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16 奪われた過去 1
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マリュリーサは眠っている。
巫女姫の重圧から解放された彼女の眠りは、地下の静寂も相まって、深く長くなっていた。
白いシーツの上でゆったりと体を広げた寝姿。そして、寝台の傍にはエクィがうずくまり、主の様子を窺っていた。
寝息で胸が上下し、まつ毛がぴったりと合わさっている。
マリュリーサは夢を見ていた。
なんて冷たい深い青……あれが海なのかしら。
じゃあここは……島?
眠りの深淵にゆっくりと落ちていく中で、次第に見えてくる風景がある。
丈の高い草が強い風になびいている。
私は大きな灰色の建物から飛び出したみたい……走っているの?
起伏の多い地形だ。
登って下りてまた登って、この島で一番高い岩山の下の小さな林に入った。木々は鮮やかによく茂っている。
綺麗なせせらぎを遡ると青い泉があり、岩山から流れ落ちた雨水が小さな滝となって注ぎ込んでいた。
あれは誰?
岩陰に誰かが立っているのが見える……銀色の髪の少年だ……ああ、振りむこうとしている。
彼が私を見つけた!
……なんて綺麗な青い──。
***
「レイ兄さん! ここにいたのね!」
マリュリーサは水を蹴散らしながら浅瀬を渡った。
「探したのよ! 時間ができたら、南の滝に来いなんていうから」
「ああ。もう用事は終わったのか?」
「ええ、乳搾りも、家畜小屋の掃除も、あと繕いものも全部!」
「マリューは働き者だな」
「そうでもないわ。最近人が減ったから楽になったのよ。兄さんはまた鍛錬?」
「ああ、この森は小さいが地形が複雑で、体を鍛えるのに好都合だ。おじさん達は許してくれたのか?」
「ええ。たまにはクロを運動させなくちゃって言ったの。ここまで駆けさせた」
クロというのはこの島唯一の馬だ。羊や牛はいるが馬はこのクロ一頭だけで、普段はレイツェルトが世話をしている。農耕馬だが、人を乗せられるように訓練したのも彼だった。
「クロ、久しぶりだな。世話をしてやれなくてすまない」
レイツェルトは大人しい黒馬の鼻面を撫でてやる。クロは嬉しそうに嘶き、少年に大きな頭を擦り付けた。
「ここにはあまり行くなって、母さん達がいうんだけど……岩場には隠れた亀裂があって危ないからって」
「大丈夫だ。ここの地形はもう全て把握している」
「そう? お腹は?」
「減ってない。魚を獲って食った」
彼の腰には古い剣が下げられている。青い石がはまった短剣だ。
「なぁんだ。せっかく、私が焼いたお菓子を持ってきたのに」
そう言ってマリュリーサは、斜めに下げた袋から、平たい焼き菓子を取り出した。それは大きくて固く焼きしめられている。
「卵がいっぱいあったら、もっとふわふわに焼けるんだけど。最近は砂糖も乏しくて、あまり甘くないの」
「それなら、待っていろ」
レイツェルトは足元の袋から自分で作った弓を取り出した。
それに矢を番えて、滝の上にむける。崖の中腹に張り出した灌木。そこには赤い実が成っていた。
放たれた矢は細い枝を見事に射抜き、滝壺へと落下する。
「わぁ!」
マリュリーサは躊躇いもなく水に入り、流れてくる枝を拾い上げた。
「深みにはまるなよ」
「大丈夫……きゃあ!」
その途端、マリュリーサは丸い石に足を取られ、ものの見事に尻餅をついた。
「マリュー!」
レイツェルトは血相を変えて飛んできた。
「大丈夫。お尻を打っただけよ。ほら、全部無事!」
助け起こされながらも、マリュリーサは得意そうに枝を掲げてみせる。そこには熟れた実が三つもあった。
「そんなもの放って手をつけばよかったんだ」
「いやよ、滅多に採れないサイカの実だもの」
そう言ってマリュリーサは岸辺に戻り、平たい石の上に実を乗せて別の石でゆっくり押し潰した。薄い皮を破って柔らかい果肉がじゅるりと出てくる。それを菓子の上に乗せると、マリュリーサはレイツェルトに差し出した。彼はそれを二つに割って、片方を小さな手に乗せてやる。
「マリュー、それは何だ?」
レイツェルトはマリュリーサの鎖骨の下ある、痣のようなものを見つけて尋ねた。濡れた服から透けていたのだ。薄紫色の痣は、彼の親指くらいの大きさがある。
「紫色だぞ、ぶつけたのか?」
レイツェルトは胸元の紐を緩めて白い胸を覗き込んだ。
