ファーランドの聖女

小田マキ

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番外編

妻の思惑

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 十日前にも長逗留しに来たのに、今日もまた朝早くから押しかけていた輩が鬱陶しい。
「ヴィアンカ、来月城で開くお茶会に来てください」
 恭しく誘いの言葉を投げ掛けてくる彼に、ヴィアンカはひっそりと眉根を寄せた。
 父王譲りの恵まれた顔立ちに蕩けるような微笑みを浮かべ、熱っぽい視線を背中に突き刺してくるのは、フリーダイル国王子フリッカー。成長期著しい彼は目線がまた少し高くなっていたが、自分にとって、いつまでも小生意気な弟でしかない。
「その日は山狩りの日ですから、無理です。殿下」
 いささか慇懃無礼な口調で断りを告げながら、ヴィアンカは肉切り包丁で黙々と猪の腹を捌いていた。
 ここは温泉御殿裏にある沢で、彼女は今朝方仕留めてきた獲物の血抜きをしていたのだ。利用客は立ち入り禁止でも厨房への搬入口が近いため、従業員達の出入りは少なくない。第三者が二人の会話を耳にすることは、難しいことではない。
 ヴェンダントから生還したものの、諸々の事情からヴィアンカとフリッカーの間で書類上の縁が切れた。だからと言って、血の繋がりが失われた訳ではないのに、彼は公務の間を縫って頻繁に自分に会いにきていた。どうでもいい口実を振り翳して……表立って姉弟でいられなくなったことが寂しいのだろうが、一年も続くといい加減げんなりする。
 清流に混じる赤黒い血を見つめながら、ヴィアンカは何度目とも知れない溜め息を噛み殺した。
「それは残念だ、臣下達の前で正式に貴女を紹介したいのに」
 溜め息交じりに含みのある言葉を放ったフリッカーの顔は愁いに満ちていて、無垢な乙女であれば一目で恋に落ちそうだ。けれど、酸いも甘いも噛み分けた既婚女性であり、血の繋がりもある実姉のヴィアンカには一切通用しない。
 思慕の念を明後日の方向に拗らせたフリッカーが、ところ構わず求婚のような台詞を振りまくことが厄介だった。そんな迷惑極まりない弟に対し、いまだ家族としての情を残す自分は、実に愛情深い人間だと言えるだろう。
「……いい加減、悪ふざけは止めてもらえません? 変な噂が立って、夫に誤解されると困りますから」
 彼女が牽制の意を込めた言葉を再度投げると、フリッカーは薄紅色の形の良い唇を歪めた。
 だが、いくら傷付いた顔を重ねようとも無駄だ。生まれた時からの付き合いであるヴィアンカは、弟が天使のような顔をして嘘を吐くことを知り抜いている。
 何より迷惑しているのは、自分に隠れて、ナナシを精神的に追い詰めていることだ。
 フリッカーから吹き込まれた疑惑に囚われているらしい夫は、いまだ自分に手を出してこない。恥じらいは一年も経てば、焦りにすり替わっていた。要らぬ横槍のせいで、ただでさえ後ろ向きなナナシに、男を見せるより前に心変わりされたら堪ったものではない。
 ナナシの気持ちを疑う訳ではないが、ヴィアンカは彼より四歳も年上なのだ。若者よりも老人の多い温泉郷、視力もほとんど効かなければ、万に一つも目移りなどしないと思うのだが、絶対など存在しないのが世の理だ……左手で一掴みにした猪の後足が、ミシリと骨を軋ませる。
「僕は認めません。そんな血なまぐさい労働は貴女に似合わない。ヴィアンカ、貴女はもっと何不自由なく生きるべきです。今まで一体、どれだけ……」
「殿下にどう見えてるかは知りませんが、私は今が一番幸せですよ」
 その先の台詞を遮るようにヴィアンカは、綺麗にバラしたしし肉と肉切り包丁を手に振り返った。
 すると、フリッカーはビクリと肩を揺らして後退る。原形を留めていない肉塊、僅かながら血の飛びついたエプロンから目を逸らし、今更口元にハンカチーフを当てる姿は、年相応の少年らしく見えた。
「お忙しい合間を縫ってこのようなところに来る暇があるなら、ミルポア姫に文の一つも書いたらどうですか?」
「なっ……!」
 伝え聞いた話を舌に乗せたヴィアンカに、フリッカーの喉が甲高い声を上げる。
「ホリドゥラの三の姫と婚約話が纏まりそうだとか。心からお祝い申し上げますよ、殿下」
「一体、どこからっ……」
