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36.青嵐、そして恵風 8
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庭に面した和室は、打ち水で冷やされた空気が、網戸を通り抜けていく。
この部屋は普段使われてはいないが、家政婦の細川さんのおかげで、塵一つ落ちていない。床の間の花器には真っ赤なカンナが生けられていた。部屋の落ち着いた雰囲気とは少々違和感があるが、樹の祖母は赤が好きなのだ。
「こんな時間にどうしたの? 樹さん」
縁に螺鈿細工《らでんざいく》がある、大きな座卓越しに祖母と孫は向かい合って座った。細川さんは気をきかして座を外している。
もう寝る支度をし始めていた祖母は、白地に藍の唐竹模様の浴衣姿だ。樹が時計を見ると九時を過ぎていた。祖母は昔から夜が早い。
「……少し、頭を冷やそうと思って」
「あら? また何かしでかしちゃったの? あなた昔から頭に血が昇りやすいものねぇ。普段は上手に隠しているけれど」
「……俺、風花に振られるかも。いや、もう振られたかも知れない」
「まぁまぁ、それは大変だわねぇ」
内心大笑いしたいと思っても、打ち萎れた様子の孫をさも心配しているように振舞えるのは、さすがに年の功だといえるだろう。昔から樹が唯一勝てる気がしないと思うのは、この祖母だけである。
「でも、それだけじゃわからないわ。ちゃんと話してみなさい。正直によ?」
樹はうなづき、言葉を探しながら話し始めた。
「……実は今日、久々に風花と出かける予定だった。だけど急に友達が病気で倒れたってことで、病院に付き添ってしまったんだ」
「風花ちゃんらしいじゃないの。でもそれで振られるって思うの?」
「恥を忍んで言うけど、俺は今日のこと、すごく楽しみにしてた。でも、風花は当然のように無理だって言う。その人は地方出身らしくて、仕方ないとは思うんだけど、風花が俺の好かない奴と一緒だったから腹が立って、彼女に冷たくしてしまった。好かない奴にも笑われた」
「……あら」
「それでカッとなった挙句に、携帯を捨ててしまったんだ」
「……」
再び、祖母は大変な努力で渋面を製造しなければならなかった。
「それはそれは……久しぶりに大きな癇癪を起こしたものねぇ」
樹は昔から一見大人しく見えるわりに、一度夢中になったことにはとことんこだわる子どもだった。そして、そのことを邪魔されるとものすごく怒ったものだ。成長するにつれて、自分の中の熱情を隠すことに長け、大人しさの代わりに冷ややかな仮面をつけた。しかし、本来、樹はクールと言うには程遠い人柄だ。
「それで? どうなったの?」
「風花はきっと俺に何度も電話しようとしたと思う。そして今頃きっと気を悪くしてるだろうと思う」
「うーん、どうかなぁ。風花ちゃんに限って考えにくいわね。病院には連絡したの?」
「してない。したら多分館内放送がかかるだろう? イヤじゃないか」
「じゃ、ここからあの子の携帯電話に連絡する?」
「さっきから何度か公衆電話からしてみたんだけど、ずっと電源が入っていないようだった。それでまた不安になって……」
「ふ~ん。それは気を悪くしてるというより、病院だから電源は切ってるんだわね。律儀なあの子の事だし。自分がかけるときだけ外に出ているのよ。でもきっとあの子は怒ってないと思うわ。これは私の勝手な思い込みだけど。多分間違いないと思うわ」
めったに無いほど悄然とした孫を興味深く見守りながら、彼女は昔のことを思い出していた。
『桂子《けいこ》が出て行った……』
十年前に樹の父、桐人《きりひと》が駆け込んで来たのも、ちょうど今ぐらいの季節だった。
『確かなの?』
『確かだ。置手紙があって、しばらくしたら連絡すると書いてあった。好きな人ができたとも』