「え、これ? わからない。一昨日お風呂に入った時に見つけて、最初は薄かったんだけど、どんどん濃くなって……ぶつけた覚えはないんだけど」
「変な形だな……俺には葉っぱのように見える」
「ええ、母さんもそう言ってた。お薬塗ってもらったけど痛くないし、しばらくしたら治るだろうって」
「ふぅん……俺の痣とちょっと似ているな」
そう言って、レイツェルトは自分のシャツの紐を解いた。そこには黒い花のような紋様が浮かび上がっていた。レイツェルトはマリュリーサ以外にその痣を見せたことはない。
「同じ場所にあるね。葉っぱとお花で、私たちお揃いだわ!」
「そうかな?」
レイツェルトの痣は昔からあったが、背丈が急激に伸びだした最近になって、はっきりとした形を取るようになった。
それは黒い薔薇だった。
「上に登ろうか」
レイツェルトは滝のそばの大岩を見上げた。
「寒くはないか? まだ服が濡れているだろう?」
「大丈夫。もう乾き始めてる」
「そうか」
二人は大岩の上に立っている。ここは島で一番高い岩山の下だから、遠くまでよく見渡せる。ここは岩山をのぞいてほとんど最南端だ。
「狭いな」
レイツェルトは南北に伸びる島を見渡した。
北の方にある建造物は、彼らの住まう『石の薔薇』だ。何もない草原のただ中で、それはまるで墓石のように見えた。
あの中で明日のない少年少女達が暮らしている。
その数は増減するが、今現在は八人で、レイツェルトは今では最年長かつ最古参である。
マリュリーサの両親はその世話役だった。彼らは数人の使用人とともに、子供達の衣食住の世話をしている。
また、石の薔薇には世話役とは別に、『導師』と呼ばれる男達が二人いた。
彼らは常に仮面をつけ、黒い衣服で身を覆っている。読み書きなど、最低限の教養、作法などを子ども達に教えるが、数ヶ月で一人ずつ入れ替わり、決して彼らと個人的な接触をすることはない。
一人、レイツェルトを除いて。
マリュリーサからみても、レイツェルトは明らかに特別視されていた。両親からも『導師』からも。
彼は優秀だった。書物の内容は一度で理解するため『導師』は医術や薬学、戦術の本まで彼に与えた。
また恵まれた体格は、それに似合う身体能力を発揮し、何人かの『導師』は彼にだけ剣術の基礎を教えた。瞬く間に彼の腕は、どの『導師』も驚嘆するほどになった。
しかし、子ども達の顔ぶれはどんどん変わっていくのに、レイツェルトだけはこの島に取り残されたままだった。
咲いても価値がない石の薔薇。ここで暮らす限り、彼には未来がないのだった。
「エイメルがいなくなった」
「……そう」
レイツェルトの言葉にマリュリーサは驚かない。『石の薔薇』で暮らす少年少女が突然いなくなることは珍しいことではないからだ。
「おじさんは何か言っていたか?」
おじさんとは、マリュリーサの父親のことだ。
「いいえ。レイ兄さん、父さん達は私には何も言わないの。難しい顔で首を振るばかり」
「そうか」
レイツェルトは、無口なマリュリーサの両親を責めるつもりはなかった。彼らもこの孤島で、命令されたことをしているに過ぎないのだ。
エイメルは大人しいが、いつもにこにこしている九歳の少年で、読書が好きだった。自分が何者なのか全く知らない様子だったが、母の形見だという、首飾りだけは手放したことがなかった。
「エイメルの持ち物で、なくなっていたのはあの首飾りだけだ。だから彼は連れていかれたんだ」
「ええ」
いなくなるということには色々な意味があると、マリュリーサも既に知っている。
「俺はあと半年で十六になる。そしたら自力でこの島を出ていく。そして俺をこんな島に閉じ込めた奴らを全員殺してやる」
レイツェルトは腰に下げている、剣を握りしめた。
「そんな恐いこと言わないで!」
少年に似合わぬほど冷たい殺気を漲らせたレイツェルトに、マリュリーサが抱きついた。
「怖いわ!」
「……悪かった。女の子の前でいう言葉じゃなかったな」
「子ども扱いしないで!」
「してないさ……ほら」
そういうと、レイツェルトは自分に顔を埋めたマリュリーサの顎を掬い上げ、勢いよく唇を重ねた。
巫女姫の重圧から解放された彼女の眠りは、地下の静寂も相まって、深く長くなっていた。
白いシーツの上でゆったりと体を広げた寝姿。そして、寝台の傍にはエクィがうずくまり、主の様子を窺っていた。
寝息で胸が上下し、まつ毛がぴったりと合わさっている。
マリュリーサは夢を見ていた。
なんて冷たい深い青……あれが海なのかしら。
じゃあここは……島?
