1 / 12
学を修める旅行の夜に
しおりを挟む
修学旅行二日目の夜、彼女は話し始めた。
「でさあ、その時に彼氏がね―――。ええ?ああ、ものすごく痛かったよ。何て言うのかなあ、口を両端から強く引っ張られた感じ」
グループの女の子が嬌声を上げる。
「やだあー!本当に?そんなふうなのかあ。いいなあ、私も早く済ませちゃいなあ」
何それ?何かの通過点の話?決算は年度末じゃなかったかしら。
読んでいた本を閉じて、テレビのほうを見る。麗しき少女と、三十代ぐらいのいい男が目に入ってきた。
これがまた、どうして良いタイミングに『ラマン』なんてやっているのかしらね。否応なしに盛り上がるよね、その手の話は。しかも修学旅行中で、いちゃつく男子がいるはずもない女子高なんだから。
人の初体験を聞いて歓声を上げながら、時々こちらのほうを向いて『ラマン』に茶々を入れている女の子たち。それにしたって、夜通しその話をされるのは勘弁だわ。
それとは反対に、お喋りもせず『ラマン』を見ている人は私を含めて四人。まるで研究室に閉じこもって、猿の生態でも見ているかのようね。まあ、猿とはちょっと違うけど。
机に置いてあるお菓子に手が延びる。この手の映画を見るとお腹が空くのよね。気持ちいっぱいなのに。
他の三人もそれぞれお菓子を食べている。同じ感覚の人たちがいて良かった。ふと、同時に目が合って、四人で笑った。そして、また食い入るようにテレビを見た。
彼女たちの話は、だんだんエスカレートしていく。
「私もさ、怖いとか色々思ったけど、やっぱり好きな人と一つになりたいって思うじゃん?彼が慣れてる人だったからさ、そのうちに痛みなんて吹っ飛んじゃって、もう気持ちよかったあっ!でもさ、あそこを舐めるって何か変な感覚。彼がね―――」
そりゃあ良かったわね。私なんか『慣れている人』って聞いただけで、男のあれを蹴飛ばしてるわよ。それだけで、不信感が樹海のように広がるわ。
映画の二人は会うたびに初々しい。『慣れている』なんて言わないところが良いわ。でも、これってカット版なのよね。そんな中途半端な事しないで、全部見せてくれればいいのに。
またお菓子に手を伸ばす。
テレビを見ている一人と手がぶつかって、はっと顔を見合わせた。二人でなぜか照れ笑いをした。
何事もなかったようにテレビに視線を戻すと、喘いでいる少女とオジサマがアップで飛び込んできて、思わず咳き込んだ。お菓子の粉が口から零れて、慌てて拾い上げる。
すると、後ろで猥談をしていた一人が笑いながら声をかけてきた。
「やだあ、佐和さん!興奮してるのお?」
それで一同大爆笑。私も振り返って笑った。
「だって、いきなり見ちゃったんだもん。びっくりするじゃない?」
彼女がお腹を抱えて笑っている。そりゃあ笑うわよね。これで吹いてたら、一生抱いてもらえなくなっちゃうわ。
「ねえ。佐和ってさ、彼氏いる?」
こんな映画を、食い入るように見ている人に対する質問じゃないわね。
「いないわ。今は自分で手一杯の精一杯。他人を構っている暇はないよ」
女の子らしく、一人が疑問形の声を上げた。
「えー?でもさあ、寂しくない?私、ものすごく彼氏欲しいもん!いいよね、休みの日に一緒にお買い物したり、映画見に行ったり。クリスマスには二人っきりで過ごしたりさあ。憧れちゃうよおー」
「あははは。ねえ、皆川さんは特定の誰かじゃなくて、『彼氏』って呼べる人が欲しいの?」
「え?彼氏ってことは好きな人ってことでしょ?」
「好きな人はいるの?」
「いないけど・・・まあでも、彼氏がいればいいなと思っただけ」
不思議じゃない?好きでもないのに『彼氏』は欲しいわけか。
そう思っていると、彼女がふんと鼻を鳴らした。
