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1巻
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しおりを挟むプロローグ
「輿入れ先が決まりましたよ、アムリット姉上」
蜂蜜色の髪に、晴天を思わせる紺碧の瞳を持った美しい少年が、ジメジメした薄暗い部屋の一点を見つめながらそう言った。
そこは風変わりで陰気な場所だった。調度品は何もない、殺風景な部屋……湿度が相当に高いようで、室内だというのに、辺りには濃い霧が立ち込めている。その場に立っているだけでも着ている服が、空気中の水分を吸ってジットリと重たくなった。少年の長い睫毛に溜まった水が、瞬きをする度に弾かれ、霧の中でキラキラと輝いていた。
「フリッカー……冗談でしょ?」
彼の視線の先、壁際の床の上に転がった灰色の塊が返事をする。そのまま立ち上がったことで、生き物だったということが知れた……それが、フリッカー少年の言う「アムリット姉上」らしい。
頭のてっぺんから爪先まで、長方形の紙切れが幾重にも貼り付けられていて、彼女が身じろぐ度にザワザワと揺れている。手足の所在すら不明な姿は、まるで越冬のために枯れ葉を身に纏う虫のようだ。
紙は特殊なものらしく、この湿気の中でも濡れたり、剥がれたりする様子は全く見られなかった。目を凝らすと一枚一枚の表面には、一続きの黒い線で文字らしきものが描かれているのが分かる。
「こんなナメクジ女、一体どこの誰が嫁にするって言うのよ」
フリッカーの目線くらいの位置に貼り付けられた紙が、ザワリザワリと揺れ動く。そこに口があるようだ。紙の下から聞こえる籠った声音は、異様な外見に似つかわしい、無気力でやさぐれたものだった。
そんな彼女に対して怖じもせずに、フリッカーは薔薇の蕾のような唇で、驚くほどの暴言を吐く。
「なに言ってるんですか、ナメクジ女だからですよ! 姉上のジットジトした鬱陶しい力が、やっと人の役に立つ時が来たんです!」
「……なっ……、どーゆーこと?」
愛くるしい微笑みとは裏腹の毒舌を、正面切って投げつけられたアムリットは、さすがに面食らった様子で大きく後ろに傾いだ。全身に貼り付いた紙が、暴風雨に晒された木の葉のようにザワザワと騒がしい音を立てる。
「熱晶国ヴェンダントで、聖なる泉ファーランドが干上がってしまったんです。その他のオアシスも続々と砂に埋もれていって……今、あそこは生活水にも事欠いているんですよ。その現状に心を痛めたヴェンダントのサージ国王が、一体誰を思い出したと思いますか?」
まるで物語を話すような口調で言った後、フリッカーはキラキラ輝く双眸を姉に向ける。期待と興奮が入り混じり、活き活きとした瞳は、彼を更に愛らしく見せていた。
「……いや、知りたくもないんだけど」
アムリットの返事はにべもない。二人の間には、かなりの温度差があった。
「フリーダイルの呪われし王女、彼のナメクジ女っ……姉上です!」
「だから、別に知りたくないって……つーか、ナメクジナメクジ連呼しないで。自分で言うのはいいけど、人に言われると結構傷付く……」
「ナメクジ女を国に招けば、泉も蘇るはずだそうですよ! 水の豊富なフリーダイルでは行く先々で湿気と不快感をもたらすだけの姉上も、ヴェンダントへ行けば聖女ですよ。ナメクジ女が聖女になれるんですっ……ヴェンダントは大国ですし、縁続きになれれば、小国フリーダイル始まって以来の快挙ですよ!」
「……あんた、絶対わざとでしょ」
身振り手振りを交えて力説する彼に対し、アムリットは力なく言った。口元の紙が小さく揺れ、溜め息を吐いたらしいことが知れた。
「ヴェンダントに行くのはいいけど、別に結婚する必要ないんじゃない? サクッと泉湧かして、帰ってくればいいんだから」
「駄目です! また涸れたらどうするんですっ……砂漠の水がどれだけ貴重か、姉上は全然分かってない!」
「……そう言うあんたは、姉の気持ちを全然分かってない」
ビシッと人差し指を突き立てて言い切ったフリッカーに、アムリットの口元の紙が再びサワサワと揺れた。
「身一つで来てくれて構わないとのことでしたから、明日には出発してもらいますからね。きっと渇水で焦ってるんでしょう。父上も母上も大喜びですよ、泣き笑いですよ」
