上 下
23 / 38

23.追風 1

しおりを挟む
 ——このごろ風花に会えない。
 樹はふぅとため息をついた。
 風花が大学生になり、入れ替わりに自分が受験生になってから十ヶ月、なんだかんだいっても、大学生と大学受験生との時間はなかなか一致しないのが現実である。
 ——これは自分で思ってた以上にコタえてるな。冬休みぐらいまでは週末には会って、昼食ぐらいは一緒に食べられたのに。
 全部やってしまった問題集をばさりと閉じ、樹は椅子に持たれて窓の外に目をやった。
 季節は立春を少し過ぎた頃、春とは名ばかりで北風が窓の外で歌っているが、空は澄んでよく晴れている。
 彼は難関と言われている大学を志望する受験生だが、そんなにあくせくはしていない。あくせくはしていないが、まじめに勉強をしている。万が一にでも失敗はできないからだ。
 現に最後の全国模試では今まで受験した中でベストな成績をたたき出した。勿論センター試験も充分安全圏内だ。
 進路指導主事でもある担任や、予備校の先生からもよほどのことがない限り、大丈夫だろうというお墨付きをもらっている。
「おまえなあ、ちっとは嬉しそうな顔をしてみぃ」
 これは担任の数学科教諭の呆れ顔から発せられた言葉だ。
 樹にしてみれば別にむっつりしているつもりもないのだが、どうも銀縁眼鏡の向うの切れ長の瞳は、人々の誤解を受けやすい。
 樹にとっては他人にどう思われようともかまわないのであるが。つい身近な人物を思い浮かべてしまう。
 ——考えてみたらタレ目って得かも。普通にしてても人がよさそうに見えるし。
 会えない理由は風花にもあった。
 風花はまだ一回生であるが、芸大というところは一般教養もだが、実習も重視するため、次々に与えられる課題に追いまくられ、彼女は秋頃から毎日帰るのも遅くなりがちで、土日も学校に通って制作する日々が続いている。
 稀に時間が合えば、駅に迎えに行ったりするくらいしかできない。
 風花はもうすぐしたら一段落するからと言うが、彼女は彼女で受験を控えた樹を気遣っているせいか、あまり連絡してこない。
 もともと電話に依存する二人ではないし、ショートメールを除けば風花も樹も現代っ子の常套手段であるSNSが苦手だった。ぜんぜん違うようでいて、こんなところだけよく似ている二人だ。
 この前会ったのは二週間前の金曜日、帰宅が九時過ぎになった風花を家まで送った時だ。
 風花はあいかわらずふんわりしていて他愛のない話で盛り上がり、機嫌よくさよならをすると家の中に消えていった。
 ——まったく、変に気を使うせいで余計気が散るじゃないか。
 だったらこちらから毎日でも連絡すれば良いようなものだが、そこは樹もそうそう素直でない。
 とはいえ、今まで必要のない電話やメッセージなど一切しなかった自分が、風花にだけは二日に一度は連絡を入れている。これだけでも彼の人生の中では革命的なことなのだ。
 一昨日の風花からの電話では、後少しで課題があがるのでこの土日は学校に缶詰だと言うことで、日曜(つまり今日)も朝早くから大学のほうに行っているらしい。
 ——熱中すると我を忘れるところあるもんな。あの人。
 大学生になっても風花はのんびりしているが、少しは見聞の幅が広がったと見え、以前より現実的に物を見るようになったし、何よりきれいになった。
 三つ編みにしていた髪を背中に流し、化粧も覚えた。といっても、ほんの少し紅をさし、眉を整えるぐらいだったが。それでも、紺色の制服が似合ったおさげの少女の面影は遠くんありつつある。
 樹は面白くない。非常に面白くない。
 がたんと立ち上がったその時。
 ♪~
 机上の携帯電話が鳴った。
 着信画面を見て柄にもなくドキンとする。いつきにとって、これは予想外の出来事だったので何かあったかと驚きながら受信ボタンを押した。
 彼にかけてくるのは風花と祖母だけなのだ。
『もしもし? 清水君?』
「ああ、どうしたの?」
『それがね、思い切って今日課題上げてきちゃってね、今もう綾野町の駅にいんの。あ、ごめん、勉強中だったよね』
「大丈夫。たった今、一区切りつけたところ」
『あ、そうなんだ。ダメだったらいいけど、少しなら会えるかなあ』
「少しと言わず、じっくり会って下さい。迎えにいきます」
『そお? よかった。どこで待っていたらいい?』
「ええと、ああ、よかったらウチへ来ませんか? 外は寒いし。まだお腹も減らないでしょ。散らかっているけど、風花さえよければ」
『……え? 私はいいけど、そっちこそいいの?』
「大丈夫。迎えにいくから」
『あ、いいよ。自転車だし。十分ぐらいで着くし、実はもう乗ってるし~』
「危ないから通話はやめてください。ぼんやりしてもダメ。じゃ、待ってるから」
 携帯を置くなり樹は部屋を飛び出した。このマンションはオートロックになっており、エントランスでキーのナンバーを入力するか、家人が中からロックを解除するかしないと入れない。
 キーナンバーは前に教えたことは教えたのだが、風花にかぎってその番号を覚えているはずがないと確信が樹にはあった。自分が急いだって意味はないのだが一刻も早く風花に会いたかった。エントランスに迎えに行くため、エレベーターを呼ぶ。

