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23.追風 1
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——このごろ風花に会えない。
樹はふぅとため息をついた。
風花が大学生になり、入れ替わりに自分が受験生になってから十ヶ月、なんだかんだいっても、大学生と大学受験生との時間はなかなか一致しないのが現実である。
——これは自分で思ってた以上にコタえてるな。冬休みぐらいまでは週末には会って、昼食ぐらいは一緒に食べられたのに。
全部やってしまった問題集をばさりと閉じ、樹は椅子に持たれて窓の外に目をやった。
季節は立春を少し過ぎた頃、春とは名ばかりで北風が窓の外で歌っているが、空は澄んでよく晴れている。
彼は難関と言われている大学を志望する受験生だが、そんなにあくせくはしていない。あくせくはしていないが、まじめに勉強をしている。万が一にでも失敗はできないからだ。
現に最後の全国模試では今まで受験した中でベストな成績をたたき出した。勿論センター試験も充分安全圏内だ。
進路指導主事でもある担任や、予備校の先生からもよほどのことがない限り、大丈夫だろうというお墨付きをもらっている。
「おまえなあ、ちっとは嬉しそうな顔をしてみぃ」
これは担任の数学科教諭の呆れ顔から発せられた言葉だ。
樹にしてみれば別にむっつりしているつもりもないのだが、どうも銀縁眼鏡の向うの切れ長の瞳は、人々の誤解を受けやすい。
樹にとっては他人にどう思われようともかまわないのであるが。つい身近な人物を思い浮かべてしまう。
——考えてみたらタレ目って得かも。普通にしてても人がよさそうに見えるし。
会えない理由は風花にもあった。
風花はまだ一回生であるが、芸大というところは一般教養もだが、実習も重視するため、次々に与えられる課題に追いまくられ、彼女は秋頃から毎日帰るのも遅くなりがちで、土日も学校に通って制作する日々が続いている。
稀に時間が合えば、駅に迎えに行ったりするくらいしかできない。
風花はもうすぐしたら一段落するからと言うが、彼女は彼女で受験を控えた樹を気遣っているせいか、あまり連絡してこない。
もともと電話に依存する二人ではないし、ショートメールを除けば風花も樹も現代っ子の常套手段であるSNSが苦手だった。ぜんぜん違うようでいて、こんなところだけよく似ている二人だ。
この前会ったのは二週間前の金曜日、帰宅が九時過ぎになった風花を家まで送った時だ。
風花はあいかわらずふんわりしていて他愛のない話で盛り上がり、機嫌よくさよならをすると家の中に消えていった。
——まったく、変に気を使うせいで余計気が散るじゃないか。
だったらこちらから毎日でも連絡すれば良いようなものだが、そこは樹もそうそう素直でない。
とはいえ、今まで必要のない電話やメッセージなど一切しなかった自分が、風花にだけは二日に一度は連絡を入れている。これだけでも彼の人生の中では革命的なことなのだ。
一昨日の風花からの電話では、後少しで課題があがるのでこの土日は学校に缶詰だと言うことで、日曜(つまり今日)も朝早くから大学のほうに行っているらしい。
——熱中すると我を忘れるところあるもんな。あの人。
大学生になっても風花はのんびりしているが、少しは見聞の幅が広がったと見え、以前より現実的に物を見るようになったし、何よりきれいになった。
三つ編みにしていた髪を背中に流し、化粧も覚えた。といっても、ほんの少し紅をさし、眉を整えるぐらいだったが。それでも、紺色の制服が似合ったおさげの少女の面影は遠くんありつつある。
樹は面白くない。非常に面白くない。
がたんと立ち上がったその時。
♪~
机上の携帯電話が鳴った。
着信画面を見て柄にもなくドキンとする。いつきにとって、これは予想外の出来事だったので何かあったかと驚きながら受信ボタンを押した。
彼にかけてくるのは風花と祖母だけなのだ。
『もしもし? 清水君?』
「ああ、どうしたの?」
『それがね、思い切って今日課題上げてきちゃってね、今もう綾野町の駅にいんの。あ、ごめん、勉強中だったよね』
「大丈夫。たった今、一区切りつけたところ」
