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21 戦の前夜 3

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「そろそろ陽が落ちる頃かしら?」
 祝福の儀式が終わってから、マリュリーサはずっと考え込でいて、巫女達を心配させたが、やっと顔を上げた。
 地下のこの部屋にいると、外の時間の経過がよくわからないのだ。
「はい。今夜は雲が出ております。明日の出陣式は雨にならないといいのですが」
「そう……陛下や皆さんはもう休んだのかしら」
「いえ、まだまだ上は忙しない様子です。いったいいつお休みになるのか」
「あれではまた、お体を壊してしまいますわ」
「ええ、心配ね」
 ネネの言葉に、マリュリーサは大して心配でもなさそうに返事をした。
「私も明日に備えて少し休みます。皆下がっていて。エクィ、あなたも」
「かしこまりました。何かあればすぐにお呼びください」
 祝福の儀式の後、マリュリーサが疲れてしまうのはいつものことだ。また、 最近は毎夜一人で過ごしているので、巫女達は次々に頭を下げて部屋を出て行った。ただ、エクィだけは立ち去り難いようで、じっとマリュリーサを見つめている。
「なに? エクィ、私一人になりたいのだけど」
 扉の前でたたずむ忠実な女をマリュリーサは振り返った。
「……あいつが来るのでしょう?」
 フードの下からエクィはマリュリーサに問うた。
「あいつ?」
「あの冷たい目をした男です。何者ですか? あいつはマリュリーサ様のなにを知っているんです?」
「……エクィ、今は答えられない。堪忍して」
 容赦のない問いにマリュリーサは目を逸らせた。普段無口な彼女が、マリュリーサにこのような態度を取ることは初めてだ。
「私はあの男も、王も許せません」
 エクィは、神樹や神殿を汚したザフェルの全てが許せないのだ。そして、マリュリーサの心を乱すレイツェルトをひどく憎んでいた。
「……命じてくだされば、私はあの男を手にかけます」
「エクィ!」
 痩せたフードの女から恐ろしい言葉が絞り出される。
「なんと言うことを!」
「私はもともと、ザフェルの間諜スパイ組織の出です」
 エクィが自分について語るのは初めてだった。
「組織は長い間ザフェルを裏から支えてきました。時には王も知らない汚い仕事をしてまで。しかし五年前、解体されることになり、秘密保持のために多くの仲間が殺されました。私はここまで逃げ延びましたが、結局斬られて焼かれ、崖下に捨てられました。そのまま死ぬところをあなたに助けていただいた命です。どうせ汚れたこの手、方法はいくらでもあります。あなたの為なら私は……」
 そう言って、エクィはフードを落とした。
 ひどい傷だった。左目の周辺から額にかけて焼けただれ、刀傷は喉から胸にかけて続いている。衣の下にも、傷や火傷がある。マリュリーサもエクィの傷を見るのは、彼女を助けた時以来、初めてだった。
 あの朝、マリュリーサは何かに突き動かされるように山中を歩いていた。一晩中神樹の根本で過ごした後、ネネを伴い朝露に濡れた枝を持って、導かれるように山に入ったのだ。
 そこで、彼女を見つけた。瀕死の重傷だったが、まだ息があった。
 マリュリーサは持っていたリュウノス枝から葉をちぎり、搾り取った樹液を傷口に振りかけた。こんなに多量の血を見たのは初めてだったが、彼女はためらわなかった。
 そうして連れ帰ったエクィは命を取りとめる。
 もちろん、医師出身の神官の助けもあったが、あのまま放っておけば、半刻も持たずに死んでいただろうと言われた。以来エクィは、マリュリーサに付き従っている。
「私はあなたを汚そうとするあの男が憎い。あなたに救われたこの命、いつでも捨てる覚悟でおります」
「……エクィ」
 マリュリーサはそっとエクィのフードを直してやった。
「ありがとう。でも、いいの。私もあなたと一緒なの、初めから清い体などではないのよ」
「……え?」
「多分、私はもともと処女おとめではなかった」
「それはあの男に植え付けられた暗示です!」
「いいえ、違う。記憶を消したのは長老なのよ。あの方は、先代や先々代の巫女姫の記憶も抹消していた。完全なリュウノス神樹の巫女姫を作るために」
「……」
「私の……いいえ、巫女姫の俗世での記憶は、神官の術式によって封じられてきたのよ。巫女姫が神樹と通じられるように、神官には彼らだけに伝授される秘術があるのだわ」
「そ、そんなことが」
「そして、あの人は昔の私を知っている。そして私に思い出してほしいと思っている」
「思い出せた……のですか?」
「いいえ。まだ霞がかかっている気がしてもどかしいの。でも、感じる。あの人は嘘はついてない。私は昔、あの人と情を交わした」
「……」
「巫女姫が聖女だなんて嘘なのよ。そうあって欲しいと言う人々の期待に応じて、神官たちに作られたものなのよ。聖樹は人間の価値観で人を選んだりしないわ」
「マリュリーサ様……」
「私は、私が何者であったのか知りたい。自分の全てを取り戻したい。でもね、エクィ、たとえ記憶が戻っても、私が聖樹に仕えることには変わりはないわ。リュウノスの意思を受け継ぐ者は、私だけなのだから!」
 そう言ってマリュリーサは立ち上がる。
「エクィ。私を思ってくれるなら、今は一人にして。明日の出陣式には私も出なければならない。私は自分がするべきことをよく理解しているわ」
「……」
「明日の朝、迎えにきてください」
 エクィはもう何も言わず、深々と一礼すると部屋を下がった。
 マリュリーサはそのまま横になり、ほんの少しまどろむ。

 ああ──。
 ここは島だ。

 マリュリーサは自分が鳥になったように、俯瞰で地上を見下ろしている。
 海風が強く吹きすさび、雲の動きが早い。太陽光は強いのに、細く、この季節はいつも空が低い。海原の向こうに大陸が見える。
 突然、視界が切り替わった。
 柔らかい苔の上でマリュリーサは髪を乱している。
 誰かが体の上に伸しかかり、四肢の自由が利かない。
 至るところに触れられ、未知の感覚を掘り起こされて、悲鳴をあげる自分の声が聞こえた。
 怖かった。なのに、やめてほしくはなかった。
 
 もっと、もっと大きな波で、私を揺らして! 体が熱いの!
 あなたを感じたい!
 ──レイ。
 レイ兄さん!

 目覚めた時は真夜中に近かった。
 そっと寝台を降りて、部屋を出る。
 素足で洞窟を進み、泉の空間に出ると、奥には予想通りの姿が立っていた。
「待っていたぞ、マリュー」
 それはマリュリーサが愛した男の姿だった。
「ええ……来たわ。私は来たの、レイ」
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