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28 話してください 少尉さん

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 薄暗い厩舎は、優しい動物の体温と吐く息で温められ、それほど寒くはない。
 上部の換気窓からは朝の光が斜めに差し込み、天使の階段をいく筋も作っていた。
 しかし今のアンには、そのどれも意味がない。
 抱き込まれている腕は強く、分厚い軍服のボタンは固く頬に押しつけられていた。
「アン……アン。本当に無事でよかった……」
 聞いたことのないような弱い声でレイルダーが呟く。
 彼はアンの髪に顔を埋めてうわ言のようにアンの名を呼んだ。

 ああ、少尉さんの匂いだ……。

 それはアンが大好きな甘苦いゼラニウムと少しの煙草の香り。彼の香りだ。泥や硝煙の匂いに混じって、それはアンの脳髄を甘くしびれさせる。

 だけど……あれ? ちょっと苦しい……?

 広い胸への安心感と、抱きしめられる力があまりに強いのとで、アンの意識が朦朧もうろうとし始める。

「アン!? おい、アン!」
「……ふぁい?」
 アンはぼんやりと目を開けた。
「すまん! 力を入れすぎた。大丈夫か?」
「へ? あ……だ、だいじょ、うぶ、です」
「うわ! ボタンの跡がほっぺたについている。ごめん! 痛くないか?」
 アンはぼうっとしたまま、頬に手を当てた。痛くもなんともない。ただ、冷えた指先に頬がひりつくほど熱い。
「そうだ! 水、水飲むか? あ」
 水筒はだいぶ前から隅に転がっている。
「ううん、大丈夫です」
「ほんとか? 無理してないか?」 
 アンはレイルダーの膝の上で体勢を立て直した。
「あ、俺まだ濡れてる」
 レイルダーはラジムに脅されて真冬の川へと入っていったのだ。
 あれからまだ数時間しか経っていない。渇いてなくて当然だった。レイルダーは船で借りた軍用の外套でアンをくるみこんだ。
「私は、大丈夫、です。少尉さん。少尉さんこそ、寒くないですか?」
「……平気だよ」
 アンの言葉に、こわばっていた青年の頬がみるみるゆるんでいくのがわかった。
「あの……怒っていたのではないのですか?」
「ああそうだよ。俺は怒っている。自分にも、アンにも」
「じゃあ……叱ってください」
 アンはレイルダーの膝の上で殊勝しゅしょうに言った。
「ではまず!」
「……はい」
「見習い看護婦になったこともそうだが、なんで川を渡ってきた? アンは兵士じゃない、作戦行動は俺たち兵士の仕事だ」
「私は作戦のことなど何も知りません。でも、お父さまが少尉さんを助けて欲しいって。私は迷わず引き受けたんです」
 美しい瞳が見開かれた。
「……っ! あの人はっ……!」
「馬のことがわかるっていう、なんの役にも立たないと思っていた私の妙な力が、役に立つかもしれないって思ったから、迷わず決めました」
 彼はぎゅっと目をつぶっている。苦悩しているようだ。アンはただ金色の長いまつ毛を眺めていた。
「あの人はなんで……俺なんかに……」
「お父さまは私の知らない事情を話してくれて……秘色の人たちのことも。そして、少尉さんのこと息子も同じだって」
「……」
 さっきまでアンを抱いていた拳が震えている。唇を噛み締め、激しい感情をやり過ごしているようだった。
「……俺のことなど捨て置けばいいのにさ」
「そんなこと言わないで! みんな少尉さんのことが大好きなんですよ! 私も、お父さまも、お母さまも、ケイン様も、それからえっと侯爵夫人……ミレイユ様も」
 アンは最後の名前をしぶしぶ付け足したが、レイルダーは訳がわからないという風に眉をひそめた。
「ミレイユ? 誰?」
 レイルダーは訳がわからないように言った。
「誰って? こ、恋人でしょう?」
 レイルダーが本気で愛しているのは、母のカーマインだとは思うが、それでも恋人を作ってはいけないということはない。
 母もミレイユも、アンと違って派手な美人だ。そういう女性が彼の好みなんだろうと、アンは思っている。
「恋人? そんなものいないよ」
「でも……少尉さん。すごくモテるじゃないですか」
 この状況下で、一体なんの話をしているんだろうとアンは思ったが、二人で話せる機会はもうないかもしれないと思うと、普段無口な彼が語る話なら、全部聞きたい。長いこと話せなかった今までの分まで。
「モテる? 知らない。そりゃ正直に言うと、勝手にベッドに入ってくる強引な女とは、後腐れがないようにその夜だけつきあって別れる。それだけ」
「勝手に……って、女の人ってすごいんですねぇ」
 かなり最低な告白だが、アンは別の意味で感心した。
 レイルダーが非常に人気があって、身分をカサに言い寄ってくる女性が多いことは知っていたからだ。彼らは自分と違って大人なのだから、恋愛に関する決まり事や、駆け引きには慣れているのに違いない。
 ベッドのことはよくわからないが、知らないことだからそれほど気にはならない。。
「さぁ。俺には女性は誰でも同じに見える」
「同じ? じゃあ私も!? 私も同じですか?」
「いや違う。アンはアンだ」
 レイルダーは妙に自信たっぷりに断定した。
「はぁ。わかりません。少尉さんのお話、もっと聞きたいです!」
「俺の話なんてつまらないさ」
 レイルダーは暗い顔でつぶやく。
「つまらなくありません! 言ったでしょう? 私だって少尉さんのことが大好きなんです!」
「……アン」
 大好きな美しい瞳が、揺らいだように見えたのは、アンの思い過ごしだろうか?
「知っていたでしょう? だって、小さい頃から私は」
「俺のことを知ったら、大好きなんて言えないよ」
 アンの言葉にかぶせるようにレイルダーは言った。
「お父さまは知っているのでしょう?」
「……閣下の知らないことがある」
「あの! よかったらお話ししてくれませんか? 少尉さんのこと、私にも」
「嫌だ。知ったらアンは俺のこと嫌いになる」
 レイルダーはぷいと横を向いて言った。この瞬間、怜悧な美貌で女性たちの視線を集める美青年が少年のように見えた。
 アンはどきどきしながら声を張った。
「なりません!」
「なるよ」
「ならないったら! 約束します!」
「約束か……そんなものを信じられたらなぁ」
「他の人の約束は知らないけど、私は約束守ります。でも……もし仮に、私が少尉さんを嫌いになったとしても、少尉さん別に困らないでしょう?」
「いや。実はものすごく困るんだ。だから言いたくない」
「困る? どうして?」
 アンは自分がレイルダーの膝の上にいることも忘れ、不思議そうに彼を覗き込んだ。
 青年は目を合わせようともしないで、秀麗な横顔を見せていたが、不意にアンを間近にのぞき込んで言った。
「俺もアンが大好きだからさ」


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