメクジ女といえども、「ねや」という言葉が何を示すのか分からないはずがない。


 本当に、えらいところに来てしまったっ……!



     4


 これは、嫌がらせを通り越した拷問ごうもんだ。
 あれよあれよという間に、召使い達にねやへと押し込められた。目の前ではくだん
すいじゅ」……いな、水の聖女殿が異様な存在感を放っている。部屋の四隅にかけられたランプのささやかな光に浮かび上がる姿は、およそ人とは思えなかった。
 どう贔屓目ひいきめに見ても、巨大なミノムシだ。美醜びしゅう以前の問題で、性衝動など覚えようがない。身体中に貼り付けられた呪禁符じゅきんふは、彼女から人間性を完全に剥奪はくだつしていた。
 王の妃達が住まう離宮の、最も奥まった場所にアムリットの部屋は用意されていた。ここは、あからさまなほど長老の意図が反映された造りになっている。頑丈そうな扉の他には窓一つなく、天蓋てんがいのかけられた巨大な円形の寝台が中央にえられていた。
 鏡台やクローゼットなど、調度品はそこそこ値の張るものではあったものの、サージがこの場所に来て覚えたのは、尋常ではない閉塞感へいそくかんだった。どんなに下位の魔術師でも、一歩足を踏み入れれば感じずにはいられない呪禁じゅきんの力は、サージの金冠きんかんが子供だましに思えるほど強力なものだ。この国では異質な分厚ぶあつい扉には、呪いを封じる魔法陣が何重にも塗り込められている。
 魔導の力を欠片かけらも持ち合わせていない人間ならば、何の違和感も覚えないだろう。しかし、魔術師であるサージにとっては、違和感どころの騒ぎではない。呪いも魔導も紙一重かみひとえ……目に見えない巨大な手に全身を押さえつけられるような力は、空気を随分と硬く感じさせ、息をするのも辛い。
 自分でさえこうなのだから、アムリットはさぞや苦しんでいるはずだ……呪禁じゅきんの魔法陣は、呪いが強ければ強いほどその威力を発揮するのだから。
 差し向かいの彼女は、寝台の真ん中に沈み込むように座っている。先程から途切れることなく呪禁符じゅきんふをガサガサと震わせ、耳障みみざわりな音を立て続けていた。


『……しっ、したたか酔ったようなので、そろそろ休みたいのですがっ……!』

 ホレストルが解釈した通り、サージをしとねへと誘う言葉だったのか、はたまた長旅に疲れて休みたかっただけなのか……表情どころかその視線の行方さえ見当も付かないアムリットの意図は、今もってうかがい知れない。
 どちらにしても、ここでは彼女の本懐ほんかいは遂げられそうもなかった。何分なにぶん、呼吸をしているだけでいっぱいいっぱいなのだから。


「……陛下……灯り、消してもいいでしょうかっ……?」

 サージの耳に、アムリットの声が飛び込んでくる。わずかに息が上がっているようだ。
 やはりホレストルの考えが正しかったのか……一瞬前まで抱いていた彼女に対する同情の念は、潮が引くように消えていった。
 きっと片田舎かたいなかの祖国からは、王に取り入れと言い含められているのだろう。ヴェンダントにとって死活問題である生活水を、やすやすと与えられる立場は、の小国を慢心させるに足るものだ。あの水柱をの当たりにした後となっては、「ひざまずいて、服従を誓え」と言われても従わざるを得ない……サージには、この国の民を守る責任がある。

「……あ、さっきみたいに誤解しないでくださいね。呪禁符じゅきんふ外したいだけなんですっ……この部屋の中だと、辛くって。中身は別に見たくないでしょ?」

 屈辱くつじょく感にさいなまれていたところへ、そんな言葉が付け足される。飄々ひょうひょうとした響きを含んだ声は、言外げんがいに「被害者づらをするな」と言っているように聞こえた。そもそも此度こたびの縁組は、アムリットにとって拒否権のない召集令状のようなもの。何故呼びつけたお前の方が、無理いされているような顔をしているんだ、と。
 人間性など到底感じられない……そう思っていたミノムシから突きつけられた自国のやましさが、サージの言葉を奪う。

「陛下っ……そろそろ、限界なんですがっ……!」

 ガサガサガサッと、呪禁符じゅきんふ一際ひときわ大きな音を立てる。続く声には隠しようのない苦痛がにじんでいた。
 しかし、言い訳の言葉を考えていたサージは、すぐに返事ができなかった。

「……もうっ、勝手に消しますからね!」

 いい加減れたようにアムリットが叫ぶ。それと同時に、部屋の中は深淵しんえんの闇に包まれた。
 あまりにも一瞬のことで、何が起こったのか分からない。灯りが消える直前にサージが目にしたのは、がれ落ちるまじない札と、四方のランプに向かって勢いよく伸びていく水流だけだった。

