上 下
9 / 38

9.北風 2

しおりを挟む
 風花の声にさらりと振り返り、自転車に乗った小さな姿を認めると、樹はかすかな会釈をよこした。
 あいかわらずの熱のない態度。金属製の眼鏡のフレームが店内の明かりを反射する。
「今、帰りですか? 遅いですね」
 そういいながら買ってきたらしい本を自分のカバンに放り込んだ。
「うん、へとへと」
 私服姿は初めて見る。黒いタートルネックと、黒いカジュアルなハーフコート、グレイのマフラー。モノトーンがよく似合っている。
「ひさしぶり!」
「……おひさしぶりです」
 ——最近顔会わせなかったな。ま、私が受験生してたせいなんだけど、なんかほっとするなぁ、この仏頂面を見ると、最近。
「清水君……は、本買ってたの?」
 思いっきり自転車をこいでいたせいでまだ頬は上気し、息が上がってまだうまくしゃべれない。
「ええ、雑誌ですけど」
「そうか~」
「いつもこんな時間に?」
「うん、予備校行った時だけだけど。あ~、お腹すいたわ~」
 急に空腹を思い出し、情けない声を出した風花に清水はにやりと笑った。
「ファーストフードでよかったら俺、おごりますけど」
「えっ⁉︎」
 樹は駅前でたった一軒のファーストフード店を指差して言った。またしてもイキナリな展開。このぶっきらぼうな少年といると風花のペースがどうも狂う。
 ——結局ついてきちゃった……空腹には勝てん。
 風花の家は共稼ぎで、最近は両親共に帰宅が遅く八時ごろである。
 簡単なものなら風花が作るときもあるが、受験生に夕食を支度させるのは悪いと、母が朝に用意しておいてくれる。
 今日はビーフシチューのはずだ。帰って暖め、野菜を切れば簡単な夕食の出来上がりのはずだった。
 だったが。

「いただきます!」
 ほかほかのチーズバーガーを、あんと口を開けていさぎよく頬張る。
 ポテトもはぐはぐ。
 アイスティーもごくごく。
「おいひー」
「吉野さんってホントおいしそうに物を食べるなあ。おごりがいがあるっていうか、見てて気持ちい」
「ぐぅ」
 流し目をくれてそんなことを言う樹に、頬張っていたバンズが喉に詰まりそうになる。
「そ、そりゃ、おなかっ減ってるから……って、そんなにがつがつしてたかな…」
「してた」
「…」
 タレ目をさらに垂れさせ、風花は情けない顔で黙り込む。上級生の威厳など微塵もない。
 ——仮にも好きだって言ったオンナの前でそーゆーこと言うか?
「ウソ。おいしそうに食べてたのはホント」
「すぐ年上をからかって……悪い趣味だよ、清水君」
「すみません。吉野さんといると楽しいもんだから」
「ぬぬ……! ちっとも楽しそうじゃない顔してるクセして~」

