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華麗なる転身
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ようやく明け始めた空はいまだ薄闇をまとっており、城下街の市場通りに着く頃にも日は完全に昇り切っていないだろう。婚前の儀式を無事に済ませたロノス神殿から帰りの馬車の中で、ようやく人心地ついたブルーデンスは、少し長めの息を吐いた。
無駄に騒がれぬようダグリード侯爵家紋章を外された馬車は、城下街のとある宝飾店に向かっている。式で身につける、修理に出していた首飾りを受け取りにいくのだ。それでも開店時間前の訪問を快諾してくれた宝飾店では、雷龍隊で部下だったカインの婚約者である女性が店員をしている。
その縁で修理を依頼したこともあって、今日も警護として同行してくれていた。古き慣習で婚前の儀式には花婿が同行できないため、その帰りに首飾りを受け取りに行きたいと言ったブルーデンス対し、フォーサイスはみずからの代わりに彼とサルークを護衛につけたのだ。
「着きましたよ、元副隊長」
明後日に迫った婚礼の儀への、寸刻みの工程を今一度反芻している間に馬車は停まり、開かれた扉の向こうから、ようやく差し込み始めた日の光とともに、カインが顔を覗かせる。彼は見慣れた雷龍隊の軍服姿ではなく、御者の扮装をしていた。ブルーデンス自身も、アイリスでは目立つ髪と目を隠すために面紗をしていた。
二日後に控えた国王の戴冠式に次ぐ催事ともいわれる婚礼を前に、市井の祝賀気運の高まりは衰えを知らない。市井が活気づいたことは喜ばしいことだが、主役の一人であるブルーデンスの存在に気付かれでもしたら、瞬く間に身動きが取れなくなるだろう。
善意の人々であればまだしも、残念ながら混乱に乗じて良からぬことを企む手合いもいる。要らぬ諍いを招かぬための扮装だった。
「ありがとう、カイン……ただ、その呼び方はもうやめてもらえませんか? 扮装している意味がないでしょう」
ステップを降りながら、ブルーデンスは彼に苦笑を返す。
「こんな時間、聞き耳を立てている輩なんていませんよ。大体、仕方ないでしょう、出がけに呼びかけたときの閣下の顔をお忘れですか? 未来のダグリード侯爵夫人の名前は僕らにとって、呪いの言葉にも等しいみたいですからね」
「いや、どう考えても閣下の前で呼び捨てたお前が迂闊だろう。いい加減、頭を切り替えろ」
射殺すような上司の視線を思い出すように、軽く身震いして見せるカインを、隣からサルークが呆れた顔をして窘めた。
「あははっ、確かに、閣下の独占欲を甘く見た僕が悪かったですよ。さて、無駄話をしてる暇もないですし、さっさと入りましょうか」
彼は一切悪びれた風もないまま、まだ中にカーテンが掛けられたままの扉を押し開き、ブルーデンスを誘う。
「……ありがとう」
明らかに面白がっているカインに、彼女は上司と部下だった騎士団時代ように実力行使で軽口を封じるわけにもいかず、面紗の下で頬を赤らめながら従った。
「ようこそお出でくださいました、奥方様。わたくし、彫金師のクラリッサと申します」
扉が閉まったと同時に、ブルーデンスの元に一人の女性店員が滑るように歩み寄ってくる。歓迎の言葉とともに、非の打ちどころのない所作で腰を折った彼女は、カインの婚約者だった。作業期間の短い無理な依頼だった上、時間外の訪問にも嫌な顔一つしない配慮には、感謝の念を禁じ得ない。
店主の娘だというクラリッサはまだ二十代前半だろうに、彫金師としての腕も一流で、今回の注文から加工まで一手に引き受けてくれたのだ。