「あぁああぁぁぁーー、ゲラしんどいよっ、身体バキバキィっ……済みません、陛下! もう寝ますっ!」

 寝台を何かがゴロゴロと転がる気配と、ドサリと床に落ちた音……呪禁符じゅきんふがれ落ちたことで、幾分聞き取りやすくなった声が好き勝手に言い終わると、真っ暗な部屋の中には静寂が広がった。
「ゲラ」ってなんだ?
 完全に置き去りにされたサージが抱いたのは、そんなどうでもいい疑問だった。
 先程の音は、寝台からアムリットが落下した音だろうか。いくら呪われているとはいえ、妙齢みょうれいの女性を床の上で眠らせるわけには……
 そう思い直し、手探りで彼女のもとへ行こうとした途端、アムリットが短い叫び声を上げた。

「あっ……!」

 突然の声と音量に、サージは寝台の上で飛び上がりそうになる。

「陛下! 眠ってる間は、私の身体に絶っっ対に触らないでくださいね……って、変な意味じゃなくって! 今日はいろいろあって疲れてて、水呪すいじゅの制御がかないんです。変に刺激を与えなければ危険はないですけど、むやみに触ると溺死できしするかもしれません。まだ死にたくなかったら、今日はこのまま大人しく眠ってください……じゃ、おやすみなさい!」

 再び言いたい放題に言ってしまうと、アムリットはものの数秒で寝息を立て始めた。


 こんな状況で、眠れるかっ……!


 サージ王の長い夜が始まった。



     5


 ガサガサガサガサガサッ……と、くずかごを野犬があさっているかのような不愉快極まりない音で、サージの意識は浮上する。
 一睡いっすいもできないかと思っていたが、強力すぎる呪禁じゅきんの魔法陣に疲弊ひへいさせられ、いつの間にか気を失っていたらしい。
 寝覚めは最悪だ。まるで二日酔いをしたように痛む頭を押さえながら、寝台の上に上半身を起こす。
 巨大ミノムシはどこだ?
 認識がそう定着してしまった第二妃の姿を探して、サージは周囲にぼんやりとした視線を送る。窓のない部屋の中は薄暗いが、四隅のランプには火が戻っており、完全に視界がきかないわけではなかった。

「……あ、おはようございます」

 その声にサージは目を向ける。壁際に置かれた鏡台の前に、アムリットは……多分、立っていた。

「……辛くはないのですか?」

 元通り呪禁符じゅきんふまとっている彼女に、サージは怪訝けげんそうに問いかける。
 昨夜、「ゲラ」とかいう奇声を発しながらもだえ苦しんでいた様は記憶に新しい。けれど、今目の前にいるアムリットは、声はこもっているもののしっかりしている。耳障みみざわりだと思っていた、呪禁符じゅきんふ同士がこすれる音もそこまでひどくはなかった。ランプの灯りに照らされるアムリットの姿は、普通とは言えないが、初対面の時と何ら変わらない様子だ。

「一晩しっかり寝ましたから。約束通り、寝ている間は身体に触れないでくださって、ありがとうございました」

 ザワザワと紙擦かみずれの音を立てながら、身体を前のめりに曲げる。お辞儀じぎをしたようだ。呪われているわけでもない自分がいまだ苦しんでいるのに、彼女は一夜明けただけで復活したというのか……魔法陣とまじない札の二重の力を受けながら、自立歩行できるなぞ到底信じられない。
 扉に塗り込められているのは、呪いの強さに比例して威力を発揮する魔法陣だ。その影響を最小限に抑えられるということは、アムリット自身に「水呪すいじゅ」を制御する力が備わっているのだろうか?
 だとしたら、地下水脈を掘り当て、地盤沈下を引き起こさない程度に地下水を噴出させたのも、偶然ではなく意図的だったというのか……そういえば、昨夜もランプの火を消すために何もないところから水を発生させていた。
 魔法陣の力が及ばぬほどに強大な「水呪すいじゅ」は、一都市を湖の底に沈めることも、れた泉を復活させることも容易たやすいのだ。目の前に平然と立つ彼女は、それを言外げんがいに物語っている。
 水による害も恩恵も完全にぎょし得るアムリットは、世界の七割を手中に収めているも同然だ。長閑のどかな山陰の小国にいたからこそ、その力を活用することに思い至らなかったのだろうが、アムリットは何より強力な兵器となる……そのことに、今後も気付かせてはいけない。
 彼女に女としての興味なぞ皆無かいむだ。けれど、皮肉なことにホレストルの案に乗る以外に、道は残されていないようだった。それがサージの義務なのだろう……彼女やフリーダイルの民が知恵をつける前に、他国に兵器としての使い道を知られる前に、実行に移さなくてはならない。アムリットも、何も知らぬまま第二妃としての身分を受け入れたわけではあるまい。
 痛む頭で様々な考えを巡らせ、サージはそう結論づけた。

「申し訳ありません。昨夜はホレストルが貴女の言葉を誤解してしまったせいで、長旅でお疲れのところ、眠りを邪魔してしまいました。けれど、貴女の顔も見ることができないというのは、今後お互いの理解を深める上で……」
「陛下、ちょっといいですか?」