「だめよ、緑。佐和は頭固いから。真面目だもんね。いっつも、澄ました顔してるし」
私が真面目だったら、成績はもうちょっと上なんだけどなあ。それに顔は生まれつきよ。少し呆れた。
「あのねえ。それじゃあ、高井さんは自分が『不真面目』だって、自分で言ってるのと変わらないでしょう?これはスタンスの問題。あなたは彼に身を捧げ、私は自分に身を捧げているだけ。ディドゥユーアンダースタンド?」
「何だ、聞いてたの?でもさあ―――」
彼女はなおも食い下がる。私に恨みでもあるのかしら。
他の三人はきちんとテレビを見ている。羨ましい限りだわ。ほら、いいところが終わっちゃうじゃない。
「結局、世界には男と女しかいないわけじゃん?恋愛するのは決まり事みたいな感じよね?自分対自分じゃあ、寒いわよ」
ふうん、その考え方はなかなかいいわ。
「世界には両性の動植物もいると思うけどなあ。オッケー、とりあえず人類に限定して話しましょう」
「『人類』だって!エラそう!」
女の子たちが笑い出す。箸が転がっても可笑しい年頃だから、仕方ないよね。それにしても、彼女たちはどうしていつも私の話し方に笑い転げるのかしら。いっそのこと、お笑い芸人にでもなっちゃおうかな。
「あははは。まあいいじゃない。ええっと、そうね。恋愛という枠に捕らわれず、なおかつ全てに共通する、私たちが向き合わなければならないものといったら、それは欲望よ。男と女っていう複雑な数式よりも簡単でしょう?向き合うのは欲望の塊」
「『欲望』だって!エッチィー!」
いちいち反応しないでよ。こっちが恥ずかしくなるわ。
「そうかなあ?どんなに素敵な恋愛も欲望だわ。この世界には欲望しか転がってないの」
「えー?じゃあ愛は?愛!世界を救うんでしょ?」
一斉に大爆笑。私も笑った。
「『愛』なんて言葉は、もう人類の欺瞞よ。それも欲望。愛し愛されなんて、結局は自分の欲望と都合のいいもの同士がくっついただけよ。もしくは自分の醜い自己満足を隠すための嘘偽り」
「何それ?じゃあ、私と彼もそうだっていうの?」
彼女が急に、顔をしかめて怒り出す。難しい年頃よね。
深呼吸をする。これを言ったら、明日からシカトかな。
「そうよ。高井さんは彼の中に自分の欲望を見出し、彼は高井さんの中に見出した」
「ちょっと!喧嘩売ってんのお!?」
バンと机が鳴った。さすがにテレビに釘付けの三人もこちらを向いた。
視線が一気に集まる。良い気分ね、女王様みたいで。
「あのね、欲望は誰もが持っていなくちゃいけないの。生きる意志ですら欲望よ。それに、相手の欲望を見極められるなんて、素敵な事でしょう?あなたはその目を持っていて、私にはその目が無いだけよ。アーユーオッケー?」
「・・・佐和、まだ『した』ことないんでしょう?」
あら、いい所を突いてくるわね。こういう場合って、見栄を張ろうか平気な顔をしようか、迷うわよね。
「いつでも目を光らせているんだけどね」
歯を見せて笑うと、彼女はきょとんとした顔をして、すぐに笑い出した。
「なあんだ!ないんじゃ、仕方ないよね」
「そうねえ、仕方ないわ」
皆が力なく笑った。
ザッツライト、人類の欺瞞じゃなくて、私の欺瞞よ。
ご機嫌麗しき彼女が、また言ってくる。
「だめだよー。早く大人にならなきゃさあ。やっぱり、体験しちゃうと世界が変わるよ?」
「そうねえ。でも、今はこれで精一杯よ」
もう一度、歯を見せて笑った。そして、やっとテレビに目を向けた。
『ラマン』は終わっていた。
テロップが流れ、来週のアクション映画を宣伝し始めている。なんて無機質な声なのかしら。
半ば茫然としていた。後ろでは、まだ続きを話している。ものすごく悔しい!あんな話に付き合うんじゃなかった!
