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34 二度目の夜 5
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「私をどうするつもり?」
リザの瞳は珍しいほどに黒いが、その黒さが鮮やかに変わる瞬間をエルランドはかつて見たことがある。
しかし、今は星のない夜のように深く、その中に自分が映り込んでいる。
「リザ、俺は」
エルランドはテーブル越しにリザの肩を掴んだ。がっしりと掴まれて、リザはやや怯んだが、強い気持ちで男を見つめ返す。
「今更と思われて当然だが……俺は、リザを、俺の領地に連れて帰りたい」
「……」
「リザに、俺の治める土地を、イストラーダを見せたい」
わざとゆっくり自分に向かって吐かれる言葉を、リザは正面から浴びた。
「これが俺がリザにしたいことだ」
強い金緑の瞳に射られながら、しかし、リザはまだ負けるわけにはいかなかった。
「だけど!」
「だけど?」
「りえん……するのよね?」
エルランドの言葉から、このたびの離縁の顛末が兄の思惑だったことはわかったが、彼の気持ちがまだわからないのだ。
「これのことか?」
エルランドは懐から折りたたんだ紙を取り出した。丈夫で上質な紙で、元は筒に納められていたものだろうが、今は無造作に四つに折られている。
それは凝った文字で、リザとエルランドの五年間の婚姻関係を解くことが認められていた。一番下に王の署名と印璽。更にその下に空白があったが、そこには何も記されていなかった。
「俺は署名してない。こんなものただの紙切れだ」
言いながらエルランドは、リザの目の前で王からの書状を破り捨てた。欠片がひらひらとテーブルや床に舞い落ちる。
「リザと離縁したくない。許してもらえなくても夫婦でいたい」
「……」
「これが本当の気持ちだ。だが、俺は俺の罪を破り捨ててはいけないと思っている。リザ、イストラーダに行こう。いや……」
エルランドはテーブルを二歩で回り込むと、リザの前で両膝をついて手を取った。
「俺と一緒に来てほしい……来てはくれまいか?」
「……」
「今度こそ、あなたを幸せにしたい」
しあわせ?
しあわせって、何?
私は、そういうのに、なれるの?
「俺は俺の誤りを認め、償う。姫よ、どうか我が願いを聞き届け給え」
「……はい」
頷いたのは無意識だった。リザは目の前の金緑に見惚れていたのだ。
「ありがとう」
エルランドはわずかに目を細めた。
「……ありがとう」
「でも、他に行くところがないからよ」
リザはほんの少し意地悪く言った。本当はとても嬉しかったのに、なぜだか素直に言葉にできない。
「今はそれで十分だ。ああ、ずいぶん遅くなったな」
いつの間にか月がすっかり昇っている。話をしている間にかなり時間が過ぎたようだった。
「もう休もう」
「え?」
リザは思わず寝台を振り返った。確かにこの部屋には、向かい合わせに二台の寝台がある。
「で、ではニーケを呼び……」
「ニーケは別の部屋で寝る。今頃は納得しているはずだ」
「……」
「ここは今夜、俺とリザの部屋だ」
「まだ眠くないわ」
リザは精一杯元気に見せて胸を張る。
「だが、明日は東に向けて主発する。リザもまだ疲れが抜けていないだろうから、眠っておいた方がいい」
「……」
「心配はいらない。俺は何にもしないし、リザが嫌なら真ん中に衝立を立てる」
「なにもって? なにかするの?」
「……して欲しいのか?」
「意味がわからないわ」
「……」
今度はエルランドが黙る番だった。
「そうか。あなたの時間は、あの夜から止まったままなんだな」
「そんなことはないわ。私だって少しは大人になったもの」
「いや、いい。俺たちはまだ始まってもいない」
そう、あなたにはまだ何も生まれていない。俺への共感も、信頼も、そして愛も、なにもない。
あるのはただ──この時間と空間だけだ。
「さぁ。休もう。あなたはこの水を使うといい」
作りつけの棚の上に置かれた水盤をエルランドは指した。
「身支度は一人でできるか?」
「できるわ」
リザは心外なと言うように言った。