「こちらがお預かりしていた品ですわ……本当に見事な細工で、正直、台座にミルタガネを入れる手が震える思いでした」
慎重かつ恭しく手渡された天鵞絨の宝石箱を手に、ブルーデンスはわずかに緊張を覚える。決して彼女の腕を信用していないわけではなかったが、自分にとってとても特別な品だったから。意を決して蓋を開けると、深紅のクッションの上にそれはあった。
櫛型の白金製の髪飾り……幅広な半月型の台座には、中央にクルミ大の紫水晶が輝いている。それを囲むように飾り彫りと小振りな緑柱石があしらわれていた。そこまでは、文句なく美しかったが、ただ一ヶ所、光沢のない黒い鉱石が埋め込まれていて、そこが素人目にも浮いて見える。
けれど、それを確認した途端にブルーデンスの顔には、どこか感極まったような笑みが浮かんだ。
「ありがとうございました、クラリッサ。完璧です」
黒い鉱石を愛しそうに指の腹で撫でると彼女は面紗を上げ、クラリッサの仕事ぶりに最大級の賛辞を送る。
「そのお言葉、職人冥利に尽きます」
ブルーデンスの謝意を受けた彼女も輝くような笑みを浮かべ、深々と頭を下げた。
首飾りはダグリード家へ発つときに、母ティルディアから贈られたものだった。そして、一ヶ所だけ埋め込まれた黒い鉱石は、みずからの身体の中から摘出されたサクリファの欠片……つまり、バーネスがこの世に存在したという確かな証だ。
国家にフカッシャーの公爵位とともにすべての領地、私財を返納したブルーデンスに残された唯一の両親、弟を偲ばせる形見の品。一度みずから手放そうとしたが、結局手元に残ったそれは、彼らの代わりに見守ってくれている気がする。
式で着るドレスの胸元には、ダグリード侯爵家紋章の薔薇を模した飾り結びの組み紐が縫いつけられているため、表立ってはつけられないが、それでもブルーデンスのもっとも幸せな瞬間が、父母に……そして、望むらくは、バーネスにも伝わるように、ドレスの下に忍ばせようと思っていた。
「えぇー……これは僕からの忠告なんですが、閣下の前でそれを付けるときは、そんな顔をして触れない方がいいですよ。おっそろしいほど嫉妬深いんで」
「さすがにそれはないだろう……とは、言えないところが怖いな」
「もう……貴方達はっ!」
相変わらずの軽口をきく二人に、ブルーデンスは気恥ずかしさから真っ赤になった頬を隠すように、面紗を下ろした。
「さて、戻りますか……ちょっとでも遅くなると、それこそ閣下に何を言われるかわかりませんからね。じゃね、クラリッサ」
気にした風もなく流した彼は、恋人である彼女に目配せを送り、追撃を避けるようにさっさと扉から店の外に出ていった。
「今日は本当にありがとうございました。これからもどうぞご贔屓に」
カインの目配せに対し、刹那、仕事用ではない笑みを返したクラリッサは、ブルーデンスに向き直ってそう謝辞を伝えると、店の扉が完全に閉まり切るまで再び深々と頭を下げていた。
「どうぞ、……えぇと、どうしましょうかね?」
店の前に停まった馬車の扉を開き、恭しくブルーデンスを招いたはいいが、やはり呼び名が決めきれないカインは、人生最大の難問だと言わんばかりに深く唸っていると……。
「呼び名などもういいですから、……早く戻りま」
ブルーデンスが苦笑交じりに呼び掛けようとしたとき、少し先の植え込みがガサガサと揺れる。彼女が咄嗟に身構えながら見遣ると、薄汚れた風体の男が一人、杖をつき、右足を引き摺るようにして、進行方向に立ち塞がった。
「貴様、何が目的だっ……!」
瞬時にブルーデンスを背に庇い、カインとサルークは男に対して低く警告の声を発するが……。
「そう構えんなよ、仲間じゃねぇか」
「仲間……?」