他の三人はといえば、本当に悔しい事に満足そうな顔をしていた。実際、お菓子には全く手を伸ばさない。
「すごかったよねー。よく別れられたよね、惜しくないのかなあ?」
「結局、生活のためじゃん?いくら愛しててもさあ。私だったら、ああいう情けないタイプは嫌いだなあ」
「でも、大して激しくもないよね。なんか、雰囲気がいやらしいだけで。あれぐらいしそうだよね」
「えー?やだなあ、感覚が狂ってるんじゃない?ユキは」
いいわね、私もその話に参加したいわ。途中まで一緒だったのに。はいはい、満腹になって良かったわね。名作も女子高生にかかれば、純然なポルノだわ。
急激にお腹が空いてきた。こんなことなら、初めからあんな映画なんて見るんじゃなかったわ。
大きなため息を一つ吐くと、バッグから薬を取り出して飲んだ。修学旅行中は必ず飲み続けなければならない薬。あっちも面倒だけど、薬も面倒。しまうのも面倒臭くて、机の上に放り投げた。
映画対談をしている一人に何の薬なのかと聞かれたから、素直に答えた。すると、その子が大笑いで「それなら今は誰が来てもオッケーね」と言った。
頬を膨らませて黙っていると、突然にノックの音がした。誰かが返事をした直後に、座敷の引き戸が開いた。
「こら!さっさと、布団を敷け」
すると、件の彼女ーーー高井さんが声の主を見つけて、嬉しそうに笑った。
「うるさいよ、先生!わかった、私を襲いに来たんでしょう?」
「本木先生、サイテー!強姦魔!」
本木先生は、からかわれても全く動じない人だ。若い先生なのに大した人だなあと思う。澄ました顔をして、女の子の部屋に堂々と入場してくるところもすごい。
「はいはい、わかった。就寝時間だぞ、さっさと寝なさい。明日の自主研修に響く」
大丈夫よ、私たちそんなに柔じゃないのよ。その気になれば、反対に先生を襲った後でも元気に出かけられるわよ。なんて、ちょっと意地悪なことを考えていたりする。
なんとなく、本木先生は苦手だ。
何を言ってものれんに腕押し。違うな、いい表現が思いつかない。私にしては珍しい。人の悪口なら砂の数ほど出てくるのに。週番の時に顔を合わせるぐらいの縁の薄い先生だから、当然といえば当然か。
ああ、そういえば試供品の香水をつけていた時、怒りもせずに「良い香りだね」と言ったっけ。変な先生よね。
でも、嬉しかった。
小宮先生に見つかって注意されたけど、それよりもずっと本木先生の言葉が心に沈んだ。今でも思い出すと、顔が緩んでしまう。
ぼうっと宙を見ていたら、本木先生はこちらに歩いてきてテレビを消した。あら、なんて余計なことをする人なんでしょう。これから深夜番組で、さっきの映画の埋め合わせをしようとしてたのに。
「先生、それは余計だわ」
つい声に出してしまった。本木先生が振り向いた。
「なんだ、佐和?もう就寝時間だ」
なんだ、名前を覚えていたのか。やだなあ、これだから出来の悪い生徒は。
「眠れるわけないでしょう?これから見たい番組が始まるんだから、邪魔しないで下さい」
「全く正当性がない。集団生活が嫌なら、修学旅行に参加することはない」
「だって、先生。私、さっき『ラマン』を見ていたんです」
「は?ああ・・・」
珍しいことに、本木先生は難しい顔をした。ふうん、先生も見ていたのかな。
「先生、見てました?」
「見てない。そういう映画を見られるほど、先生たちは暇じゃないんだ」
「そういう映画?じゃあ、見た事はあるんですね?」
「そんなプライベートなことを話す必要性がどこに―――」
と、そこに高井さんがテンションMAXの大声を上げた。
「えー!見たことあるの?先生の感想は?」
続けて周りの小鳥達。
「やだあー!聞きたーい!」
ソプラノの大合唱。いいタイミングだわ。
「熱望してますよ?」
本木先生はもっと難しい顔をした。騒ぐ彼女たちに首を振って拒否すると、再び私に向き直った。
「それを見てたから、何だっていうんだ?もう放送は終わっているだろう?さっさと寝なさい」
半分呆れて怒ってる。そうよね、私でも呆れて怒るわ。
「それがね、途中で目を離してしまったんです」
「それで?」
「中途半端に見ちゃったんです。だから気持ち悪くて」
「・・・だから?」
「あれ?最後まで理由をお聞きになりたいですか?」
「・・・」
「お聞きになりたいですか?」
もう一度、声を高らかに上げて言った。
高井さんとその周りにいる女の子たちは、急に静まり返りきょとんとした顔をしている。
テレビに釘付けだった三人は吹き出しそうだけど。貴方たちはいいわよね、最後まで見れたのだから余裕があって。
本木先生はしばらく無言で天井を仰いでいた。それから髪をかきむしった。形容しがたい顔をして、小さくため息をつく。
「わかった、言わなくていい。君の言い分はわかった。だから寝なさい」
わかった?だから寝なさい?だから眠れないって言ってるでしょう!