 清水樹。
 彼は風花が三年になったばかりの春。突然彼女に好きだと告白し、その後風花がK市にある芸大へ進学すると決めると、自分も近所のK大(難関校)へ行くとあっさりのたまった下級生である。
 薄い唇は滅多に微笑まず、口ぶりは愛想がいいわけでもない。好きだと言った割に風花に付き合いを迫るわけでも、連絡先を聞いてくることもない。
 大体携帯電話の番号も知らない。持っているところも見たことがない。せいぜい駅や学校であったときに軽く会釈するか、よくて一言二言話をするくらいである。しかも、決して優しく語りかけるでもなく、いつも風花を戸惑わせる言動ばかり。
 勿論風花は受験生だし、一番の関心事は志望大学に受かり、好きな絵を勉強することだ。
 初恋の小川のことは今でも好きだが、以前のように切なくて胸が痛むということは今はなくなった。今では芸大志望者の同志として、昨日のように絵について話しあったりできる間柄に変化している。
 それは芸術家肌の小川は、もはや風花にとって手の届かない存在だが、この生意気で風変わりな下級生の存在が少しずつ大きくなっていたからかもしれない。
 最初面食らった風花だがこの半年余り、意識するともなく意識しているうちに人を食ったようなこの少年が案外しっかりしていることもわかったし、口ぶりほど人も悪くないということも知った。
 最近は時々無性に話をしたくなったりする。受験勉強で煮詰まった時、課題のデッサンがうまくいかなかった時、小気味いいほどにあっさりとした彼の意見を聞いてみたくなる。
 仮面のような怜悧な表情が解け、目元がとてもやわらかくなる瞬間を見たくて。しかし、そんな風花の変化を知ってか知らずか、清水はいつも平常心である。
「今日もデッサンの?」
 暖かい紅茶を飲みながら静かに樹が問う。
「うん、そうなんだけど。あんまりうまくいかなかったなぁ。よく手が止まった」
「そう?」
「受験用のデッサンってちっとも面白くないんだ。難しいばっかりで。」
「そりゃ、ほかの科目でも一緒でしょ。受験用の勉強に面白さを求めちゃダメですよ」
「確かに。清水君はいっつも達観してるなぁ」
「達観? 常識でしょ」
 情け容赦のない正論が形の良い唇からもたらされる。
 ——それなのになんだか元気が出てくるのはどうして?
「(くそーまけるもんか)それに芸大受験者は浪人が多いから。浪人ってさすがにうまいし。それにハデだし」
「それもほかの科目と一緒。一年か、それ以上余分に勉強しているんだし。ま、期間がすべてじゃないけど」
「ですよね~」
 情けない自分でさえ快感になってくるこの妙な感覚。もっともっと話を引き出したくてうずうずする。
「センター試験はまあまあだって言ってたでしょ?」
「うん、なんとか合格ラインはあったよ。まぁ、美jつつかはそんなにボーダー高くないけど。だから後は実技。これが全て」
「ほかの人と違って科目が絞られているんだから、いい方ですよ、きっと」
「まぁそう考えたらそうなのかな? 好きな道なんだし。いいんだ……よね?」
「がんばってるんでしょ?」
「うん、そりゃ、がんばってる。そうだ、私けっこうがんばってるよ!」
「自分で気がつかなかったの?」
「つかなかった」
 そう、目の前の課題や悩みで頭がいっぱいで、がんばっている自分自身を抹殺してきたような気がする。
「あなたらしくっていいけど、タマには自分を認めてあげなくちゃ」
「そんな気がしてたとこ。あれ? めずらしく慰めてくれてるんだ?」
「慰めてることになるのかな?」
「なったみたい。へへ」
 笑うとタレ目がよけい垂れる。どういうわけか清水が慌てて目を逸らした。
「あ~あ、清水君の冷静さにはいっつも負けちゃうなぁ、あ、今日はなんだかすっきりしたから許す! ありがと」
「……」
 実はこの時点で風花の逆転勝ちなのだが、気づいている様子はない。
 ——やれやれ俺をノックアウトしたってわかんないのかね? このおねーさんは。
「ん?」
「い~や何でも。さ、帰りましょうか。送ります」
 樹が帰ると言った途端、風花をなぜだかがっかりした気分になった。しかし、甘える訳には行かないとも思う。
「いいよぅ~、寒いし。私自転車だし、方向違うし」
「ダメ。俺、紳士ですから」
 そういってレシートを取り上げ、いつきは立ち上がった。
 外に出てみると冬の空に星明かりがいくつも点り、空気は一段と冷え込んでいた。
 風花は黙ったまま自転車を押して歩いた。樹は危なっかしい斜めのカルトンを支えてくれている。
 ——不思議。清水君と話すとすごく落ち着く。なんでかな? さっきまで鉛を飲み込んだ心持だったのに。なんだかんだ言っていっつも助けてもらっているなぁ、私。
 角を折れると、くすんだ街灯がところどころにあるだけの細い道だ。もう人通りは絶えてない。大きな楠のある家を通り過ぎるとすぐに風花の家になる。
「ねぇ」
「はい?」
「なんで清水君はそんなにいっつも平常心なの?」
 何とか話の穂を継ぎたくて風花はどうでもいいことを問うてみた。
「平常心? 俺が?まさか」
「だって怒ったり、げらげら笑ったりしたとこ見たことないよ」
「人をロボットみたいに」
「え? いい意味で言ったんだよ」
「俺が考えていることを知ったら吉野さん、腰を抜かすと思うけどな」
「ええ⁉︎ ひょっとして、か、完全犯罪でも考えてるの⁉︎」
 飛躍のしすぎも甚だしいが、冷たい表情が似つかわしいこの少年にありそうに思えてリアクションが大きくなる。
「完全犯罪ってあのねぇ……あ、でも近いかも」
「だ、ダメだよ犯罪は。人生棒に振るよ?」
 風花の頭に、どういうわけか優雅な銀色のナイフをもった黒ずくめの樹が浮かび上がる。リアルに。
「ふ……大丈夫です。俺が犯罪を犯すとしたらその相手は吉野さんだから」
「は? ええ⁉︎ 何言ってんの!」
「もの言ってんの」
「もう! びっくりしたぁ。せっかくちょっと好きになったかなって思ったのにすぐからか……へ?」
 自転車のハンドルを握っていた腕がいつのまにか強く握られている。