ヘラヘラしたニヤケ顔で言った男に、カインが吐き捨てるように呟き、眉を顰める。男が武器を持っていないことを証明するように大きく手を広げると、洗い晒しのように灰色に色褪せた着衣が、アイリス騎士団の制服であったことがわかった。左目には眼帯をし、杖に支えられて、引き摺るように歩く右足は義足のようだ。
「あんた、フカッシャー公爵のお姫さんだろ? 隠したって無駄だぜ。あんた、災害被害者に施しをしてくださってるって話だが、それが俺んトコまでまだ回ってきてねぇんだよ! おかしいじゃねぇかっ……あの雷に打たれてこの様だっ! 目と足が痛くて眠ることさえできねぇっ……」
まだ朝靄の残るぼんやりとした辺りに、男の野太い声が一際大きく響く。わざと我が身の不幸を周囲に知らしめようとしているのは、一目瞭然だった。幸いなことに、人の姿はまだないが、男の声に眠っている近隣住民達が何事かと外に出てこないとは限らない……ブルーデンスは面紗の下で、形の良い眉を顰めた。
「……タカリか」
耳聡いサルークが周囲の気配を探りながら、侮蔑を含んだ声で言った。
「何がタカリだ! 俺ぁ当然の権利を主張しているだけだぜっ、それとも何かっ……? 被害者支援なんざ口だけでっ、テメェの株上げるためだけに俺ら下っ端の命を利用してるってのか!」
男がさらに重ねた聞くに堪えない言いがかりに、ブルーデンスは虚脱感の後、程なくしてふつふつと怒りを覚えた。
「元副っ……じゃなくて!」
「待て、危険っ……」
自分を庇い立つカインとサルークを掻き分け、ブルーデンスは男の前に出る。
「貴方の所属と認識番号をお聞かせください」
「ああっ? この期に及んで人を疑うってのかっ! この傷はなぁっ……」
何の感情も含まれない声音で言った彼女に、男は恫喝するようにさらにがなりたてたが……
「アイリス騎士団に所属する隊員は、すべて認識番号を与えられています。認識番号によって個人の情報が管理され、それを元に軍支給品は配給されるのです。この度の災害支援金も然り! 貴方に支給されていないということは、騎士団本部の登録情報に漏れがあったということ。そのお姿を見れば、通常の軍支給品も滞っているのは一目瞭然です。アイリスの保安を一身に託された騎士に対し、許されざる過失……どうぞ、今すぐにでも騎士団本部へご一緒ください! 夫である元帥フォーサイス・ダグリードからも、二度とこのような不手際を起こさないよう謝罪をして頂かなければっ……」
それを遮り、ブルーデンスはまるで極寒の吹雪のように止め処ない理路整然とした言葉を投げつける。男は最初、呆気にとられた顔をしていたが、本部への同行要請と、フォーサイスの名が出たところで一気に蒼褪めた。
「いっ、いや、いい! そこまではっ……きっと俺の勘違いだ! そっ、そうだ……係の奴がそろそろだって言ってたな! もう少し待つから、またの機会にっ……!」
そうさきほどとは打って変わった弱腰な言葉を並べ立てながら、ジリジリと後ずさっていた男は、最終的に脱兎の如く逃げて行った。義足であるはずなのに杖を放り出し、あっと言う間に男の姿は周囲に垂れ込める朝靄の向こうに消える。
「根性なさ過ぎっ!」
逃げ足だけは達者だった偽義足男の後ろ姿を見つめていたカインは、拍子抜けしたように吐き出した。
「無茶をするな。一瞬肝が冷えた……が、まあ、爽快だった。あの程度の小物なら、放っといても遠からず網に掛かりそうではあるし」
それに続いてサルークもブルーデンスに軽く苦言を呈するが、その顔はすぐに苦笑に変わる。
「申し訳ありません、さすがに腹が立ったものですから……フカッシャーの両親が残した財産は、罪なき被害者のために使われるべきものです。ただ、今回の件のようなことが今後も起こらなければよいのですが」