『あ、そうなんだ。ダメだったらいいけど、少しなら会えるかなあ』
「少しと言わず、じっくり会って下さい。迎えにいきます」
『そお? よかった。どこで待っていたらいい?』
「ええと、ああ、よかったらウチへ来ませんか? 外は寒いし。まだお腹も減らないでしょ。散らかっているけど、風花さえよければ」
『……え? 私はいいけど、そっちこそいいの?』
「大丈夫。迎えにいくから」
『あ、いいよ。自転車だし。十分ぐらいで着くし、実はもう乗ってるし~』
「危ないから通話はやめてください。ぼんやりしてもダメ。じゃ、待ってるから」
携帯を置くなり樹は部屋を飛び出した。このマンションはオートロックになっており、エントランスでキーのナンバーを入力するか、家人が中からロックを解除するかしないと入れない。
キーナンバーは前に教えたことは教えたのだが、風花にかぎってその番号を覚えているはずがないと確信が樹にはあった。自分が急いだって意味はないのだが一刻も早く風花に会いたかった。エントランスに迎えに行くため、エレベーターを呼ぶ。
「さて」
風花は通話を終えたジャケットのポケットにケイタイを滑り込ませた。
煉瓦色のデニムコートをぶかぶかと着込み、白い男物のシャツの裾を薄めのニットからラフに出してロングのプリーツスカート。髪は久しぶりにゆるめに編んで両脇に垂らしてある。ちょっと変わった編み方で友人がしてくれたものだ。
「でもよかったぁ、家にいてくれて」
小さな自転車に大きなかばんを詰め込み、あと少しで薄暮の冷たくなり始めた風に負けないようにペダルをこぐ。
——ひゃあ、寒くなって来きたなあ。二月だもんね……清水君も勉強追い込みだろうなぁ。そういえば、清水君のお部屋に行くのってはじめてかな? マンションの前までは何度も行った事あるけど。
角を曲がると洒落たグレーの建物がすぐに目に飛び込んできた。
マンションとしては小規模かもしれない。しかし、よくある直方体の建造物ではなく、あちこちでっぱったり、奥に引っ込んだり、戸建て感覚を重視したつくりになっている。欧州風のバルコニーにはむろん、布団を干したりしている家はどこにもない。
——やっぱりかっこいい建物だなあ。お洒落だし、だから昔、モチーフに選んだんだっけ?
それが彼の住むマンションだと知った時には驚いたものだ。
『何で自分の家だって教えてくれなかったの?』
『どうでもいいと思ったから。実際、実物より風花の絵のほうがいい』
——あれはいつの会話だっけ? そういえばつき合って一年になるのかぁ……。
あの日――。
『俺の恋人になりなさい』
風花の色づき始めた、しかしまだ形を成していなかった不確かな気持ちはあの一言で決定的な名前を付けられた。
それが、恋。
思い出しても顔が赤くなる。
「うしゃ~って、あわわ」
うっかりハンドルが取られそうになる。
運転中、ぼんやりしてはいけないと言われたことを思い出し、風花は必死にペダルをこいだ。
しゅるるる、と英国風の前庭をしつらえた大理石のファサードに見とれながら玄関に乗り付けると、見慣れた人影が立っていた。
樹は軽く手を上げて挨拶をした。
「こんちは~!」
「こんにちは」
「ひさしぶりだね~」
風の中、思い切り自転車をこいてきたので鼻が赤い。風がきついせいで目も少し潤んでいる。
「ひさしぶり」
樹は少し微笑んでカバンを受け取った。
「自転車はこっちに置くことになってるから。どうぞ」
自転車を置いてエントランスに入った風花はまず、ホールの豪華さに目を見張った。
「うっわ~、なんかすごい。とてつもなくかっこいいね。来客ホールまであるんだ」
「そぉ?」
「うん、なんだかネオロマネスク様式っちゅうか」
「はいはい、どうでもいいからさっさとエレベーターに乗ってください」
いつの間にかエレベーターが口をあけて待っている。
樹は先に入って七階のボタンを押した。最上階である。
「はりゃ~、中も豪華~、清水君やっぱりお金持ちさんだったんだ~」
「俺は一銭も持っちゃいませんよ、バイトもしてないし」
愉快そうでもなく、樹が答える。
「そりゃそうだけどさ、学生なんだし」
音もなくエレベーターは止まり、正面に広い廊下があらわれた。
「こっちです」
七階は廊下をはさんで四つのドアしかなく、エレベーターを出て、左斜めの扉が樹の家だった。
「どうぞ入ってください」
「お、お邪魔しま~す」
樹はふぅとため息をついた。
風花が大学生になり、入れ替わりに自分が受験生になってから十ヶ月、なんだかんだいっても、大学生と大学受験生との時間はなかなか一致しないのが現実である。
——これは自分で思ってた以上にコタえてるな。冬休みぐらいまでは週末には会って、昼食ぐらいは一緒に食べられたのに。
全部やってしまった問題集をばさりと閉じ、樹は椅子に持たれて窓の外に目をやった。
季節は立春を少し過ぎた頃、春とは名ばかりで北風が窓の外で歌っているが、空は澄んでよく晴れている。
彼は難関と言われている大学を志望する受験生だが、そんなにあくせくはしていない。あくせくはしていないが、まじめに勉強をしている。万が一にでも失敗はできないからだ。
現に最後の全国模試では今まで受験した中でベストな成績をたたき出した。勿論センター試験も充分安全圏内だ。
進路指導主事でもある担任や、予備校の先生からもよほどのことがない限り、大丈夫だろうというお墨付きをもらっている。
「おまえなあ、ちっとは嬉しそうな顔をしてみぃ」
これは担任の数学科教諭の呆れ顔から発せられた言葉だ。
樹にしてみれば別にむっつりしているつもりもないのだが、どうも銀縁眼鏡の向うの切れ長の瞳は、人々の誤解を受けやすい。
樹にとっては他人にどう思われようともかまわないのであるが。つい身近な人物を思い浮かべてしまう。
——考えてみたらタレ目って得かも。普通にしてても人がよさそうに見えるし。
会えない理由は風花にもあった。
風花はまだ一回生であるが、芸大というところは一般教養もだが、実習も重視するため、次々に与えられる課題に追いまくられ、彼女は秋頃から毎日帰るのも遅くなりがちで、土日も学校に通って制作する日々が続いている。
稀に時間が合えば、駅に迎えに行ったりするくらいしかできない。
風花はもうすぐしたら一段落するからと言うが、彼女は彼女で受験を控えた樹を気遣っているせいか、あまり連絡してこない。
もともと電話に依存する二人ではないし、ショートメールを除けば風花も樹も現代っ子の常套手段であるSNSが苦手だった。ぜんぜん違うようでいて、こんなところだけよく似ている二人だ。
この前会ったのは二週間前の金曜日、帰宅が九時過ぎになった風花を家まで送った時だ。
風花はあいかわらずふんわりしていて他愛のない話で盛り上がり、機嫌よくさよならをすると家の中に消えていった。
——まったく、変に気を使うせいで余計気が散るじゃないか。
だったらこちらから毎日でも連絡すれば良いようなものだが、そこは樹もそうそう素直でない。
とはいえ、今まで必要のない電話やメッセージなど一切しなかった自分が、風花にだけは二日に一度は連絡を入れている。これだけでも彼の人生の中では革命的なことなのだ。
一昨日の風花からの電話では、後少しで課題があがるのでこの土日は学校に缶詰だと言うことで、日曜(つまり今日)も朝早くから大学のほうに行っているらしい。
——熱中すると我を忘れるところあるもんな。あの人。
大学生になっても風花はのんびりしているが、少しは見聞の幅が広がったと見え、以前より現実的に物を見るようになったし、何よりきれいになった。
三つ編みにしていた髪を背中に流し、化粧も覚えた。といっても、ほんの少し紅をさし、眉を整えるぐらいだったが。それでも、紺色の制服が似合ったおさげの少女の面影は遠くんありつつある。
樹は面白くない。非常に面白くない。
がたんと立ち上がったその時。
♪~
机上の携帯電話が鳴った。
着信画面を見て柄にもなくドキンとする。いつきにとって、これは予想外の出来事だったので何かあったかと驚きながら受信ボタンを押した。
彼にかけてくるのは風花と祖母だけなのだ。
『もしもし? 清水君?』
「ああ、どうしたの?」
『それがね、思い切って今日課題上げてきちゃってね、今もう綾野町の駅にいんの。あ、ごめん、勉強中だったよね』
「大丈夫。たった今、一区切りつけたところ」
『あ、そうなんだ。ダメだったらいいけど、少しなら会えるかなあ』
「少しと言わず、じっくり会って下さい。迎えにいきます」
『そお? よかった。どこで待っていたらいい?』
「ええと、ああ、よかったらウチへ来ませんか? 外は寒いし。まだお腹も減らないでしょ。散らかっているけど、風花さえよければ」
『……え? 私はいいけど、そっちこそいいの?』
「大丈夫。迎えにいくから」
『あ、いいよ。自転車だし。十分ぐらいで着くし、実はもう乗ってるし~』
「危ないから通話はやめてください。ぼんやりしてもダメ。じゃ、待ってるから」
携帯を置くなり樹は部屋を飛び出した。このマンションはオートロックになっており、エントランスでキーのナンバーを入力するか、家人が中からロックを解除するかしないと入れない。
キーナンバーは前に教えたことは教えたのだが、風花にかぎってその番号を覚えているはずがないと確信が樹にはあった。自分が急いだって意味はないのだが一刻も早く風花に会いたかった。エントランスに迎えに行くため、エレベーターを呼ぶ。
「さて」
風花は通話を終えたジャケットのポケットにケイタイを滑り込ませた。
煉瓦色のデニムコートをぶかぶかと着込み、白い男物のシャツの裾を薄めのニットからラフに出してロングのプリーツスカート。髪は久しぶりにゆるめに編んで両脇に垂らしてある。ちょっと変わった編み方で友人がしてくれたものだ。
「でもよかったぁ、家にいてくれて」
小さな自転車に大きなかばんを詰め込み、あと少しで薄暮の冷たくなり始めた風に負けないようにペダルをこぐ。
——ひゃあ、寒くなって来きたなあ。二月だもんね……清水君も勉強追い込みだろうなぁ。そういえば、清水君のお部屋に行くのってはじめてかな? マンションの前までは何度も行った事あるけど。
角を曲がると洒落たグレーの建物がすぐに目に飛び込んできた。
マンションとしては小規模かもしれない。しかし、よくある直方体の建造物ではなく、あちこちでっぱったり、奥に引っ込んだり、戸建て感覚を重視したつくりになっている。欧州風のバルコニーにはむろん、布団を干したりしている家はどこにもない。
——やっぱりかっこいい建物だなあ。お洒落だし、だから昔、モチーフに選んだんだっけ?
それが彼の住むマンションだと知った時には驚いたものだ。
『何で自分の家だって教えてくれなかったの?』
『どうでもいいと思ったから。実際、実物より風花の絵のほうがいい』
——あれはいつの会話だっけ? そういえばつき合って一年になるのかぁ……。
あの日――。
『俺の恋人になりなさい』
風花の色づき始めた、しかしまだ形を成していなかった不確かな気持ちはあの一言で決定的な名前を付けられた。
それが、恋。
思い出しても顔が赤くなる。
「うしゃ~って、あわわ」
うっかりハンドルが取られそうになる。
運転中、ぼんやりしてはいけないと言われたことを思い出し、風花は必死にペダルをこいだ。
しゅるるる、と英国風の前庭をしつらえた大理石のファサードに見とれながら玄関に乗り付けると、見慣れた人影が立っていた。
樹は軽く手を上げて挨拶をした。
「こんちは~!」
「こんにちは」
「ひさしぶりだね~」
風の中、思い切り自転車をこいてきたので鼻が赤い。風がきついせいで目も少し潤んでいる。
「ひさしぶり」
樹は少し微笑んでカバンを受け取った。
「自転車はこっちに置くことになってるから。どうぞ」
自転車を置いてエントランスに入った風花はまず、ホールの豪華さに目を見張った。
「うっわ~、なんかすごい。とてつもなくかっこいいね。来客ホールまであるんだ」
「そぉ?」
「うん、なんだかネオロマネスク様式っちゅうか」
「はいはい、どうでもいいからさっさとエレベーターに乗ってください」
いつの間にかエレベーターが口をあけて待っている。
樹は先に入って七階のボタンを押した。最上階である。
「はりゃ~、中も豪華~、清水君やっぱりお金持ちさんだったんだ~」
「俺は一銭も持っちゃいませんよ、バイトもしてないし」
愉快そうでもなく、樹が答える。
「そりゃそうだけどさ、学生なんだし」
音もなくエレベーターは止まり、正面に広い廊下があらわれた。
「こっちです」
七階は廊下をはさんで四つのドアしかなく、エレベーターを出て、左斜めの扉が樹の家だった。
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