「先生たちの部屋って、ああいう映画は見れないんですか?松岡先生に止められてるとか?」
「あのなあ・・・見回りとか明日のための会議とか色々あって、部屋を空ける事が多いんだ。最後まで見たくても、途中で抜け出さなきゃならないんだよ。それもこれも、みんな君たちの―――」
「じゃあ、先生も中途半端に見ちゃったんだ?」
にっこり笑って、言ってやった。本木先生は大きく息を吸った。
「やだあ、ウソツキ!先生も見てたのー?エッチだあ!」
またも歓声が上がる。そのおかげで、本木先生はいつもの態度を取り戻したようだった。もう就寝時間は過ぎている。本木先生、あとで松岡先生に怒られるわよ。
「はいはい!もう君たちには付き合っていられません。今度見回りに来た時に起きていたら、廊下で正座だからな」
「それって古いよー。せめて逆立ちとかはー?」
「余計な茶々を入れるな」
少し怒らせたようだ。本木先生は部屋から出て行く時、ちらりと私のほうを見て眉を釣り上げた。
高井さん達は笑い転げていた。そのあと、本木先生の話題のオンパレードだった。若い男の先生って辛いわね。
私といえば、傍にいる三人から同時に言われてしまった。
「佐和って意地悪ね!」
「そうかなあ?でも、隣でユキたちが笑いを堪えてるんだもん。私、平気な顔を保つのに必死だったんだから」
「悪い、悪い!でもさあ、そんなに『ラマン』が見れなかったことが悔しいわけ?欲求不満なんじゃない?」
「最後まで見た人たちからは言われたくないわ」
「きちんと見なかった人が悪いのよねえ?」
そう言って、三人は顔を見合わせて頷いた。
「でさあ、その時に彼氏がね―――。ええ?ああ、ものすごく痛かったよ。何て言うのかなあ、口を両端から強く引っ張られた感じ」
グループの女の子が嬌声を上げる。
「やだあー!本当に?そんなふうなのかあ。いいなあ、私も早く済ませちゃいなあ」
何それ?何かの通過点の話?決算は年度末じゃなかったかしら。
読んでいた本を閉じて、テレビのほうを見る。麗しき少女と、三十代ぐらいのいい男が目に入ってきた。
これがまた、どうして良いタイミングに『ラマン』なんてやっているのかしらね。否応なしに盛り上がるよね、その手の話は。しかも修学旅行中で、いちゃつく男子がいるはずもない女子高なんだから。
人の初体験を聞いて歓声を上げながら、時々こちらのほうを向いて『ラマン』に茶々を入れている女の子たち。それにしたって、夜通しその話をされるのは勘弁だわ。
それとは反対に、お喋りもせず『ラマン』を見ている人は私を含めて四人。まるで研究室に閉じこもって、猿の生態でも見ているかのようね。まあ、猿とはちょっと違うけど。
机に置いてあるお菓子に手が延びる。この手の映画を見るとお腹が空くのよね。気持ちいっぱいなのに。
他の三人もそれぞれお菓子を食べている。同じ感覚の人たちがいて良かった。ふと、同時に目が合って、四人で笑った。そして、また食い入るようにテレビを見た。
彼女たちの話は、だんだんエスカレートしていく。
「私もさ、怖いとか色々思ったけど、やっぱり好きな人と一つになりたいって思うじゃん?彼が慣れてる人だったからさ、そのうちに痛みなんて吹っ飛んじゃって、もう気持ちよかったあっ!でもさ、あそこを舐めるって何か変な感覚。彼がね―――」
そりゃあ良かったわね。私なんか『慣れている人』って聞いただけで、男のあれを蹴飛ばしてるわよ。それだけで、不信感が樹海のように広がるわ。
映画の二人は会うたびに初々しい。『慣れている』なんて言わないところが良いわ。でも、これってカット版なのよね。そんな中途半端な事しないで、全部見せてくれればいいのに。
またお菓子に手を伸ばす。
テレビを見ている一人と手がぶつかって、はっと顔を見合わせた。二人でなぜか照れ笑いをした。
何事もなかったようにテレビに視線を戻すと、喘いでいる少女とオジサマがアップで飛び込んできて、思わず咳き込んだ。お菓子の粉が口から零れて、慌てて拾い上げる。
すると、後ろで猥談をしていた一人が笑いながら声をかけてきた。
「やだあ、佐和さん!興奮してるのお?」
それで一同大爆笑。私も振り返って笑った。
「だって、いきなり見ちゃったんだもん。びっくりするじゃない?」
彼女がお腹を抱えて笑っている。そりゃあ笑うわよね。これで吹いてたら、一生抱いてもらえなくなっちゃうわ。
「ねえ。佐和ってさ、彼氏いる?」
こんな映画を、食い入るように見ている人に対する質問じゃないわね。