世間知らずで愚かかもしれないが、自分の身の回りのことはなんだってできる。そうせざるを得ない育ちだったのだから。
「ならいい」
エルランドはそう言って、隅に片付けられていた衝立を引っ張り出そうとしていた。
「衝立はいりません」
「いいか? 俺は着替えるが」
「別に見たりしないわ」
リザはつんと横を向き、さっさと水盤で口と顔を濯いだ。
「灯りを消す」
声に振り向くと、エルランドはすでに下着になっている。分厚い黒い上着の下は、リザと同じ木綿の生成りのシャツだ。
リザも寝台に潜り込んだ。彼がランプの火を消すと、途端に部屋は優しい暗さに満たされる。まだ暖炉をつけるほどではないが、すぐに厳しい季節がやってくるだろう。
「もう少しだけお話ししてもいい?」
リザは布団の中から尋ねた。
「ああ。何かな?」
「イストラーダって、どんなところ?」
「……そうだな。俺が着任した頃は何もないところだった。国境を守るための砦がいくつかあるだけの」
「今は?」
「少しずつだが良くなってきている。鉄樹と陶器が主幹産業になりつつある」
「鉄樹? 薪にする?」
「そうだ。王宮にも税の一部として入っているはずだ。使ったことは?」
「ないわ」
「この冬はたっぷり使える。砦は大きいが寒いからな」
「見てみたい」
大きな砦も、鉄樹が燃えるところも。リザはそう考えた。想像するうちに眠気がゆっくりと下りてくる。
「辺境の暮らしは楽ではない……人々は貧しく閉鎖的で、俺も初めは苦労をした。リザも最初は辛いかもしれない……だが、リザならきっと乗り越えられる」
「……」
「リザ? 眠ったのか?」
エルランドは少し先に眠っている寝台に目を向けた。布団の嵩が低く、まるで人が入っているようには見えなかった。
「まずはあなたを太らせることだな」
小さな横顔につぶやいた。唐突に昼間見た白い肌を思い出す。エルランドは慌てて脳裏からそれを打ち消した。
二人が過ごす二回目の夜。
初めての夜と同じように、そこには情熱も誓いもない。
けれど、二人は再び始まろうとしていた。
切れそうだった絆は、すんでのところで結び直された。
今はそれだけで十分だ、エルランドは考える。
そして新しい旅が始まる。
東へ、東へと。
リザの瞳は珍しいほどに黒いが、その黒さが鮮やかに変わる瞬間をエルランドはかつて見たことがある。
しかし、今は星のない夜のように深く、その中に自分が映り込んでいる。
「リザ、俺は」
エルランドはテーブル越しにリザの肩を掴んだ。がっしりと掴まれて、リザはやや怯んだが、強い気持ちで男を見つめ返す。
「今更と思われて当然だが……俺は、リザを、俺の領地に連れて帰りたい」
「……」
「リザに、俺の治める土地を、イストラーダを見せたい」
わざとゆっくり自分に向かって吐かれる言葉を、リザは正面から浴びた。
「これが俺がリザにしたいことだ」
強い金緑の瞳に射られながら、しかし、リザはまだ負けるわけにはいかなかった。
「だけど!」
「だけど?」
「りえん……するのよね?」
エルランドの言葉から、このたびの離縁の顛末が兄の思惑だったことはわかったが、彼の気持ちがまだわからないのだ。
「これのことか?」
エルランドは懐から折りたたんだ紙を取り出した。丈夫で上質な紙で、元は筒に納められていたものだろうが、今は無造作に四つに折られている。
それは凝った文字で、リザとエルランドの五年間の婚姻関係を解くことが認められていた。一番下に王の署名と印璽。更にその下に空白があったが、そこには何も記されていなかった。
「俺は署名してない。こんなものただの紙切れだ」
言いながらエルランドは、リザの目の前で王からの書状を破り捨てた。欠片がひらひらとテーブルや床に舞い落ちる。
「リザと離縁したくない。許してもらえなくても夫婦でいたい」
「……」
「これが本当の気持ちだ。だが、俺は俺の罪を破り捨ててはいけないと思っている。リザ、イストラーダに行こう。いや……」
エルランドはテーブルを二歩で回り込むと、リザの前で両膝をついて手を取った。
「俺と一緒に来てほしい……来てはくれまいか?」
「……」
「今度こそ、あなたを幸せにしたい」
しあわせ?
しあわせって、何?