桐人は淡々と告げた。
『三年前、桂子さんが私のところに相談しに来た時に、あなたがもう少し本気で取り合ってくれてたらねえ。はっきり言って仕方がないと思うわ。単身赴任でもないのに、月に一週間も家にいない夫なんて、私でもごめんだわ』
『母さんはなんで、そんなにすぐに割り切れるんだ? なんの連絡もなく、帰ったらメモだけしかなかったんだぞ』
『だって、私だって出て行くとしたらそうするもの。ま、あなたの父さんはそんなに仕事熱心ではなかったけど』
『浮気なんてルール違反だろう。すぐに連れ戻す』
『さぁ、浮気ならいいけどねぇ。桂子さんはそんな軽いタイプじゃないわ』
『とりあえず弁護士に連絡する』
『そうね、最後はきちんとすればいいわ。このまま役所に書類出して離婚って言うのはよくないわね』
『あんな、冷たい女だとは思わなかった。樹はどうしてる? ここに来ているんだろう?』
『ええ、母親の指示の通りに行動したらしいわ。学校から帰って夕飯を食べたらすぐここに来た。今は多分寝ているわね。十一時過ぎているもの』
『様子はどうだった?』
『まぁ、あなたより落ち着いていたわね。少なくとも見かけは』
『まだ小学校の三年になったばかりなんだぞ、母親に捨てられるなんて……』
『父親だって、たまにしか帰ってこなかったじゃないの。海外出張だ、接待だって』
『俺は仕事なんだぞ』
『そんなこと言っているから桂子さんに捨てられたのよ。この五年間、夫、父親としてのあなたの役目はなきに等しかったもの。桂子さんだってまだ三十三歳よ。このままで終る訳ないと思ったわ。あんなに綺麗で、才能豊かな人だもんねえ。悪いけど、私、彼女ばかりを責められない。樹はしばらくうちで預かるわ。後はあなたが考えて行動しなさい。もし謝るならチャンスは一度きりだわよ。とことん下手にでることね』
それから祖母は二人を見守って過ごした。特に樹の隠し持った危うさを知っていた。一見、物わかりのよい幼い魂に、これ以上負担をかけないよう、祖母なりに気を配って過ごした十年間だった。
「樹さん、あなたはお父さんよりマシな男だって、私は思っているのよ」
「……」
祖母の言葉に、樹もあの夜のこと思い出す。
父親が祖母の下に駆け込んできた気配を察し、廊下の暗がりでこっそり二人のやり取りを聞いていたのだ。樹は幼かったが、既におおよその事態を理解をしていた。
学校から帰ると母がいなかった。それは別にめずらしいことではなく、社交的な母はしょっちゅう買い物にでたり、ダンス教室に通ったりしていたから。だから別に驚かなかったが、部屋の感じが妙にいつもと違った。
母の道具や気に入りのものが、片付けられていて部屋がいつもより広く感じる。
テーブルの上には樹の好物がいっぱい並べられてあり、隅の皿に便箋がはさんであった。
『樹へ。お母さんはもうこの家に帰ってこられません。ごめんなさい。晩ご飯を食べたら明日の用意をして、着替えをもって、おばあさんのお家に行きなさい。お父さんは今日帰ってくる予定なので、安心してください。訳はお父さんから聴いてください』
そして、その下にのり付けされた白い封筒があり、父の名前が書いてあった。
それから半年間はごちゃごちゃしていたが、結局母は家に戻らず、樹は自分の意思で父と暮らすことにした。祖母は残念がったが、樹はそうした方がいいと思ったのだ。
母はそれから一年ほどして再婚したらしい。決して息子を夫の代わりに寂しさを埋めるタイプの母親ではなかったが、叱られたことはなかったし、それなりに優しかった。だから樹は母をちゃんと認めていたのだ。
しかし自分は母に捨てられた。
世間ではあることだというが、今回は自分の身に起きてしまったのだ。樹はそう理解した。
考えてもどうしようもないことは考えずにおけばいい。思考が停滞するのはよくないことだ。
