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25 抱っこと口づけ

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 なにこれ、熱い。
 この人、体温低いくせに、唇だけ燃えるように熱い。
 私に温もりをくれる……もしかして分けてくれてるの?
 幼いころ、あんなに欲しかった温もりを。

 心臓が頭の中で鳴っている。
 耳の奥でどくどくと音を立てて。現実リアルがどんどん遠ざかっていく。
「……ミレ」
 頬に息がかかる。
「……」
 美玲はうっすらと瞼を上げた。いつの間にか目を閉じていたのだ。
「帰らないでくれ! 私の傍にいてほしい」
「……りゅ」
「ミレ……お願い」
「リュス……レーさ、ま?」
 十九才の今まで、美玲は男性と付き合ったことはなかった。
 学生時代に話をする男友達程度はいたが、遊ぶ時間も小遣いもなく、おしゃれもできなかった。
 生活費を稼ぐため、バイトに明け暮れるの日々の美玲に、彼氏など作るゆとりも発想もなかったのだ。
 もちろん手をつないだことすらない。
 なのに今──切なく自分の名を呼ぶ声が聞こえる。
 触れ合うだけの口づけだったが、それは優しく何度も美玲の乾いた唇に降ってきた。

 ああ……人の体って、こんなにあったかかったんだ。
 最後に抱っこされたのっていつだろう?
 お母さんだっけ……覚えてない。
 どうでもいいや……。

 けどそろそろ苦しい。
「リュストレー様」
 少し身じろぎすると腕が緩んだので、美玲は体勢を立て直した。
 霞がかかったようになっていた思考が少し落ち着いてくる。
「なんだ?」
 掠れたような美声が耳元に触れた。
「これってもしかしてキス、ですか?」
「なぜ疑問形なんだ。正真正銘の口づけだ」
 リュストレーは恥ずかしげもなく言ってのける。
「じゃ、じゃあ前にも女の人に、こういうことしたことあるんですか?」
「ばっ! 馬鹿な! ない! したことなどない!」
「そうですか。実は私もなんです」
「本当か! 私が初めてなのだな!」
 リュストレーは喜色を顔に浮かべた。伶俐な見かけと違って、素直な感情が顔に出るところは、この人の長所だと美玲は思う。軍人としてはだめだろうけど。
「ミレ、私がこうしても嫌ではないか?」
「う……うん、むしろちょっと安心できます。だって、リュストレー様は、無体むたいはなさらないでしょう?」
 彼の腕の中は心地がいい。お尻の収まり具合も抜群だ。
「無体……はしないが、私とて男だ。愛しい女を前にして、心の内は複雑なのだ。あまり安心せぬがいいかもしれない」
「い……愛しい、ですか?」
 普段あまり使わない表現に美玲の心臓がキュ、と絞られる。これでも乙女なのだ。
「言わなかったか?」
「よく覚えてません……でも、私、綺麗じゃないでしょう?」
「いや、十分綺麗だ」
「……え?」
 男性に容姿を誉められたことのない美玲である。
「あの、聞いてもいいですか? 私のどこが綺麗なんでしょう?」
「まず瞳。真っ直ぐで嘘がない。それから髪。黒くてやっぱり真っ直ぐで、ごてごてしてない。うん、肌もいいな。白粉おしろい臭くないし、きめが細かいし。それから何と言っても姿と所作な。女とは思えぬ無駄な肉がないところと、きびきびした動きな。これが実にいい」
「えー……そこ?」
「どうした。何をがっかりしている。正直にあげつらっただろう」
「いや、あなたに期待した私も悪かったんですが、肌のきめが細かい以外は、女性にとって褒め言葉とは思えないんですが」

 胸だって、一応Bカップはあるんですけど!
 この世界の、女の人の体つきは知らないからなぁ。
 お屋敷にいるのは年配者ばかりだし。

「何を言う! これ以上なく誉めているぞ! あ、それに」
「……それに?」
 美玲はもう、何も期待しないで尋ねた。
「ミレ、そなたの心が一番美しい。その健康で果断かだんな勇気で、私の弱さをばっさりと切り捨ててくれた。もっと必要か?」
 リュストレーは愛おしそうに、美玲の頬をつつく。銀色の瞳が細められているので彼が微笑んでいることがわかった。
「いえ、ありがとうございます。でも、これ以上は心臓が持ちません」
「ミレ、約束する。今度こそ私は逃げない。苦しいが、ミレがニホンに帰る道は必ず探す。見つけた上でミレにもう一度求婚する。だから今は」
 リュストレーは美玲を抱き込んだ。
「こうしていたい。一つの仕事をどうにかやり切った褒美をくれ」
「……はい」
 唇で触れられるのは、まずは天骨。そして額から頬へと降りていく。耳たぶに触れられた時はくすぐったくて肩が竦んだ。
「ミレ、可愛い……」
 