「いないわ。今は自分で手一杯の精一杯。他人を構っている暇はないよ」
女の子らしく、一人が疑問形の声を上げた。
「えー?でもさあ、寂しくない?私、ものすごく彼氏欲しいもん!いいよね、休みの日に一緒にお買い物したり、映画見に行ったり。クリスマスには二人っきりで過ごしたりさあ。憧れちゃうよおー」
「あははは。ねえ、皆川さんは特定の誰かじゃなくて、『彼氏』って呼べる人が欲しいの?」
「え?彼氏ってことは好きな人ってことでしょ?」
「好きな人はいるの?」
「いないけど・・・まあでも、彼氏がいればいいなと思っただけ」
不思議じゃない?好きでもないのに『彼氏』は欲しいわけか。
そう思っていると、彼女がふんと鼻を鳴らした。
「だめよ、緑。佐和は頭固いから。真面目だもんね。いっつも、澄ました顔してるし」
私が真面目だったら、成績はもうちょっと上なんだけどなあ。それに顔は生まれつきよ。少し呆れた。
「あのねえ。それじゃあ、高井さんは自分が『不真面目』だって、自分で言ってるのと変わらないでしょう?これはスタンスの問題。あなたは彼に身を捧げ、私は自分に身を捧げているだけ。ディドゥユーアンダースタンド?」
「何だ、聞いてたの?でもさあ―――」
彼女はなおも食い下がる。私に恨みでもあるのかしら。
他の三人はきちんとテレビを見ている。羨ましい限りだわ。ほら、いいところが終わっちゃうじゃない。
「結局、世界には男と女しかいないわけじゃん?恋愛するのは決まり事みたいな感じよね?自分対自分じゃあ、寒いわよ」
ふうん、その考え方はなかなかいいわ。
「世界には両性の動植物もいると思うけどなあ。オッケー、とりあえず人類に限定して話しましょう」
「『人類』だって!エラそう!」
女の子たちが笑い出す。箸が転がっても可笑しい年頃だから、仕方ないよね。それにしても、彼女たちはどうしていつも私の話し方に笑い転げるのかしら。いっそのこと、お笑い芸人にでもなっちゃおうかな。
「あははは。まあいいじゃない。ええっと、そうね。恋愛という枠に捕らわれず、なおかつ全てに共通する、私たちが向き合わなければならないものといったら、それは欲望よ。男と女っていう複雑な数式よりも簡単でしょう?向き合うのは欲望の塊」
「『欲望』だって!エッチィー!」
いちいち反応しないでよ。こっちが恥ずかしくなるわ。
「そうかなあ?どんなに素敵な恋愛も欲望だわ。この世界には欲望しか転がってないの」
「えー?じゃあ愛は?愛!世界を救うんでしょ?」
一斉に大爆笑。私も笑った。
「『愛』なんて言葉は、もう人類の欺瞞よ。それも欲望。愛し愛されなんて、結局は自分の欲望と都合のいいもの同士がくっついただけよ。もしくは自分の醜い自己満足を隠すための嘘偽り」
「何それ?じゃあ、私と彼もそうだっていうの?」
彼女が急に、顔をしかめて怒り出す。難しい年頃よね。
深呼吸をする。これを言ったら、明日からシカトかな。
「そうよ。高井さんは彼の中に自分の欲望を見出し、彼は高井さんの中に見出した」
「ちょっと!喧嘩売ってんのお!?」
バンと机が鳴った。さすがにテレビに釘付けの三人もこちらを向いた。
視線が一気に集まる。良い気分ね、女王様みたいで。
「あのね、欲望は誰もが持っていなくちゃいけないの。生きる意志ですら欲望よ。それに、相手の欲望を見極められるなんて、素敵な事でしょう?あなたはその目を持っていて、私にはその目が無いだけよ。アーユーオッケー?」
「・・・佐和、まだ『した』ことないんでしょう?」
あら、いい所を突いてくるわね。こういう場合って、見栄を張ろうか平気な顔をしようか、迷うわよね。
「いつでも目を光らせているんだけどね」
歯を見せて笑うと、彼女はきょとんとした顔をして、すぐに笑い出した。
「なあんだ!ないんじゃ、仕方ないよね」
「そうねえ、仕方ないわ」
皆が力なく笑った。
ザッツライト、人類の欺瞞じゃなくて、私の欺瞞よ。
ご機嫌麗しき彼女が、また言ってくる。
「だめだよー。早く大人にならなきゃさあ。やっぱり、体験しちゃうと世界が変わるよ?」
「そうねえ。でも、今はこれで精一杯よ」
もう一度、歯を見せて笑った。そして、やっとテレビに目を向けた。
『ラマン』は終わっていた。
テロップが流れ、来週のアクション映画を宣伝し始めている。なんて無機質な声なのかしら。
半ば茫然としていた。後ろでは、まだ続きを話している。ものすごく悔しい!あんな話に付き合うんじゃなかった!