「あっそ、よかったわね。けど、国のためとはいえ、ヴェンダント国王もよくあたしなんかを王妃に……」
姉の嫌味もどこ吹く風で、悪意なくとどめを刺す弟に、アムリットは逆らう気力がなくなっていた。ただ、少しばかり気になったことを舌に乗せると……
「違いますよ、姉上。王妃様は既にいらっしゃいますし、王太子様も昨年お生まれになっています」
「はっ……?」
平然と返された言葉に、アムリットの思考が止まる。
「あそこの国は、エリアスルートでも変わった風習があって、王族は十人まで妻を持てるんだそうです。さすがは砂漠の国、体力ありますよね」
そう続けたフリッカーに対して、アムリットは固まったまま何の返事もできなかった。
「そんなどうでもいいことより、ちゃんと地下水湧かしてサージ王を喜ばせてくださいね、聖女様! フリーダイルの命運が懸かってるんですから! じゃっ、僕はこれで……あー、暑苦しかった」
湿った上着を脱ぎながら、言いたいことだけ言うと、豆台風のような弟は去っていった。
「……それって、いよいよ結婚する意味あんの?」
一人取り残されたナメクジ女は、複雑な思いで呟いた。
第一章 帰りたい女と引き留める男
1
熱晶国ヴェンダントの王サージ・ケイラー・メヌーク三世は、大理石に敷かれた羅紗の絨毯の上に、片膝を立てて座していた。
王族の証で、ガトラと呼ばれる白と黒の縞模様のショールから覗く美しい面差しも、純白の長衣に包まれた中性的な肢体も、氷を彫り出したように静謐だ。しかし、そんな彼も内心ではうだるような暑さに辟易していた。
砂漠の国ヴェンダントは常夏だが、ここ最近の暑さは異常だ。通常ならば数ヶ月前に来ているはずの雨季が、今年はいまだ訪れていない。そのせいで井戸は涸れ、潤沢だった泉も干上がっている。このエリアスルートという世界で五本の指に入る大国は、今や生活水にも事欠いていた。
それにしても、長老議会が下した決断は驚くべきものだった。
サージには王妃も王太子もいるにもかかわらず、取るに足らない片田舎の小国の、今年で二十八になる嫁き遅れ女……フリーダイルの王女アムリットを第二妃に迎える、というのだ。
その王女には、忌まわしい噂があった。
彼女は呪いを受けている。それは、魔法陣を張った塔に閉じ籠り、呪禁符で全身を覆っておかなければ、一都市が水没してしまうほどの強力な「水呪」だ。実際、フリーダイルでは二十年前に小さな村が水没しており、王女の仕業だと噂されていた。
初めのうちは、「安直すぎる。そんな忌まわしい娘を誇り高きヴェンダントに招き入れるなど以ての外」と反対意見の方が声高だった。それでも一ヶ月、二ヶ月と雨一滴降らない日が続き、王族の管理する聖泉ファーランドまでもが干上がれば、反意の声は聞こえなくなった。
幾多の対策を打ち出し、ことごとく失敗した今、国王といえども、その決定に異を唱える権利はない。現在、長老議会は国王と同等以上の権限を有していた。
見方を変えれば、この二十八年間、ろくな呪医や魔術師のいない小国が村一つ水没するだけで済んでいるのだ。そう御し難い呪いではないはず。水呪も巧く使えば、ヴェンダントに恵みの雨を運んでくれよう……そんな希望的観測を抱くしかない。
サージが溜め息を噛み殺していると、傍らから不満げな声が上がる。
「……遅うございますね、我が君」
目を遣った先にいるのは、豊かな暗緑色の髪と双眸を持つ美女……第一妃のダラシアだ。チャルタと呼ばれる細かな刺繍の施されたショールで全身をすっぽりと覆っている。だが、半透明な黒の生地はヴェンダントの民特有の琥珀色の肌を透かし、雌豹の如き肉感的な肢体をしっかりと浮かび上がらせていた。
座布の上に身体を投げ出す姿は、王の隣に侍るには些か無作法だが、彼女の煽情的な美しさを損ないはしなかった。
「王女に拒否権はない、もうじきやってくるでしょう……義姉上」
「サージっ……いつまで、わたくしをそのように呼ぶつもりです!」
複雑な想いの籠った呼びかけに、ダラシアは眉を逆立てるが、サージはただ曖昧に笑う。
「いつになっても、こればかりは仕方ない。貴女はつい二年前まで兄の婚約者だったのだから」
王と王妃の間に剣呑な気配が漂い始めた時、部屋の中に第三者の声が響く。