とり合えず樹は、自分に一番あっていると思われること、それをしていれば他のことは考えなくて済むこと、つまり、勉強に打ち込んだ。
祖母はそんな樹を不憫に思ってくれたのか、いつも陽気に、前向きに自分に接した。学校から帰った樹においしい晩ご飯を食べさせ、彼が聞いていようがいまいが、自分が楽しいと思う話を聞かせ、父親が家に帰ってくる日にはおかずを持持って帰らせた。
——まるであの時の桐人さんそっくりね。でも、この子は父親よりははるかにいい男だわ。風花ちゃんは、きっとマンションの方に何度も電話をしているわね。それにしても樹は本気で風花ちゃんを好きなんだわ。桂子さんの事が心の傷になってないか心配してたけど、よかったこと。でも、相手があの風花ちゃんだし、この様子から見て、手を出しかねているってことかしら。
「俺、帰るよ」
腰を浮かしながら樹は言った。
「打ち明けたら頭が整理できた。家で風花の連絡を待つ」
「まぁ、待ちなさいよ(賢いように見えてもまだ子供だわね)。そんな事情じゃ今晩中に帰ってこられるかわからないし。大人がついているんだから大丈夫よ。とにかく一晩頭を冷やしたほうがいいわ。明日すぐに連絡しなさい。そうしてちゃんと謝るの」
「……」
祖母のもっともな分析に、樹は浮かしかけた腰を再び落とす。
「だけど不安だ……すごく。もし風花が」
その時障子が開き、細川さんが盆をもって現れた。
「お邪魔いたします。お久しぶりだと思ってこれを……奥様」
盆の上には薩摩切り子の酒器に満たされた冷酒と、ぐい飲みがふたつ。
「まーあ、ヨシさん、気がきくわねえ。ヨシさんも一緒に飲みましょうよ。ね、樹さん、こんな気分の時は少し飲むと気分も変わるってものよ」
祖母は酒が好きで、若いころよりさすがに量は減ったが、毎晩少しの晩酌を欠かさない。樹の父の桐人も酒豪で、いくら飲んでもけろりとしている。そういえば、母も酒は飲める方だったときいていた。
そういう事から考えて飲んだことはほとんどないが、自分も酒には強いだろうと樹は思っている。さっき、友人達から聞かれたときは、そんな気にはならなくて断ったが、実は高校生になった頃から、祖母の家に泊まる折などに、晩酌の相手をさせられた。量はしれているが、大抵日本酒で、樹はその味が決してキライではない。
受験生になってからはさすがに祖母の家に泊まる事もなく、酒とも縁が切れていたが、今夜は久しぶりに飲もうという気になった。
「……戴きます」
樹はぐい飲みに手を伸ばした。
庭では夏の虫が鳴いていた。きっとオケラだろう。今の自分にふさわしい、樹は思った。
目覚めたのは未明だった。
昨夜と同じ部屋で寝転んでいる。タオルケットが掛けられてあった。
どうやら、飲んでいるうちに寝てしまったらしい。昨日は何も食べていないのに酒を飲んだから、回りも速かったのだろう。祖母も細川さんもとっくに部屋に引き上げたらしく、家の中は薄暗かった。
二人とも呆れただろう、と樹は思ったが、彼女らが何も言わないことはわかっていたし、樹も弱みを見せたことを苦にすることはない。彼女たちは人生の良き先達なのだ。樹がそこにたどり着くまでにはまだ時間がかかる。
「馬鹿の始末をつけに行くか」
樹はそっと身を起こし、時計をみた。四時半、夜明けはもうすぐだ。
掛けられたタオルケットを丁寧にたたみ、廊下に出た。朝の早い二人も、さすがにまだ起きてはこない。
玄関を開け、静かに外に出る。
東の空は既に明るかったが、夏の朝にはめずらしく少し靄がかかっていた。
公園を突っ切り、自宅に戻る。誰もいない暗いマンションのエントランスはよそよそしく自分を迎えた。
殺風景な自分の部屋は、よけい気持ちを滅入らせる。昨日からほとんど何も口に入れていないが、今は食べる気にならなかった。水分が少ないせいか、頭がうまく回らない。