怪我人一人出ず、短時間のうちに事が収まったことに多少の溜飲は下がったものの、彼女はそう言って表情を曇らせた。良かれと思ってした償いが、新たな騒動の火種になり得るという事実を突きつけられて、気持ちが塞いでくる。
「あの制服、階級章が破り取られてて、かなり汚れてたけど本物でしたよね。軍支給品を横流ししてる奴がいるのは確実みたいですし、この機に一斉取締りをかけるのがいいんじゃないですか? 愛しの奥方が襲われかけたって言ったら、閣下は真っ先に対策を打つでしょう」
「やれやれ、しばらく忙しいのが続きそうだな」
見るべきところは冷静に見ていたカインの言葉に、サルークが再び表情を歪める。
「……申し訳ありません」
ただでさえ激務の彼ら余計な仕事を増やしてしまったかと、ブルーデンスはさらに心苦しくなったが……
「詐欺事件を水際で防いだんだぞ、謝る必要はない」
「そうですよ。きっと近いうちに元帥夫人は手強いって噂が流れますよ。そうすれば今回みたいな事件も減るでしょうし、閣下も安心じゃないんですか?」
対する二人は即座に首を横に振り、茶化すように返してきた。
「……あまり目立つのはフォーサイス様の手前好ましくありませんが、そのように良い方向に働いてくれると有難いですね」
みずからを安心させようとする彼らの軽口に、ブルーデンスもようやく心からの笑みを浮かべる……仲間に恵まれる己の幸福を噛み締めて。
また、蛇足ではあるが、後日、彼の惨劇で受けた心の傷がようやく癒えかけた妻の心を踏み躙る不届き千万な詐欺事件を耳に入れた元帥閣下は、即行で逃げた小悪党を探し出す。そして部下には任せず、自ら尋問を行い、余罪分も含めた大変重い懲罰を科した……その時の身も凍るような尋問風景の噂は軍部から裏社会にまで瞬く間に広がり、災害支援金詐欺を起こそうと企む輩を一掃したという。
絶望的に女嫌いであったかつての鬼隊長が、アイリス軍部最高権力を握るとともに、恐るべき愛妻家へと転身したことを下々にまで知れ渡らせた「最初」の出来事であった。
無駄に騒がれぬようダグリード侯爵家紋章を外された馬車は、城下街のとある宝飾店に向かっている。式で身につける、修理に出していた首飾りを受け取りにいくのだ。それでも開店時間前の訪問を快諾してくれた宝飾店では、雷龍隊で部下だったカインの婚約者である女性が店員をしている。
その縁で修理を依頼したこともあって、今日も警護として同行してくれていた。古き慣習で婚前の儀式には花婿が同行できないため、その帰りに首飾りを受け取りに行きたいと言ったブルーデンス対し、フォーサイスはみずからの代わりに彼とサルークを護衛につけたのだ。
「着きましたよ、元副隊長」
明後日に迫った婚礼の儀への、寸刻みの工程を今一度反芻している間に馬車は停まり、開かれた扉の向こうから、ようやく差し込み始めた日の光とともに、カインが顔を覗かせる。彼は見慣れた雷龍隊の軍服姿ではなく、御者の扮装をしていた。ブルーデンス自身も、アイリスでは目立つ髪と目を隠すために面紗をしていた。
二日後に控えた国王の戴冠式に次ぐ催事ともいわれる婚礼を前に、市井の祝賀気運の高まりは衰えを知らない。市井が活気づいたことは喜ばしいことだが、主役の一人であるブルーデンスの存在に気付かれでもしたら、瞬く間に身動きが取れなくなるだろう。
善意の人々であればまだしも、残念ながら混乱に乗じて良からぬことを企む手合いもいる。要らぬ諍いを招かぬための扮装だった。
「ありがとう、カイン……ただ、その呼び方はもうやめてもらえませんか? 扮装している意味がないでしょう」
ステップを降りながら、ブルーデンスは彼に苦笑を返す。
