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三ノ一
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朝、目が覚めると、隣に斎はいなかった。それでも、残っていた温もりが僕を安心させる。
「斎?」
返事はない。広い家だから、生半可な声では届かない。そのうちに戻ってくるだろうと、僕は呼ぶことをやめた。布団の上にあぐらをかき、窓のほうに視線を向けた。
雨戸は開けられていて、ガラス越しの光が僕を刺す。庭には真っ白い雪が積もっていた。
雪に乱反射した朝もやの光を直視すると目が眩み、辺りの輪郭を漠然とさせる。僕の中で、整然とした世界が遠慮なく溶けてしまうと、次に光の束は自分の力だけで全てを形作ろうと不器用に動く。その過程で、窓に一つのものが作られた。
「あ…」
水色のワンピース。
斎の母親だ。今度は普通に立っている。
普通に?
はっきり言って、適切な言葉じゃない。でも、そうとしか表現できない。よく観察して見ると、季節外れの半袖のワンピースだ。首を吊っている時のぞっとするような顔ではなく、綺麗な微笑を浮かべこちらを見ている。
儚げに微笑む顔まで斎にそっくりだ。斎が髪を伸ばしたら、見分けがつかないだろう。
斎の母親は音もなく僕に近寄り、手を伸ばしてきた。一度経験したものだからなのか、妙に落ち着いてしまっている。幽霊といっても、毎日見ている顔だ。
「い、つ、き」
青白い顔がゆっくりと迫ってきて、唇を動かした。僕の耳に冷たい声が滑り込む。
「いや、その…。家のどこかにいるとは思うんだけど」
「きょうは、まんとうろうのひ、やから、つれていって、あげましょう、ね」
節分は明日だ。その上、僕は斎じゃない。しかし、間違いを訂正してもこの場合は意味をなさないだろう。
「き、れ、い、な、ん、よ。きょう、は、とくべつに、おそく、まで、おきていても、いいわ。だから、いいこに、してるん、よ」
「いや、だから。俺は―――」
もう二十二歳にもなるのに、頭を撫でられてしまった。感触は風に吹かれたような感じだ。なるほど、これは照れくさい。斎が怒るのも無理はない。
「おかあさん、もう、いつき、とは、あえなく、なるかも、しれへんの。ご、め、ん、ね」
斎の母親は、僕を愛しそうに抱き締めた。そしてそのまま消えていった。微かにする香水のような匂いが、これは現実なんだと訴えている。
再び窓に目をやったが、光が世界を完全に再構築した後だった。しかし、どこかぎこちない。
「斎!」
大声で呼んだ。今、消えたのが斎だったらと思うと、急に身体が緊張した。
「斎!どこにいるんだ?斎!」
斎の姿を確認するまで、何度も名前を呼ぶ。十回目で返事が聞こえた。
「朝からうるさい!何か用?」
廊下の奥で響いている足音は苛立っていた。僕だって朝から不機嫌だ。
部屋の入口から、斎が顔を出す。
「何?」
「どこに行ってたんだ?」
「朝食を買いにコンビニ。すぐにできるから、待ってて」
「だから、弁当か何かでいいって」
「だから、それは味気ない」
昨日と同じ台詞を残し、斎は台所に行ってしまった。朝食よりも、僕は斎に触れていたかった。仕方なく、布団を上げて着替えることにした。ヒーターを点けて、服を温める。広い家は寒いから嫌いだ。僕の家なんて、エアコンを点ければ数分で温まるほど狭い。でも、心地よい空間だ。ここは淋しすぎる。
なるべく早くに斎をここから引き離さなければ、心ごと凍ってしまいそうだ。上着に貼りついた人工の温もりに不安を感じる。僕が欲しいのはこれじゃない。
いささか感傷的になっていると、足音が聞こえてきた。部屋の引き戸が騒音を立てる。
「お待たせ。テーブル出して」
振り返ると、斎がお盆にサンドウィッチとコーヒーを乗せて立っていた。
「サンドウィッチだったら、コンビニで売ってるだろう?それでいいって」
「こっちがお金を出してるんだから、文句はなし。早く、テーブル!」
桜色の唇が僕に指図する。人が気をつかってるのに、そんな言い草はない。腹が立ったが、命令どおりに部屋の隅に押しやってある机を力任せに引っ張った。
僕が乱暴な動作をしたので、斎の顔が不安そうにこちらをうかがっていた。
「怒った?」
「怒ってない」
「怒っている人って、怒ってないって言うよね」
形の良い顔が曇った。静かにお盆を机の上に載せると、しゃがみ込んで苦しそうに息を吐いた。態度が露骨すぎたようだ。