「さて」
 風花は通話を終えたジャケットのポケットにケイタイを滑り込ませた。
 煉瓦色のデニムコートをぶかぶかと着込み、白い男物のシャツの裾を薄めのニットからラフに出してロングのプリーツスカート。髪は久しぶりにゆるめに編んで両脇に垂らしてある。ちょっと変わった編み方で友人がしてくれたものだ。
「でもよかったぁ、家にいてくれて」
 小さな自転車に大きなかばんを詰め込み、あと少しで薄暮の冷たくなり始めた風に負けないようにペダルをこぐ。
 ——ひゃあ、寒くなって来きたなあ。二月だもんね……清水君も勉強追い込みだろうなぁ。そういえば、清水君のお部屋に行くのってはじめてかな? マンションの前までは何度も行った事あるけど。
 角を曲がると洒落たグレーの建物がすぐに目に飛び込んできた。
 マンションとしては小規模かもしれない。しかし、よくある直方体の建造物ではなく、あちこちでっぱったり、奥に引っ込んだり、戸建て感覚を重視したつくりになっている。欧州風のバルコニーにはむろん、布団を干したりしている家はどこにもない。
 ——やっぱりかっこいい建物だなあ。お洒落だし、だから昔、モチーフに選んだんだっけ?
 それが彼の住むマンションだと知った時には驚いたものだ。
『何で自分の家だって教えてくれなかったの?』
『どうでもいいと思ったから。実際、実物より風花の絵のほうがいい』
 ——あれはいつの会話だっけ? そういえばつき合って一年になるのかぁ……。
 あの日――。
『俺の恋人になりなさい』
 風花の色づき始めた、しかしまだ形を成していなかった不確かな気持ちはあの一言で決定的な名前を付けられた。
 それが、恋。
 思い出しても顔が赤くなる。
「うしゃ~って、あわわ」
 うっかりハンドルが取られそうになる。
 運転中、ぼんやりしてはいけないと言われたことを思い出し、風花は必死にペダルをこいだ。
 しゅるるる、と英国風の前庭をしつらえた大理石のファサードに見とれながら玄関に乗り付けると、見慣れた人影が立っていた。
 樹は軽く手を上げて挨拶をした。
「こんちは~!」
「こんにちは」
「ひさしぶりだね~」
 風の中、思い切り自転車をこいてきたので鼻が赤い。風がきついせいで目も少し潤んでいる。
「ひさしぶり」
 樹は少し微笑んでカバンを受け取った。
「自転車はこっちに置くことになってるから。どうぞ」
 自転車を置いてエントランスに入った風花はまず、ホールの豪華さに目を見張った。
「うっわ~、なんかすごい。とてつもなくかっこいいね。来客ホールまであるんだ」
「そぉ?」
「うん、なんだかネオロマネスク様式っちゅうか」
「はいはい、どうでもいいからさっさとエレベーターに乗ってください」
 いつの間にかエレベーターが口をあけて待っている。
 樹は先に入って七階のボタンを押した。最上階である。
「はりゃ~、中も豪華~、清水君やっぱりお金持ちさんだったんだ~」
「俺は一銭も持っちゃいませんよ、バイトもしてないし」
 愉快そうでもなく、樹が答える。
「そりゃそうだけどさ、学生なんだし」
 音もなくエレベーターは止まり、正面に広い廊下があらわれた。
「こっちです」
 七階は廊下をはさんで四つのドアしかなく、エレベーターを出て、左斜めの扉が樹の家だった。
「どうぞ入ってください」
「お、お邪魔しま~す」




しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが

ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。 定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

【完結】愛も信頼も壊れて消えた

miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」 王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。 無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。 だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。 婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。 私は彼の事が好きだった。 優しい人だと思っていた。 だけど───。 彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。 ※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。

王命を忘れた恋

須木 水夏
恋愛
『君はあの子よりも強いから』  そう言って貴方は私を見ることなく、この関係性を終わらせた。  強くいなければ、貴方のそばにいれなかったのに?貴方のそばにいる為に強くいたのに?  そんな痛む心を隠し。ユリアーナはただ静かに微笑むと、承知を告げた。