「こんな時間、聞き耳を立てている輩なんていませんよ。大体、仕方ないでしょう、出がけに呼びかけたときの閣下の顔をお忘れですか? 未来のダグリード侯爵夫人の名前は僕らにとって、呪いの言葉にも等しいみたいですからね」
「いや、どう考えても閣下の前で呼び捨てたお前が迂闊だろう。いい加減、頭を切り替えろ」
射殺すような上司の視線を思い出すように、軽く身震いして見せるカインを、隣からサルークが呆れた顔をして窘めた。
「あははっ、確かに、閣下の独占欲を甘く見た僕が悪かったですよ。さて、無駄話をしてる暇もないですし、さっさと入りましょうか」
彼は一切悪びれた風もないまま、まだ中にカーテンが掛けられたままの扉を押し開き、ブルーデンスを誘う。
「……ありがとう」
明らかに面白がっているカインに、彼女は上司と部下だった騎士団時代ように実力行使で軽口を封じるわけにもいかず、面紗の下で頬を赤らめながら従った。
「ようこそお出でくださいました、奥方様。わたくし、彫金師のクラリッサと申します」
扉が閉まったと同時に、ブルーデンスの元に一人の女性店員が滑るように歩み寄ってくる。歓迎の言葉とともに、非の打ちどころのない所作で腰を折った彼女は、カインの婚約者だった。作業期間の短い無理な依頼だった上、時間外の訪問にも嫌な顔一つしない配慮には、感謝の念を禁じ得ない。
店主の娘だというクラリッサはまだ二十代前半だろうに、彫金師としての腕も一流で、今回の注文から加工まで一手に引き受けてくれたのだ。
「こちらがお預かりしていた品ですわ……本当に見事な細工で、正直、台座にミルタガネを入れる手が震える思いでした」
慎重かつ恭しく手渡された天鵞絨の宝石箱を手に、ブルーデンスはわずかに緊張を覚える。決して彼女の腕を信用していないわけではなかったが、自分にとってとても特別な品だったから。意を決して蓋を開けると、深紅のクッションの上にそれはあった。
櫛型の白金製の髪飾り……幅広な半月型の台座には、中央にクルミ大の紫水晶が輝いている。それを囲むように飾り彫りと小振りな緑柱石があしらわれていた。そこまでは、文句なく美しかったが、ただ一ヶ所、光沢のない黒い鉱石が埋め込まれていて、そこが素人目にも浮いて見える。
けれど、それを確認した途端にブルーデンスの顔には、どこか感極まったような笑みが浮かんだ。
「ありがとうございました、クラリッサ。完璧です」
黒い鉱石を愛しそうに指の腹で撫でると彼女は面紗を上げ、クラリッサの仕事ぶりに最大級の賛辞を送る。
「そのお言葉、職人冥利に尽きます」
ブルーデンスの謝意を受けた彼女も輝くような笑みを浮かべ、深々と頭を下げた。
首飾りはダグリード家へ発つときに、母ティルディアから贈られたものだった。そして、一ヶ所だけ埋め込まれた黒い鉱石は、みずからの身体の中から摘出されたサクリファの欠片……つまり、バーネスがこの世に存在したという確かな証だ。
国家にフカッシャーの公爵位とともにすべての領地、私財を返納したブルーデンスに残された唯一の両親、弟を偲ばせる形見の品。一度みずから手放そうとしたが、結局手元に残ったそれは、彼らの代わりに見守ってくれている気がする。
式で着るドレスの胸元には、ダグリード侯爵家紋章の薔薇を模した飾り結びの組み紐が縫いつけられているため、表立ってはつけられないが、それでもブルーデンスのもっとも幸せな瞬間が、父母に……そして、望むらくは、バーネスにも伝わるように、ドレスの下に忍ばせようと思っていた。
「えぇー……これは僕からの忠告なんですが、閣下の前でそれを付けるときは、そんな顔をして触れない方がいいですよ。おっそろしいほど嫉妬深いんで」
「さすがにそれはないだろう……とは、言えないところが怖いな」