しおりを挟む
感想 20

あなたにおすすめの小説

仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが

ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。 定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました

さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。 王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ 頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。 ゆるい設定です

私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです

こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。 まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。 幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。 「子供が欲しいの」 「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」 それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。

愛されなかった公爵令嬢のやり直し

ましゅぺちーの
恋愛
オルレリアン王国の公爵令嬢セシリアは、誰からも愛されていなかった。 母は幼い頃に亡くなり、父である公爵には無視され、王宮の使用人達には憐れみの眼差しを向けられる。 婚約者であった王太子と結婚するが夫となった王太子には冷遇されていた。 そんなある日、セシリアは王太子が寵愛する愛妾を害したと疑われてしまう。 どうせ処刑されるならと、セシリアは王宮のバルコニーから身を投げる。 死ぬ寸前のセシリアは思う。 「一度でいいから誰かに愛されたかった。」と。 目が覚めた時、セシリアは12歳の頃に時間が巻き戻っていた。 セシリアは決意する。 「自分の幸せは自分でつかみ取る!」 幸せになるために奔走するセシリア。 だがそれと同時に父である公爵の、婚約者である王太子の、王太子の愛妾であった男爵令嬢の、驚くべき真実が次々と明らかになっていく。 小説家になろう様にも投稿しています。 タイトル変更しました!大幅改稿のため、一部非公開にしております。

愛しの婚約者は王女様に付きっきりですので、私は私で好きにさせてもらいます。

梅雨の人
恋愛
私にはイザックという愛しの婚約者様がいる。 ある日イザックは、隣国の王女が私たちの学園へ通う間のお世話係を任されることになった。 え?イザックの婚約者って私でした。よね…? 二人の仲睦まじい様子を見聞きするたびに、私の心は折れてしまいました。 ええ、バッキバキに。 もういいですよね。あとは好きにさせていただきます。

【取り下げ予定】愛されない妃ですので。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。 国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。 「僕はきみを愛していない」 はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。 『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。 (ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?) そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。 しかも、別の人間になっている? なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。 *年齢制限を18→15に変更しました。

お飾り王妃の死後~王の後悔~

ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。 王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。 ウィルベルト王国では周知の事実だった。 しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。 最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。 小説家になろう様にも投稿しています。

記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話

甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。 王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。 その時、王子の元に一通の手紙が届いた。 そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。 王子は絶望感に苛まれ後悔をする。

処理中です...