私は、そういうのに、なれるの?
「俺は俺の誤りを認め、償う。姫よ、どうか我が願いを聞き届け給え」
「……はい」
頷いたのは無意識だった。リザは目の前の金緑に見惚れていたのだ。
「ありがとう」
エルランドはわずかに目を細めた。
「……ありがとう」
「でも、他に行くところがないからよ」
リザはほんの少し意地悪く言った。本当はとても嬉しかったのに、なぜだか素直に言葉にできない。
「今はそれで十分だ。ああ、ずいぶん遅くなったな」
いつの間にか月がすっかり昇っている。話をしている間にかなり時間が過ぎたようだった。
「もう休もう」
「え?」
リザは思わず寝台を振り返った。確かにこの部屋には、向かい合わせに二台の寝台がある。
「で、ではニーケを呼び……」
「ニーケは別の部屋で寝る。今頃は納得しているはずだ」
「……」
「ここは今夜、俺とリザの部屋だ」
「まだ眠くないわ」
リザは精一杯元気に見せて胸を張る。
「だが、明日は東に向けて主発する。リザもまだ疲れが抜けていないだろうから、眠っておいた方がいい」
「……」
「心配はいらない。俺は何にもしないし、リザが嫌なら真ん中に衝立を立てる」
「なにもって? なにかするの?」
「……して欲しいのか?」
「意味がわからないわ」
「……」
今度はエルランドが黙る番だった。
「そうか。あなたの時間は、あの夜から止まったままなんだな」
「そんなことはないわ。私だって少しは大人になったもの」
「いや、いい。俺たちはまだ始まってもいない」
そう、あなたにはまだ何も生まれていない。俺への共感も、信頼も、そして愛も、なにもない。
あるのはただ──この時間と空間だけだ。
「さぁ。休もう。あなたはこの水を使うといい」
作りつけの棚の上に置かれた水盤をエルランドは指した。
「身支度は一人でできるか?」
「できるわ」
リザは心外なと言うように言った。
世間知らずで愚かかもしれないが、自分の身の回りのことはなんだってできる。そうせざるを得ない育ちだったのだから。
「ならいい」
エルランドはそう言って、隅に片付けられていた衝立を引っ張り出そうとしていた。
「衝立はいりません」
「いいか? 俺は着替えるが」
「別に見たりしないわ」
リザはつんと横を向き、さっさと水盤で口と顔を濯いだ。
「灯りを消す」
声に振り向くと、エルランドはすでに下着になっている。分厚い黒い上着の下は、リザと同じ木綿の生成りのシャツだ。
リザも寝台に潜り込んだ。彼がランプの火を消すと、途端に部屋は優しい暗さに満たされる。まだ暖炉をつけるほどではないが、すぐに厳しい季節がやってくるだろう。
「もう少しだけお話ししてもいい?」
リザは布団の中から尋ねた。
「ああ。何かな?」
「イストラーダって、どんなところ?」
「……そうだな。俺が着任した頃は何もないところだった。国境を守るための砦がいくつかあるだけの」
「今は?」
「少しずつだが良くなってきている。鉄樹と陶器が主幹産業になりつつある」
「鉄樹? 薪にする?」
「そうだ。王宮にも税の一部として入っているはずだ。使ったことは?」
「ないわ」
「この冬はたっぷり使える。砦は大きいが寒いからな」
「見てみたい」
大きな砦も、鉄樹が燃えるところも。リザはそう考えた。想像するうちに眠気がゆっくりと下りてくる。
「辺境の暮らしは楽ではない……人々は貧しく閉鎖的で、俺も初めは苦労をした。リザも最初は辛いかもしれない……だが、リザならきっと乗り越えられる」
「……」
「リザ? 眠ったのか?」
エルランドは少し先に眠っている寝台に目を向けた。布団の嵩が低く、まるで人が入っているようには見えなかった。
「まずはあなたを太らせることだな」
小さな横顔につぶやいた。唐突に昼間見た白い肌を思い出す。エルランドは慌てて脳裏からそれを打ち消した。
二人が過ごす二回目の夜。
初めての夜と同じように、そこには情熱も誓いもない。
けれど、二人は再び始まろうとしていた。
切れそうだった絆は、すんでのところで結び直された。
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東へ、東へと。
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