 サージが慎重に選んで発していた言葉は、核心に至る直前でアムリットにさえぎられる。

「……何でしょうか?」

 言葉の途中で割り込んできた彼女に不快感を覚えながら、サージは問い返す。頭痛のせいで、声音こわねが硬くなってしまった。

「先に言っておきますが、私は『水呪すいじゅ』を自分の代で終わらせるつもりでいます。だから、子供を産むつもりもないし、その子に『水呪すいじゅ』を受け継がせる気なんてさらさらありません……まあ、陛下は一目見て聡明で優しそうな方だと感じましたから、我が子にそんな呪わしいごうを背負わせるような、馬鹿な真似はしないと信じていますけど」

 言葉の一つ一つが鋭利なとげとなって、心臓に突き刺さるようだ。どんな顔をしてそんな慇懃無礼いんぎんぶれい台詞せりふを吐いているのか……頭に血が上り、ガンガンと殴られたような痛みが走る。それでも、サージは返す言葉が見当たらなかった。

「ところで、ここは窓がなくて朝か夜かも分かり辛いですが、もうエイダのこくですよ。王としての執務とか、あるんじゃないですか?」

 アムリットは紙札だらけの身体を傾けて、鏡台の上に置かれた香時計こうどけいを示す。香炉こうろ穿うがたれた穴の、左から二番目の部分から、ほのかに緑色の煙が立ち昇っている……定例会議の刻限は、随分前に過ぎていた。
 その事実に背筋が凍りつくが、ホレストルが人を寄越さなかったことを考えれば、特に問題はないのだろう。第一、二人の同衾どうきんは彼の本懐ほんかいでもある。サージが王としての責務を果たしていると思い、ホレストルは満足しているはずだ。
 吐き気が込み上げる。こんな息苦しいだけの部屋など、即刻出ていきたいのが本音だ。けれど、外でホレストルと顔を合わせて、根掘り葉掘り尋ねられるのも気が重かった。

「……アムリット姫、また来ます」

 仕方なくそう口にし、サージは寝台からのろのろと起き出した。

「来なくていいです、陛下は魔術師様ですから辛いでしょう? こんなところに来る暇があるなら、第一妃様や王太子殿下のところに行ってあげてください」

 二度と来るなと言われたように思えて、アムリットに向けた視線に不愉快さがにじむ。
 こんなところ、二度と来たくないに決まっている。それでも、来ざるを得ない理由が自分にはあるのだ。アムリットの口から第一妃という言葉が出たことで、ダラシアの顔が呪禁符じゅきんふまみれのそれに重なる……依然として続く頭痛のせいで、更に怒りはつのる。

「私達は今後のことを、もっと深く話し合わねばならないのですよ」

 怒鳴り散らしたい衝動をどうにか抑えても、声音こわねが硬化するのだけはどうしようもなかった。

「確かに、話し合いは必要でしょうね。『水呪すいじゅ』の私が言うのもなんですが、ヴェンダントは海に面しているんですから、呪いなんかに頼らなくてもいいのでは? 海水を飲み水に変える方法を考えた方が、よっぽど安全だと……」
「貴女に何が分かる!」

 サージは今度こそ怒声を上げた。怒りをぶつけられたアムリットは一瞬、大きく身体を震わせ、まじない札がガサガサと鳴る。それさえも、彼の神経を苛立いらだたせた。

「技術者でもない人間が口を出すな! どれだけの資金がかかるか分かって言っているのか? 万一成功しなければ全てが無駄になるっ、ヴェンダントには時間がないんだ! そうでなければ、誰が好きこのんで『水呪すいじゅ』の娘なぞっ……」

 最も呪わしい言葉を発する寸前、サージの中に理性が戻った。咄嗟とっさに手で口元をおおったが、一度出ていった言葉は戻らない。
 目の前に立つアムリットは微動びどうだにせず、もう札のこすれる音さえしなかった。

「……こんなこと、言うつもりではっ……」

 今更何を言っても遅い。かといって、どう謝罪するべきかも分からなかった。
 いくら巨大ミノムシにしか見えなくても、侮辱ぶじょくの言葉を投げつけていい理由にはならない。

「お気になさらず、陛下。慣れていますから……そんなことよりも、出すぎたことを言ってしまって、申し訳ありませんでした」

 返された言葉は自分への謝罪だった。
 どちらが人非人にんぴにんかを問うまでもなく、心が痛んだ。

「本当に申し訳ありません。泉でも温泉でも、何でもかせますから……お願いですから、フリーダイルにはっ……!」

 更に続けられたアムリットの声音こわねには、徐々に必死さがにじんでくる。

「何もしない! 貴女には、私に謝罪する必要なんてないんですっ……!」

 これ以上、いわれのない謝罪など聞きたくなかった。矮小わいしょうな自分への苛立いらだちが、サージの語尾を荒くする。こんなことが言いたかったわけではないのに……悪いのは明らかに自分なのに、アムリットに対するいきどおりが治まらない。このままでは、更なる失言を重ねてしまう。

「謝罪はまた日を改めてっ、大変失礼致しました!」

 分厚ぶあつい扉の前で何とかそれだけ伝えると、サージは部屋から出ていった。


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