眠りの深淵にゆっくりと落ちていく中で、次第に見えてくる風景がある。
丈の高い草が強い風になびいている。
私は大きな灰色の建物から飛び出したみたい……走っているの?
起伏の多い地形だ。
登って下りてまた登って、この島で一番高い岩山の下の小さな林に入った。木々は鮮やかによく茂っている。
綺麗なせせらぎを遡ると青い泉があり、岩山から流れ落ちた雨水が小さな滝となって注ぎ込んでいた。
あれは誰?
岩陰に誰かが立っているのが見える……銀色の髪の少年だ……ああ、振りむこうとしている。
彼が私を見つけた!
……なんて綺麗な青い──。
***
「レイ兄さん! ここにいたのね!」
マリュリーサは水を蹴散らしながら浅瀬を渡った。
「探したのよ! 時間ができたら、南の滝に来いなんていうから」
「ああ。もう用事は終わったのか?」
「ええ、乳搾りも、家畜小屋の掃除も、あと繕いものも全部!」
「マリューは働き者だな」
「そうでもないわ。最近人が減ったから楽になったのよ。兄さんはまた鍛錬?」
「ああ、この森は小さいが地形が複雑で、体を鍛えるのに好都合だ。おじさん達は許してくれたのか?」
「ええ。たまにはクロを運動させなくちゃって言ったの。ここまで駆けさせた」
クロというのはこの島唯一の馬だ。羊や牛はいるが馬はこのクロ一頭だけで、普段はレイツェルトが世話をしている。農耕馬だが、人を乗せられるように訓練したのも彼だった。
「クロ、久しぶりだな。世話をしてやれなくてすまない」
レイツェルトは大人しい黒馬の鼻面を撫でてやる。クロは嬉しそうに嘶き、少年に大きな頭を擦り付けた。
「ここにはあまり行くなって、母さん達がいうんだけど……岩場には隠れた亀裂があって危ないからって」
「大丈夫だ。ここの地形はもう全て把握している」
「そう? お腹は?」
「減ってない。魚を獲って食った」
彼の腰には古い剣が下げられている。青い石がはまった短剣だ。
「なぁんだ。せっかく、私が焼いたお菓子を持ってきたのに」
そう言ってマリュリーサは、斜めに下げた袋から、平たい焼き菓子を取り出した。それは大きくて固く焼きしめられている。
「卵がいっぱいあったら、もっとふわふわに焼けるんだけど。最近は砂糖も乏しくて、あまり甘くないの」
「それなら、待っていろ」
レイツェルトは足元の袋から自分で作った弓を取り出した。
それに矢を番えて、滝の上にむける。崖の中腹に張り出した灌木。そこには赤い実が成っていた。
放たれた矢は細い枝を見事に射抜き、滝壺へと落下する。
「わぁ!」
マリュリーサは躊躇いもなく水に入り、流れてくる枝を拾い上げた。
「深みにはまるなよ」
「大丈夫……きゃあ!」
その途端、マリュリーサは丸い石に足を取られ、ものの見事に尻餅をついた。
「マリュー!」
レイツェルトは血相を変えて飛んできた。
「大丈夫。お尻を打っただけよ。ほら、全部無事!」
助け起こされながらも、マリュリーサは得意そうに枝を掲げてみせる。そこには熟れた実が三つもあった。
「そんなもの放って手をつけばよかったんだ」
「いやよ、滅多に採れないサイカの実だもの」
そう言ってマリュリーサは岸辺に戻り、平たい石の上に実を乗せて別の石でゆっくり押し潰した。薄い皮を破って柔らかい果肉がじゅるりと出てくる。それを菓子の上に乗せると、マリュリーサはレイツェルトに差し出した。彼はそれを二つに割って、片方を小さな手に乗せてやる。
「マリュー、それは何だ?」
レイツェルトはマリュリーサの鎖骨の下ある、痣のようなものを見つけて尋ねた。濡れた服から透けていたのだ。薄紫色の痣は、彼の親指くらいの大きさがある。
「紫色だぞ、ぶつけたのか?」
レイツェルトは胸元の紐を緩めて白い胸を覗き込んだ。
「え、これ? わからない。一昨日お風呂に入った時に見つけて、最初は薄かったんだけど、どんどん濃くなって……ぶつけた覚えはないんだけど」
「変な形だな……俺には葉っぱのように見える」