「今朝、ナナシの診察に来たイグナシスが教えてくれたんですよ。正式発表を兼ねた顔合わせは来月、件のお茶会の席だそうですね。要らぬ誤解を招いてはいけませんから、残念ですがやっぱり同席はできません」
 駄目押しの笑顔で祝辞を述べたヴィアンカに、フリッカーは紺碧の双眸を眇め、ぷっくりとした薄紅色の唇を噛み締めた。
「どうして、お祖父様がっ……」
 裏切られたような顔をしたフリッカーに、ヴィアンカは目を眇めた。
 ヴェンダントの一件が片付いた後、イグナシスはエグゼヴィアを伴って漆国アイリスへ戻った。聖獣使いの後進育成に励む傍ら、定期的にフリーダイルを訪れ、ナナシの主治医を続けてくれている。完全に失明するはずだった彼の目が、光と色の区別がつくまでに回復したのはイグナシスのお陰だ。
 祖父は魔導研究員時代のナナシと面識があり、ヴィアンカよりも付き合いが長かった。何だかんだ辛辣なことを言ったり、洒落にならない脅しをかけたりもする困った人だが、ヘタレだが妙に根性のある彼を気に入ってもいたらしい。
 姉に近づく者はもろとも排除するフリッカーと違い、敢えて傍若無人な振る舞いで篩に掛けていた。魔術師の命である心臓石と引き換えに、奇跡の丸薬で一時的に留めた命をナナシがどう使うか……決断した彼にヴィアンカはどう動くか、慎重に見定めていたそうだ。
 後を追って自分がファーランドの毒泉に飛び込もうとした時、咄嗟に引き留めそうになったのは、複雑な祖父心というやつだ。本気で邪魔をしようとした訳ではない。祖母の制止など、本気なら振り切れただろうから。
「婚約を機に彼のような立派な大人になってくださいね、殿下」
 まだ若いフリッカーにはなかなか難しいだろうが、早く現実を理解してほしい。彼ではヴィアンカを真に幸せにすることなどできないのだ。
 まだ城の離塔で幽閉生活を送っていた頃、フリッカーは自分に対して平気で辛辣な態度をとっていた。それがただの甘えで、心からの言葉ではないと分かっていたから、特に気にしていなかったが、今思えばそれが拙かったのだろう。
 昔のように愚図っていればいずれ折れると、自分が彼にそう思い込ませてしまったようだから。
「もし今後も、私達夫婦の間に要らぬ波風を立たせるような真似を続けるなら、一生許しませんよ……殿下のせいでナナシが家出したら、追い駆けて私も出て行きますから」
 その程度の生活力はもう身に付いていると嘯けば、大人びているようで、どこまでも頑是ない弟は、完全に凍り付いてしまった。その姿にようやく留飲を下げたヴィアンカは、血抜きの済んだ獲物を両手に彼の脇をすり抜ける。
 足早に温泉御殿に向かう彼女は、控え目過ぎる夫の姿を脳裏に思い浮かべた。
 本人に言ってやるつもりはないが、ナナシはヘタレのくせに無駄に顔立ちが整っている。自分も含めて一癖も二癖もある者達の間で揉まれ、情けない姿ばかり目立ってしまうが、一般的に見ればナナシとて十分に並外れた部類だ。
 魔導の力と格段に視野が狭まった生活への順応も早く、もともと研究者だった彼は数字に強かった。片田舎の湯治場経営者として、申し分ない手腕を発揮している。祖父母の良心的な経営方針を踏襲しつつも、利用客の目に見えない部分で無駄を省き、例年以上の収益が出ているらしい。
 自分達が引き継がず、国営湯治場となれば有能なフリッカーのこと。収益はそれ以上に伸びただろう。利益追求主義の弟の政治手腕は確かだったが、いっそ非情でもあった。恐らく今いる常連客は軒並み去り、客層がガラリと変わったはずだ。
 列強の国々に囲まれた小国を守る統治者としては、それが正しい判断なのかもしれない。
 ただし、秘境とまで呼ばれるこの地の住民達は、著しい変化を厭う。よそ者であるナナシは、彼らから早々に受け入れられた。どうにも保護欲をかき立てるその柳腰だけではなく、祖父母の積み上げてきた客との信頼関係を、大切なものとして守ろうとしたからだ。
 王になる器ではなかったかもしれないが、ヴィアンカは彼の他人に対する優しさが好きだった。けれど、その優しさを明後日の方向に発動し、自分に手を出してこないのが苛つく。

「……今夜あたり、一服盛ってみるかな」

 仲睦まじい両親の馴れ初めを思い出し、そう口に出して呟いた彼女の顔に冗談味は一切なかった。
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