他の三人はといえば、本当に悔しい事に満足そうな顔をしていた。実際、お菓子には全く手を伸ばさない。
「すごかったよねー。よく別れられたよね、惜しくないのかなあ?」
「結局、生活のためじゃん?いくら愛しててもさあ。私だったら、ああいう情けないタイプは嫌いだなあ」
「でも、大して激しくもないよね。なんか、雰囲気がいやらしいだけで。あれぐらいしそうだよね」
「えー?やだなあ、感覚が狂ってるんじゃない?ユキは」
いいわね、私もその話に参加したいわ。途中まで一緒だったのに。はいはい、満腹になって良かったわね。名作も女子高生にかかれば、純然なポルノだわ。
急激にお腹が空いてきた。こんなことなら、初めからあんな映画なんて見るんじゃなかったわ。
大きなため息を一つ吐くと、バッグから薬を取り出して飲んだ。修学旅行中は必ず飲み続けなければならない薬。あっちも面倒だけど、薬も面倒。しまうのも面倒臭くて、机の上に放り投げた。
映画対談をしている一人に何の薬なのかと聞かれたから、素直に答えた。すると、その子が大笑いで「それなら今は誰が来てもオッケーね」と言った。
頬を膨らませて黙っていると、突然にノックの音がした。誰かが返事をした直後に、座敷の引き戸が開いた。
「こら!さっさと、布団を敷け」
すると、件の彼女ーーー高井さんが声の主を見つけて、嬉しそうに笑った。
「うるさいよ、先生!わかった、私を襲いに来たんでしょう?」
「本木先生、サイテー!強姦魔!」
本木先生は、からかわれても全く動じない人だ。若い先生なのに大した人だなあと思う。澄ました顔をして、女の子の部屋に堂々と入場してくるところもすごい。
「はいはい、わかった。就寝時間だぞ、さっさと寝なさい。明日の自主研修に響く」
大丈夫よ、私たちそんなに柔じゃないのよ。その気になれば、反対に先生を襲った後でも元気に出かけられるわよ。なんて、ちょっと意地悪なことを考えていたりする。
なんとなく、本木先生は苦手だ。
何を言ってものれんに腕押し。違うな、いい表現が思いつかない。私にしては珍しい。人の悪口なら砂の数ほど出てくるのに。週番の時に顔を合わせるぐらいの縁の薄い先生だから、当然といえば当然か。
ああ、そういえば試供品の香水をつけていた時、怒りもせずに「良い香りだね」と言ったっけ。変な先生よね。
でも、嬉しかった。
小宮先生に見つかって注意されたけど、それよりもずっと本木先生の言葉が心に沈んだ。今でも思い出すと、顔が緩んでしまう。
ぼうっと宙を見ていたら、本木先生はこちらに歩いてきてテレビを消した。あら、なんて余計なことをする人なんでしょう。これから深夜番組で、さっきの映画の埋め合わせをしようとしてたのに。
「先生、それは余計だわ」
つい声に出してしまった。本木先生が振り向いた。
「なんだ、佐和?もう就寝時間だ」
なんだ、名前を覚えていたのか。やだなあ、これだから出来の悪い生徒は。
「眠れるわけないでしょう?これから見たい番組が始まるんだから、邪魔しないで下さい」
「全く正当性がない。集団生活が嫌なら、修学旅行に参加することはない」
「だって、先生。私、さっき『ラマン』を見ていたんです」
「は?ああ・・・」
珍しいことに、本木先生は難しい顔をした。ふうん、先生も見ていたのかな。
「先生、見てました?」
「見てない。そういう映画を見られるほど、先生たちは暇じゃないんだ」
「そういう映画?じゃあ、見た事はあるんですね?」
「そんなプライベートなことを話す必要性がどこに―――」