契約書は婚姻届

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「契約続行はお嬢さんと私の結婚が、条件です」 突然、降って湧いた結婚の話。 しかも、父親の工場と引き替えに。 「この条件がのめない場合は当初の予定通り、契約は打ち切りということで」 突きつけられる契約書という名の婚姻届。 父親の工場を救えるのは自分ひとり。 「わかりました。 あなたと結婚します」 はじまった契約結婚生活があまー……いはずがない!? 若園朋香、26歳 ごくごく普通の、町工場の社長の娘 × 押部尚一郎、36歳 日本屈指の医療グループ、オシベの御曹司 さらに 自分もグループ会社のひとつの社長 さらに ドイツ人ハーフの金髪碧眼銀縁眼鏡 そして 極度の溺愛体質?? ****** 表紙は瀬木尚史@相沢蒼依さん(Twitter@tonaoto4)から。

【完結】側妃は愛されるのをやめました

なか
恋愛
「君ではなく、彼女を正妃とする」  私は、貴方のためにこの国へと貢献してきた自負がある。  なのに……彼は。 「だが僕は、ラテシアを見捨てはしない。これから君には側妃になってもらうよ」  私のため。  そんな建前で……側妃へと下げる宣言をするのだ。    このような侮辱、恥を受けてなお……正妃を求めて抗議するか?  否。  そのような恥を晒す気は無い。 「承知いたしました。セリム陛下……私は側妃を受け入れます」  側妃を受けいれた私は、呼吸を挟まずに言葉を続ける。  今しがた決めた、たった一つの決意を込めて。 「ですが陛下。私はもう貴方を支える気はありません」  これから私は、『捨てられた妃』という汚名でなく、彼を『捨てた妃』となるために。  華々しく、私の人生を謳歌しよう。  全ては、廃妃となるために。    ◇◇◇  設定はゆるめです。  読んでくださると嬉しいです!

王子殿下の慕う人

夕香里
恋愛
エレーナ・ルイスは小さい頃から兄のように慕っていた王子殿下が好きだった。 しかし、ある噂と事実を聞いたことで恋心を捨てることにしたエレーナは、断ってきていた他の人との縁談を受けることにするのだが──? 「どうして!? 殿下には好きな人がいるはずなのに!!」 好きな人がいるはずの殿下が距離を縮めてくることに戸惑う彼女と、我慢をやめた王子のお話。 ※小説家になろうでも投稿してます

捨てる旦那あれば拾うホテル王あり~身籠もったら幸せが待っていました~

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「僕は絶対に、君をものにしてみせる」 挙式と新婚旅行を兼ねて訪れたハワイ。 まさか、その地に降り立った途端、 「オレ、この人と結婚するから!」 と心変わりした旦那から捨てられるとは思わない。 ホテルも追い出されビーチで途方に暮れていたら、 親切な日本人男性が声をかけてくれた。 彼は私の事情を聞き、 私のハワイでの思い出を最高のものに変えてくれた。 最後の夜。 別れた彼との思い出はここに置いていきたくて彼に抱いてもらった。 日本に帰って心機一転、やっていくんだと思ったんだけど……。 ハワイの彼の子を身籠もりました。 初見李依(27) 寝具メーカー事務 頑張り屋の努力家 人に頼らず自分だけでなんとかしようとする癖がある 自分より人の幸せを願うような人 × 和家悠将(36) ハイシェラントホテルグループ オーナー 押しが強くて俺様というより帝王 しかし気遣い上手で相手のことをよく考える 狙った獲物は逃がさない、ヤンデレ気味 身籠もったから愛されるのは、ありですか……?

宮廷外交官の天才令嬢、王子に愛想をつかれて婚約破棄されたあげく、実家まで追放されてケダモノ男爵に読み書きを教えることになりました

悠木真帆
恋愛
子爵令嬢のシャルティナ・ルーリックは宮廷外交官として日々忙しくはたらく毎日。 クールな見た目と頭の回転の速さからついたあだ名は氷の令嬢。 婚約者である王子カイル・ドルトラードを長らくほったらかしてしまうほど仕事に没頭していた。 そんなある日の夜会でシャルティナは王子から婚約破棄を宣言されてしまう。 そしてそのとなりには見知らぬ令嬢が⋯⋯ 王子の婚約者ではなくなった途端、シャルティナは宮廷外交官の立場まで失い、見かねた父の強引な勧めで冒険者あがりの男爵のところへ行くことになる。 シャルティナは宮廷外交官の実績を活かして辣腕を振るおうと張り切るが、男爵から命じられた任務は男爵に文字の読み書きを教えることだった⋯⋯

処理中です...