「ええ、母さんもそう言ってた。お薬塗ってもらったけど痛くないし、しばらくしたら治るだろうって」
「ふぅん……俺の痣とちょっと似ているな」
そう言って、レイツェルトは自分のシャツの紐を解いた。そこには黒い花のような紋様が浮かび上がっていた。レイツェルトはマリュリーサ以外にその痣を見せたことはない。
「同じ場所にあるね。葉っぱとお花で、私たちお揃いだわ!」
「そうかな?」
レイツェルトの痣は昔からあったが、背丈が急激に伸びだした最近になって、はっきりとした形を取るようになった。
それは黒い薔薇だった。
「上に登ろうか」
レイツェルトは滝のそばの大岩を見上げた。
「寒くはないか? まだ服が濡れているだろう?」
「大丈夫。もう乾き始めてる」
「そうか」
二人は大岩の上に立っている。ここは島で一番高い岩山の下だから、遠くまでよく見渡せる。ここは岩山をのぞいてほとんど最南端だ。
「狭いな」
レイツェルトは南北に伸びる島を見渡した。
北の方にある建造物は、彼らの住まう『石の薔薇』だ。何もない草原のただ中で、それはまるで墓石のように見えた。
あの中で明日のない少年少女達が暮らしている。
その数は増減するが、今現在は八人で、レイツェルトは今では最年長かつ最古参である。
マリュリーサの両親はその世話役だった。彼らは数人の使用人とともに、子供達の衣食住の世話をしている。
また、石の薔薇には世話役とは別に、『導師』と呼ばれる男達が二人いた。
彼らは常に仮面をつけ、黒い衣服で身を覆っている。読み書きなど、最低限の教養、作法などを子ども達に教えるが、数ヶ月で一人ずつ入れ替わり、決して彼らと個人的な接触をすることはない。
一人、レイツェルトを除いて。
マリュリーサからみても、レイツェルトは明らかに特別視されていた。両親からも『導師』からも。
彼は優秀だった。書物の内容は一度で理解するため『導師』は医術や薬学、戦術の本まで彼に与えた。
また恵まれた体格は、それに似合う身体能力を発揮し、何人かの『導師』は彼にだけ剣術の基礎を教えた。瞬く間に彼の腕は、どの『導師』も驚嘆するほどになった。
しかし、子ども達の顔ぶれはどんどん変わっていくのに、レイツェルトだけはこの島に取り残されたままだった。
咲いても価値がない石の薔薇。ここで暮らす限り、彼には未来がないのだった。
「エイメルがいなくなった」
「……そう」
レイツェルトの言葉にマリュリーサは驚かない。『石の薔薇』で暮らす少年少女が突然いなくなることは珍しいことではないからだ。
「おじさんは何か言っていたか?」
おじさんとは、マリュリーサの父親のことだ。
「いいえ。レイ兄さん、父さん達は私には何も言わないの。難しい顔で首を振るばかり」
「そうか」
レイツェルトは、無口なマリュリーサの両親を責めるつもりはなかった。彼らもこの孤島で、命令されたことをしているに過ぎないのだ。
エイメルは大人しいが、いつもにこにこしている九歳の少年で、読書が好きだった。自分が何者なのか全く知らない様子だったが、母の形見だという、首飾りだけは手放したことがなかった。
「エイメルの持ち物で、なくなっていたのはあの首飾りだけだ。だから彼は連れていかれたんだ」
「ええ」
いなくなるということには色々な意味があると、マリュリーサも既に知っている。
「俺はあと半年で十六になる。そしたら自力でこの島を出ていく。そして俺をこんな島に閉じ込めた奴らを全員殺してやる」
レイツェルトは腰に下げている、剣を握りしめた。
「そんな恐いこと言わないで!」
少年に似合わぬほど冷たい殺気を漲らせたレイツェルトに、マリュリーサが抱きついた。
「怖いわ!」
「……悪かった。女の子の前でいう言葉じゃなかったな」
「子ども扱いしないで!」
「してないさ……ほら」
そういうと、レイツェルトは自分に顔を埋めたマリュリーサの顎を掬い上げ、勢いよく唇を重ねた。
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