と、そこに高井さんがテンションMAXの大声を上げた。
「えー!見たことあるの?先生の感想は?」
続けて周りの小鳥達。
「やだあー!聞きたーい!」
ソプラノの大合唱。いいタイミングだわ。
「熱望してますよ?」
本木先生はもっと難しい顔をした。騒ぐ彼女たちに首を振って拒否すると、再び私に向き直った。
「それを見てたから、何だっていうんだ?もう放送は終わっているだろう?さっさと寝なさい」
半分呆れて怒ってる。そうよね、私でも呆れて怒るわ。
「それがね、途中で目を離してしまったんです」
「それで?」
「中途半端に見ちゃったんです。だから気持ち悪くて」
「・・・だから?」
「あれ?最後まで理由をお聞きになりたいですか?」
「・・・」
「お聞きになりたいですか?」
もう一度、声を高らかに上げて言った。
高井さんとその周りにいる女の子たちは、急に静まり返りきょとんとした顔をしている。
テレビに釘付けだった三人は吹き出しそうだけど。貴方たちはいいわよね、最後まで見れたのだから余裕があって。
本木先生はしばらく無言で天井を仰いでいた。それから髪をかきむしった。形容しがたい顔をして、小さくため息をつく。
「わかった、言わなくていい。君の言い分はわかった。だから寝なさい」
わかった?だから寝なさい?だから眠れないって言ってるでしょう!
「先生たちの部屋って、ああいう映画は見れないんですか?松岡先生に止められてるとか?」
「あのなあ・・・見回りとか明日のための会議とか色々あって、部屋を空ける事が多いんだ。最後まで見たくても、途中で抜け出さなきゃならないんだよ。それもこれも、みんな君たちの―――」
「じゃあ、先生も中途半端に見ちゃったんだ?」
にっこり笑って、言ってやった。本木先生は大きく息を吸った。
「やだあ、ウソツキ!先生も見てたのー?エッチだあ!」
またも歓声が上がる。そのおかげで、本木先生はいつもの態度を取り戻したようだった。もう就寝時間は過ぎている。本木先生、あとで松岡先生に怒られるわよ。
「はいはい!もう君たちには付き合っていられません。今度見回りに来た時に起きていたら、廊下で正座だからな」
「それって古いよー。せめて逆立ちとかはー?」
「余計な茶々を入れるな」
少し怒らせたようだ。本木先生は部屋から出て行く時、ちらりと私のほうを見て眉を釣り上げた。
高井さん達は笑い転げていた。そのあと、本木先生の話題のオンパレードだった。若い男の先生って辛いわね。
私といえば、傍にいる三人から同時に言われてしまった。
「佐和って意地悪ね!」
「そうかなあ?でも、隣でユキたちが笑いを堪えてるんだもん。私、平気な顔を保つのに必死だったんだから」
「悪い、悪い!でもさあ、そんなに『ラマン』が見れなかったことが悔しいわけ?欲求不満なんじゃない?」
「最後まで見た人たちからは言われたくないわ」
「きちんと見なかった人が悪いのよねえ?」
そう言って、三人は顔を見合わせて頷いた。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
好きなんだからいいじゃない
優蘭みこ
ライト文芸
人にどう思われようが、好きなんだからしょうがないじゃんっていう食べ物、有りません?私、結構ありますよん。特にご飯とインスタント麺が好きな私が愛して止まない、人にどう思われようがどういう舌してるんだって思われようが平気な食べ物を、ぽつりぽつりとご紹介してまいりたいと思います。
死ぬ前に、ひと休みしませんか?