自分ながら情けないが、このままでは風花にも会えないと思い、シャワーを浴びることにした。汗臭い服を脱ぎ捨て、熱い湯をかぶったら少しはマシな自分になれるかも知れない。ミネラルウォーターを飲みながらシャワーの栓をひねる。
ザァアアア――
ノズルを最大限にして、樹は湯を浴び続けた。
風呂場から出ると、すっかり夜が明けていた。ブラインドの隙間から差し込む光は今日も晴天の一日になることを約束している。
——風花、今頃どこで何をしている? 家に帰ったのかな? でもさすがにこの時間に電話はできないし。
タオルを被ったまま服も着ずに、樹は風花のことを考え続けていた。
風花は樹が腹を立てていると誤解したままでいるだろう。そして、あの後、小川はなんと言って風花を慰めたのだろうか? そして、風花はどう答えたのだろうか? 小川は鋭い男だ。きっと風花が何も言わなくとも、樹の隠している弱さを嗅ぎ取るに違いなかった。きっと、彼はこの突発事態の中で上手に風花に忍び寄るだろう。
「くそ! 早く連絡をしないと……」
樹の胸の中にどす黒い嫉妬が湧く。何もかも自分が招いた事態だとわかっているだけに、言いようのない焦りが募った。
――会いたい。風花、一刻も早く。
樹はついに頭を抱え込んだ。いつも自然に周囲と調和し、機嫌のよい笑顔を浮かべているあの少女に、たまらなく会いたかった。
——ダメだ。風花のことしか考えられない。こんなんじゃまた、あの子を困らせてしまうかも……。
樹はタオルを腰に巻きつけると、窓辺に立った。眩しいのを無理してブラインドを引き上げる。この窓はマンションの正面に向いていて、朝日が入るのだ。
樹は眩しい夏の朝日に裸身を晒した。
「……え?」
駅に向いた道の方、ほとんど消えかけた朝もやの中から小さなものがまっしぐらに駆けて来るのが見えた。
遠めにも髪を飛び跳ねさせながら、一生懸命に走っているのがわかる。熱く早い息遣いもまるですぐ近くに感じる。
それは風花だった。
この部屋は普段使われてはいないが、家政婦の細川さんのおかげで、塵一つ落ちていない。床の間の花器には真っ赤なカンナが生けられていた。部屋の落ち着いた雰囲気とは少々違和感があるが、樹の祖母は赤が好きなのだ。
「こんな時間にどうしたの? 樹さん」
縁に螺鈿細工《らでんざいく》がある、大きな座卓越しに祖母と孫は向かい合って座った。細川さんは気をきかして座を外している。
もう寝る支度をし始めていた祖母は、白地に藍の唐竹模様の浴衣姿だ。樹が時計を見ると九時を過ぎていた。祖母は昔から夜が早い。
「……少し、頭を冷やそうと思って」
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「……俺、風花に振られるかも。いや、もう振られたかも知れない」
「まぁまぁ、それは大変だわねぇ」
内心大笑いしたいと思っても、打ち萎れた様子の孫をさも心配しているように振舞えるのは、さすがに年の功だといえるだろう。昔から樹が唯一勝てる気がしないと思うのは、この祖母だけである。
「でも、それだけじゃわからないわ。ちゃんと話してみなさい。正直によ?」
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「風花ちゃんらしいじゃないの。でもそれで振られるって思うの?」
「恥を忍んで言うけど、俺は今日のこと、すごく楽しみにしてた。でも、風花は当然のように無理だって言う。その人は地方出身らしくて、仕方ないとは思うんだけど、風花が俺の好かない奴と一緒だったから腹が立って、彼女に冷たくしてしまった。好かない奴にも笑われた」
「……あら」
「それでカッとなった挙句に、携帯を捨ててしまったんだ」
「……」
再び、祖母は大変な努力で渋面を製造しなければならなかった。
「それはそれは……久しぶりに大きな癇癪を起こしたものねぇ」