 綺麗。
 可愛い。
 今日はどうしちゃったんだろう? 初めて聞く言葉ばかりもらってる。

「そんなこと言われたの、初めてです」
「でも実は最初は可愛くなかった」
「あ、ひどい!」
「でも、惹かれた。最初から、強烈に。多分最初から私はミレに恋をしていた」

 そうして二人で暖炉の前で温まる。
 美玲は生まれて初めて、幸せとは自分で開拓するだけではなく、人からも与えられることを噛み締めていた。
 炎を見つめる。やがてその火が弱くなり、白くなった薪がことりと崩れる。
 それが美玲に現実に立ち戻らせた。

「……リュストレー様」
「ん?」
「現実的に考えたら、わたしたちって結婚は無理ですよ、きっと」
「なぜだ?」
「私は日本人で、貴族でもない庶民の勤労少女です」
「知っている」
「リュストレー様はいわば王子様で、もし私が、この世界に残ることを選択したとしても、お身内がきっと結婚なんか許してくれないでしょう? それでなくても、もし万一私がリュストレー様に見捨てられたら……」
「そなたは私を信じていないのか?」
 銀色の瞳が厳しく美玲を捉えた。
「言ったでしょう? 私の生育歴は普通じゃないんですよ。毒親のおかげで、安易に人を信じられないようになってしまったんです。リュストレー様のことは、好きです。でも……もしかしたら、勘違いしてるのかも? って疑念が、抑えていても湧き上がるんです。すみません、育ちが悪くて」
「私が何を勘違いすると?」
 長い指が美玲の髪を梳くのを美玲は許した。そんなに長くもない髪は、すぐに指から滑り落ちてしまう。
「リュストレー様の防護壁を、思いがけず召喚してしまった私が破ってしまったから、うっかり思い込んでしまったのかもしれないんです」
「防護壁? 思い込み?」
 銀色の目が近づく。かなりの迫力だが、美玲は言うべきことは言ってしまおうと、腹を括った。
「そ、そうです。いわゆるひよこの刷り込みってやつです。リュストレー様は罪悪感と言う殻に閉じこもり、できるだけ刺激のない生活に埋没していらした。そこに私が日本の常識を振りかざして、風穴を開けちゃった。それで、たまたまそれがいい方向に行きかけた。だから、あなたは私をよきものだと思ってしまったという可能性があるんです」
「違う! 私はミレを……」
「たとえばの話です。ここに残ったとして、リュストレー様じゃなくても、お国の偉い人に追い出されたら、私の人生詰みます。日本人の私は一人ではまだ、この世界で生きてけないです。だっていまだに私は、このお屋敷しか知らないんだもの!」
 言い募っているうちに、どんどん必死な気持ちになってくる。
「誰にもそなたに手を出させない! 追い出させたりしない! 私が守る!」
「その言葉信じたいです。信じます。当分ここにご厄介になるしかないもの。でも、だからこそ約束は守ってください。日本に帰る方法を見つけて」
「見つけても、そなたは帰らないと言えるか?」
「その時になってから考えます……ごめんなさい。でも、選択肢は多い方がいいんです。いくら好きでも。私が今言えるのはここまでです」
「わかった」
 リュストレーは美玲から目を逸らせてうなだれた。
「努力しよう。だから最後にもう一度だけ」
 再び長い腕が絡んでくる。古いガウンはもう薄汚れてはいない。ふんわりと美玲を包み、安心させてくれるのだ。
 天骨に乗せられた、尖った顎の重みでさえも心地がよかった。
 その後に降る口づけも。

 うん、あたたかい。
 あたたかいって
 すごく素敵なことなんだわ……。

 美玲はリュストレーの腕に抱かれながらそう思った。

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