「もう……貴方達はっ!」
相変わらずの軽口をきく二人に、ブルーデンスは気恥ずかしさから真っ赤になった頬を隠すように、面紗を下ろした。
「さて、戻りますか……ちょっとでも遅くなると、それこそ閣下に何を言われるかわかりませんからね。じゃね、クラリッサ」
気にした風もなく流した彼は、恋人である彼女に目配せを送り、追撃を避けるようにさっさと扉から店の外に出ていった。
「今日は本当にありがとうございました。これからもどうぞご贔屓に」
カインの目配せに対し、刹那、仕事用ではない笑みを返したクラリッサは、ブルーデンスに向き直ってそう謝辞を伝えると、店の扉が完全に閉まり切るまで再び深々と頭を下げていた。
「どうぞ、……えぇと、どうしましょうかね?」
店の前に停まった馬車の扉を開き、恭しくブルーデンスを招いたはいいが、やはり呼び名が決めきれないカインは、人生最大の難問だと言わんばかりに深く唸っていると……。
「呼び名などもういいですから、……早く戻りま」
ブルーデンスが苦笑交じりに呼び掛けようとしたとき、少し先の植え込みがガサガサと揺れる。彼女が咄嗟に身構えながら見遣ると、薄汚れた風体の男が一人、杖をつき、右足を引き摺るようにして、進行方向に立ち塞がった。
「貴様、何が目的だっ……!」
瞬時にブルーデンスを背に庇い、カインとサルークは男に対して低く警告の声を発するが……。
「そう構えんなよ、仲間じゃねぇか」
「仲間……?」
ヘラヘラしたニヤケ顔で言った男に、カインが吐き捨てるように呟き、眉を顰める。男が武器を持っていないことを証明するように大きく手を広げると、洗い晒しのように灰色に色褪せた着衣が、アイリス騎士団の制服であったことがわかった。左目には眼帯をし、杖に支えられて、引き摺るように歩く右足は義足のようだ。
「あんた、フカッシャー公爵のお姫さんだろ? 隠したって無駄だぜ。あんた、災害被害者に施しをしてくださってるって話だが、それが俺んトコまでまだ回ってきてねぇんだよ! おかしいじゃねぇかっ……あの雷に打たれてこの様だっ! 目と足が痛くて眠ることさえできねぇっ……」
まだ朝靄の残るぼんやりとした辺りに、男の野太い声が一際大きく響く。わざと我が身の不幸を周囲に知らしめようとしているのは、一目瞭然だった。幸いなことに、人の姿はまだないが、男の声に眠っている近隣住民達が何事かと外に出てこないとは限らない……ブルーデンスは面紗の下で、形の良い眉を顰めた。
「……タカリか」
耳聡いサルークが周囲の気配を探りながら、侮蔑を含んだ声で言った。
「何がタカリだ! 俺ぁ当然の権利を主張しているだけだぜっ、それとも何かっ……? 被害者支援なんざ口だけでっ、テメェの株上げるためだけに俺ら下っ端の命を利用してるってのか!」
男がさらに重ねた聞くに堪えない言いがかりに、ブルーデンスは虚脱感の後、程なくしてふつふつと怒りを覚えた。
「元副っ……じゃなくて!」
「待て、危険っ……」
自分を庇い立つカインとサルークを掻き分け、ブルーデンスは男の前に出る。
「貴方の所属と認識番号をお聞かせください」
「ああっ? この期に及んで人を疑うってのかっ! この傷はなぁっ……」
何の感情も含まれない声音で言った彼女に、男は恫喝するようにさらにがなりたてたが……
「アイリス騎士団に所属する隊員は、すべて認識番号を与えられています。認識番号によって個人の情報が管理され、それを元に軍支給品は配給されるのです。この度の災害支援金も然り! 貴方に支給されていないということは、騎士団本部の登録情報に漏れがあったということ。そのお姿を見れば、通常の軍支給品も滞っているのは一目瞭然です。アイリスの保安を一身に託された騎士に対し、許されざる過失……どうぞ、今すぐにでも騎士団本部へご一緒ください! 夫である元帥フォーサイス・ダグリードからも、二度とこのような不手際を起こさないよう謝罪をして頂かなければっ……」