樹は昔から一見大人しく見えるわりに、一度夢中になったことにはとことんこだわる子どもだった。そして、そのことを邪魔されるとものすごく怒ったものだ。成長するにつれて、自分の中の熱情を隠すことに長け、大人しさの代わりに冷ややかな仮面をつけた。しかし、本来、樹はクールと言うには程遠い人柄だ。
「それで? どうなったの?」
「風花はきっと俺に何度も電話しようとしたと思う。そして今頃きっと気を悪くしてるだろうと思う」
「うーん、どうかなぁ。風花ちゃんに限って考えにくいわね。病院には連絡したの?」
「してない。したら多分館内放送がかかるだろう? イヤじゃないか」
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「さっきから何度か公衆電話からしてみたんだけど、ずっと電源が入っていないようだった。それでまた不安になって……」
「ふ~ん。それは気を悪くしてるというより、病院だから電源は切ってるんだわね。律儀なあの子の事だし。自分がかけるときだけ外に出ているのよ。でもきっとあの子は怒ってないと思うわ。これは私の勝手な思い込みだけど。多分間違いないと思うわ」
めったに無いほど悄然とした孫を興味深く見守りながら、彼女は昔のことを思い出していた。
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十年前に樹の父、桐人《きりひと》が駆け込んで来たのも、ちょうど今ぐらいの季節だった。
『確かなの?』
『確かだ。置手紙があって、しばらくしたら連絡すると書いてあった。好きな人ができたとも』
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『三年前、桂子さんが私のところに相談しに来た時に、あなたがもう少し本気で取り合ってくれてたらねえ。はっきり言って仕方がないと思うわ。単身赴任でもないのに、月に一週間も家にいない夫なんて、私でもごめんだわ』
『母さんはなんで、そんなにすぐに割り切れるんだ? なんの連絡もなく、帰ったらメモだけしかなかったんだぞ』
『だって、私だって出て行くとしたらそうするもの。ま、あなたの父さんはそんなに仕事熱心ではなかったけど』
『浮気なんてルール違反だろう。すぐに連れ戻す』
『さぁ、浮気ならいいけどねぇ。桂子さんはそんな軽いタイプじゃないわ』
『とりあえず弁護士に連絡する』
『そうね、最後はきちんとすればいいわ。このまま役所に書類出して離婚って言うのはよくないわね』
『あんな、冷たい女だとは思わなかった。樹はどうしてる? ここに来ているんだろう?』
『ええ、母親の指示の通りに行動したらしいわ。学校から帰って夕飯を食べたらすぐここに来た。今は多分寝ているわね。十一時過ぎているもの』
『様子はどうだった?』
『まぁ、あなたより落ち着いていたわね。少なくとも見かけは』
『まだ小学校の三年になったばかりなんだぞ、母親に捨てられるなんて……』
『父親だって、たまにしか帰ってこなかったじゃないの。海外出張だ、接待だって』
『俺は仕事なんだぞ』
『そんなこと言っているから桂子さんに捨てられたのよ。この五年間、夫、父親としてのあなたの役目はなきに等しかったもの。桂子さんだってまだ三十三歳よ。このままで終る訳ないと思ったわ。あんなに綺麗で、才能豊かな人だもんねえ。悪いけど、私、彼女ばかりを責められない。樹はしばらくうちで預かるわ。後はあなたが考えて行動しなさい。もし謝るならチャンスは一度きりだわよ。とことん下手にでることね』
それから祖母は二人を見守って過ごした。特に樹の隠し持った危うさを知っていた。一見、物わかりのよい幼い魂に、これ以上負担をかけないよう、祖母なりに気を配って過ごした十年間だった。
「樹さん、あなたはお父さんよりマシな男だって、私は思っているのよ」
「……」
祖母の言葉に、樹もあの夜のこと思い出す。
父親が祖母の下に駆け込んできた気配を察し、廊下の暗がりでこっそり二人のやり取りを聞いていたのだ。樹は幼かったが、既におおよその事態を理解をしていた。
学校から帰ると母がいなかった。それは別にめずらしいことではなく、社交的な母はしょっちゅう買い物にでたり、ダンス教室に通ったりしていたから。だから別に驚かなかったが、部屋の感じが妙にいつもと違った。
母の道具や気に入りのものが、片付けられていて部屋がいつもより広く感じる。
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『樹へ。お母さんはもうこの家に帰ってこられません。ごめんなさい。晩ご飯を食べたら明日の用意をして、着替えをもって、おばあさんのお家に行きなさい。お父さんは今日帰ってくる予定なので、安心してください。訳はお父さんから聴いてください』
そして、その下にのり付けされた白い封筒があり、父の名前が書いてあった。
それから半年間はごちゃごちゃしていたが、結局母は家に戻らず、樹は自分の意思で父と暮らすことにした。祖母は残念がったが、樹はそうした方がいいと思ったのだ。
母はそれから一年ほどして再婚したらしい。決して息子を夫の代わりに寂しさを埋めるタイプの母親ではなかったが、叱られたことはなかったし、それなりに優しかった。だから樹は母をちゃんと認めていたのだ。
しかし自分は母に捨てられた。
世間ではあることだというが、今回は自分の身に起きてしまったのだ。樹はそう理解した。
考えてもどうしようもないことは考えずにおけばいい。思考が停滞するのはよくないことだ。
とり合えず樹は、自分に一番あっていると思われること、それをしていれば他のことは考えなくて済むこと、つまり、勉強に打ち込んだ。
祖母はそんな樹を不憫に思ってくれたのか、いつも陽気に、前向きに自分に接した。学校から帰った樹においしい晩ご飯を食べさせ、彼が聞いていようがいまいが、自分が楽しいと思う話を聞かせ、父親が家に帰ってくる日にはおかずを持持って帰らせた。
——まるであの時の桐人さんそっくりね。でも、この子は父親よりははるかにいい男だわ。風花ちゃんは、きっとマンションの方に何度も電話をしているわね。それにしても樹は本気で風花ちゃんを好きなんだわ。桂子さんの事が心の傷になってないか心配してたけど、よかったこと。でも、相手があの風花ちゃんだし、この様子から見て、手を出しかねているってことかしら。
「俺、帰るよ」
腰を浮かしながら樹は言った。
「打ち明けたら頭が整理できた。家で風花の連絡を待つ」
「まぁ、待ちなさいよ(賢いように見えてもまだ子供だわね)。そんな事情じゃ今晩中に帰ってこられるかわからないし。大人がついているんだから大丈夫よ。とにかく一晩頭を冷やしたほうがいいわ。明日すぐに連絡しなさい。そうしてちゃんと謝るの」
「……」
祖母のもっともな分析に、樹は浮かしかけた腰を再び落とす。
「だけど不安だ……すごく。もし風花が」
その時障子が開き、細川さんが盆をもって現れた。
「お邪魔いたします。お久しぶりだと思ってこれを……奥様」
盆の上には薩摩切り子の酒器に満たされた冷酒と、ぐい飲みがふたつ。
「まーあ、ヨシさん、気がきくわねえ。ヨシさんも一緒に飲みましょうよ。ね、樹さん、こんな気分の時は少し飲むと気分も変わるってものよ」
祖母は酒が好きで、若いころよりさすがに量は減ったが、毎晩少しの晩酌を欠かさない。樹の父の桐人も酒豪で、いくら飲んでもけろりとしている。そういえば、母も酒は飲める方だったときいていた。