「本当に怒ってないよ。机が重かったからさ、力をいれなきゃ動かないと思って」
僕が微笑むと、斎は一瞬だけ微笑んだ。
僕と斎は、事あるごとに喧嘩をしている。原因はいつも斎だが、悪化させているのは僕だ。よく今まで同居が続いたなと感慨にふける時もある。それでも、孤独じゃないということだけは確信できるから、喧嘩は嫌いじゃない。
両親がいない僕には、唯一の家族だ。
だから僕は、一度手に入れた家族をもう二度と手放したくない。それでも喧嘩というのは突発的な事故みたいなもので、避けようがない。斎は繊細すぎて、ちょっとしたことでも泣き出してしまう。これまで大切に扱ってきたつもりだが、僕といることで少しずつ傷ついているのではないだろうか。僕は残念ながら、優しい部類に入るような人間じゃない。
「どうしたの?ぼんやりしてさ」
斎が怪訝そうにこちらを見ていた。僕はすぐに表情を隠した。
「ん?いや、何でもないよ」
「また…見た?」
「見てないよ。寝起きだからだ」
今度は嘘をついた。斎の髪を母親の代わりに、くしゃくしゃにかき回して誤魔化した。
「もう!また子供扱いしてない?」
「してないよ。飯、食っちまおうぜ」
僕は笑いながら座った。斎も渋々座る。
「…もう七年経つんだね。高校の時に会ってから」
「ああ、そうだな。これからもよろしく」
「…実家に帰ろうかと思って。卒業したら」
どうして、斎は突拍子もないことばかり言うんだ。僕を困らせるのを楽しんでいるみたいだ。面白くなくて、サンドウィッチを持つ手に無駄な力が入った。醜悪にパンが歪む。
「どうしてだよ?」
「だって、引っ越すにはいい時期かなって」
「何がいい時期なんだ!全然関係ないだろう?」
「関係あるよ。子供扱いしてるだろうけど、もう子供じゃない。そろそろ離れていかないと、何もかも駄目になる」
「誰と住もうと俺の勝手だ。俺は気にしない」
「周りは気にするよ。社会に馴染んでいくってことは勝手も利かなくなるんだよ?」
「言われなくてもお前よりは―――」
「解ってない!」
白く細い手が机を叩き、空気を鳴らした。琥珀色のコーヒーがカップの中で波打った。そして、僕の耳も打たれる。
斎は今にも泣きそうだった。もちろん泣いている斎も充分に綺麗だ。しかし、笑ってくれるのだったら僕は何でもする。こんな無理難題だって、承知したっていいんだ。
「…じゃあ、いいよ。わかった」
僕は搾り出すように言葉を綴った。そして、緊張しながら斎の表情をうかがった。
斎はとびっきりの微笑を浮かべていた。嬉しさと哀しさ、そして絶望と混乱が複雑に入り混じった奇妙な微笑だ。唇には生気というものがまるでなかった。
「そう…よかった。今まで、ありがとう」
憎たらしいこと、この上ない。
「バーカ。嘘だよ。俺がお前から離れるなんてことは、どちらかが死なない限りはない」
僕が斎を手放すなんて、地球が引力を失って月を手放したとしても、絶対にありえない。
からかうような笑みを浮かべると、斎の唇に桜色が戻った。そして、不機嫌そうに尖った。
「嘘つき」
「嘘でよかっただろう?」
「全然」
拗ねたように膝を抱えて、斎は顔を伏せた。
喧嘩をするために奈良に来たわけじゃない。気を取りなおすと、斎の髪を優しく撫でた。
「俺は大丈夫だから、自分の事を心配しろ。迷惑なんかじゃない」
「…ありがとう」
無機質な声だった。ゆっくりと上げられた顔には美しさだけが取り残され、表情というものが一切見当たらなかった。
これが、今のところ僕が一番綺麗だと思う斎だ。
しばらくすると、斎は俗世に馴染んだ顔に戻り、微笑んだ。
「食べ終わったら、出かけよう。もうすぐタクシーが来るから」
「ああ」
僕も微笑んで、残りのサンドウィッチを片付けた。
「斎?」
返事はない。広い家だから、生半可な声では届かない。そのうちに戻ってくるだろうと、僕は呼ぶことをやめた。布団の上にあぐらをかき、窓のほうに視線を向けた。
雨戸は開けられていて、ガラス越しの光が僕を刺す。庭には真っ白い雪が積もっていた。
雪に乱反射した朝もやの光を直視すると目が眩み、辺りの輪郭を漠然とさせる。僕の中で、整然とした世界が遠慮なく溶けてしまうと、次に光の束は自分の力だけで全てを形作ろうと不器用に動く。その過程で、窓に一つのものが作られた。
「あ…」
水色のワンピース。
斎の母親だ。今度は普通に立っている。
普通に?