「サージ様っ、見えましたぞ!」
御簾を掻き分けて現れたのは、緋色の長衣を纏った総髪の老人……此度の婚姻を取り決めた長老議会の長、ホレストルである。
「さて……お待ちかねの聖女の到着です、ともに出迎えましょうか」
即座に立ち上がり、手を差し出したサージに対し、ダラシアは挑むような視線を送る。その手を取ろうとも、立ち上がろうともしない。
「貴女も納得したはずだ」
頑なな彼女に、サージの声には苛立ちが滲んだ。
「サージ様っ、今は言い争っている場合ではありますまい。貴方様だけでよろしい、王妃様はいずれ日を改めて」
責める言葉を遮られて、サージは皮肉ったような笑みを口元に刻む。誰も彼も庇い立てるのは王妃の方だ。ヴェンダントの頂点に立つ王は、この自分なのに。
「さあっ、お急ぎください、王よ!」
「分かっている」
背に突き刺さるダラシアの視線を感じながら、サージは王の間を後にした。
* * *
ヴェンダントは国土の大半が砂地である。そのため移動手段は馬車ではなく、リャントという馬によく似た首の長い動物だ。前脚と後ろ脚を揃えて蹴り出し進むその動物の足は、驚くほど速い。だが、乗り心地は最悪だった。特産物である特殊な革の鞍が衝撃を吸収してくれるが、砂地を飛ぶように進むリャントの振動は、慣れない異国の者にとって拷問のようだった。
「……あつっ」
ようやく目的地に降り立ったアムリットは、小さく呟いた。
砂の大地はサラサラと柔らかく崩れ、足首まで纏わりついてくる。まるで火の上を歩いているようだ。王家お抱えの呪医が認めた呪禁のまじない札を、常以上に念入りに貼り付けられている。その上から日除けのショールを被った自分は、いつ発火してもおかしくない。実際、呪禁符に覆われて見えない指先からは、白い靄が立ち昇っている。
無遠慮に突き刺してくる衛兵達の視線が、更に彼女の不快感を煽った。白日の下に晒された異様な姿は、異国の人々にはさぞ気味悪く感じられることだろう。そんなことは承知の上でここまでやってきたけれど、傷付かないかといえばまた別の話だ。
熱気に揺らぐ視線の向こうには、ヴェンダント人の肌と同じ琥珀色に輝く荘厳な城がそびえ立っている。ヴェンダントの王城ディル・マース。円やかな美しい屋根を持つその建物は、今まで一度も目にしたことのないものだ。だが、エリアスルート内でも独自の文化を誇るヴェンダントでは、一般的な建築様式なのだろう。
「……溶ける」
気を紛らわせようと城を観察していたが、無意識に弱音が漏れる。我が身に纏わりついている「水呪」さえ蒸発しそうな暑さに、アムリットは完全に参っていた。
塔の一室に籠りきりだった彼女にとって、このような長旅も、火で直接炙られるような暑さも初めての経験なのだ。リャントの揺れにも酔ってしまい、殊更に体力を奪われた。眩暈を覚えて左右に傾ぎ、呪禁符をカサカサ鳴らす。
「妙な動きはせず、ここで待つように」
傍らに立つヴェンダント人の男が、叱責するような口調で言った。傍目には、怪しげな動作で呪いを振り撒いているように見えたのかもしれない。
彼は国境からここまで案内を務めてくれた、城の近衛隊長だ。リャントの上で自己紹介し合ったが、よく覚えていない。舌を噛まないようにするのが精一杯で、まともに聞き取る余裕がなかったのだ。
皆が触れるのも嫌がる自分を(仕方なくだろうが)相乗りでここまで運んでくれたことには感謝する。けれど、そのせいで、アムリットの体力は余計に削られてしまった。慣れない動物での移動もそうだが、身体を密着せざるを得なかったため、「水呪」の力を抑えることに必死だったのだ。
その気になれば、彼女は人一人くらい簡単に溺死させられる……いまだ実行に移したことはないけれど。
王家のお抱え呪医の見立てによると、アムリットにはあらゆる水の害に対して耐性があるらしい。蛇が己の毒では死なないのと同じ理屈だ。呪禁符の補助もあり、今では自力で「水呪」を最小限に留める術も身に付けていた。
物心つく前は国中に大小様々な水害を発生させていたが、一つの村を湖に変えるようなことはもうない。塔の中が湿気で蒸し風呂のようになったり、カビだらけになったりするくらいだ。