そういう事から考えて飲んだことはほとんどないが、自分も酒には強いだろうと樹は思っている。さっき、友人達から聞かれたときは、そんな気にはならなくて断ったが、実は高校生になった頃から、祖母の家に泊まる折などに、晩酌の相手をさせられた。量はしれているが、大抵日本酒で、樹はその味が決してキライではない。
受験生になってからはさすがに祖母の家に泊まる事もなく、酒とも縁が切れていたが、今夜は久しぶりに飲もうという気になった。
「……戴きます」
樹はぐい飲みに手を伸ばした。
庭では夏の虫が鳴いていた。きっとオケラだろう。今の自分にふさわしい、樹は思った。
目覚めたのは未明だった。
昨夜と同じ部屋で寝転んでいる。タオルケットが掛けられてあった。
どうやら、飲んでいるうちに寝てしまったらしい。昨日は何も食べていないのに酒を飲んだから、回りも速かったのだろう。祖母も細川さんもとっくに部屋に引き上げたらしく、家の中は薄暗かった。
二人とも呆れただろう、と樹は思ったが、彼女らが何も言わないことはわかっていたし、樹も弱みを見せたことを苦にすることはない。彼女たちは人生の良き先達なのだ。樹がそこにたどり着くまでにはまだ時間がかかる。
「馬鹿の始末をつけに行くか」
樹はそっと身を起こし、時計をみた。四時半、夜明けはもうすぐだ。
掛けられたタオルケットを丁寧にたたみ、廊下に出た。朝の早い二人も、さすがにまだ起きてはこない。
玄関を開け、静かに外に出る。
東の空は既に明るかったが、夏の朝にはめずらしく少し靄がかかっていた。
公園を突っ切り、自宅に戻る。誰もいない暗いマンションのエントランスはよそよそしく自分を迎えた。
殺風景な自分の部屋は、よけい気持ちを滅入らせる。昨日からほとんど何も口に入れていないが、今は食べる気にならなかった。水分が少ないせいか、頭がうまく回らない。
自分ながら情けないが、このままでは風花にも会えないと思い、シャワーを浴びることにした。汗臭い服を脱ぎ捨て、熱い湯をかぶったら少しはマシな自分になれるかも知れない。ミネラルウォーターを飲みながらシャワーの栓をひねる。
ザァアアア――
ノズルを最大限にして、樹は湯を浴び続けた。
風呂場から出ると、すっかり夜が明けていた。ブラインドの隙間から差し込む光は今日も晴天の一日になることを約束している。
——風花、今頃どこで何をしている? 家に帰ったのかな? でもさすがにこの時間に電話はできないし。
タオルを被ったまま服も着ずに、樹は風花のことを考え続けていた。
風花は樹が腹を立てていると誤解したままでいるだろう。そして、あの後、小川はなんと言って風花を慰めたのだろうか? そして、風花はどう答えたのだろうか? 小川は鋭い男だ。きっと風花が何も言わなくとも、樹の隠している弱さを嗅ぎ取るに違いなかった。きっと、彼はこの突発事態の中で上手に風花に忍び寄るだろう。
「くそ! 早く連絡をしないと……」
樹の胸の中にどす黒い嫉妬が湧く。何もかも自分が招いた事態だとわかっているだけに、言いようのない焦りが募った。
――会いたい。風花、一刻も早く。
樹はついに頭を抱え込んだ。いつも自然に周囲と調和し、機嫌のよい笑顔を浮かべているあの少女に、たまらなく会いたかった。
——ダメだ。風花のことしか考えられない。こんなんじゃまた、あの子を困らせてしまうかも……。
樹はタオルを腰に巻きつけると、窓辺に立った。眩しいのを無理してブラインドを引き上げる。この窓はマンションの正面に向いていて、朝日が入るのだ。
樹は眩しい夏の朝日に裸身を晒した。
「……え?」
駅に向いた道の方、ほとんど消えかけた朝もやの中から小さなものがまっしぐらに駆けて来るのが見えた。
遠めにも髪を飛び跳ねさせながら、一生懸命に走っているのがわかる。熱く早い息遣いもまるですぐ近くに感じる。
それは風花だった。
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