それを遮り、ブルーデンスはまるで極寒の吹雪のように止め処ない理路整然とした言葉を投げつける。男は最初、呆気にとられた顔をしていたが、本部への同行要請と、フォーサイスの名が出たところで一気に蒼褪めた。
「いっ、いや、いい! そこまではっ……きっと俺の勘違いだ! そっ、そうだ……係の奴がそろそろだって言ってたな! もう少し待つから、またの機会にっ……!」
そうさきほどとは打って変わった弱腰な言葉を並べ立てながら、ジリジリと後ずさっていた男は、最終的に脱兎の如く逃げて行った。義足であるはずなのに杖を放り出し、あっと言う間に男の姿は周囲に垂れ込める朝靄の向こうに消える。
「根性なさ過ぎっ!」
逃げ足だけは達者だった偽義足男の後ろ姿を見つめていたカインは、拍子抜けしたように吐き出した。
「無茶をするな。一瞬肝が冷えた……が、まあ、爽快だった。あの程度の小物なら、放っといても遠からず網に掛かりそうではあるし」
それに続いてサルークもブルーデンスに軽く苦言を呈するが、その顔はすぐに苦笑に変わる。
「申し訳ありません、さすがに腹が立ったものですから……フカッシャーの両親が残した財産は、罪なき被害者のために使われるべきものです。ただ、今回の件のようなことが今後も起こらなければよいのですが」
怪我人一人出ず、短時間のうちに事が収まったことに多少の溜飲は下がったものの、彼女はそう言って表情を曇らせた。良かれと思ってした償いが、新たな騒動の火種になり得るという事実を突きつけられて、気持ちが塞いでくる。
「あの制服、階級章が破り取られてて、かなり汚れてたけど本物でしたよね。軍支給品を横流ししてる奴がいるのは確実みたいですし、この機に一斉取締りをかけるのがいいんじゃないですか? 愛しの奥方が襲われかけたって言ったら、閣下は真っ先に対策を打つでしょう」
「やれやれ、しばらく忙しいのが続きそうだな」
見るべきところは冷静に見ていたカインの言葉に、サルークが再び表情を歪める。
「……申し訳ありません」
ただでさえ激務の彼ら余計な仕事を増やしてしまったかと、ブルーデンスはさらに心苦しくなったが……
「詐欺事件を水際で防いだんだぞ、謝る必要はない」
「そうですよ。きっと近いうちに元帥夫人は手強いって噂が流れますよ。そうすれば今回みたいな事件も減るでしょうし、閣下も安心じゃないんですか?」
対する二人は即座に首を横に振り、茶化すように返してきた。
「……あまり目立つのはフォーサイス様の手前好ましくありませんが、そのように良い方向に働いてくれると有難いですね」
みずからを安心させようとする彼らの軽口に、ブルーデンスもようやく心からの笑みを浮かべる……仲間に恵まれる己の幸福を噛み締めて。
また、蛇足ではあるが、後日、彼の惨劇で受けた心の傷がようやく癒えかけた妻の心を踏み躙る不届き千万な詐欺事件を耳に入れた元帥閣下は、即行で逃げた小悪党を探し出す。そして部下には任せず、自ら尋問を行い、余罪分も含めた大変重い懲罰を科した……その時の身も凍るような尋問風景の噂は軍部から裏社会にまで瞬く間に広がり、災害支援金詐欺を起こそうと企む輩を一掃したという。
絶望的に女嫌いであったかつての鬼隊長が、アイリス軍部最高権力を握るとともに、恐るべき愛妻家へと転身したことを下々にまで知れ渡らせた「最初」の出来事であった。
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