はっきり言って、適切な言葉じゃない。でも、そうとしか表現できない。よく観察して見ると、季節外れの半袖のワンピースだ。首を吊っている時のぞっとするような顔ではなく、綺麗な微笑を浮かべこちらを見ている。
儚げに微笑む顔まで斎にそっくりだ。斎が髪を伸ばしたら、見分けがつかないだろう。
斎の母親は音もなく僕に近寄り、手を伸ばしてきた。一度経験したものだからなのか、妙に落ち着いてしまっている。幽霊といっても、毎日見ている顔だ。
「い、つ、き」
青白い顔がゆっくりと迫ってきて、唇を動かした。僕の耳に冷たい声が滑り込む。
「いや、その…。家のどこかにいるとは思うんだけど」
「きょうは、まんとうろうのひ、やから、つれていって、あげましょう、ね」
節分は明日だ。その上、僕は斎じゃない。しかし、間違いを訂正してもこの場合は意味をなさないだろう。
「き、れ、い、な、ん、よ。きょう、は、とくべつに、おそく、まで、おきていても、いいわ。だから、いいこに、してるん、よ」
「いや、だから。俺は―――」
もう二十二歳にもなるのに、頭を撫でられてしまった。感触は風に吹かれたような感じだ。なるほど、これは照れくさい。斎が怒るのも無理はない。
「おかあさん、もう、いつき、とは、あえなく、なるかも、しれへんの。ご、め、ん、ね」
斎の母親は、僕を愛しそうに抱き締めた。そしてそのまま消えていった。微かにする香水のような匂いが、これは現実なんだと訴えている。
再び窓に目をやったが、光が世界を完全に再構築した後だった。しかし、どこかぎこちない。
「斎!」
大声で呼んだ。今、消えたのが斎だったらと思うと、急に身体が緊張した。
「斎!どこにいるんだ?斎!」
斎の姿を確認するまで、何度も名前を呼ぶ。十回目で返事が聞こえた。
「朝からうるさい!何か用?」
廊下の奥で響いている足音は苛立っていた。僕だって朝から不機嫌だ。
部屋の入口から、斎が顔を出す。
「何?」
「どこに行ってたんだ?」
「朝食を買いにコンビニ。すぐにできるから、待ってて」
「だから、弁当か何かでいいって」
「だから、それは味気ない」
昨日と同じ台詞を残し、斎は台所に行ってしまった。朝食よりも、僕は斎に触れていたかった。仕方なく、布団を上げて着替えることにした。ヒーターを点けて、服を温める。広い家は寒いから嫌いだ。僕の家なんて、エアコンを点ければ数分で温まるほど狭い。でも、心地よい空間だ。ここは淋しすぎる。
なるべく早くに斎をここから引き離さなければ、心ごと凍ってしまいそうだ。上着に貼りついた人工の温もりに不安を感じる。僕が欲しいのはこれじゃない。
いささか感傷的になっていると、足音が聞こえてきた。部屋の引き戸が騒音を立てる。
「お待たせ。テーブル出して」
振り返ると、斎がお盆にサンドウィッチとコーヒーを乗せて立っていた。
「サンドウィッチだったら、コンビニで売ってるだろう?それでいいって」
「こっちがお金を出してるんだから、文句はなし。早く、テーブル!」
桜色の唇が僕に指図する。人が気をつかってるのに、そんな言い草はない。腹が立ったが、命令どおりに部屋の隅に押しやってある机を力任せに引っ張った。
僕が乱暴な動作をしたので、斎の顔が不安そうにこちらをうかがっていた。
「怒った?」
「怒ってない」
「怒っている人って、怒ってないって言うよね」
形の良い顔が曇った。静かにお盆を机の上に載せると、しゃがみ込んで苦しそうに息を吐いた。態度が露骨すぎたようだ。
「本当に怒ってないよ。机が重かったからさ、力をいれなきゃ動かないと思って」
僕が微笑むと、斎は一瞬だけ微笑んだ。