せいだ ゆう
ライト文芸
高校三年生の樺山 栞(かばやま しおり)は、雑居ビルの屋上から、飛び降りようとしていた。
私が生きていても、迷惑をかけるだけ……。
十八年間の人生に見切りをつけ、飛び降りようとした瞬間、後ろから男の声が。
「死ぬ前に、ひと休みしませんか?」
セラピストを名乗る男から死ぬことを止められ、何故か施術を受けることに。
その日から、栞の人生は変わっていく。
男には、重大な秘密があることを知らずにーー。
どこぞのドアと澄香とすみか 〜妹と同じくらい好きな彼女が出来たら神と喧嘩する羽目になったのは一体どういう了見だ〜
板坂佑顕
ライト文芸
【完結に伴いED曲楽譜と音源をつけました】
●SoundCloud
https://soundcloud.com/user-84998149/ancient-water-featuring-zunko
●YouTube(低音質)
https://youtu.be/DQJ4aKUxJas
●nana
https://nana-music.com/sounds/0596c701
全ての音楽好きお兄ちゃん&お姉ちゃんに捧ぐ、ロック×妹×異次元ストーリーです。
1980年代終盤。バブルの終焉にしてバンドブームに沸く、ざわついた時代が舞台。
モテない兄と完璧な妹の剣崎姉妹は、グダグダで楽しい日常を謳歌中。そのモテない兄をなぜか慕う謎の少女、それに輪をかけて訳のわからんドアが登場したせいで、異次元にぶっ飛ばされたりトラウマと対峙したり神的な何かと喧嘩する羽目になったりと、日常は異常な方向へ転がり始めます。
全編に散りばめた音楽ネタは無駄に豪華。分かる人だけニヤリとできる、ためにならない細かさにつき、音楽ストリーミングとwikiを傍にどうぞ。
きっとあなたも、澄香に会いたくなる。
フレンドコード▼陰キャなゲーマーだけど、リア充したい
さくら/黒桜
ライト文芸
高校デビューしたら趣味のあう友人を作りたい。ところが新型ウイルス騒ぎで新生活をぶち壊しにされた、拗らせ陰キャのゲームオタク・圭太。
念願かなってゲーム友だちはできたものの、通学電車でしか会わず、名前もクラスも知らない。
なぜかクラスで一番の人気者・滝沢が絡んできたり、取り巻きにねたまれたり、ネッ友の女子に気に入られたり。この世界は理不尽だらけ。
乗り切るために必要なのは――本物の「フレンド」。
令和のマスク社会で生きる高校生たちの、フィルターがかった友情と恋。
※別サイトにある同タイトル作とは展開が異なる改稿版です。
※恋愛話は異性愛・同性愛ごちゃまぜ。青春ラブコメ風味。
※表紙をまんが同人誌版に変更しました。ついでにタイトルも同人誌とあわせました!
幕張地下街の縫子少女 ~白いチューリップと画面越しの世界~
海獺屋ぼの
ライト文芸
千葉県千葉市美浜区のとある地下街にある「コスチュームショップUG」でアルバイトする鹿島香澄には自身のファッションブランドを持つという夢があった。そして彼女はその夢を叶えるために日々努力していた。
そんなある日。香澄が通う花見川服飾専修学園(通称花見川高校)でいじめ問題が持ち上がった。そして香澄は図らずもそのいじめの真相に迫ることとなったーー。
前作「日給二万円の週末魔法少女」に登場した鹿島香澄を主役に服飾専門高校内のいじめ問題を描いた青春小説。
小さなパン屋の恋物語
あさの紅茶
ライト文芸
住宅地にひっそりと佇む小さなパン屋さん。
毎日美味しいパンを心を込めて焼いている。
一人でお店を切り盛りしてがむしゃらに働いている、そんな毎日に何の疑問も感じていなかった。
いつもの日常。
いつものルーチンワーク。
◆小さなパン屋minamiのオーナー◆
南部琴葉(ナンブコトハ) 25
早瀬設計事務所の御曹司にして若き副社長。
自分の仕事に誇りを持ち、建築士としてもバリバリ働く。
この先もずっと仕事人間なんだろう。
別にそれで構わない。
そんな風に思っていた。
◆早瀬設計事務所 副社長◆
早瀬雄大(ハヤセユウダイ) 27
二人の出会いはたったひとつのパンだった。
**********
作中に出てきます三浦杏奈のスピンオフ【そんな恋もありかなって。】もどうぞよろしくお願い致します。
**********
この作品は、他のサイトにも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる