10 / 38
10.北風 3
しおりを挟む
風花は自分の自転車が倒れる音を聞いた。
だけど、そちらを見ることはできなかった。
動けないほどがっしり肩をつかまれている。
「聞いた」
「は?」
「聞いたよ」
「な、なにを」
「俺のこと好きって言った」
「え? あ、あれ? あの……」
身じろぎしても大きな手は風花をつかんで離さない。
「あれは……話の流れで……」
「もう遅い。本気にしたから」
「ち、ちが……っ!」
「じゃあ、嫌い?」
「き、嫌いでは」
「さっきは少し好きって言った」
「そ、それはそうなんだけど……あの、離して……」
「嫌だね」
あたりは暗いのに。恐ろしいほど真剣な瞳が風花をとらえいるのがわかる。声が静かなだけに、その存在感は圧倒されるほどに大きい。
「あなたが俺のこと無関心ならこのままでいいと思ってた。でも少しでも好きになってくれたんなら、俺は全力であなたを振り向かせる」
彼は振り向かせたいではなく、振り向かせる、と断定した。
自信があるのだと。
「あ……」
肩をつかんだ手は、もうきつくないのに風花は動けない。
「俺の恋人になりなさい」
樹は小さな上級生を見つめて言った。
目の前の小さな人は、彼の大好きな大きなタレ目に自分を映している。まるで猛獣に取り押さえられた小動物のように怯えて固まったまま。
「本気で嫌なんだったら、もう二度とあなたに近づかない、話もしない。約束する」
「……」
「どう?」
問いただされて混乱の極みの頭の中、風花は今日の午後からのことを忙しく反芻《はんすう》した。
受験用のつまらない課題に惨敗し、凹んで帰ってきたこと。
そこで思いがけず樹に会ったとたん、うきうきとおしゃべりになってしまった自分のこと。
そして、またしても樹の言葉によって、なくしかけていた目標を取り戻せたこと。
——私、いつのまにか清水君といるのが楽しくなってたんだ。声をかけられるのを心待ちにしてた。もう話せないなんて……それは、嫌……だ。
「私……私は」
——これって、これが好きになるって事?
同級生の小川への思いはもっとずっと切ないものだった。
初めからかなわぬ恋だったから。
長いことその恋にしがみついていた風花はほかの恋を知らない。
しかし、いつのまにかその苦しさに何かが混じり、風花の気づかぬ間に苦くなくなっていったのだ。その何かとは、この無口な二年生から溢《こぼ》れる短い言葉とかすかな笑顔だった。他にもあるが、彼のぞんざいが大きくなっていったのだ。それに間違いないと風花も感じている。
——知らないうちに好きになってた。私、知らないうちに恋してた。
「風花?」
初めて樹か自分の名を呼んだ。
それが殺し文句。最後の麦わら。風花の心がゆっくりと溢《あふ》れていく。
風花の頤がこくりとさがった。
「いいの? 風花、取り消し不可だよ」
静かに問う樹の目に、もう一度風花の頭のてっぺんが映った。
風花はうなずいたまま両目を痛いほどつむっている。そうでもしないと目の前の少年に圧倒されてしまいそうなのだ。
肩をつかんでいた長い指がゆっくりと上がり、首筋をなぞってゆく。
樹の指先の熱さが直に伝わり、自分の方が小刻みに震えるのを止められない。目を開けるのが恐かった。
大きな手のひらはびっくりするほど熱く、柔らかい頬をつつむ。宝物のように。
「風花、顔上げて、俺を見て」
それは優しいけれど断固とした仕草だった。風花は恐る恐る顔を上げて目を開いた。恐ろしく真剣な瞳とぶつかる。離れたところに暗い街灯があるだけなのに、彼の顔がとてもよく見えるのはどう言うわけなのだろう。
「……よかった。もし断られていたら俺、どうかなってたかもしれない」
「……」
「驚かせてごめん。でも今は何もしないから恐がらないで」
「……うん」
頬がふっと冷気にさらられた。樹が手を離し、ようやく開放されたのだ。身を切る寒さにほんの少し自分が取り戻せる。
——私、嫌がってない……こんなにドキドキしているのに。
やっと落ちるべきところに落ちたと思っている自分がいる。
しかし、まだどうしていいのかわからなくて、風花は視線をそらせた。
「ひどい」
ふてくされた子供のようにぽつりと呟く。
「え?」
「自転車」
「自転車?」
「こけてる」
見るとカバンは投げ出され、苦労して持ち帰ったカルトンは情けなく地面に広がっている。
「あっ……! すみません」
慌てて樹は自転車を起こしてスタンドをかけ、大きな体を折りたたんで散らばった荷物を集めた。
「ぷっ!」
「今度はなんですか」
けげんそうに樹の眉が寄せられる。
「だって、おかしいんだもん。いっつも冷静な清水君が慌てちゃってさ。珍しいもの見ちゃった」
「……」
「ぷぷ、うくく。やっと反撃できた!」
「反撃? なにそれ。でもこれでわかったでしょ?」
「なにが?」
まだ笑いが残ったままの唇を眩しそうにみながら清水が続けた。
「俺が本当はちっとも冷静でないってこと」
「うん、よくわかった」
「これからまだまだわかりますよ。この半年あなたに何度振り回されたことか。さぁもう帰ろう。ほれ、ハンドル持って」
風花は素直に自転車を受け取り、二人は暗い道を歩き出した。
「受験ほんとにがんばってくださいよ」
「うん、がんばる」
「俺のガマンもあと少ししかききませんからね」
「ガマン? なんの?」
「完全犯罪の」
「なんだ、さっきの冗談か。一瞬本気で信じちゃったよ」
「にっぶ~……」
「なんでため息ついてんの?」
「……つかせてください」
角を曲がるとそこはもう風花の家の道だ。
細い暗い道は、思いがけず二人の始まりの場所となった。
曲がり角にある街灯がおかしそうに瞬いて二人を眺めていた。
だけど、そちらを見ることはできなかった。
動けないほどがっしり肩をつかまれている。
「聞いた」
「は?」
「聞いたよ」
「な、なにを」
「俺のこと好きって言った」
「え? あ、あれ? あの……」
身じろぎしても大きな手は風花をつかんで離さない。
「あれは……話の流れで……」
「もう遅い。本気にしたから」
「ち、ちが……っ!」
「じゃあ、嫌い?」
「き、嫌いでは」
「さっきは少し好きって言った」
「そ、それはそうなんだけど……あの、離して……」
「嫌だね」
あたりは暗いのに。恐ろしいほど真剣な瞳が風花をとらえいるのがわかる。声が静かなだけに、その存在感は圧倒されるほどに大きい。
「あなたが俺のこと無関心ならこのままでいいと思ってた。でも少しでも好きになってくれたんなら、俺は全力であなたを振り向かせる」
彼は振り向かせたいではなく、振り向かせる、と断定した。
自信があるのだと。
「あ……」
肩をつかんだ手は、もうきつくないのに風花は動けない。
「俺の恋人になりなさい」
樹は小さな上級生を見つめて言った。
目の前の小さな人は、彼の大好きな大きなタレ目に自分を映している。まるで猛獣に取り押さえられた小動物のように怯えて固まったまま。
「本気で嫌なんだったら、もう二度とあなたに近づかない、話もしない。約束する」
「……」
「どう?」
問いただされて混乱の極みの頭の中、風花は今日の午後からのことを忙しく反芻《はんすう》した。
受験用のつまらない課題に惨敗し、凹んで帰ってきたこと。
そこで思いがけず樹に会ったとたん、うきうきとおしゃべりになってしまった自分のこと。
そして、またしても樹の言葉によって、なくしかけていた目標を取り戻せたこと。
——私、いつのまにか清水君といるのが楽しくなってたんだ。声をかけられるのを心待ちにしてた。もう話せないなんて……それは、嫌……だ。
「私……私は」
——これって、これが好きになるって事?
同級生の小川への思いはもっとずっと切ないものだった。
初めからかなわぬ恋だったから。
長いことその恋にしがみついていた風花はほかの恋を知らない。
しかし、いつのまにかその苦しさに何かが混じり、風花の気づかぬ間に苦くなくなっていったのだ。その何かとは、この無口な二年生から溢《こぼ》れる短い言葉とかすかな笑顔だった。他にもあるが、彼のぞんざいが大きくなっていったのだ。それに間違いないと風花も感じている。
——知らないうちに好きになってた。私、知らないうちに恋してた。
「風花?」
初めて樹か自分の名を呼んだ。
それが殺し文句。最後の麦わら。風花の心がゆっくりと溢《あふ》れていく。
風花の頤がこくりとさがった。
「いいの? 風花、取り消し不可だよ」
静かに問う樹の目に、もう一度風花の頭のてっぺんが映った。
風花はうなずいたまま両目を痛いほどつむっている。そうでもしないと目の前の少年に圧倒されてしまいそうなのだ。
肩をつかんでいた長い指がゆっくりと上がり、首筋をなぞってゆく。
樹の指先の熱さが直に伝わり、自分の方が小刻みに震えるのを止められない。目を開けるのが恐かった。
大きな手のひらはびっくりするほど熱く、柔らかい頬をつつむ。宝物のように。
「風花、顔上げて、俺を見て」
それは優しいけれど断固とした仕草だった。風花は恐る恐る顔を上げて目を開いた。恐ろしく真剣な瞳とぶつかる。離れたところに暗い街灯があるだけなのに、彼の顔がとてもよく見えるのはどう言うわけなのだろう。
「……よかった。もし断られていたら俺、どうかなってたかもしれない」
「……」
「驚かせてごめん。でも今は何もしないから恐がらないで」
「……うん」
頬がふっと冷気にさらられた。樹が手を離し、ようやく開放されたのだ。身を切る寒さにほんの少し自分が取り戻せる。
——私、嫌がってない……こんなにドキドキしているのに。
やっと落ちるべきところに落ちたと思っている自分がいる。
しかし、まだどうしていいのかわからなくて、風花は視線をそらせた。
「ひどい」
ふてくされた子供のようにぽつりと呟く。
「え?」
「自転車」
「自転車?」
「こけてる」
見るとカバンは投げ出され、苦労して持ち帰ったカルトンは情けなく地面に広がっている。
「あっ……! すみません」
慌てて樹は自転車を起こしてスタンドをかけ、大きな体を折りたたんで散らばった荷物を集めた。
「ぷっ!」
「今度はなんですか」
けげんそうに樹の眉が寄せられる。
「だって、おかしいんだもん。いっつも冷静な清水君が慌てちゃってさ。珍しいもの見ちゃった」
「……」
「ぷぷ、うくく。やっと反撃できた!」
「反撃? なにそれ。でもこれでわかったでしょ?」
「なにが?」
まだ笑いが残ったままの唇を眩しそうにみながら清水が続けた。
「俺が本当はちっとも冷静でないってこと」
「うん、よくわかった」
「これからまだまだわかりますよ。この半年あなたに何度振り回されたことか。さぁもう帰ろう。ほれ、ハンドル持って」
風花は素直に自転車を受け取り、二人は暗い道を歩き出した。
「受験ほんとにがんばってくださいよ」
「うん、がんばる」
「俺のガマンもあと少ししかききませんからね」
「ガマン? なんの?」
「完全犯罪の」
「なんだ、さっきの冗談か。一瞬本気で信じちゃったよ」
「にっぶ~……」
「なんでため息ついてんの?」
「……つかせてください」
角を曲がるとそこはもう風花の家の道だ。
細い暗い道は、思いがけず二人の始まりの場所となった。
曲がり角にある街灯がおかしそうに瞬いて二人を眺めていた。
0
お気に入りに追加
101
あなたにおすすめの小説
【完結】愛も信頼も壊れて消えた
miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」
王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。
無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。
だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。
婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。
私は彼の事が好きだった。
優しい人だと思っていた。
だけど───。
彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。
※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。
契約書は婚姻届
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「契約続行はお嬢さんと私の結婚が、条件です」
突然、降って湧いた結婚の話。
しかも、父親の工場と引き替えに。
「この条件がのめない場合は当初の予定通り、契約は打ち切りということで」
突きつけられる契約書という名の婚姻届。
父親の工場を救えるのは自分ひとり。
「わかりました。
あなたと結婚します」
はじまった契約結婚生活があまー……いはずがない!?
若園朋香、26歳
ごくごく普通の、町工場の社長の娘
×
押部尚一郎、36歳
日本屈指の医療グループ、オシベの御曹司
さらに
自分もグループ会社のひとつの社長
さらに
ドイツ人ハーフの金髪碧眼銀縁眼鏡
そして
極度の溺愛体質??