呪いは時の経過で自然と薄れ、今ではただ食っちゃ寝しているだけだと、両親や弟にさえ思われている。だがアムリットは、見えないところでちゃんと努力をしていた。わざわざ主張するのは馬鹿馬鹿しいし、主張したところで扱いが変わるわけでもないから黙っているだけだ。面白くない思いで、目の前の野性味溢れる強面を見つめる。
「……こっちの努力も知らないで」
「何か?」
小さな呟きとまじない札の下の視線に気付かれてしまったようだ。切れ長の目が、ギロリと自分に向けられる。
アムリットとそう変わらない年頃だろうに、近衛隊長の地位に就くだけあって、その眼光は至極鋭い。筋肉質な体つきも褐色の肌と相俟って、まるで黒豹のようだ。罪人でも見るかのような視線は不愉快だが、正直にそう訴えるほどアムリットも馬鹿ではなかった。
そんなことをすれば祖国がどんな責めを負わされ、両親と弟に何を言われるか分からない。
ヴェンダントの民は、海軍で有名な海港国リゾナと祖先が同じらしい。かつてエリアスルートの海を支配していた海賊団は、何かしらの諍いによって二部族に分かれた。その後、同じ時期に海を捨て、それぞれリゾナとヴェンダントを建国したという逸話がある。海賊を祖先に持つ彼らは気性が荒く、排他的だと聞いていたが、その噂は本当だったようだ。
「もうじき王が出迎えに来られる……くれぐれも不敬な真似はしないように」
仮にも、その王の第二夫人になる人間に向かって、お前は何様なんだ。
いくら虐げられることに慣れたアムリットでも、さすがに不快感を覚えた。
嫌悪感や鬼胎の念が籠った視線を向けられることは日常茶飯事だ。自国ではナメクジ女とか、ジトジト王女とか呼ばれているし、人間らしい扱いなぞとっくに諦めている。
ただ、ここまで敵意を剥き出しにされるのは初めての経験だった。
「水呪」の娘と関わりたくない気持ちは、百歩譲って理解しよう。しかしながら、こちらは拒否権なしで無理矢理呼びつけられているのだ。今回ばかりは自分でも、全く非がないと断言できる。込み上げる怒りに呼応するかのように、呪禁符がザワザワと音を立て始めた。
ちょっとくらいなら、ヤキ入れてやってもいいんじゃない?
2
「……ひれ伏せ、無礼者」
低い声で呟いたアムリットは、砂地の上にペタンと座り込んだ。
「お前っ、一体何をするつもりだっ……!」
「ははっ……お前って、いくらナンでも失礼すぎ」
腰に帯びた剣に手をかけ、警戒心を露にする近衛隊長に、アムリットは呪禁符の下で失笑する。
次の瞬間、彼女の身体に異変が起こった。ハラハラと木の葉が散るように、全身を覆っていたまじない札が一斉に剥がれ落ち、その下から白い靄が立ち昇る。
「ひっ……!」
近衛隊長の口から漏れた短い悲鳴に、アムリットの胸が空く。この国にやってきてからずっと心を煩わせていた不快感は、呪いを封じる最後の一枚とともに剥がれ落ちた。
「ヴェンダントの皆様へ、フリーダイルから心ばかりの贈り物です」
立ち昇る大量の水蒸気の中で、取り澄ました声を吐き出す。直後、彼女を形作っていた黒いショールが、散乱した呪禁符の上にクシャリと落ちた。
「……っ、どこに行ったっ……?」
近衛隊長や衛兵達の目の前で、まるで塩をかけられたナメクジのようにアムリットは忽然と姿を消した。
* * *
廊下を進めば、両端に居並ぶ衛兵達が膝を折る。一糸乱れぬその様には心からの忠誠心が窺えた。
けれど、サージが覚えるのは満足感ではなかった。彼らの敬意の対象は、前を行く長老ホレストルなのだ。彼がいなければ、最敬礼なぞされない。
血塗られた海賊稼業から脱し、陸の民となってからも、ヴェンダントは弱肉強食の理念を拭えずにいる。若かりし頃は勇猛果敢な戦士であり、長老議会の議長を務めるホレストルと、義務だけ押しつけられて何の権威もないサージがその証だ。
一年前、流行病でことごとく身罷った父や兄弟達。彼らのように武芸に秀でていれば、形ばかりの敬礼を向けられることもなかったのだろうか……不意に脳裏を掠めた疑念を、サージは即座に打ち消す。
魔導の力を宿して生まれた時点で、自分は見限られていた。ヴェンダントの人々には魔術師への偏見がある。希少な神の恩恵も、ここでは枷にしかならなかった。