僕と斎は、事あるごとに喧嘩をしている。原因はいつも斎だが、悪化させているのは僕だ。よく今まで同居が続いたなと感慨にふける時もある。それでも、孤独じゃないということだけは確信できるから、喧嘩は嫌いじゃない。
両親がいない僕には、唯一の家族だ。
だから僕は、一度手に入れた家族をもう二度と手放したくない。それでも喧嘩というのは突発的な事故みたいなもので、避けようがない。斎は繊細すぎて、ちょっとしたことでも泣き出してしまう。これまで大切に扱ってきたつもりだが、僕といることで少しずつ傷ついているのではないだろうか。僕は残念ながら、優しい部類に入るような人間じゃない。
「どうしたの?ぼんやりしてさ」
斎が怪訝そうにこちらを見ていた。僕はすぐに表情を隠した。
「ん?いや、何でもないよ」
「また…見た?」
「見てないよ。寝起きだからだ」
今度は嘘をついた。斎の髪を母親の代わりに、くしゃくしゃにかき回して誤魔化した。
「もう!また子供扱いしてない?」
「してないよ。飯、食っちまおうぜ」
僕は笑いながら座った。斎も渋々座る。
「…もう七年経つんだね。高校の時に会ってから」
「ああ、そうだな。これからもよろしく」
「…実家に帰ろうかと思って。卒業したら」
どうして、斎は突拍子もないことばかり言うんだ。僕を困らせるのを楽しんでいるみたいだ。面白くなくて、サンドウィッチを持つ手に無駄な力が入った。醜悪にパンが歪む。
「どうしてだよ?」
「だって、引っ越すにはいい時期かなって」
「何がいい時期なんだ!全然関係ないだろう?」
「関係あるよ。子供扱いしてるだろうけど、もう子供じゃない。そろそろ離れていかないと、何もかも駄目になる」
「誰と住もうと俺の勝手だ。俺は気にしない」
「周りは気にするよ。社会に馴染んでいくってことは勝手も利かなくなるんだよ?」
「言われなくてもお前よりは―――」
「解ってない!」
白く細い手が机を叩き、空気を鳴らした。琥珀色のコーヒーがカップの中で波打った。そして、僕の耳も打たれる。
斎は今にも泣きそうだった。もちろん泣いている斎も充分に綺麗だ。しかし、笑ってくれるのだったら僕は何でもする。こんな無理難題だって、承知したっていいんだ。
「…じゃあ、いいよ。わかった」
僕は搾り出すように言葉を綴った。そして、緊張しながら斎の表情をうかがった。
斎はとびっきりの微笑を浮かべていた。嬉しさと哀しさ、そして絶望と混乱が複雑に入り混じった奇妙な微笑だ。唇には生気というものがまるでなかった。
「そう…よかった。今まで、ありがとう」
憎たらしいこと、この上ない。
「バーカ。嘘だよ。俺がお前から離れるなんてことは、どちらかが死なない限りはない」
僕が斎を手放すなんて、地球が引力を失って月を手放したとしても、絶対にありえない。
からかうような笑みを浮かべると、斎の唇に桜色が戻った。そして、不機嫌そうに尖った。
「嘘つき」
「嘘でよかっただろう?」
「全然」
拗ねたように膝を抱えて、斎は顔を伏せた。
喧嘩をするために奈良に来たわけじゃない。気を取りなおすと、斎の髪を優しく撫でた。
「俺は大丈夫だから、自分の事を心配しろ。迷惑なんかじゃない」
「…ありがとう」
無機質な声だった。ゆっくりと上げられた顔には美しさだけが取り残され、表情というものが一切見当たらなかった。
これが、今のところ僕が一番綺麗だと思う斎だ。
しばらくすると、斎は俗世に馴染んだ顔に戻り、微笑んだ。
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僕も微笑んで、残りのサンドウィッチを片付けた。
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