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35 日常

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「あ……あれ?」
 気がつくと美玲は、狭くて暗い、すみれホームヘルプサービスの倉庫の奥で尻餅をついていた。
「ここは……戻った?」
 きょろきょろと辺りを見渡すと、見慣れたスマホが転がっている。
 慌てて起動させると、なんと、美玲が召喚された時間から一分と経っていない。日付けも同じだ。
 つまり、美玲が異世界で過ごした数ヶ月は、リアルな日本の時系列では全く関わっていないということだ。
 倉庫の奥に、美玲が潜り込んだ小さな扉は姿を消している。古い煉瓦塀の基礎だけが一部露出していた。
 つまり、扉を開けることはできない。
 思い返せば、煉瓦塀に取り付けられた扉の奥に入り込んだら名前を呼ばれ、返事をしてしまったが故に、美玲は召喚されたのだ。
「……っ!」
 美玲は思わず、自分の髪に手をやった。
 もともとセミロングだったから、それほど目立たないが、確実に数センチ伸びている。それに、手入れを怠りがちだった痛んだ髪ではなく、手触りも匂いも良い。

 ここでの時間は経っていなくても、私の中での時間は数ヶ月分は進んでいるんだわ。

「リュストレー様……」
 小さくつぶやいても、それに応じるものはいない。
 最後に抱きしめてもらった感覚は、まだうっすらと肌に残っているのに。

 あんなに必死な顔しちゃって……きっと私を探し当ててくれたんだわ。
 それにしても、あの髪はどうしちゃったのかしら?
 ちょっとざんばらだったから、もしかしたら自分で切ったのかも知れない。
 なぜだろう? 何か意味があるのかな?

「……考えたって仕方がないよね」
 暗い、狭い倉庫の奥で美玲は膝を抱えてうずくまる。こちらでは滅多に出なかった涙が、目頭からこぼれ、鼻をつたい落ちた。
『美玲、愛してる!』

 今まで適当だったのに、最後の最後に、やっと私の名前を正く発音するなんて、反則だよ。
 全く、いい男は最後まで……格好いいんだから!

「うぇええ……リュス……様」
「ちょっと蒼井さん! いるんでしょ! いい加減出てきて!」
 ものすごい現実が襲ってきた。センター長の声だ。
「……あ、確か私、倉庫整理をしてたんだっけ」
 よっこらしょ、と美玲は立ち上がる。
 今日から、いや、この瞬間から仕事が待っているのだ。

 それから一月の間、美玲は働き続けた。
 思い出したくないことが多すぎて、ヘルパーの仕事の他に、単発のバイトも入れた。
 毎日くったくたになるまで働き、帰ったら泥のように眠った。
 きつい力仕事も、辛いクレームも、たまに得られる小さな喜びも、全部受け止めて、働き続ける。
 それが今までの日常だったし、これからもそうであるはずだった。

 『あなたちょっと専門家風ふかしすぎない? 私はずっとこの子と向き合ってきたんです。あなたのサービスが終わった後、うちの子すごく調子悪くなるんですけど!』
 今日の菊川家主婦からのクレームだ。
 その家に知的障害を持つ中学生の男の子がいて、運動不足を心配する家族により、外出支援で美玲が九十分の散歩の付き添いしている。
 十四歳のその少年は、悪気はないのだが、とにかくお試し行動がひどく、道路に飛び出す振りをしたり、道路沿いのお宅の植木の枝を折ったりする。
 力ではそろそろ敵わなくなってきた美玲は、その度に体を張って少年を止めたり、言って聞かせたりするが、そうすると構ってくれると勘違いして、ますます問題行動がひどくなるのだ。
 いわゆる誤学習というやつだ。
「そろそろ支援者を男性に変えた方がいと思います。中学生男子ですし、私では公園の公衆トイレも使わせられません」
 美玲はそのようにセンター長に訴えていた。今日も止めとうとすると、脛を蹴られて青あざができてしまったのだ。
 もちろん少年の母には内緒である。
 伝えても『あなたの支援の仕方が悪いからでしょ』と逆ギレされるだけだから黙っている。
「すまないね。菊川家のことは前のヘルパーからも聞いている。そろそろ私からも話をするよ。相談支援員さんにも声をかける。君は今まで本当によくやってくれてる。今度奢るよ」
「……っ!」
 美玲はゾッとした。
 センター長はそう言いながら、美玲の手を握ってきたのだ。じっとりと熱を持った手で。
「あっ! ありがとうございます! でも、私外食は苦手なので!」
 そう言って頭を下げると、美玲は更衣室に駆け込んだ。ありがたいことに、今日はもう上がりの時間だ。
 自慢ではあるが、危機察知能力は昔から高かった。
 このままではやばい。
 美玲の本能はそう告げていた。

 その日から、美玲は掛け持ちのバイトを辞めた。
 もう生活費をがつがつして稼ぎたくはなかった。
 そして空いた時間を、持ち家の整理をすることにした。本や服などを少しずつ処分していく。もともと荷物が少ないので、手間取ることはなかった。
 そして、美玲は一通の手紙を書く。
 住所はかろうじて残してあった母のメモに残っていた。
 父方の祖父に宛てて。
 父の所在も母の行方も知らない美玲の、連絡が取れる唯一の肉親だった。

 そして、それから職員の目を盗んで、空いた時間に美玲は消耗品倉庫の奥にこもった。
 急ぐ必要があった。
 センター長の言葉かけは、どんどん頻繁になっていく。セクハラにならないすれすれのところを狙うのが狡猾なところだが、美玲は決して油断をしなかった。
 ひたすら皆が嫌がる消耗品整理に精を出し、弁当もそこで食べた。
 ただ、タイミングが悪いのか、時間帯なのか、なかなかは現れない。

 そして──冬の終わりのある日。
「もう……いつまで待たせるのよ……」
 美玲はやっと現れた、倉庫の奥の煉瓦塀に向かって言った。
 そこには小さな扉があり、軽く押すだけで奥の暗闇へと開いたのである。

 
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