先王の第四妃であった母が、その寵愛を一身に受けていなければ、サージは生まれ落ちた直後に息の根を止められていただろう。魔法王国ガルシュの魔導研究所に預けられたのは、厄介払いに相違ないが、温情のある計らいと言えなくもない……けれど、こんな飼い殺しのような運命を歩まされるくらいなら、いっそ殺されていた方がマシだった。
ガトラを留める金の頭冠が、自らの考えを咎めるようにキシリと頭に食い込む。戴冠式でホレストルの手により嵌められたそれは、ただの装身具ではなかった。サージが生まれ持つ魔導の力を抑制する魔導具だ。
ただし、サージの魔導等級は二級止まり。脅威になるほどの力など持ち合わせていない。そのためこの魔導具も、一度嵌めれば外れないような強制力のあるものではない。着脱は容易だが、公の場での着用を固く義務付けられていた。これは魔術師であるサージが王位に就くことに反対した者達への牽制と、長老議会への服従の印なのだ。
不甲斐ない自分を内心嘲笑っていたサージは、不意に違和感を覚えて足を止める。
からりと乾いた空気に、異質な何かが混ざり込んでいた。
体表を舐めるようなねっとりとした冷気に、咄嗟に視線を上げる。だが、足早に前を進むホレストルと、頭を垂れたままの衛兵達がいるだけだった。誰一人として、異変を察知している様子は見られない。
足音が途絶えたことに気付いたのか、ホレストルが振り返る。
「サージ様? 今更、往生際が悪いですぞっ……」
「違う……これは、何だ?」
ホレストルの苦言を、サージは手を上げて制する。そうこうしているうちにも、目に見えない冷気の波動が駆け抜けていく……今この場において、己しか感知できない予兆。それが何であるかを考える間もなく身体が動いていた。
「サージ様っ……?」
驚愕の声を上げる長老を押しのけ、サージは駆け出す。
ガトラが風に煽られ、それを留める金の頭冠が外れた。傀儡の王の証は床を転がり、甲高い音を立てて、ホレストルが更に怒声を上げた。それでも、サージは足を止めなかった。
城門を越えた先に見えてきたのは、フリーダイル王女を迎えるはずの場所……いまだかつて体感したこともないほど強い魔導の力の源は、やはりそこだった。門番の衛兵達が、持ち場を離れて小さな人だかりを作っている。
「何をしているっ……!」
「我が君っ?」
振り返ったのは近衛隊長のエイダンだ。彼の常にない取り乱しように、サージは胸騒ぎを覚えた。エイダンはフリーダイル王女の護衛役を務めていたはずなのに、周囲には衛兵達の姿しか見えない。
「エイダン、王女はどうした?」
「お下がりください! 危険ですっ……」
エイダンの背後に、大量のまじない札と女物の黒いショールが、打ち捨てられたように散乱していた。魔導の波動はそこから広がり、今もなお膨張している。熱砂の下から、何かが猛烈な勢いで迫っていた。
「下がるのはお前達の方だ。物理的な力では対処できっ……」
全ての言葉が終わらぬうちに、足元が揺れる。足をとられて座り込んだサージ達の前で、突如旋風が起こった。それは砂塵とともに呪禁符とショールを宙に舞い上げた。
螺旋を描いて上昇するそれに、皆が目を奪われる中、サージだけが気付く。空気に含まれた強い冷気と、久しく嗅いでいない匂いに……
「……来る」
サージが漏らした声に、エイダンが振り返った。言葉の意味を問おうとしたのだろうが、更に襲ってきた激しい縦揺れと、巻き上がる大量の砂に阻まれる。
地鳴りのような重低音とともに、それは地中より姿を現した。
「まさかっ……!」
エイダンの声は、驚きと砂に塗れている。
恐るべき勢いで地を裂き、噴き上がったのは……天を貫かんとまっすぐに伸びた水柱だった。
サージは咄嗟に左手を前に突き出した。旋回する風に巻き上げられた大量の砂は、彼にぶつかる前に弾かれる。青く発光する掌を基点として、半円状の結界が構築されていた。目に見えない空気の層は次第に広がり、エイダンや衛兵達まで包み込んで、荒れ狂う砂嵐から庇った。
程なくして旋風は収まったが、凄まじい勢いで噴射する水は残っている。
「……奇跡だ」
信じ難い思いで呟きながら、サージはその手を下ろした。空気の層は掻き消え、微かな砂塵を含んでなお涼やかな風が、汗で額に貼り付いた髪を払っていく。頭上から降り注ぐ細かな水は、まるで氷のように冷えていた。
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