******
表紙は瀬木尚史@相沢蒼依さん(Twitter@tonaoto4)から。
【完結】側妃は愛されるのをやめました
なか
恋愛
「君ではなく、彼女を正妃とする」
私は、貴方のためにこの国へと貢献してきた自負がある。
なのに……彼は。
「だが僕は、ラテシアを見捨てはしない。これから君には側妃になってもらうよ」
私のため。
そんな建前で……側妃へと下げる宣言をするのだ。
このような侮辱、恥を受けてなお……正妃を求めて抗議するか?
否。
そのような恥を晒す気は無い。
「承知いたしました。セリム陛下……私は側妃を受け入れます」
側妃を受けいれた私は、呼吸を挟まずに言葉を続ける。
今しがた決めた、たった一つの決意を込めて。
「ですが陛下。私はもう貴方を支える気はありません」
これから私は、『捨てられた妃』という汚名でなく、彼を『捨てた妃』となるために。
華々しく、私の人生を謳歌しよう。
全ては、廃妃となるために。
◇◇◇
設定はゆるめです。
読んでくださると嬉しいです!
【完結】お姉様の婚約者
七瀬菜々
恋愛
姉が失踪した。それは結婚式当日の朝のことだった。
残された私は家族のため、ひいては祖国のため、姉の婚約者と結婚した。
サイズの合わない純白のドレスを身に纏い、すまないと啜り泣く父に手を引かれ、困惑と同情と侮蔑の視線が交差するバージンロードを歩き、彼の手を取る。
誰が見ても哀れで、惨めで、不幸な結婚。
けれど私の心は晴れやかだった。
だって、ずっと片思いを続けていた人の隣に立てるのだから。
ーーーーーそう、だから私は、誰がなんと言おうと、シアワセだ。
王子殿下の慕う人
夕香里
恋愛
エレーナ・ルイスは小さい頃から兄のように慕っていた王子殿下が好きだった。
しかし、ある噂と事実を聞いたことで恋心を捨てることにしたエレーナは、断ってきていた他の人との縁談を受けることにするのだが──?
「どうして!? 殿下には好きな人がいるはずなのに!!」
好きな人がいるはずの殿下が距離を縮めてくることに戸惑う彼女と、我慢をやめた王子のお話。
※小説家になろうでも投稿してます
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
不運な王子と勘違い令嬢
夕鈴
恋愛
初恋の少女を婚約者に選んだ王子。鈍感な婚約者に好意は伝わらなくても良好な関係を築いていた。
ある出来事から事態は一変する。
「お幸せに。私のことは捨て置いてください」
「私は君しか妃に迎えいれない」
「お戯れを。ふさわしい方を選んでください」
優しく誠実だった王子が誤解して冷たくなった婚約者との関係修繕を目指し、勘違いして拗ねた少女が暴走する物語。
追憶令嬢の徒然日記の最初の世界のパラレルですが読まなくても大丈夫です。
捨てる旦那あれば拾うホテル王あり~身籠もったら幸せが待っていました~
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「僕は絶対に、君をものにしてみせる」
挙式と新婚旅行を兼ねて訪れたハワイ。
まさか、その地に降り立った途端、
「オレ、この人と結婚するから!」
と心変わりした旦那から捨てられるとは思わない。
ホテルも追い出されビーチで途方に暮れていたら、
親切な日本人男性が声をかけてくれた。
彼は私の事情を聞き、
私のハワイでの思い出を最高のものに変えてくれた。
最後の夜。
別れた彼との思い出はここに置いていきたくて彼に抱いてもらった。
日本に帰って心機一転、やっていくんだと思ったんだけど……。
ハワイの彼の子を身籠もりました。
初見李依(27)
寝具メーカー事務
頑張り屋の努力家
人に頼らず自分だけでなんとかしようとする癖がある
自分より人の幸せを願うような人
×
和家悠将(36)
ハイシェラントホテルグループ オーナー
押しが強くて俺様というより帝王
しかし気遣い上手で相手のことをよく考える
狙った獲物は逃がさない、ヤンデレ気味
身籠もったから愛されるのは、ありですか……?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる